八月の時 修正版 第3話
ホラーではありません。
目の前に分厚く、繊細な彫刻が彫り込まれたドアがある。
大きく歪み、もはや本来の機能を発揮する事はないだろう。
彼女は、そのドアの内側に立っている。
昔であれば絨毯が敷かれ、ロビーの天井には豪華ではないが優雅な
シャンデリアが通る物を見守っていた。
彼女の名は『香澄』という。苗字は本人さえ覚えていない。
暗闇のロビーを照らすのは文明の光ではない。
夜空に浮かぶ月が、天窓から立っている場所だけを照らしていた。
先程からドアの外には訪問者達が小声を上げて話している。
天窓から差し込む月明かりは少しだけ角度が変わったようだ。
外の会話が途切れる。
若い女性が先頭で入って来た。
これには香澄は驚いた。声からして男性も含まれているはずだ。
容姿はこの洋館の主である香澄より若干上だろうと思われた。
香澄は訪問客に深々と頭を下げる。
動作はしなやかで、幼少の頃から教育されたであろうと物だった。
訪問客は続く、先に入った女性を制止するように入ってくる男性。
ショートヘアーの女性とその袖を掴む大人しそうな女性と続く。
訪問客がドアの隙間から入って来る度に頭を深々と下げる。
「いらっしゃいませ」
香澄は聞こえるはずのない、歓迎の言葉を投げかける。
先頭の男女が香澄の横をすり抜ける。二人は香澄に気がつかない。
女性二人が後を追うように香澄が立っている場所を通過する。
香澄は通り過ぎた4名の背中を見つめた。
客は、左右へライトを向けながら一階奥へ進んでいった。
無視されたわけではない。
香澄の存在を感知出来ないだけである。それは香澄が経験し絶望し悩んだ事だった。
香澄は来客の後を追うべく、ドアに背を向ける。
ささやかな願いは届かなかったのだ。
客を追おうと歩みを踏み出そうとした時だった。
ロビーに靴の音が響いた。
香澄は咄嗟にドアの方へ振り返る。
ドアの内側で、一人の男性が頭に掛ったクモの巣を取り払っていた。
香澄は再度姿勢を正し、深々と頭を下げる。
同時にもう一度さっきよりハッキリと言葉を言おうとした。
「こんばんわ……ようこそ……」声が震えていた。
本来であれば先に歓迎の言葉を掛け、その後お辞儀をするのだが
声が届くか否かを見届けるのが怖かった。
顔を上げるかどうか迷う。
ドアの方向からは返事はない。物音もしない。ただ静寂だけが流れていた。
思い切って顔を上げる。
だが決して急がず、作法道理にゆっくりと正面を見据えた。
男性はドアの前でこちらを見ていた。
正確にいうならこちらの方向だろう。
首をかしげながらロビーへと歩き出す。
香澄の立つ場所は、ロビーの中心から少し左へずれた場所である。
男性は、真っすぐ香澄の居る場所へと歩みを進める。
香澄は困惑した。気が付いてくれたのか、それとも偶然だろうか。
男性の足音が近づく。
鼓動しない香澄の胸の代わりに、頬が熱くなるのを感じた。
足音は近付き、既に香澄の目の前まで来ている。
――ぶつかる!
香澄は思わず目を閉じた。
接触する事はないのに思わず条件反射で閉じてしまった。
そしてゆっくりと目を開く。
見えたのは背中だった。かなりの長身だとわかった。
香澄の頭部は男性の肩には届かず、男性が何を見ている物を知る為に視線を上げた。
男性は香澄が立っていた場所から月を見上げていた。
先程、香澄が願いを掛けた月である。
香澄はうれしかった。
声は届かなかっただろう。
だが自分と同じ物を同じ場所で見てくれた人がいたのである。
涙が出そうになる。
自分の眼球からは、涙は流れない事を知っていた。
涙は出なくてもうれしくて泣いていた。
嗚咽がこぼれる。
聞こえるはずのない嗚咽を懸命に口に手を当て抑える。
相手に聞こえるという問題ではなく、久しく失っていた喜びという感情を
どう処理していいかわからなくなっていたのかもしれない。
男性は、4名の声が聞こえる奥へと歩き出す。
時折、彼女が立っている場所を振り返り返る。
その表情は心配とも不思議ともとれる表情だった。
香澄は月明かりの中で蹲っていた。
先程見た彼の表情が不安を煽る。男性を追い掛けたらどうなるのか
喜びが増えた分、落胆と絶望が香澄の心を覆いそうになっていた。
そんな考えをすると途端に足がすくみ、膝が震える。
香澄は決断した。
今まで以上の不安や絶望が降りかかっても、あの人がここから出るまで……
長い間歩き回って見なれた物。
毎日窓から眺めた景色。
廃れた何も誇れる物がない我が家。
それを一緒に見ようと思った。
男性はライトを照らしながら一階奥へと向かっていく。
香澄も立ち上がり、流れていない涙を拭いた。
そして男性のあとを連れ添うよう追った。
ロビーは静寂を取り戻す。
月の光だけが、位置を変えず香澄の立っていた場所を照らしていた。
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