おはよう、異世界
早朝、明るくなり始めた頃に私は眼を覚ました。
辺りは朝霜で覆われていて、視界はほとんど白く塗りつぶされている。見えるのは車の横に設置されたルルーベルの眠るテントくらいだ。
眠気を覚ますため、車外に出てグッと伸びをした。草と土の香りが爽やかな空気と共に体の中で循環し、寝ぼけた頭と身体を目覚めさせてくれる。
ルルーベルが起きてくる前にコーヒーを淹れておこうかな。
私は車の下から机や椅子を取り出し昨日と同じように並べていく。
お湯を沸かしている間にインスタントのコーヒーとミルクココアを2つのコップへ適量を入れておく。
あとは椅子に座りながらスマホでダウンロードしてある小説でも読もう、としたところで草を踏みしめる音を聴き、反射的にそちらを向いた。
鹿的な野生動物が歩いているのかな、くらいの認識で振り返って、息を呑む。
視界がギリギリ霧に邪魔されない距離、そこにいたのは人だった。けれど普通の人間じゃない。
ゴブリンだ。
子供くらいの背丈の体は薄緑色の肌で覆われていて、お腹はでっぷりとだらしなく突き出している。卑屈な笑みを浮かべているみたいに口角が上がり、半開きになった大きな口からは乱雑に生えた牙が覗いていた。
獲物を探しているのか、どこか爬虫類を思わせる大きく黄ばんだ瞳がギョロギョロと辺りを見渡している。
それが3匹。それぞれ手には棍棒や錆びてボロボロになった剣が握られていた。
キュッ、と唇を結び叫ぶのを辛うじて堪える。
隠れることも出来ずに呆然と眺めていると、不意に魔物が立ち止まってこちらを向いた。ドキン、と心臓が跳ねるが、いきなり動くと襲いかかられそうで、動くに動けない。
こ、こういう時はどうすればいいんだっけ。目を見つめながら、ゆっくりと後退? でも、それって魔物にも通用するの?
半ばパニックになりながら数秒、見つめ合っているとゴブリンたちは私の方へ近寄ろうとこちらに歩み寄ろうとして──バチリと見えない何かに弾かれる。
そこでようやく、周りが結界で護られていることを思い出した。
ゴブリンは結界に驚いたのか、たたらを踏んで後退し、ぶるぶると体を震わせるとそのまま何事もなかったかのように去って行った。
ゴブリンが霧の中に消えて、しばらく経ってからようやく身体から力が抜ける。
目覚め一発目で命の危機を感じさせるのやめてほしいんだけど。というかあんなのが普通にうろついている世界、ヤバすぎ。
ヒポグリフみたいに魔物がみんな車に驚いて逃げてくれるわけでもないだろうし、もし襲われていたら軽自動車じゃ対抗できないだろうな。いくら魔物の代名詞であるゴブリンと言えど、問答無用で轢き殺す自信はない。
もしもルルーベルと出会っていなかったら……考えただけでもゾッとする。
「おはようございます。どうかしたのですか?」
テントから這い出してきたルルーベルは椅子に脱力しながら座る私を見て首を傾げた。
「あ、おはよう。実はね――」
彼の顔を見て平静を取り戻した私は、いつの間にか沸き上がっていたお湯をカップに注ぎながら、ついさっきあった出来事を告げた。
「そうですか、ゴブリンが。結界を張っておいてよかったです」
事も無げに言うルルーベルにミルクココアを渡しながら、疑問をぶつける。
「平然と魔物が歩いてるのに、普通の人はどうやって生活してるの? やっぱり魔導具で結界を張ったり?」
「街などは今、ボクらの周りにあるような結界で護られているのでほとんど襲撃の心配はないです。旅路では魔物を寄せ付けない匂いを発するお香があるので、夜間はそれを焚くらしいですね。昼間の移動中に遭遇してしまった場合は、逃げるか護衛の騎士様に守ってもらいます」
そこら中に命の危険が転がっているなんて、なんとも物騒な世界だ。ルルーベルの反応を見る限り、こっちの世界じゃそれが普通みたいだけど。
日本みたいにのんびりドライブしながら、とはいかないみたいだ。次の街まで急いだほうがいいな、これは。
「わっ、美味しいですね。これ」
そんなことを考える私を横目に、ルルーベルはココアを堪能していた。
