15:さいしょのつぼみ
王宮内ー中庭
エルラ庭園内にて。
黄金の髪と、光に反射する薄いライトブルーの瞳を持つ幼い少年が王宮内の庭で花を摘んでいた。その背中は20代にも満たずとてもひ弱な印象をうける青年で、頬にほんの少しそばかすがある。そのライトブルーの瞳はキョロキョロと周りを見渡しており神経質な性根である様が見て取れた。彼の手には庭園で大切に育てられていたであろう花々が、無残にも摘み取られていた。
「…大地の魔女は喜んでくれるだろうか。」
彼の呟きには熱が篭っており、もし若い娘がその場にいたら顔を赤くさせていただろう。表情も声色も全てが愛しいものに向けるものだった。だがそのわずかな懸想の時は庭にやってきた来客によって終わりを告げることになる。
「アッシュ王子殿下!」
彼の名前を呼びかけたのは、赤髪でライムグリーンの瞳を持つ青年だった。彼がまとっていたのは緋色のしっかりとしたマントで、その背中側にはラオール王国の王紋が刻まれていた。これは王立魔素学院の生徒の証でもあるが、それ以上に彼女の直属の弟子であることの証明でもあった。
「ユミリア…見つけるのが早すぎだ。」
アッシュと呼ばれた男、彼こそ、このラオールの第二王子である。そしてユミリアと呼ばれた青年はこの王子の腹心であり、幼い頃から共に育った幼なじみである。そんなユミリアは彼がこのエルラ庭園にいることに頭を抱えていた。なぜならば、
「殿下、今は帝王学のお時間ではございませんか?」
そう、齢18のこの王子は次期王候補として勉学を積み、成果を上げなければならない。そうでなければこのまま王の血を紡いだだけの男になってしまうからだ。しかしこの王子は、よくこの重要な業務をサボる。これには教師たちも頭を抱え、最終的にはこのユミリアが彼を見つけて連れ戻す、悪いサイクルが生まれてしまった。ユミリアとしてもこの悪しき習慣を早めに断ち切りたいが、この王子なかなか足が速い上に、変に頭が回る切れ物だった。
─頼むからその悪知恵を別のことで発揮してくれないだろうか…─
彼が行方不明になるたびに学院の教師から呼び出しを受けてしまい、ユミリア自身も学院の有名人になってしまった。毎回彼を探すときに失せ物の魔術を行使するため、副産物として魔素の探知性能が上がったことだけは彼に感謝してやろう。…いや、感謝するべきか?
「……あれは、つまらぬ。」
そう呟いた王子殿は顔を歪ませる。視線も下の方に向けて項垂れていた。その姿をみたユミリアは若干の同情と呆れを滲ませる。
─王子殿下は、いつも寂しそうだった。思えば第二妃が高みに登られてしまった時からだろう。まさかあんなに早く高みに上られるとはだれも思わなかったからな。─
アッシュ王子はラオール王国の第二王子である。だが父である現国王、テオシェーン王はこの王子にあまり関心を持っていない。それに跡継ぎの彼の異母兄弟、タリス王子は齢も21で、文武両道、民からの信頼も厚いときた。ここまで理想的な王候補がいる中で、アッシュ王子の出番があると信じているものは彼自身含めいないだろう。
─まあ、それは私も言えるが。
ユミリア・ジェイ・ブルーアッド。
私のフルネームだ。
ブルーアッド公爵家は、この国に数々の宰相を送り出した政治一家である。だが私には政の才能はなかった。かわりにあったのは─
不意に周りの土の魔素が振動を始めた。これは魔素の活性化現象と呼び、この状況下では魔術のエネルギー効率が大きく変わる。普段なら倍かかるものが半分の時間で終わる、といえばわかりやすいだろうか。しかしこの微弱な振動を感じるためには何年もの修行が必要だ。それにもかかわらず自分がこれを知覚できるのは、この王子探しと、一家の中でも異能というべき己の力のためだろう。…ああ、彼女がきたのか。
『ユミル』
まるで乾いた岩に水が染み込んでゆくような、どこか救ってくれるような、穏やかで高くない女性の声が響き渡る。花を摘んでいたアッシュ王子は、顔を赤らめながらバッと上げる。その顔は、恋する少女の瞳だった。…その次の瞬間にはには私を睨みつけていたのだが。
