公国後継者から、婚約締結を迫ってくる聖女を追っ払うように指令されました
「正気ですか殿下?寝ぼけています?」
「睡眠不足はないよ。いたって健康、正気だとも。全幅の信頼をもって、君に全部任せる」
「え~と?んん?ご自身がおっしゃった意味がお分かりですか?」
アレーナ・フレア・フォン・ランディールは自身が使える公国後継者の前で両手を広げた。
かすかに青い長い髪が揺れ、戦場のにおいが青年殿下の鼻をかすめた。
「戦場から帰還してきたばかりのこの私に、殿下がしでかした後始末をしろとおっしゃっているように聞こえましたけれど?」
「そうだよ。そして、そもそも論から修正だ。まずもって私は向こうに何もしていないよ。向こうが勝手に勘違いし、勝手に家を動かし、勝手に父に縁談を持ってきたんだから。私は会ったこともない」
エクスフォニア公国フロード・ユーティー・フォン・エクスフォニアは一点の曇りもない笑顔でそういった。
「君の年の功でなんとかしてくれよ」
「殿下」
殺気をたっぷり眼に含ませながらにっこり笑った側近兼公国大将に殿下は「任せたよ」とばかりに、にこやかに手を振った。
気まぐれな殿下の補佐役を言い渡されて10年。それは、公国軍として戦場に立った10年でもあり、権謀算術の謀略を尽くして殿下を公国の次期後継者に押し上げる戦いの10年でもあった。
いいように使いまわされてきたこちらの気苦労を少しは考えてほしいものだとアレーナは思う。
「いいですか。何度も言いますが、女に年の功などというのはとんでもなく失礼ですよ」
「君と僕の仲じゃないか。それに、20ウン歳は年の功と言っても大丈夫だろう?」
「いつ私が殿下の仲良しこよしの友人になったんです?あと、年齢の話は本当にやめてください。傷つきます」
そう言いながらもどこか余裕げのある態度である。
「ひどいなぁ」
「どっちが。第一私は戦場から帰ってきたばかりですよ。後始末も済んでいません。そんな人間を捕まえてよくもまぁ、いきなり仕事を押し付けられますね」
「僕が何もしなかったとでも思っているのかい?君を信頼しているからね。それに片っ端から求婚縁談を断り続けた君ならこういう経験は豊かだろう?」
「その顔のどの口がいいますか」
「残念だなぁ。これが成功すれば父に君を上級大将に推薦しようと思っていたんだけれどな」
「断ります。出世なんてするために仕事しているんじゃないんですから」
「じゃあ、休暇は?温泉スパリゾートの1週間滞在チケット付きの」
「エステと美味しい食事付きでお願いします」
殿下の懐から一枚の書類とチケットが出てきた。
殿下はニヤリとした。アレーナも負けじとニヤリとした。
結局結論としては自分が引き受けざるを得ないわけで、であれば、どのような好条件を引き出してやろうかと頭の中で考えながらの会話だった。
殿下にしても同様である。煮ても焼いても食えない側近を動かすためにはどうすればいいのかをあらかじめ考えながら話を持ち掛けていた。
「じゃあよろしく。これがチケット。成功すれば渡そう。これが相手の人となりや家柄等について記載された書類だ。あとは情報部にでも聞いてくれ」
「はいはい」
礼儀正しく書類だけを受け取ったアレーナは御前を退出し、執務室に向かった。
途中歩きながら部下たちに3つほど指令を下し、ついで4つほど依頼をかけながら歩き続ける。
休息を宣言して、城内に与えられている水色と青を基調とした配色が施されている自分の私室に入るなり、妹が駆け寄ってきた。
「おかえりなさい御姉様。ご無事の帰還何よりですわ」
「フレイア、留守をありがとう。何かあった?」
「なにもありませんでしたわ」
「結構。私のほうはさっそくいろいろあったのよ。あ~疲れた」
「御姉様が殿下に御呼ばれされたのは知っています。御姉様もこき使われて大変ですわ・・・・。それで、今度の任務は何でしたの?」
「フロード殿下に言い寄ってくるとんでもなくしつっこい聖女をたたき出して追っ払うように指令されたのよ」
「は!?」
