The higher we soar, the smaller we appear to those who cannot fly.
プロファイルされる性格から鑑みても、付き合うのが面倒な、気難しいのは右隣だろう。
少なくとも学生時代の「彼」は「暴走族」という「仲間」達に囲まれているし、「早朝」時も、結果的に「大人の理論」にしてやられてはいるが、デビュー契約の条件は当時のバンドのメンバーと共にあることである。
この条件にしなければ、もっとマシな契約もあっただろう。求められたのは「彼」だけである。
本当に「彼」が利己主義で「狂って」いれば、もっと好条件を選べたと推測できるこのエピソードからも幼馴染な左隣の離反は、当時、相当な衝撃であると想定される。
なお、左隣のプロファイルは、あまり変化を好まない、プライドが高い、である。一言でいえば「保守的」である。
左隣は言葉数も露出も更に少ない。この左隣の離反は、変化し続ける「彼」に常に引き摺られることに疲れたのかもしれないし、当時はこれくらいなら別にいいだろう、とどこか驕っていたのかもしれない。
もしくは変わり続けられる「彼」に「嫉妬」したのか。
「正午」過ぎてからの左隣の文章は「時間を巻き戻したい」と願う気持ちが強く出ている。どちらかといえば、左隣はあくまでも「彼」の幼馴染であり「競争相手」とかではない。
だからか、解散から8年後「彼」が精神的に追い詰められきった時に会いに行っている。また、ファンクラブの会報にも寄稿している。「彼」の「早朝」時の出来事に対する決定打の1人であるにも関わらず、左隣は「彼」に接することを許されている。
私生活のイベントでは第二子が産まれている。
そう「彼」は、ずっと1人、ではない。支えるスタッフも含めて、「彼」は「群れ」の長であり続けていた。
何処にあっても、責任を持ち続けて、なお「フロントマン」として、あり続けた。おそらく面倒見はよかったのだろう。
だが、この「彼」がピークを迎える「午前11時頃」、30歳前後における「彼」のパブリックイメージは真逆である。
「孤高の帝王」
としか言い表せないイメージに「彼」はなった。
そして現在まで「Charisma」と称され続ける。
「早朝」のやんちゃな、若者らしいイメージとは真逆の、落ち着いた、孤独と絶対的な支配者のイメージが構築され「彼」はピークを迎える。
僅か5年。
あまりにも急速に変化した「彼」は1992年12月初旬。
渋谷の街を、真っ赤に染め上げた。