─愛称で呼んだからって、この王子は…
若干のあきれと、すこしばかりの青臭さに胃もたれしながら、自分を愛称で呼んでくれた我が師匠に顔を向ける。そこには深い燕尾色、そして生地が厚めのローブを羽織り、体を締め付けないゆったりとしたデザインの礼装を纏ったラオールの魔女、大地の魔女がそこにいた。
「師匠様、お勤め感謝申し上げます。」
ここ最近彼女は眠る暇もないほど忙しいと聞く。見た目こそ人間の姿だがその中身は齢数千年の神のような人物だ。このラオールが戦火の中で生まれた時も今と変わらず美しく、そして聡明だったという。彼女が所属している王立魔素学院の歴代学院長が、それを日記に記していたことを私は確認している。ちらりと己の師匠を見遣る。相変わらずアッシュ王子殿下は熱心に話しかけようと、もじもじしているが、彼女からすれば数十年しか生きられない人間は小さな子供にしか見えないのだろう。その目は母のような微笑ましいものを見る目にしか見えなかった。
「ありがとう、君も王子殿下とお勉強と言ったところかな?」
ちらりと大地の魔女はアッシュ王子の方に視線を移す。もちろん勉強から逃げたとは申し上げにくいアッシュ王子はギクリと体を動かすほかない。本当ならすぐにでも真実を告げたい気持ちがかなりあるのだが、己はこの王子の従者である。言いたい気持ちをグッと抑えてにこりと笑顔を貼り付けて押し黙った。沈黙は時に金なり、とはいいえて妙なのだ。だがこのこじらせ王子はこんなことではへこたれるわけがなかった。
「や、やあ!大地の魔女殿!今日は貴殿に贈り物があるのだ!」
待て。まさか、さっき摘んでいた花を差し上げるつもりなのか?!もはや頭の中はこの王子に対する罵詈雑言が行き交っている。エルラ庭園は先のマイアの血染めでただでさえ厳戒態勢を敷かれている。それを己が持つ特権で当たり前のように侵入したのだろう。この国の人間ならばこの王子を止められるはずがないのだ。呆れるどころか何も感情が動かない。しかも差し出された花は長い時間王子の手に握られていたせいでよれてしまっていた。あれでは贈り物としても最悪な品の部類だろう。
「おや、王子の手自らとは。私も長生きするものですね。でも貴方にはレティシア妃がいらっしゃいます。その贈り物は、私にはもったいないですから、レティシア様にお渡し願えませんか?」
師匠は穏便にその贈り物を断っていた。確かにアッシュ王子は許嫁であるレティシア妃がいる。見た目がまるで折れそうなほど穏やかで可愛らしい令嬢だ。…一つ短所を言うとすれば、ブルーアッド家の永遠のライバルであるブラック家の人間という点だろう。自分はブルーアッドの人間の中では、ほとんど放任されている身であるが、幼い時から受けた教育というものはなかなかこびれついて離れないらしい。思わず苦笑いをしてしまう。
─でもま、普通そうなるよな。妃がいる王子からの贈り物は基本師匠は受け取らない。貴族たちの良いカモにされる。─
当たり前の対応を目の当たりしていた私は、その有様がとても滑稽にしか見えない。この繊細な心の持ち主であるこの王子は、この魔女に対し母のような、姉のような、恋人のような、非常に複雑な感情を持っていることは間違い無い。なにせこの王子が弱っていた時に唯一手を差し伸べてくれたのはこの魔女だけだったから。だが、いつまでもそれを引きずるのはどうにかしてほしいものだ。何よりレティシアが哀れだろう。
見事に玉砕した王子は顔を引きつらせていた。
「レ、レティシアもいつも大地の魔女殿にお礼がしたいと申していた!だから!」
余程力を込めて叫んだからだろう。声が若干裏返っていた。その繊細な顔は真っ赤で、目がぎらついている。その姿を見ていた師匠はふむ、と手を顎の下に当てて考えるそぶりをしていた。
「おお、名案が浮かびましたよ。それならレティシア様とお茶会にいたしましょう。いつも妃様からお誘いを受けていたのですが、こちらの都合が合わなくて毎度次の機会にと、先送りにしていたのです。私は人間ではございませんが、同じ女性として話も弾むやもしれません。いや、楽しみが増えましたよ。」
