喫茶星の雫 -case01- あの日の匂い
冬の終わり、まだ肌寒さが残る午後だった。
風は冷たかったけれど、どこかに春の気配を含んでいて——
そんな空気の中に、ふいにやさしい香りが混ざった。
焙煎されたばかりのコーヒー豆。鼻先をくすぐるその匂いに、さくらは足を止めた。
「……こんなところで?」
人通りのない田舎道。古びた石畳の小道が、少し右に折れている。
その先に、木造の小さな建物がひっそりと建っていた。ログハウス風の外観に、看板や表札はない。ただ玄関先の地面がしっとりと濡れている。
「……打ち水?」
午後の日差しに濡れた石畳が静かに光る。
格子戸の奥、見えにくい位置で小さなランタンがかすかに灯っていた。
足が自然と動いていた。理由はわからない。ただ—
「ここ、知ってる気がする……」
扉をそっと開ける。薪ストーブの柔らかな熱がふわりと包み込む。
鉄瓶がことことと音を立てながら湯気を上げていた。
「いらっしゃいませぇ」
奥から聞こえてきたのは、やさしげな声だった。
少し驚いたような表情の女性が、親しみのある笑みを浮かべている。
「あの……ここって、お店ですか?」
「そうよ、喫茶店。看板は出してないけどね。
寒かったでしょ? よかったら、カウンターへどうぞ」
案内されるままに席へ着く。
店内には薪の香りと、豆の香ばしさが静かに漂っていた。
厨房では、年配の男性が黙々と作業をしていた。
がっしりとした体格、無口そうな横顔。だが、その手つきはとても丁寧だ。
ネルドリップ。ハンドドリップの中でも、ひときわ手間のかかる淹れ方。
——どうして名前を知ってるんだろう。
やがて、白いカップが音もなく目の前に置かれた。
マスターは何も言わずにそのまま背を向けた。
「……これ、いくらですか?」
「最初の一杯はマスターのおごりってことになってるの」
女性は、少し得意げに笑った。
「……じゃあ、いただきます」
両手でカップを包み込むようにして、そっとひと口。
温かさと苦味と、深い香りが一瞬で口の中に広がる。
それはただの味覚じゃない。もっと奥——
「……あれ?」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
言葉にできない。でも、確かに知っている。忘れていた何かを、思い出しそうな——
「ここ……なんだか懐かしいです」
ママさんはじっとさくらを見つめたあと、ふわりと笑った。
「ふふ、もしかして縁があったのかもねぇ」
迷いながらも、さくらは言葉を続けた。
「……あの、ここで働かせてもらえたり、しますか?」
ママさんは一瞬目を丸くしたが、すぐに目を細めて笑う。
「えっ、ほんとに? うち、ちっちゃい店だけど……」
「はい。なんとなくですけど、ここにいたい気がして」
マスターは相変わらず背を向けたまま。
だが、その手が一度だけ止まり、コトン、とまな板に何かを置く音がした。
その音が、不思議と「いいよ」と言っているように聞こえた。