朝の一杯を終える頃には霧は晴れて昨日と同じような晴天が露になる。キャンプ用品を片付けて忘れ物がないか確認してから、私とルルーベルは車に乗り込んだ。
エンジンをかけて、燃料の残量を確認しようとガソリンメーターへ目をやった。昨日はずっと走りぱなしだったし、半分は切ってるだろうな。
「……あれ?」
けれどメーターは私の予想に反して昨日と変らず八割くらいの位置を維持していた。軽く見積もっても200kmは走ってるはずなのに……。
日本と違って信号もないし、山道みたいな急勾配も少ないからある程度燃費が良くなってるとは思うけど、それでも全く減っていないというのは異常だ。
もしかして壊れた? 参ったな、走行中にいきなり止まったりしたら最悪なんだけど。
だけど、ここでじっとしているわけにもいかない。例えメーター表記が故障しているとしても、街までは辿り着けるだろう。そう信じて、私は車を発進させた。
結界を出る前に朝見たゴブリンたちがいないか確認してみたけど、目視できるところにはいなかった。完全に諦めてくれたみたいだ。よかった。
それにしても何もない。これだけ広い土地があるのに人の営みが全く見当たらないのは、ちょっと不自然にも感じた。
魔物が闊歩している世界だから適当な場所に住まいを置くわけにはいかないのはわかるけど、山しかなくて狭い日本からしたらどうしてももったいないと思ってしまう。
あれ、でも北海道とかあんまり栄えてないな。もしかしたら平地は平地で、何か人が住みにくい理由があるのかな。
「そういえば、街には結界が張ってあるって言ってたけどルルーベルくんみたいな人がずっと結界を張り続けてるの?」
「いえ、街には魔封石という、魔子を溜めておく魔導具があるので、そこから魔子を常に供給することで結界を維持しているのです。巡礼はその魔封石に魔子を籠める作業なのですよ」
「結界の維持ってそうやってるんだ。じゃあ、凄い重要な作業じゃない。盗賊に襲われて辿り着けてなかったら大変だったんじゃないの」
「例えボクが辿り着けなくても他の人が代わりにやれる余裕はあるので、問題ありません」
代わり、ね。まあ魔物がいる世界ならそういうリスクヘッジは当たり前なんだろうけど、ルルーベルみたいな子供がそういう――自分の代わりなんていくらでもいる、みたいなことを言うのは、ちょっと胸に来るものがある。
私の会社にも「お前の代わりはいくらでもいる」が口癖のクソ上司がいる。まあ、それは事実で、今みたいに私が異世界に行って急にいなくなったとしても、会社は多少の混乱はあってもすぐに平然と通常の業務に戻るんだろう。
「どこの世界も世知辛いなぁ」
ポツリと呟いた言葉は、ちょうど反対側の景色を見ていたルルーベルには届かず、風に乗って空に消えて行った。
おっと、暗い気分になっちゃった。車を運転している時は、できるだけネガティブなことを考えないようにしてるのに。
私は気分を上げるため、ルルーベルと会ってから車に繋いで放置していたスマホを操作して音楽をかけた。
アップテンポな曲が突然流れ出し、ルルーベルが驚いて振り返る。予想していた反応に、私は笑顔で応えてから合唱を始めた。
指でリズムを取りながら、ドライブで歌い慣れた曲を熱唱する。バックミラーではトビーが音楽に合わせて身を躍らせている様子が映っていた。
Aメロが終わり、間奏に入ったところで私はスマホを操作し、今流れている曲の歌詞を出してルルーベルに手渡す。
「一緒に歌ってみる?」
私の申し出におずおずと頷きながらスマホを受け取る。
けれど、一向にルルーベルは合唱に入ってこない。まあ初めて聞く曲でいきなり歌うのは無理か。
曲が終わり、落ち着いたタイミングでルルーベルは申し訳なさそうに口を開く。
「あの、すみません。文字が読めなくて」
「えっ! ホント!? ごめん気づかなくて!」
言葉が通じていたからてっきり文字も共通かと……。
必死に謝りつつ、同じ曲を何度もリピートして一緒に歌いながら、私たちは目的地へ向かうのだった。