ドスンと勢いよくソファーに座り、そのまま寝っ転がって仰向けに書類を見ながらアレーナが言う。
「え!?」
妹が今自分に言われた言葉の意味を反芻している間に、アレーナは書類に目を通し始める。
「ほうほう・・・一度ならず十度ほども医師や治癒術師が見放した重病人を救い、魔物討伐やら大気浄化から何やらあれやこれやとご活躍の人ですか」
「御姉様も殿下も相変わらず唐突ですわ。私にもやっと理解ができました。それで、その方の名前は?」
「リディアナとだけ書かれているわ。当人はそう名乗っているだけ。・・・え、これ出自は・・・あ~なるほどなるほど」
「御姉様、なるほどだけではわかりませんわ」
フレイアがのぞき込む。姉同様の青い長い髪がアレーナの顔にかかってきた。
「ん~鬱陶しい。髪がかかってるって。はいどうぞ。私はもう読んで頭に入ったからどうぞ」
受け取った妹が数度読んでびっくりしたように声を上げた。
「こんなお方を追っ払うなんて!!」
「聖女だろうが何だろうが『やめろ』と言っても言い寄ってくる度を過ぎたしつこい奴は、結局ストーカーなのよ。ここを見てみなさい。何回手紙を出してきているかを。殿下から断りを入れたにもかかわらず、手紙を送りつけること30回。返事がないのに30回もだって。おまけにここの周辺で目撃されているのは50回以上。はい、立派なストーカー認定よ」
「そうはいっても追っ払うなんて・・・・下手をすれば国家間の戦争にも発展しますわ。一体どうしますの?」
「さてねぇ」
いっそさくっと斬り捨ててもいいかな、と物騒なことをつぶやいたアレーナを妹はあきれ顔で見つめた。
リディアナ・フォン・アーガイル。
エクスフォニアの隣国にあるアーガイル公国のアーガイル公爵家令嬢。
それが聖女リディアナの本名であり、出自である。
「たたき出したら向こうは軍隊率いて攻めてくるかな。フレイア、30分は起こさないでね」
そう言いながら、ニヤリと笑ったアレーナはクッションを顔の上に乗せると眠ってしまった。
2日後。
エクスフォニア公国後継者の側近兼大将閣下は礼服を身に着けて公国領内のとある村の中にある教会にやってきた。
一人の若い娘が祈っており、その周りを老若男女10数人が同じように祈りをささげている。
教会礼拝堂の祭壇にひざまずき、両手を組み合わせて祈る姿はまさしく聖女そのもの。
一点の曇りもないように見える。
事実この日は分厚い曇り空だったが、教会の周りだけは日が差し込んでいた。
「ここで待っていてね」
部下数人に待機するように命令すると、アレーナは静かに教会の中に入っていった。
人垣の合間から初老の男性が妻らしい女性の手を借りて起き上がる様子が見られ、周りの人々からどよめきが漏れ広がるのがアレーナの耳に聞こえてきた。
「主のご加護により、危機を脱しました。あとは安静にしていただければ数日でよくなるでしょう」
「ありがとうございます。ありがとうございます。なんとお礼を申し上げてよいやら・・・おかげで主人が助かります」
「奇跡だ!」
「奇跡だ!聖女様の祈りの聖水が効いたのだ!」
「奇跡だ!聖女リディアナ!」
アレーナはやれやれというように首を振り子人形のように軽く振った。
その気配に気づいたのか、輪の中心にいた女性が顔を上げる。
透き通るような薄い金髪を後ろで一つのみつあみにした緑色のあどけない大きな眼。
着ているものは薄い緑の旅衣で、元の色から随分と色あせているのがわかる。
「お初にお目にかかります。私はエクスフォニア公国第一公子フロード・ユーティー・フォン・エクスフォニアの秘書官長兼公国第一遠征派遣軍大将アレーナ・フレア・フォン・ランディールと申します」
「これは・・・」
恭しく一礼したアレーナに、女性が慌てて立ち上がり、深々と一礼した。
「我が領民の命を救っていただいたと見えます。心からお礼を申し上げます。領民は国の宝。領民の命を預かるのは本来領主であるところ、我々中央の監督行き届きが徹底されていなかった様子。然るべき対処をさせていただきます。どうかお許しを」
