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1.maison de Alice〈メゾン・ド・アリス〉

 森の中のレストラン maison de Alice〈メゾン・ド・アリス〉に彼女がやって来たのは、まだ夏が終わる気配もない八月のお盆過ぎのこと。傾きかけた日差しは焼けつくように暑かった。


 車同士がやっと行き違える細い坂道をのぼってくるミニバンは祖父の車だ。道の片側は木々や草花が繁り、その反対側はひらけて麓の景色が一望できる。緑豊かな場所とはいえ海からも近く、木々の合間から青い海が見えた。


 祖父の車はレストランの敷地内へ乗り入れ、その後部座席には見知らぬ人が乗っていた。


 窓越しに会釈する女性。耳の高さでひとつに束ねられた髪が、猫の尻尾のようにゆらりと揺れる。サイドミラーに反射した陽光が、花壇の隅にある真鍮製の看板に光の筋をつくった。


 maison de Alice――アリスの家。


 わたしの祖父である小森秀晴が四十三年前にはじめたレストラン。


 もともと繁華街の片隅の、十坪ほどの小さなビストロだった。この場所に引っ越してきたのはわたしが小学校低学年の頃。この土地は祖父の生家があった場所だ。


 中学を卒業するまで、わたしは夏休みのあいだこの山の中のレストランで過ごした。祖父が仮眠に使っていた小さな部屋で宿題をし、森の中をブラブラ歩き、厨房の隅っこでコックたちが料理するのをながめていた。


 一人の料理人としてメゾン・ド・アリスの厨房に立つようになって四年が経つ。夏を迎えるたび思い出すのは真っ白なコックコートを着た祖父の厳しい眼差し、ふとわたしに気づいて向けられる優しい微笑み。


「楓、そんなところに突っ立ってたら暑いだろう」


 運転席から降りた祖父は、昔と変わらぬ笑みをわたしに向けた。皺の数はずいぶん増え、三年前に現場から身を引いた祖父に感じるのはやわらかさと穏やかさ。それがたまに物足りなく感じられる。


 傍らに立つ女性はわたしより五、六歳ほど年上のように見えた。すらりと鼻筋の通った美人。白のノースリーブシャツ、オリーブグリーンの七分丈のパンツ。座席から引っ張り出したデイパックを肩にひっかけ、「こんにちは」と彼女は小首をかしげた。


「こんにちは。いらっしゃいませ」


 わたしは仕事用の笑みを返した。


 祖父が知人を連れて食事に来るときは予約を入れておくのが普通だし、ディナータイムまではまだ二時間もある。取材だろうかと頭に浮かんだとき、「楓」と裏口からわたしを呼ぶ声がした。


 腕時計を見ると厨房に戻らなければならない時刻を過ぎている。建物の陰から現れたのはシェフの伊東恭明。わたしの恋人だ。


「あれ、会長。今日はご予約されてないですよね」


 恭明はようやく言い慣れてきた「会長」という言い方で祖父を呼び、傍らの女性に「こんにちは」と頭を下げた。


「恭明、楓も。彼女のことはあとで紹介するよ。店内を案内し終えたらまた声をかけるから」


 祖父は疑問を差しはさむ余地を与えず、「さあ、クマノミドウさん。こっち」と店の扉を押し開ける。彼女は跳ねるような仕草で肩にかけた鞄を背負いなおし、


熊埜御堂紅葉(くまのみどうくれは)と言います。紅葉と呼んでくださったら」


と中途半端に言葉を切って祖父の後を追った。


 ガラス扉の向こうで揺れるポニーテールが店の奥へと消える。今夜限りの客というわけではなさそうだった。


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