8.例のマネージャー
月曜日も鈍い色をした雲が空を覆っていた。
通勤ラッシュが終わった後、わたしは市の中心部にあるティーズアクト本部へ向かう。駐車場に入るとエントランスに母と紅葉、それに例のマネージャー、杉崎がいるのが見えた。
「お久しぶりですね、楓さん」
杉崎はほとんど閉じたような細い目をさらに細め、口元には穏やかな笑みを浮かべている。十五年以上ティーズアクトで働いている彼を母はずいぶん頼りにしていたが、四十代後半のひょろりとした色白のこの男がわたしには蛇のように見えてならない。
「本部に顔を出しても、杉崎さんいつもいらっしゃらないから。お忙しそうですね」
「そんなことないですよ。今度メゾン・ド・アリスに食事に行こうと思っているんです。そのときはおいしいもの食べさせてください」
「もちろん」
どの口が、と心中で悪態をついているのはお互いさま。メゾン・ド・アリスは続ける価値がないと、杉崎は社内の人たちにこぼし続けている。
「とりあえず行きましょう。十時に現地で待ち合わせてるから」
母はわたしと杉崎の無言のバトルなど意に介さず、さっさと車へ向かう。その鈍感さが疎ましくもあり、羨ましくもある。
「明日からよろしくね、楓さん」
「え、あ。こちらこそ。勉強させていただきます」
紅葉は「勉強だなんて」と謙遜しながらも、表情は自信に満ちている。
初めて顔を合わせたときとは違って背の中ほどまである髪をおろし、化粧もいくぶん濃いようだった。シェフというよりはキャリアウーマンといった印象で、間違いなく人目を引くルックス。それに比べると見慣れた母の姿はずいぶん田舎臭い。
彼女の経歴なら美人シェフとして話題になりそうなものなのに、ここ二年ほどの専門誌を見返しても彼女を取り上げた記事は見当たらなかった。全国に何千何万という料理人がいるのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「楓さん、今日お休みだったんですよね。ふだんのお休みは何してるんですか」
杉崎が運転する十人乗りのワゴンで、母は運転席のすぐ後ろで電話中。わたしと紅葉はその後ろに通路を挟んで座っていた。
「ドライブがてら気になる店に行ったりとか、近場にちょっと出かけるくらいです。まとまった休みがとれたら旅行に行きたいんですけど」
「あまり休めないんだ」
「様子を見て交代で休んだりもするけど、予約次第です」
実際のところ、休日でも恭明に付き合って店に出ることがある。
電話をして「何してる」と言えば「店にいる」と返ってくる。店にいないときは魚市場だったり、取引している農家さんのところだったり、猟師の山根さんとコーヒーを飲んでいるという具合だ。浮気の心配がない代わりに、わたしすら必要ないのではと思うことがある。
「楓さん、今日の予定はあるんですか? このあと」
「え、っと」
あると言えばある。ないと言えばない。恭明には終わったらメールを入れると伝えてあるけれど、彼はわたしが予定を入れても「わかった」としか言わないだろう。
「予定がなければ一緒にランチでもと思ったんですけど」
通話を終えた母が「デートでしょ」と横から口をはさんできた。
「楓とシェフの伊東恭明君は恋人同士なの」
運転席からフッと息が漏れる音がし、杉崎がどんな顔をしているのか想像がついて気分が悪くなった。料理ばかりで社内での立ち回りが不器用な恭明のことを、杉崎は以前から軽く見ている。
「伊東シェフも楓さんも本当に料理一筋ですからね。僕がいた頃も休日返上で料理ばかりしてましたよ。今日も店で待ち合わせてるんじゃないですか」
「今日は、特に約束してません。シェフは店に出てるかもしれませんけど」
「そうですか」
杉崎の声が笑いを含んでいる。母が「約束があったんじゃないの?」と口にして、自分が電話でそう言ったことを思い出した。
「あったけどなくなったの」
母は「ふうん」とうなずいたが、嘘はバレているようだった。