片ひざをついてひざまずきながら切り口上で述べたアレーナにややおびえたような声が降りてきた。
「リディアナと申します。出過ぎた真似を・・・・」
「聖女様はあたしの夫を救ってくださったんです。どうか罰しないでくださいまし」
「そうだ!何もしなかったアンタら領主と違ってお優しいんだ」
「聖女様を罰したらオイラ達が許さないからな」
はいはい、そうでしょうとも、こうなることはわかっていたし。
内心そう思いながらアレーナはひざまずいたままだった。
「どうかお立ち下さい。私・・・どうすればよいかわかりません」
「では、失礼を」
アレーナは立ち上がった。そして、懐から手紙を出した。
「我が主から手紙を預かっております。しかし、その・・・・」
我が主、と聞いた瞬間隠しきれない輝きがリディアナの眼に宿った。
「皆様、どうかこの方と私とを二人だけにしていただけませんか。私にお話があるようです」
「ですがこの人、大丈夫ですかね?」
「大丈夫です」
胡散臭そうに視線を投げてくる人々に対し、アレーナは平然と構えていた。長い青い髪が緩やかな風に吹かれている。
「では、私どもは先に村に戻っています」
「聖女様、後で家にいらしてください。ぜひお礼を」
「いいえ、そんな・・・・お礼などと」
「約束です。どうしてもお礼をさせてくださいまし」
ぞろぞろと村人が教会から出ていき、二人だけになった。
「随分と慕われていますね」
「お医者様も見放してしまった難病でした。あのご夫婦はお子がお国の兵隊にとられてほどなく戦死され、娘さんも嫁がれてお二人だけなのです。及ばずながらお力になれてよかったと思います」
リディアナの言葉に内心唇をかんだアレーナは、
「では、手紙をお受け取りください」
「はい・・・・」
恭しく差し出された手紙を震える手でリディアナが受け取った。封を恭しく切ったが、手紙を開ける所作は早かった。素早く目を走らせたが徐々に瞳の輝きは失われていく。
手紙を持つ手が急に力を失って無造作におろされた。
「これは、その・・・・」
「残念ながら、我が主は明確に貴女の申し出を拒否されています」
「でも・・・・・」
「我が領民の治癒に力を尽くしてくださったことは感謝します。それ以外にも領民から話を聞いてくださったり、いろいろ尽力をされているご様子。ですがそれはそれ、これはこれ。そもそも婚約も結婚も当事者双方の合意があってこそ成立するもの。我が主が明確に拒絶している以上はあきらめてください」
「こんな・・・こんな手紙はあの方がお書きになったはずはありませんわ!」
おやおや、そうきたか、とアレーナは思う。
先ほどまでの神々しい聖女らしさ、あどけなさは微塵もなかった。
そこには一人の傷ついた怒れる女がいるだけだった。
緑の眼はいっぱいに開かれ、ワナワナと震えていたのを見る限り、殿下は余程ストレートな表現をしたためたに違いない。
「間違いなく紋章と末尾の署名は我が主のものです」
「いいえ!こんなことをお書きになるお方ではありませんわ!」
どうも平和的な解決は望めないようだとアレーナは思った。
「貴女はあの方の何なのです!?」
「ただの10年腐れ縁の側近ですけれどね」
「10年!?」
「長かったわよ。離れたくても離れられないんだから。とんでもなくウンザリ。いっそ変わってほしいくらい」
「なんですって!?」
「大体どうしてうちの殿下を狙うのよ?身近で見ると呆れるくらいだらしないわよ。朝起きるのが遅いし、そういうときの髪はボッサボサだしシャツはだらしないし、笑顔は人をだますのと、自分が楽をするだけにあると思っているし、借りてきた家猫ほども仕事をしないし」
流石にそれは言い過ぎか、と口をつぐんだ10年腐れ縁の側近を聖女はにらみつけた。
「きっとこの手紙は偽造よ!貴女が書いたんでしょう?貴女は誰?あの方をたぶらかす雌猫!?」
「いやはや手に負えないわね」
「出て行って!私が直接あの方から声を聞くまでは信用ならない!」
