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1 1960年

当該作品は如何なる団体、国家、宗教、民族、思想を批判する意図はありません

往来が激しい渡り廊下を真っ直ぐに過ぎ、アン・アームストロングは直属の上司であるワーウィック・フェイスフルの執務室のドアを軽くノックした。ドア越しの奥から「どうぞ」と返されるのを待ち、一呼吸置いてから部屋に入った。華やかなレモンの香りが漂う。ワーウィックは愛煙家であるので他者が顔をしかめないようにと心を配ったのだろう。



「アン・アームストロング、ただいま着任しました」


「よく来てくれた。久々の故郷はどうだった」


「風景は変わりましたが、人は変わってませんでした。友人も喜んでました」


「羽は伸ばせたのか」


「それなりに。お土産如何です?ギラデリです、サンフランシスコ限定の」


「後で頂こうか。それと、土産の礼だ。目を通しておくように」



長官から渡された一枚の書類には、次の勤務地が記されていた。アンにとっては休暇明け早々、再度の海外赴任となる。



「2月からだ。それまでに準備をしておいてくれ」


「拝命しました。それで、素性は?」


「うん?」


「プロフィールです」


「無いな。君は君のままだ」



アンはきょとんとした。



「今回ばかりは事情が違う。半端な偽装で騙せるような相手じゃないからな」


「だからこそ自分を作るべきかと思いますが」


「そうグイグイとくるのは姉と一緒だな。今回の長期任務は初の試みだ。同盟国らの協力も募っている。誠意は見せるべきだろう、君はアメリカ合衆国を代表することになる」



通達書の下には自分以外の名前も連なっている。確かにアメリカ人だけではなさそうだ。ただ、アンは英語以外はできないので正しい読み方は分からなかった。



「不安なら当地に赴いてから自分で設定したまえ」


「分かりました」



長官は言いかけたことを押し殺し、回転椅子をくるりと後ろの窓側に向けた。曇り空からぽつりぽつりと空いた空間から、優しい日光が差し込んでいる。その遠くには凪いでいる海原が広がり、小さなボートや港に向かうコンテナ船がゆったりと動いている。カモメの鳴き声。年も明けたばかりだが、長閑な一望だけは変わらない。世界も変わらずにただ回ってくれるだけで良いのだが、そうもいかないのが現実だ。



「日本は「竹のカーテン」の最前線だ。君の手に、世界の命運はかかっている」



絞り出したような声色だった。アンは彼が苦しむ理由を深く知っている。二人は当事者だった。「CIA最大の敗北(米国最大の敗北)」と称されたあの凄惨な事件の最大の被害者だったからだ。



「改めてよろしく頼む、アームストロング潜入捜査官」


「必ず吉報をお届けします」


#


アンが去った後、眉間に皺が寄ったままのワーウィックの執務室を訪れた人物がいる。友人であるマーク・クーパーだ。


彼はいつもかっちりとしたスタイルを保っていた。今もカッターシャツのボタンを一番上まで閉じて、ネクタイも店頭でマネキンにつけられている新品とそっくりの状態だ。



「やぁやぁ、新年の挨拶に来てやったぞワーウィック。随分と仏頂面じゃないか」


「同盟国の監視とは頂けんな」


「まさか。私はいつだって悪意を持ち込んだことはないぞ」


「どうだか」



マークはどっかとソファーに座り、愛用のパイプを吹いた。紫煙を漂わせつつワーウィックと向き合う。




「私が悪意を抱いているように見えているかは知らないが、今は君の方が余程恐ろしい行動を取っていると言える」



ワーウィックは表を上げた。マークの茶色い瞳と真っ直ぐ目線が合わさった。



「君は運命を信じないタイプだったろうに」



返答はなかった。だがマークはお構いなしだ。



「何故アンを選んだ?彼女の活躍と能力は私も知っているから文句はないがね、示唆的が過ぎるぞ」


「マーク、」


「仕事に私情を挟むのは御法度、そう部下に言い聞かせ続けているのは他でもない君だろう」


「...そうだ、確かにそう言った。だが、私は贖罪という自己満足を行わずにはいられなかった」


「ふーむ」



マークはわざとらしく口ひげを整えた。彼が人の話をじっくりと聞く時の、必ずと言っても良い癖だ。



「アン自身が望んだ。私も同じだ。彼等の陰謀を食い止め、そして彼女の無念を晴らす。それは私情だけじゃない、我々CIAの潰された面子を回復させることを助けるだろう」


「他の部署や同僚の中ではそれ程盛り上がっていないようだが」


「我々に守られていることを知らないからそう他人事に捉えることができるんだ」



ワーウィックやアンがいたこの建物は、バージニア州のマクリーン・ラングリー(CIA本部)ではない。連邦政府とCIA所属の極々僅かとなる人物しか知り得ないこの「秘密基地」には、「オペレーション(運命)ディスティニー(作戦)」に携わる、多くても100人規模の人間しかいない。彼等彼女等は人種や年齢関係無くこの「秘密基地」に集まり、世界中に飛び回りアメリカ合衆国への忠誠を体現している。



