本当にあった背筋が凍った話
斉藤香奈は、土日の休みを利用して温泉に来ていた。
二十三歳。社会人三年目。歯科医で、歯科衛生士をしている。
温泉に入った後の髪の毛を、髪留めで後ろに束ねていた。着ている浴衣は、宿に常備されているものだ。荷物の持ち運びに使う手提げも、宿に常備されているもの。
季節は、秋──十月一日。今日は香奈の誕生日だった。
午後六時。
泊まっている宿の、夕食の時間。襖で仕切られた畳の個室。
この宿は、食事が旨いことで有名だった。夕食は、和食テイストのコース。先付から始まり、少しずつメインの料理に進み、最後にデザートが出てくる。舌鼓を打つ、という表現が見事に当てはまる料理。
当然、一人で来たわけではない。
香奈の目の前には、一緒に料理を楽しんでいる男がいる。三上博。香奈が働く歯科医の医師だ。もう四十二になるが、驚くほど若々しい。年齢からは考えられないほど引き締った体。二枚目と言っていい顔立ち。着込んだ浴衣が、よく似合っている。彼も、宿に常備されている手提げを持ってきていた。
その左手の薬指には、指輪の痕がある。今は、結婚指輪をしていないが。
博は既婚者だ。妻も、彼の歯科医院で働いている。夫婦で開業している歯科医院だった。
香奈と博の関係は、不倫。付き合って一年記念の不倫旅行。
この宿に来てすぐに、香奈と博は体を重ねた。
チェックインしたのは、午後二時。まだ布団も敷いていない部屋で、畳の上に組み伏せられた。セックスのときの彼は少し意地悪で、サドっ気を感じさせる。
きっと、奥さんのせいでストレスを抱えているんだろうな。
畳で擦れてヒリヒリする背中をさすりながら、香奈はそんなことを考えた。
博の妻である明子は、彼の歯科医院で受付と経理を担当している。狐顔の美人。その外見通り、かなり気が強い。顔も綺麗で、字も綺麗。習字の段持ちだそうだ。
博も、香奈や他二人の歯科衛生士も、よく明子に叱られる。博と同じ四十二歳。彼と同じく、実年齢より若く見える。綺麗な顔立ちには、凍るような冷たさがある。人を叱る姿には、恐怖を感じさせる迫力があった。
どんなに美人でも、性格があれじゃあね。ストレスだって溜まるよ。
香奈は、明子に叱られた博を慰めるように接近した。そうしているうちに、こんな関係になった。
もともと、博のことを「いいな」と思っていた。彼の歯科医院で働き始めたときから。見た目が格好いい。性格も優しい。開業医だけあって、お金もある。
博に目をつけた香奈にとって、明子は、はっきり言って邪魔だった。
今では、思惑通りに彼と付き合えている。あとは、離婚するのを待つだけ。自分には、明子にはない若さがある。彼女のように性格がきつくもない。彼が明子と別れて自分のものになるのも、時間の問題だと思っていた。
今日で付き合って一年。さらに、香奈の誕生日。この温泉旅行は、博が用意してくれた。香奈と二人きりで記念日を過ごすために。
食事が進む。コースが、焼き物や冷皿と続いていって。味と会話を楽しみながら食事をして。
最後のデザートが運ばれてきた。
少しだけソースの残った皿が、入れ替わるように片付けられる。
テーブルには、小皿に乗ったシャーベットとスプーンだけが残った。ゆずを練り込んだ、ミルクシャーベット。
「香奈」
低い、でも心地いい声で名前を呼ばれた。
「何?」
「これ」
博は、手提げから何かを取り出した。綺麗に包装されたもの。赤いリボンが着いている。それが何かは、聞くまでもなかった。
香奈の誕生日プレゼント。
「二十三歳の誕生日おめでとう。これからもよろしく」
貰えるのは予想していたけど、実際に手渡しされると、やっぱり嬉しい。香奈の口が、笑みの形で横に広がった。
「開けてみていい?」
「もちろん。開けて、ここで着けてみて」
着けてみて、ということは、アクセサリーか何かだろう。香奈は期待を胸に、プレゼントのリボンを解いた。紙包装を丁寧に開く。包装の中には、白い綺麗な箱。刺繍のような模様が入っている。長方形で、縦五センチ、横十センチくらいか。
箱の蓋を開ける。蓋の内側を天井に向けるようにして、テーブルの上に置いた。
箱の中に入っていたのは、ネックレスだった。細いチェーンネックレス。三日月形の銀のアクセサリーが付いていて、その表面には、ダイヤのような小さく綺麗な石が散りばめられている。
「綺麗。可愛い」
本心だった。博は、センスがいい。そう思いつつ、箱の中からネックレスを取り出し、着けてみた。
自分の胸元に位置した、三日月形の銀色。散りばめられたダイヤのような宝石が、キラキラと光りを反射している。今着ている浴衣にはちょっと合わないけど、香奈が普段着ている服には合いそうだ。
三日月形の銀色を見つめながら、指で触れる。香奈は思わず、ふふっと笑い声を漏らした。
明日は、これを着けてチェックアウトしよう。チェックアウトの時間は午前十時だから、少しデートできるはずだ。これを着けて、博とデートしよう。
頬の筋肉を緩めながら、香奈は、自分の胸元から視線を上げた。プレゼントをくれた博に目を向ける。自分の恋人に。
こんなふうにプレゼントまで用意してくれたのだ。もしかしたら、もう一段階上のステップに上がる日も近いかも知れない。恋人から、夫婦にステップアップする日。
そんなことを思っていた。
博が奥さんと離婚して。そうしたら、彼と結婚して──
甘い未来を想像しながら、彼の顔を見た。
彼の顔を見て、驚いた。
博は、目を見開いていた。額には、薄らと汗が浮んでいた。幸せな二人きりの旅行には、似合わない表情。
テーブルの上のシャーベットが、溶け始めていた。今の二人の関係のように甘酸っぱい、ゆずのミルクシャーベット。
どうしたんだろう?
明かに、先ほどまでとは様子が違う。博の表情に、香奈は戸惑った。
博は、香奈を見てすらいない。その視線は、ただ一点に注がれていた。
プレゼントが入っていた箱。その、上蓋。蓋の内側が、テーブルの上で天井を向いている。
博の視線を追って、香奈も、箱の上蓋を見た。
その直後。香奈の表情は、博とそっくりになった。額に汗が浮んだところまで、そっくりだった。
箱の蓋。その内側。その中には、サインペンか何かで書き綴られていた。
ただ、一言。
流れるような、美しいとさえ言える書体で。
──全部知ってるんだからね──
それは、明かに、明子の筆跡だった。
皿の上の甘酸っぱいシャーベットは、溶けて、その形が崩れていった。
ゆずのミルクシャーベットは普通に甘酸っぱくて美味しいです。
ゆずとミルクって、意外に合います。
ちなみに、作者自身の実体験ではありません。