「あ、そう。残念ね。仮にも我が主からの使者を侮辱侮蔑貶すような真似をしていることをご存じ?一刀両断に斬り捨ててもいいのよ。それが嫌ならおとなしく領内から出ていきなさい。警告よ」
チラッと腰に下げている剣に手をかけると聖女は一歩後ずさった。
「私に手を出すなら私にも覚悟はあります・・・!これでも数々の難敵を打倒した冒険者ですわ」
「あっそ」
ずいと遠慮なしに踏み込まれた一歩に聖女は数歩下がる。
「ちなみに許可証ある?」
「きょ、許可証・・・・?」
「大体うちは関所を設けていて領内に入るのにも許可証が必要なんだけれど、領内に入るのに許可はとった?滞在許可証はある?」
「それは・・・・・・」
「あ~らら、持ってない?不法滞在?まぁ、聖女様とあろうお方が常識破り?もっと言えばアーガイル公爵家令嬢である貴女がまさかそんな真似をするなんてね」
「・・・・・・・・・」
「これが最後の警告よ。即刻領内から退去なさい。先ほどのふるまいから、本来であれば斬り捨て御免で処刑されてもおかしくはないのよ。でも貴女には領民の命を救ってくれた恩義がある」
「・・・・・・・・・」
10秒ほど睨み据えていた聖女はアレーナの右脇をすり抜けるようにして外に出て行った。
それを見送ってからアレーナは教会の外に出た。一時的に差し込んでいた陽の光は消えて、昼間なのに少し暗いほどの天気だった。
遠巻きに待機していた部下たちがやってきた。
「さて、ご感想はどうでしたか、殿下?」
部下の一人―変装したフロード殿下―に、ニヤニヤとアレーナが笑いかけた。
指向性の集音魔法で逐一中の様子は聞いていたはずである。
「いやはやとんでもない女性だね、あの人は!ぞっとするよ。だから僕は来たくなかったんだ」
「でしょうね」
「それにアレーナ、呪いを受けているんじゃないかい?」
「あら、そうでしたか」
自身の右腕を見たアレーナが無造作に一振りする。ガラスの砕けるような音がして禍々しい光は消えた。
「これが呪いと言えるのでしたら呪いなんでしょうね」
「腕の立つ人間でもすぐに死んでいても不思議はないのに。君の神経はロープ並みだね。それとも大木並みかな」
「どうしようもないぐうたら殿下と10年一緒にいるとそうなりますからね」
「ハハ」
軽く笑った殿下が顔をしかめる。
「さて、どうしようか」
「ま、正式に退去勧告はしましたけれど、あまり期待できないでしょうね。であれば次の手を使うまでです。仕事が増えるのは嫌なんですけれどね」
いったん城に帰ろうということになり、騎馬の人となった一行は帰還の途に就いた。
「何かいいたいことがあるんじゃないかい?」
しばらく無言で馬を進めていた一行の沈黙を殿下が破った。
「はい、殿下。実は――」
「遺族に対する支給金や待遇については改善策を考えるよ。戦争はないのが一番いいんだが、どうしても回避しようのない物事があった場合、最終手段として未来永劫残るからね。ただ、そうは言っても無造作に民を犠牲にしてよいものではない。領民の命を備品程度しか考えていない領主も不要だ」
アレーナは無言で頭を下げた。
阿吽の呼吸というべきか、自分が考えていることをくみ取ってすでに考えているからこそ、アレーナは10年来の腐れ縁をやめられないでいる。
数日後、エクスフォニア公国内で奇妙な噂が広まった。
曰く、聖女リディアナの奇跡の所業は、実家であるアーガイル公爵家の財力にものを言わせ、庶民には手に入らない高値の秘薬を用いたに過ぎないこと。
浄化や魔物討伐についても、財力で雇った人間にやらせていたこと。
アーガイル公国は民に重税を課し、その金を溺愛する娘に注ぎ込んでいること。
よって、リディアナ・フォン・アーガイル公爵令嬢は本当は聖女等ではないのだ、と。
噂は隣国まで広がっていった模様。
なお、噂の出所については不明である。
「あらあら、まぁまぁ。とんでもない勢いだわね」
アレーナは城内の一室で寝転がりながら報告書に目を通している。
しらっとした姉の発言にフレイアが目を見開いた。
