喫茶星の雫 -case02- いつもの顔
朝の光が、カウンターの上をすべっていく。
「うわっ……!」
モップの先が椅子の脚に引っかかり、さくらは軽くよろけた。
すぐ横から、ママさんが笑いを噛み殺しながら手を差し伸べる。
「慌てなくていいのよ。うちは戦場じゃないんだから」
「す、すみません……!」
まだまだ慣れない店内。けれど薪ストーブのぬくもりが、失敗すらやさしく包んでくれる。
マスターは今日も変わらず厨房に立ち、黙々と豆を挽いていた。
ネルフィルターの準備も終え、湯を落とす手つきに無駄はない。さくらが何をやらかしても、彼が顔を上げることはない。
そんな空気の中、木製の玄関ドアがキィ……と静かに軋んだ。
その音とともに、吊るされた小さなベルがチリンと澄んだ音を鳴らす。
現れたのは、年の頃なら六十代後半くらいの男性。
長身痩躯、グレーのジャケットに古い帽子。無言のままカウンターの奥に腰を下ろす。
「おはようございます。今日は……あ、コーヒーですよね」
ママさんが慣れた調子で声をかけると、男は小さくうなずいた。
さくらは緊張した面持ちで、そっと頭を下げる。
「い、いらっしゃいませ……」
男はちらりとこちらを見たが、特に表情は変わらず、ゆっくりと視線を戻した。
それが挨拶だったのか、気のせいだったのか、さくらにはわからなかった。
カップが置かれる音がして、男は静かにそれを口に運ぶ。
間に言葉はない。けれど、それがこの店の“いつもの空気”なのだと、さくらも少しずつわかってきた。
しばらくして、男がぽつりとつぶやいた。
「……マスターが、人を雇うなんてな」
「えっ?」
さくらは思わず声を出してしまう。ママさんが苦笑いしながら答える。
「そうなのよ。私だって“雇われた”っていうより、いつの間にかこうなってた感じだしねぇ」
「……でも、合ってると思うよ」
男がもうひと口コーヒーを飲みながら言った。
誰に向けた言葉かはわからない。でも、さくらは少しだけ顔をほころばせた。
やがて男はカップを飲み干し、ゆっくりと席を立つ。
木製ドアを開ける手が止まると、小さな声だけが背中越しに返ってきた。
「ごちそうさん」
「いつもありがとうございます」
ママさんの言葉に、男は背を向けたまま手をひらひらと振った。
チリン……
ドアが静かに閉まり、また店に静けさが戻る。
さくらはカップを拭きながら、ぽつりとつぶやいた。
「……“いつもの顔”って、ああいう人のことを言うんですね」
マスターはやっぱり何も言わない。けれどその手が、少しだけ柔らかく見えた。