のらりくらりと誘いは全て交わすその姿は、側から見たらかなり滑稽だった。
だが、彼も必死な姿はほんと少し同情してしまう。
─それほどまでに師匠は美しすぎるのだ。
この人外の魔女に精神的に支えられているのは、この王子だけではない。現国王であるテオシェーン王もそれにあたる。兄弟子のリアンがまた昼に王との会食があって面倒だと嘆いていた姿を目撃している。彼は今この魔女の付き人兼一番弟子だから最もその苦労を感じる立場なのだ。弟弟子として少しでも役に立てれば良いのだが。
「王子殿下、ひとまず師匠様の提案を受けるのはいかがでしょう。私の方からレティシア様の従者に鳩を送りますから。」
とりあえず適当に宥める。
体は幼い時からいたためか、お互い気の置かない仲なのだ。これくらいの面倒ごとには慣れてしまった。
「…また、本気にしてもらえぬか。」
がっくりと肩を落とし、先ほどの激情はなりを潜めてしまった。そして彼のか細い独り言はエルラ庭園に吹き荒ぶ風によってかき消された。
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「ラプティアの当主、アファールが来たと神殿長に伝えよ!」
でっぷりとした腹と手入れされている髭、そして鼻をつんざくほどかけられた香油で髪をきちっと整っている大男が、イシュリア神殿内部を我が物顔で歩いていた。その姿を見た神官や巫女たちは慌てたように頭を垂れる。もしその様子を他国の人間が目撃していたら王か何かと勘違いすることだったろう。
その男の前に神官長であるガリウスが姿を現した。
「何事かあったのか様子を見にくれば、アファール様がいらっしゃっていたのですね。」
じろりとアファールはガリウスを睨みつける。そして貼り付けたような貴族独特の交渉時のような笑みを浮かべ、余裕綽々と威勢の良い声を出し始めた。
「私の美しいイシュリアの神殿に、聖女の魚がいるとなれば向かわないわけにもいかないでしょう?いや、いや!それにしても私は運がいい。この出会い聖女様に感謝せねば!ではガリウス殿、早速ですが魚の元へ導きください。一刻も早く聖女の元へお連れしたいのです。ああ、馬車ならご安心を。こちらで既に用意しておりますからな。」
ガリウスはこの当主が苦手であった。その第一の理由は、一度話し始めると勝手にことを進めてしまう身勝手さがあるからだ。だが今はこの男を少しでもあの部屋に近づかせてはならない。神殿長の身を削った魔術が無駄になってしまう。大きく息を吸う。
─私はもう、迷いたくは無い。
信仰は確かに今まで通り信じることは変わらない。
しかし、
─今まで見てみぬふりをしていたことを反省しなければならない。
疑問がないわけではなかった。しかし藁にもすがる思いで神を信じていた。この神殿の多くの者たちが、今の状態に不安を感じているからここへ安寧を求めるのだ。神に最も近い場所だと信じて。願いが届くと信じて。
─信仰するだけではラオールを救えない。
私は故郷を救いたいのだ。だから今魚を連れて行かれるのは困る。この魚がいなければ、多分、ラオールは滅ぶだろう。私の愛するこの国を守るために。覚悟はできた。あとは少しでも時間稼ぎをすること。これが己の使命なのだ。
「アファール殿。今は魚様は身を清めておられおります。あと半刻ほどお時間いただかなければ面会はできぬとのことです。それに…。聖女様、とおっしゃいましたが、私たちは何も連絡をいただいておりません。理由をお聞かせてくださいませんか?」
努めて冷静に話し合いをすることにする。今このラオールでは魚が50年近く訪れていないことは、この国人間ならばわかるはずなのだ。つまり、その状態で他国に魚を連れて行くということは下手をすれば王家への反逆ともみて取れる。これを理由にする他はない。
「ああ、知っておる。だがな、その魚は本来聖女様がおわすエレグドニアの魚なのだ。先ほど死獣からの天啓の内容が啓示されてな。それのよればこの魚は聖女のものであるということだったのだ。それならば信仰厚い信徒としてお連れするのは当たり前だと思わんかね?」