「御姉様、少しその方が可哀そうになってきましたわ」
「何度も退去勧告をしたのに従わないんだもの」
「噂、本当ですの?」
「さあてね。噂なんて真偽は関係ないわ。信じたい人は信じるし、信じたくない人は信じたくない。これに尽きるもの」
さて、次の一手はどうなることやら、とアレーナは報告書を顔にかぶせ、目を閉じた。
数日後、アーガイル公爵家から非公式の使者が来た。
曰く、娘について穏やかならぬ流言飛語が飛び交っていることは承知しており、婚約締結についてはいったん白紙にしたい、と。また、アーガイル公国が民に重税を課していることは根も葉もない事実なので貴国の責任において噂の払しょくをされたい、と。
事態処理を父から委任されたフロード殿下は謁見の間で使者と対面した。
「噂については我々も困っています。根も葉もない噂を立てられて、むしろこちらが被害者なのです」
フロード殿下の傍らに立つアレーナが使者に伝えた。
「しかし、噂については奇怪なことに公国が流したという者がおりましてな」
「それはどこの誰でしょうか?今ここにいます?」
「いや、それは」
「それにですね、そもそも論として、アーガイル公爵令嬢が許可証なく我が領内に侵入したこと、こちらがはるかに重大ではありません?そして、これは事実です。証人は幾百人もいます。貴国の商人たちも証人です。お望みなら今こちらに連れてこられますよ。あなた方がご息女の噂をどうこう言う以前に、それについて何か弁明はありますか?我が領内の偵察を行い、敵対行為があったとみなしますが」
「そ、それは・・?!」
エクスフォニア公国とアーガイル公国の戦力比を脳裏に浮かべた使者は青い顔になった。
「まぁまぁアレーナ、その辺にしなさい」
「殿下」
「使者殿。どうも勘違いをされているようだ」
「は?」
「何もなかった」
「え?」
「そもそも縁談も婚約も根も葉もない噂も、何もなかった。我々は寝不足で夢でも見ていたのでしょう」
「・・・・・・・・・」
ここは何もなかったということで穏便に済ますのが一番いいのでは、と言外に言うフロード殿下の笑顔に使者は一言もなしに一礼して引き下がっていった。
「殿下もなかなかの役者ですね」
ニヤリとしてアレーナが話しかける。フロード殿下は何のことかなというように首を傾げた。
「あんなものは初歩の初歩だよ」
「なんとも奥ゆかしい」
「君のほうがよっぽど僕より役者だけれどね。それはそうとあの子はどうなったかな?」
「私の不行き届きで、あの村から姿を消して行方知れずです」
「おやおや」
「殿下も周辺には十分注意なさってくださいね」
「おやおや、君が僕の心配をするなんてね」
「退職後の私の年金がもらえなくなるのを心配しているんです」
しらっとアレーナは言った。
そして、使者の後を追った。使者の休息の間で何が話し合われたのかは当事者とフロード殿下だけが知っていることだった。
3日後。
依然として聖女リディアナの行方は不明である。
フロード殿下は領内の巡視に出かけた。
危ないのでやめるように側近たちが注意をしたのだが、日課であるからと辞めはしなかった。
領内の木々がうっそうと茂る街道を通過しているときだった。
閃光がほとばしり、主を庇おうとした部下2人が斃れ、隊長が間一髪で主の前に立ちふさがった。
それを一瞬で斃し、人影が殿下に迫った。
突如雷鳴がとどろき、雨風が吹いてきた。
「殿下!!どうか、お聞き届けを!!」
衣服を濡らし、目を血走らせた聖女リディアナが必死の形相で見上げる。騎馬のフロード殿下は聖女を見下ろしながら、
「何度も言ったはずだ。僕は君と婚約締結をする気はない。縁談は断る。僕は君が思っているような聖人君子じゃないんだ。どうか頭を冷やして」
「いいえ、いいえ!!お聞き届けになるまでは動きませんわ!!」
「どうしてもかい」
「ええ!!ええ!!あのメギツネ、雌猫!!あれがきっと殿下をたぶらかしたのです!!たぶらかしたのです!!どうか私の言葉を聞いてくださいまし!!」
