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2.クマノミドウクレハさん

「今の、誰?」


「さあ? クマノミドウクレハさん」


「楓の知らない人?」


「うん、知らない。おじいちゃんと一緒に食事ってわけじゃなさそうだし、取材か何かかな」


「取材だったら先に連絡来てるだろ」


「じゃあ、今度取材させてって話かも。雰囲気がライターって感じがしない? フットワーク軽そうだし、社交的そうだし」


 恭明はわたしの予想にあまりピンときていないらしく、そうかなあとつぶやいて半歩先を歩く。梢で日差しが遮られヒヤリと風の流れを感じた。耳元でジーワジーワと油蝉が鳴きはじめると、それはすぐに大合唱になる。


「さっきの人なんて言ったっけ? クマのなんとかクレハさん」


「クマノミドウクレハ」


 恭明はきっと彼女が言ったとおり「紅葉さん」と下の名で呼ぶのだろう。


 全部で十人にも満たないメゾン・ド・アリスのスタッフはだいたい名前で呼び合っている。「シェフ」と肩書で呼ばれていたのは祖父くらいで、恭明はシェフの座に就いてからも「恭明さん」だ。スタッフが「シェフ」と言うときはだいたい祖父のこと。恭明がいるときだけ「会長」と呼ぶ。


 厨房に戻ると真奈が梨のコンポートをミキサーにかけていた。ヴーンと機械音が厨房に響き、バニラの甘い匂いが漂う。


「これだけ暑いとやっぱりアイスとかジェラート食べたくなるよね。梨はそのままかぶりつくのが好きだけど」


 真奈はそう言って、梨をまるごとかじるようなジェスチャーをする。


「ジェラート作りながらそういうこと言わないで下さい」


 わたしが腕を小突くと、赤いフレームの眼鏡の奥で彼女は目を細めてククッと詰まったような笑い方をした。ふと何か思い出したように真顔に戻る。


「ねえ、楓ちゃん。さっき会長と女の人見かけたけどディナーじゃないよね。予約で満席だし」


「違うみたいです。店を案内したあと声かけるって言われたけど」


「じゃあ、会長の新しい彼女だ」と真奈はわらう。


「さすがに年が離れ過ぎです」


 祖母が亡くなったのがもう二十年近く前。祖父への憧れをいまだに胸に抱き続けていられるのは、女性の影が感じられないからかもしれない。


「会長は七十過ぎてもかっこいいから、年の差婚あるかもね」


 出来上がった梨のピューレをステンレス容器に移しながら真奈が言う。


「もしそうだったらうちの店でレストランウェディングですね。ありとあらゆる高級食材を使い尽くしましょう」


 口をはさんだのは翔平。真奈と同い年でわたしよりも五つ年上なのに言葉遣いはいつもデスマス調。そのわりに話の中身はおちゃらけている。視線はまな板に向けたまま、彼はスッと滑らせるように包丁を引いた。


 翔平も真奈も含め、祖父からすればメゾン・ド・アリスのスタッフはみんな孫のようなものだ。最年長がシェフの恭明で三十七歳、一番若いのがサービススタッフの圭吾で二十一歳。


「楓ちゃんと恭明さんだって年離れてるでしょ。何歳違いでしたっけ?」


「たった八歳です」


「レストランウェディング予約しときましょうか。ありとあらゆる高級食材を使って」


 翔平さんの言葉に真奈さんがわらい、恭明はわたしと顔を見合わせると苦笑を浮かべる。


「翔平、大井様のところキノコの代わり何にした?」


「ああ、ナスにしようかと。いまオーブンに入ってます」


 恭明はコンベクションオーブンをのぞきこみ、「了解」とうなずく。


 わたしは長方形の細長いプレートに小さな積み木を組み立てるようにして前菜を盛り付けていった。それが終わり、冷蔵庫を閉めたところで「恭明さん」と声が聞こえた。料理を出すデシャップ台の向こうから、圭吾が厨房をのぞき込んでいる。


「恭明さん、会長が話があるから来てくれって」


「俺だけ?」


「濱田さんもです。個室のほうで待ってます」


 フロアチーフの濱田と恭明が一緒に呼ばれたとなると――、と考えてわたしは恭明の顔をうかがった。彼は手にしていた牛刀を手早く洗い、「ちょっと行ってくる」と厨房を出ていく。


「すげえ美人ですよね。紅葉さんって」


 恭明の姿が見えなくなったあと、圭吾が口元をにやけさせた。


「そんなに美人なら、僕もあとでのぞきに行ってこようかな」


 翔平は手を止めないままそんな軽口を叩く。彼の手元でカンパチが透明なガラス皿の上に円を描いている。細身で長い刀身をもつ筋引包丁に添えられた翔平の手が、規則的に切っては盛ってを繰り返す。


「見とれてるんですか?」


 わたしの視線に気づいたらしく、翔平は細めた目を一瞬だけこちらに向け、視線が重なってわたしは条件反射で目をそらす。


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