To live is to suffer, to survive is to find some meaning in the suffering.
「彼」を彩る言葉は枚挙にいとまがない。
一番多いのは「Charisma」だろう。
祀られている人物が、令和時代のmoral codeにはどうやってもそぐわない気がするが。
「彼」の「午前中」、「彼」が単なる「高崎の暴走族」から「Charisma」になった、その「早朝」を壊したのは「彼」からすれば「仲間」だろう。
いくら「路上(喧嘩)のプロ」と称されても、まさか両隣から撃たれるとは思うまい。両隣の離反により「彼」の「早朝」、20代半ば過ぎまでが終わる。
というか、右隣は音楽番組で歌を歌う時にギターを持っていなかっただけでWikipediaに記載される人物である。
帽子のない「さかなクン」さんが「さかなクン」さん足り得るのか、私にはわからない。
ようやくオリコン1位など昇り調子、相手は「彼」からすれば「仲間」。完全に油断した状態。
そのタイミング、あの体格でギターを後頭部にフルスイングされれば、それは間違いなく死ぬだろう。
挙句に「彼」は音楽を始めた時からいた幼馴染をこの時点で音楽的には失っている。「彼」が解散を決めたのは右隣の離反(造反)とする論は多い。本当にそうだろうか?
一夜限りの代役のラジオ放送などを確認すると「彼」に解散を決意させたのは、左隣の離反ではないか、と推測する。
少なくとも、右隣は仕方ないにせよ、幼馴染の左隣が、右隣とその背後に唆されたとしか思えない行動をすることが消滅の決定打であったのではないかと推測している。
なんとなく「彼」は関東平野の端から共に出てきた仲間が全員いなくなってしまったから「早朝」を終わりにした気がする。
右隣にせよ、年齢等を考えれば唆された可能性が高い。だが「将を射るなら馬を射よ」をリアルにやられた「彼」はそれでも時間を進める。そして「午前中」となる。
調べた限り、解散直後のインタビューでひとつだけ「解散するつもりはなかった」という肉声データがあった。
また「彼」自身が「早朝」に向き合う「正午」過ぎからは、やはり解散するつもりが当時はなかったこと、今は解散してよかったことなどが語られている。
この「早朝」で「彼」は既に名声を得ている。だから「午前中」に「Charisma」として「大衆向け」にピークを迎えるのだが、この「早朝」時間の出来事は非常に強い葛藤を「彼」に与えている。ここからの5年間は「彼」にとって過去との訣別を模索する時間となる。
「彼」がこの「早朝」に「正面」から向き合うのは「正午」を少し過ぎてからだ。
解散から15年の年月が過ぎてから「彼」は「早朝」も「彼」自身だと認めて消化したかのように見える。
調べていて不思議に思ったのは、2004年頃に「彼」は「早朝」に向き合っている。それは右隣が明確に変わった時期とほぼ同時期である。丁度、人生の「正午」を回ったぐらい。
下世話なgossip屋は、バンドの神通力がなくなって売れなくなったからだ、と書き立てていたようだが。
まあ、私も聞けるなら聞いてみたい。
電話を掛ける相手を間違えたと思いますか?、と。