序章 群雲と風
時は丑。覗いているは、暗雲に欠けた月ばかり。
一人の男が歩いているさまなど、誰も、知る由は無い。
男の年齢は二十一。
この地で一花咲かせようと意気込む、新世代の一員である。
しかし実際は、日々の暮らしを慎ましく過ごすに至っていた。
勤めの蕎麦屋では、手間賃を貰う程の働き者。
男が店頭で呼び込みをすれば、女子が避けては通れぬと噂が立つ程、男は美丈夫だ。
男は月に二度の楽しみに、勤めの終わりに酒屋へ行く。
今宵は賃金支払いの日。
酒屋へ行き、顔なじみの店主に、焼き魚と小鉢、安酒を頼んだ。
元々酒に強い方ではないのだが、今宵は仕事の疲れもあったのか、男はいつの間にやら居眠りをしていた。店主に揺り起こされると、既に店仕舞いの刻だと言う。
男は金を払い、店を出た。
男には、二つ下の妹がいる。両親を魑魅―山林のもののけ―に殺されてからは何かと小煩いが、それでも唯一の肉親。憎まれ口とて可愛いものだ。
まだ酒の抜けきらぬ体で、男はいそいそと帰路についた。
さすがに忌み時だけあって、人の姿はない。
闇色の濃い、路地裏。そこを抜け左に曲がれば、自宅の貸家が見える筈であった。
妹に、家に着くなり叱られるのであろう。
そう朦朧と思いながらも、男は家からもれる光を期待していた。
男は立ち止まる。角を曲がろうかという、矢先であった。
先程には見られなかった人影が、いつの間にやらひとりぶん。
よく見れば、その影は女の物だった。
男が目を凝らすと、女は微笑を浮かべ、男の名を呼んだ。
よく見てみれば、昼間に会った女客である。
昼間来た客の中で、一番の上玉だった、あの女。
女が親しげに近づいて来ると、男は人影に怯えた己を恥じた。
はて何用か。何故家の場所が分かったのか。
以前恋文を渡しに、わざわざ店主に自宅を訪ねた女子がいた。
その事を思い出し、男はその類であろうかと考えた。
それとも偶然何処ぞの帰りに、鉢合せになっただけだろうか。
女は男の側までやって来ると、可憐な声で聞いた。
「今帰りですか」
「ええ。あなたこそ夜半に共も連れず、何故こんな所に?」
女は答えない。男の瞳を、意味有り気に見つめるだけだった。
男は答えを待ち、小首を傾げながら女を見つめ返す。
酒の仕業か―刹那であるが、女の瞳が赤色に光った気がした。
頭の芯は重くなり、眠気のような気だるさに襲われる。
そんなに飲んではいない筈だが。
そう思っている矢先にも、男の思考は狭まった。
(本当に酒のせいだろうか?)
男は朦朧とする中、女の妖しい笑みを見た。
首を傾げたのは、昼間見た時と何ぞ違う気がしたからだ。
そして回るような視界の中、棘の付いた鎌に気づいた。
男は瞬時に、女が何故ひとりなのかを理解した。
恐怖より、申し訳なさが先立つ・・・天涯孤独となる、妹。
女の棘鎌が、素早く振り上げられた。
酒に酔った時のような、高揚と至福が頭に紗を掛ける。
(父と母も、こんな気分であったのだろうか)
男は薄く開いた目で、鎌が払われ終わるのを見た。
視界はゆるりと斜めに傾き、女の顔が横になる。
今度は反転し、ぐるりと回る。
視界は次第に、落ちて行く。
再び斜めに落ち着いた時、穏やかな顔は―地面にあった。
視界に映るは、己の体を貪り食う女。
女は袖で口を拭うと、転がった男の首を拾い上げた。
顔を見、そして、笑った。
同日、早朝。通りがかりの郵便屋が、骸を発見。
後四件、首無しの骸が連日見つかる。
首の行方、今だ知れず。
◇◇◇◇
三月十一日 巽。
柔らかい日差しが、芝生を照らしている。
その芝生を音もなく踏み歩く、黒革靴。
痩せ型の体に纏うは、黒い背広。
腰程もある長さを、背中のあたりで軽く縛った髪は、さらりさらりと揺れていた。
天然癖毛であるこの館の主人は、その様に目を惹かれながら、この者を他の客人と同等に扱っていいものか、と思案していた。
その最中にも黒革靴は、好き勝手に庭を歩き回っている。
男に魅惑を感じる己に不思議を感じぬのは、この陰陽師と名乗る者が、誰が見ても美人の部類だからであろう。
淡い黄色の薔薇に長い指を添えると、陰陽師は鼻を近づけた。
そちらの方が、芳しい香りを放つ一枚の絵画のようだった。
「綺麗ですね。この季節にしては珍しい」
「ええ。新種なのです。寒さに強い」
黒背広が主人の方へと振り向き、そうですか、と相槌する。
「やはり原因は、鬼の類でしょう。この辺りの庭に微弱ではありますが、まだ邪気が残っている・・・」
館の主人は目を見張って、恐々と聞いた。
「では、あの首無し事件と何か関係が?」
「ええ。碧様・・・菊子様でしたか・・・」
「ああ。妹、菊子の別名は碧だ」
今貴族の間では、別名が流行っているらしい。
「碧様でよろしいですか?」
「ああ」
「碧様が御体を弱めておられるのは、そやつの邪気による影響が出ているのでしょう」
「やはり、あの鬼が―」
主人は蒼い顔を抱えた。
重々しい溜息を吐く。
顔を上げて、陰陽師を見る。
「セイレン殿、御力を御貸し頂けますか」
清蓮は「ええ」と僅かに笑んで、館を示した。
「その前にあちらで、誓約書に署名をして頂きます」