表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喫茶星の雫  作者: shade
2/13

喫茶星の雫 -case02- いつもの顔

 朝の光が、カウンターの上をすべっていく。


「うわっ……!」


 モップの先が椅子の脚に引っかかり、さくらは軽くよろけた。

 すぐ横から、ママさんが笑いを噛み殺しながら手を差し伸べる。


「慌てなくていいのよ。うちは戦場じゃないんだから」


「す、すみません……!」


 まだまだ慣れない店内。けれど薪ストーブのぬくもりが、失敗すらやさしく包んでくれる。


 マスターは今日も変わらず厨房に立ち、黙々と豆を挽いていた。

 ネルフィルターの準備も終え、湯を落とす手つきに無駄はない。さくらが何をやらかしても、彼が顔を上げることはない。


 そんな空気の中、木製の玄関ドアがキィ……と静かに軋んだ。

 その音とともに、吊るされた小さなベルがチリンと澄んだ音を鳴らす。


 現れたのは、年の頃なら六十代後半くらいの男性。

 長身痩躯、グレーのジャケットに古い帽子。無言のままカウンターの奥に腰を下ろす。


「おはようございます。今日は……あ、コーヒーですよね」


 ママさんが慣れた調子で声をかけると、男は小さくうなずいた。


 さくらは緊張した面持ちで、そっと頭を下げる。


「い、いらっしゃいませ……」


 男はちらりとこちらを見たが、特に表情は変わらず、ゆっくりと視線を戻した。

 それが挨拶だったのか、気のせいだったのか、さくらにはわからなかった。


 カップが置かれる音がして、男は静かにそれを口に運ぶ。

 間に言葉はない。けれど、それがこの店の“いつもの空気”なのだと、さくらも少しずつわかってきた。


 しばらくして、男がぽつりとつぶやいた。


「……マスターが、人を雇うなんてな」


「えっ?」


 さくらは思わず声を出してしまう。ママさんが苦笑いしながら答える。


「そうなのよ。私だって“雇われた”っていうより、いつの間にかこうなってた感じだしねぇ」


「……でも、合ってると思うよ」


 男がもうひと口コーヒーを飲みながら言った。

 誰に向けた言葉かはわからない。でも、さくらは少しだけ顔をほころばせた。


 やがて男はカップを飲み干し、ゆっくりと席を立つ。

 木製ドアを開ける手が止まると、小さな声だけが背中越しに返ってきた。


「ごちそうさん」


「いつもありがとうございます」


 ママさんの言葉に、男は背を向けたまま手をひらひらと振った。


 チリン……

 ドアが静かに閉まり、また店に静けさが戻る。


 さくらはカップを拭きながら、ぽつりとつぶやいた。


「……“いつもの顔”って、ああいう人のことを言うんですね」


 マスターはやっぱり何も言わない。けれどその手が、少しだけ柔らかく見えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