私の幼馴染が消えた夏
幼馴染が消えた。
茹だるような暑い夏。夕方に突然降り出した雨。熱々のアスファルトがぽたりと濡れて、雨の匂いが強かったあの日。どんなに待っても樹は来なかった。傘は面倒だから持っていない。セーラー服が濡れたけど、そんなことはどうでも良かった。
樹が来ない、それだけが私にとっての事件だった。
樹と私は幼馴染だ。何せお隣さんだったものだから、物心つかない頃からの知り合いだ。私たちの親はどちらも共働きで、だから私たちは手をかける暇が無い子どもたちだった。
愛されていない訳じゃない。彼らは私や樹を健やかに育てるために、あくせく働いてくれている。時間があれば会話もする。感謝こそすれ、恨むだなんて思わない。けれども薄情なもので、私にとっては樹が一番大事なものだった。
嵐の日は手を繋いで、押し入れの中に閉じこもった。家で一人で食べるはずの夕食を持ち寄って、二人で食べるのが日課だった。
樹は中性的な雰囲気で、子どもの頃は特にいじめられっこだった。それから守るのだって私の役目だ。樹が泣こうものならば走って駆け付けて、いじめっ子相手に立ち回る。私だって儚い少女である訳だから、それはもう色々なものを使って応戦した。
ランドセルの中の分厚い辞書は飛び道具、物差しは正義の剣。習うように言われて持っていたバイオリンも、いじめっ子とのけんかで弾くことなく壊れてしまった。
「樹、またお姫様が助けに来たぞ」
いじめっ子たちはからかうつもりで言うのだけれど、樹はそれを聞くとパッと顔を輝かせてあたりを見回す。そうして私の姿を見つけると、目に涙をいっぱい溜めながらも、ふわっと笑うのだ。
「つばさぁ…」
情けなく、甘えるような樹の声。弱いと決めつけられている樹が、どれだけ強いか私は知っている。
嵐の日。雷が嫌いな癖をして、怯える私を心配して震えながらも来てくれる。弱い癖して私の悪口を聞いただけで、泣きながら相手に向かって行ってしまう。弱くて強い、樹。
「それじゃ。行くわ」
何とも素っ気ない別れの挨拶をして、私は今日、家を出る。
樹は帰ってこなかった。1日、1週間、半月、1か月、どの瞬間も、私は樹を待っていた。「翼、待っていて」 あいつはそう言ったのだから、絶対に帰ってくるはずなのだ。それなのにどういうわけか、世界が樹を忘れていこうとするのが私には気持ち悪かった。
「樹君って......」
夏休みでも補講がある。進学校の我が校では、樹の失踪はまさに短い夏のトップニュース。学校では樹のことを見たことが無いようなやつですら、まるで当事者のようにささやき合う。ヒソヒソと、声を潜めるふりをして、ささやく声があたりを満たす。
実は良くない人とつるんでた。実はSNSで出会った女の元へ行った。実は、実は、実は。
最初はニュースなんかでも取り上げられた。けれどもそれは、芸能人の不倫か何かであっという間に忘れられた。1か月が経つ頃には、もう残念だけど、そんな風に言う人が増えていた。
残念って何だろう。樹は帰ってくるのに。
だから私はすっぱりと高校を辞め、樹を探しに行くことにしたのだ。人の良い樹のことだから、出先で騙されでもして帰れなくなっているのかもしれない。そうであるならば、私が行ってやるべきだろう。
当然親は怒り狂った。
けれども私が頑固者で、自分の意志を曲げることがないと分かっていた両親は、なんだかんだ血がつながった親なのだろう。
高校1年の秋、私は日本中を回った。地方に行っては短期のバイトをし、とにかく探した。
けれど樹はいなかった。
樹。樹。会いたいよ。
だから私は国を出た。まったく樹は手がかかる。お年玉やらバイト代やらを貯め込む性格で本当に良かった。
二人で買った、世界の絶景特集。行きたいところに付箋をつけて、いつか二人で行こうと言っていた。だからそこを回ることにした。
まずはギリシャ。スニオン岬に樹は居なくて、近くのタベルナでイカのフライを食べた。
次はトルコ。崖の上からカッパドキアを眺めても、樹は見えない。
メキシコのカンクン。セノーテにも行ったけど、日本人ダイバーはいなかった。
樹が好きな映画だったから、ニュージーランドのマタマタにも行った。
時々日本に帰っては、ただひたすらに資金を貯める。
モロッコ、南アフリカ、ウクライナ、気付けば私はすっかりと、旅人が板についていた。
どこも素晴らしい場所なのに、樹と一緒に写真を覗き込んだあのドキドキは、一人では感じられない。バチバチっと心臓にきて、体を巡る血が喜ぶような、そんな喜びは味わえない。
樹が居ないと息苦しい。樹が居ないというだけで、地球は別の星になってしまった。
実は意外とバケーションだったりして、そんな風に思ってハワイへと行った。けれどやっぱり居なくって、マウナケアで満天の星を見ながら私はやさぐれていた。
「ちくしょう! 樹め。こんなにも逃げ回るとは! 雨の中、待ちぼうけしたけれど、殴りたいけど殴らないから出てこい!」
私は不思議なことに、ここまで樹が見つからなくても、樹が本当に消えてしまったなんて思いもしなかった。もし万が一、樹の命が消えたなら、気が付くような気がしていた。
首が痛くなるほど上を向き、腹立たしいほど瞬く星を睨みつける。あれ? なんだか眩しくない? そう思った瞬間には、私は違う世界に立っていた。
「......ぅぁぁぁぁぁあああああ!!!!!」
4年前まで毎日聞いていた、樹の声が後ろから響く。けれどおかしいな。樹はいじめられてもそう怒る人ではない。
振り向くと、そこにはあの日突然消えた、幼馴染が確かに居た。
艶やかだった黒髪はパサつき、適当に伸びてしまってる。充血した目は涙でぐずぐずに蕩けそう。けれど涼やかな目。すっと通った鼻筋。薄い唇。首筋のライン。見ない間にずいぶんと男らしくなったけど、それでもあれは、私の樹だ。
だから私はくるりと体の向きを変え、樹が吠えた相手を見た。ローブを来た数人の人間と、金髪の少女。これが敵か。
そう思うと、体に力が湧いてくる。いや、不思議なほどに湧いてくる。試しにバックパックから財布を出し、コインを一つ指で摘まむ。そして少し意識して力をいれると、コインはふにゃり、溶けたチョコレートのように曲がった。......よし。
拳をぎゅっと握りしめ、そこにしっかりと力を込める。両足でしっかりと踏ん張って、拳で地面を殴りつけた。
その瞬間、頑丈そうな石の床はビキビキとひびが入り、こちらと敵の間には、大きな亀裂が出来あがった。
「うちの樹をいじめたのはどこのどいつ!? しっかり懲らしめてやるから手を挙げろ!!!」