【二章】似顔絵の女
かちり、こちりと、置時計の音がしている。
直志は龍牙丸を左手に持ち替え、甲にきつく、紐を結わえた。
あまりの静寂に、秀晴は耐えられずに声をかけた。
「清蓮殿、まだですか・・・?」
秀晴に背を向け身構える清蓮は、いまだ身構えたままだ。
「おそらくあちらも、こちらに勘付いているのでしょう」
ぎい、と、扉窓が風で揺れた。
窓垂布が一段と大きく揺れ、大波を描いて元に戻った。
すると突然、碧は大きな溜息を吐いた。
秀晴は、腕の中の碧に振り向く。
碧はもう一度、そしてもう二度と息を吐いた。
「碧・・・?」
秀晴が不審を打つ頃には、呼吸は過剰になり、喘息持ちの発作のようになっていた。
「碧っ・・・清蓮殿っ、碧の様子がおかしいっ」
清蓮と直志が振り返ると、碧の息は興奮した犬のごとく早くなり、顔色は薄闇よりも青かった。秀晴は動揺しきっていた。
「こ、こんなに酷いのは初めてだっ」
直志は碧に近寄ろうとする。
しかし己の左手に驚いた直志は、その場から動けなくなった。左手の龍牙丸が、今から起こる事への恐怖か、武者震いにも思えるような痙攣を起こしたのだ。
「な、何だっ?」
揺れ出した龍牙丸は、手に巻かれた紐のせいで離す事ができなかった。直志は咄嗟に柄を握り締めた。乾いた破裂音と共に、痺れが腕を襲う。
直志は碧を見たが、碧にそのような様子は見られない。碧の息絶え絶え、呼吸のし過ぎで、意識が朦朧としているようだ。痺れの痛みを感じているのか判断はできない。
「清蓮殿―」
秀晴は清蓮を呼んだが、清蓮は振り向こうとしない。
もう一度呼んだが、やはり振り向かなかった。
「清蓮どのっ」
清蓮は振り向かず、しかし真剣な声色で言った。
「秀晴殿。何があっても、龍牙丸と碧様を離さないで下さい」
「しかし碧が―・・・そうだっ守衛を呼ぼうっ」
「なりませんっ。この部屋には誰も入れないで下さい。碧様をそのとばりから出してはいけませんっ。彼方もなるべく中にっ」
秀晴は清蓮の迫力に押され、洋寝台の奥へ入って碧を引き寄せた。
碧は未だ震えている。
清蓮は部屋中に意識を張った。
横目に、龍牙丸を抑えようと必死になっている直志。
もう一方の横目には、白い窓垂布が月光を含んで、大波にも似つく動きをしていた。
目には見えぬ―例えば常人が香りの存在に気づくように、清蓮は妖の気配を全身で感じとっていた。
また白布がふわりと浮いた頃、清蓮は震えた息を吐く。
その風が長髪をいくらか揺らした時、清蓮は静かに言った。
「来ます―」
清蓮がそう発した途端、直志の体に寒気が走った。
常人にも感じられる程の、只ならぬ気配―藍色を含んだ薄闇の底。
絨毯の敷かれた床に、薄っすらと蒸気のようなものが流れ込んできた。
よく見ると、それは靄や煙に似て否なるもので、香りもなければ温度も無い。
秀晴は眉をひそめた。
「清蓮殿、これは・・・」
「妖しの術。幻です」
部屋の真中程から、白煙の幻が湧いている。円を描きながらゆるりと広がる白煙は、やがて膝の辺りにまで張った。
龍牙丸は更に直志へ抗い、痺れを強くしている。
唯一床が見える円の中、そこから螺旋に昇り来る者がある。
始めは形定まらぬものであったが、次第にそれが、黒髪の美女である事が分かる。
直志は目を見開いて、息を飲んだ。
「あのっ、あの似顔絵のっ」
「ええ・・・間違いないでしょう・・・」
女は長い髪を無造作に垂らしていた。そこから覗く目は、胡乱として氷のごとく鋭い。薄闇の中の顔色は更に青白く、唇も同等だ。色鮮やかな女房装束が、更にそれを強調していた。
女は俯いていた顔を僅かに上げ、清蓮と直志を睨んだ。
女のものではあったが、随分と険のある低い声が言う。
「貴様ら、何者だ・・・」
直志は手の痺れを忘れ、息を飲んだ。
女は直志を見た。