「落ち着きたまえ長官、感情任せなど君らしくもない」



ワーウィックは机の隅に鎮座しているボトルを掴み、中のウィスキーをコップに注いだ。グイッと一気飲みする姿を見たマークはヤレヤレと小声で漏らした。



「現実に向き合うにはまだか弱い君に吉報を持ってきてやったぞ」


「何だ皮肉屋」


「今回MI6(英連邦)が選抜した代表は私だ。彼女の安否はなるべく守る」


「・・・本当か?」


「異例となる女王陛下から直々の勅令だ」


「そっちじゃない」


「・・・厳密に言うと嘘になるかもしらんな。この度の私がなる立場は公共性と公平性を求められている立場。今のは気休めを含んでいる」



マークが肩を竦めた。



「期待させるんじゃない、相も変わらず悪趣味な奴め」


「褒め言葉だな」


「・・・だが、できれば見守ってやってくれ。これは君の一友人としての願いだ」


「善処するよ」


「それはMI6としての言葉か?」


「いいや。友人として、ね」



「私は、貴女のことが大切なの」


「どうしたの、急に」


「貴女は私のこと、好き?」


「嫌いじゃないよ」



「なら、お願いがあるの」



「貴女だけは、無事でいてね。いつまでも」



これは、いつの会話だっただろうか。


姉が失踪したという知らせを伝えられた時も、アンは動揺こそしたが十分に信じることができた。瞬間にアンの直感はピンと張ったのである。彼女なら自分の行方を自ら眩ませることはしないだろうと、逆にその場で動揺し喚く父母が疎ましく感じるくらいに勘が冴えていた。


事務的な声色で隠しきれない気の滅入りを見せながら、報告のために実家のドアを叩いた男はCIAから来た、と自分を紹介した。曰く、姉は日本に潜入中突如として行方を眩ませたとのこと。いつも公文書ばかり見ている父の目は焦点が定まらず、母は姉を失ったと早まったのか慟哭に臥していた。だがアンも言われずとも姉が死んだとは信じられなかった。


数年前、失踪する前のことだが、姉は日本に赴く最後の瞬間に家に帰ってきた。父母はいないものとして無視され、姉はアンに対してのみ言葉を残した。



「大丈夫、お姉ちゃんは必ず帰ってくるから。良い子にしてるんだよ?」


#


〖...アジア大陸の東側にあり、何千にも数えられる島々で国を形成している。四つの大きなプレートの上に位置するため地震がよく起こる。国土はほとんど緑に包まれ、国民は米と魚をよく食べる...〗


学校のロッカーで眠っていただけで、その後無惨にも燃えるゴミになるだけだった地理の教科書よりも少しだけ詳しいガイドブックの文面に飽きてしまい、窓越しに空を見た。雲海の白と空に広がる淡い青が混ざり合い、また混ざりきることなく幻想を生み出している。これは翼を授かるか飛行機に乗らないと分からない優越を秘めた満足感を与えてくれる。青の向こう側から、少しずつ朱が見える。染まっていく。本に目を戻す。目的地となる空港のすぐ隣には、首都であることを示す赤の二重丸が印字されていた。その部分を何となく指で撫でた。


何故姉と同じ道を歩むのか、父には理解されず母はただ嘆き、友人には不思議がられた。キャビンアテンダントかニュースキャスターにでもなるイメージが強かったのだ。だが、姉の無念を記憶の彼方に消してしまいたくはなかった。大学を出て、東海岸に行き、そして長く気が詰まるような面接と試験を繰り返し、ようやくここまでやってきた。任務を受けたその日、直接の上司であるワーウィックは厚みのある、くぐもった声で彼女に向けこう述べた。そもそもとして潜入する人間が仲間同士で同じ場いる機会も少ないという事実がある分、その一言一句が脳に刻まれた。



『日本は"竹のカーテン"の最前線だ。君の手に、世界の命運はかかっている』



日本に行って何をするのか、何が目的なのか、いつまでいるのか。それは現地で通達するようだ。空っぽな激励とはいえ、アンにとってはいよいよあの時の姉と同じステージに立てたことで少しだけ心が身軽になったように感じた。上官には申し訳ないことをした、という後悔と罪悪感もある。彼はかつて姉の上司でもあり、またあの日姉の行方が完全に分からなくなった事実を伝えに来てくれた人間でもあったからだ。だが譲れなかった。


紙コップに残りかけのコーヒーをぐっと飲み干し、フゥ、と嘆息がもれた。因縁の地が眼下に見え始めた。あの島々が墓標になるのか、それともまた故郷の象徴たる金門橋を見ることができるのか。それは分からない。今はただ、姉に叫びたい気持ちで一杯だった。



ー見ててね、お姉ちゃん。私、頑張るから。



『皆様、シートベルトは緩みの無いようしっかりお閉め下さい。当便は間もなく大阪国際空港に到着致します。リクライニングは戻し、化粧室のご使用はお控え下さい......到着予定時刻は現地時間にて二月十三日八時十二分、気温は現在九度、晴れの模様です...』


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