「ほう、エレグドニアの魚が…。では直球に聞きましょう。それを王家にはお伝えしましたか?返答次第ではまず王家へ通達しなければなりませんから。これはラオールの人間としての責務ですからね。」
痛いところを突かれたのだろう。アファールは喉をぐぅと鳴らし、口惜しげな顔をしていた。今日の出来事を経験していない自分なら疑問に思いながら、この男の言う通りにしていたのかもしれない。
「しかしだな、もう既に聖女様の使いがこの国に入国しておるのだ。国賓としてその要求に応えるのも外交として必要だと思わんかね?」
してやったりのような顔をしているが、自ら穴を空けてくれてありがとうとしか私は思っていない。
「なるほど、使いの方がいらっしゃっていると。なら尚更王家へ連絡しなければなりませんね。我々だけで対応するのは、国の威信にも関係します。しかし今は生誕の湖での連絡を待っている状態なのです。連絡が遅くなる可能性がございますな。…ならばしばらくこの神殿内に逗留していただけないか交渉しましょう。」
この男の勝手に話を進めることを真似てみる。なるほど、相手を圧倒していて、その顔はついていけていないとでも言うような顔だった。すこし胸を巣食っていた焦りや怒りが鎮火していく。でもやはり性に合わないことだけは確かで、もう2度とやりたくないと感じた。
「よろしいですね?」
威圧的に微笑む。
アファールは何も言わず押し黙る。顔は既に真っ赤を通り越して真っ青で唇はとっくに色を失っていた。
「では今から使いの方を案内致しましょう。アファール様もご一緒されますか?」
「…全く貴様では話にならん!一度使いのものたちと話をする!懇談の場を設けなさい!」
まるで手負いの獣のように鼻息を荒げ、太った男はきた道を回れ右をする。周りにいた神官や巫女たちは急な方向転換に対応できず何人かぶつかってしまい、男に八つ当たりで叱られていた。あの姿を見たものは、このイシュリアで善行的な政策をした男だと思うはずがないだろう。
ふぅ。
息をゆっくりと吐き出す。気づかないうちに呼吸が浅くなっていたようだ。とりあえず数分は戻ってこないだろう。
─あの短気な男は正直簡単だろう。あとは、使いのものたち。
『来客でござりまする──!!!お迎えせよ──!!!』
見習い神官の声変わりしたての声が響き渡る。今までのはあくまで体慣らし。本番はこれからだ。
ガリウスの瞳は戦士と変わらぬものだった。
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場所:不明
「さて、もう既に獣が放たれたらしいな。」
暗く、水面が広がる空間に突如空から光が降りてくる。そしてその光は声を発した。
「…どこまで、わかっている」
その光に応えるように、炎が現れまた声を出した。
「さあ、既に迎えを差し向けたが…。素直に応じるとは思えない。多分、連れてはこれまい。」
炎はしばらく黙っていたが、また言葉を紡いだ。その際に炎の強さが強まる。側から見ていればそれは幻想的なものであった。
「…ならば虚人形たちが…動き出すだろうな。すでにラオール王都近辺で例の切り裂きがいることは…確認できた。」
「お前よくそこまでわかったな?俺より早いぜ」
「俺はどこでも…いるからな。それよりも…護衛をどうするかを考えるべきだ。…残念だが俺の国の民は…土との相性が悪い。直接ラオールには…入れないだろう…。」
「ああ、わかってる。…せめて勝利の風が吹いてくれればいいのだがね。あいつからの返事はあるか?」
「…いや、ない。あの人はいつもつかめない…。のらりくらりと交わされてしまう…。」
「そうかい、ならやっぱり俺のところのやつに強引にでも連れてきてもらうしかないな。」
「…ユリアにはなんと言う…?必ず…気付くぞ。」
「…今はまだ感知していない。なら今やってしまうしかない。…完全に事後報告だ。それでやるしかない」
─もう海はとっくに洪水をいつ起こしてもおかしくないんだからな─
光と炎はその言葉を最後に跡形もなく消え去った。
お待たせしました。