フロード殿下は吐息を吐いた。そして悲しそうな顔をして、聖女を見た。
「君は聖女だと名乗っているが、君の望みのためなら人を殺してもいいというのかい?君は人々を救ってきた。それは僕に近づくための手段に過ぎなかったのかな?」
「・・・・・・・・・・」
「それは聖女と言えるのかい?」
「・・・・・・・・・・」
「心から人を救いたい、役に立ちたい、それが聖女というものではないのかい?」
リディアナはフロード殿下と自分との間に斃れている人間を見た。声にならない呻きが口から漏れ出た。
「御覧の通りです。公」
殿下は木立に声をかけた。
「よくわかりました。あとはこちらが引き受けましょう。まさかこれほどとは・・・・」
「え?」
木立から姿を現した人間を見たリディアナは驚愕の色を浮かべた。護衛の兵たちに囲まれて姿を現したのはアーガイル公爵本人だった。
「お、と、う、さ、ま」
さび付いた機械人形のような声が娘の口から漏れ出た。
「フロード殿下、我が不詳の娘がたいそうご迷惑をおかけした。幾重にもお詫び申し上げる」
「お父様、違います、これは、これは!!」
「リディアナ、残念だ。フロード殿下をお慕いするお前の気持ちに応えるよう努力はしたが、まさかお前の気持ちはこれほどまでにねじ曲がっているとは・・・・・」
「・・・・・・・・」
「聖女として立派に務めを果たしていたお前を誇らしげに思っていたが・・・いや、そもそもお前の気持ちを汲んでやれなかった私が悪いのだ。死んだお前の母に笑われるな」
「・・・・・・・・」
そっと娘の肩に優しく手を置いた老公爵は深々と頭を下げた。
「殿下、私は引退し、息子に跡を継がせようと思います。どうかよしなに」
「ええ。ご心配なく。貴方の誠意は伝わりました。それに、部下たちは死んではおりません」
娘と父とが、苦さがたっぷり含まれている会話をしている間、介抱に当たっていた治癒術師たちから問題ない旨の報告を聞いたフロード殿下はアーガイル公爵に微笑んだ。
老公爵の傍らで、うなだれたリディアナは糸が切れた人形のようだった。
老公爵はまた深々と一礼し、抜け殻のようになった娘を馬車に入れると、護衛の兵たちとともに去っていった。
「いや~まったく殿下らしくない行動力ですね。意図的に情報を漏らしておびき寄せるなんて。本当に殺されたなら、どうするつもりだったんですか?」
木々の間から護衛の兵たちとともに現れたアレーナがあきれ顔をした。
「その時はどうにもできないからね、あの世でたっぷり昼寝でもしているさ。それにあの子は、私を殺す前に話をするだろうと思ったからね」
「でしょうね」
「あの子の行ったことを聞いていて、一度は話をつけなくちゃいけないと思った。でも、遅すぎたかもしれないな」
遠ざかる馬車を雨に打たれながら見送る殿下の表情は硬かった。
「行きましょう。風邪をひきます」
10年来の腐れ縁の側近は、防水マントを渡し、手配した馬車に誘導した。
「あとは公爵閣下がどうなさるか次第です。私たちは口を出せません。いいですか、殿下、くよくよしても、どうにもならないこともあるんですから。せっかくのお顔が台無しですよ」
「君らしいな」
殿下はかすかに笑い、馬車に乗り込んだ。
治癒術師たちが怪我人たちを別の馬車に乗せたのを見とどけると、一行は帰路についた。
フロード殿下の馬車の傍らを騎馬で進みながら、アレーナは一言もしゃべらずにいた。
雨しぶきが強くなってきたが、彼女の防御魔法のおかげで一行はそれ以上雨にぬれずに済んだ。
天が悲しみの涙を流しているのか、笑い涙なのか、どっちなのだろうとアレーナは思う。
笑い涙だとしたら、なんと聖女とは滑稽なことかと思っているに違いない。
リディアナ・フォン・アーガイルおよびアーガイル公爵家当主が毒酒を呑み自害し、息子がアーガイル公爵家の当主を継いだという知らせはそれから周辺公国に知らされた。
アレーナ・フレア・フォン・ランディールはフロード殿下の名代として葬儀に訪れ、丁重に死者たちを見送った。