14:濁流
「ラプティア家の者が、”ラオールの魚は聖女のものである!”と押しかけております!」
ガリウスが倒れるように部屋になだれ込む。自分たちは話に集中してしまい、周りの音に意識を向けていなかったが、どうも人々の大声や、足音が今更になって耳に入り込んできた。そしてその報告によって、もう猶予がないことにも気付かされたのである。
「…悠長に待ちすぎたね。これは私の失態だ。」
反響の声が硬くなる。老いた自分はまず原因を探ろうとしたが、それは襲撃者の家の名前を聞けば自ずと答えも辿れる。
─エリス。あやつが教えたのだろう。聖女に。
今更ながら、あの男に魚をこの神殿に案内させたことを非常に後悔していた。他にも手が空いていた人間はいたのにも関わらず、なぜよりによって…。ラプティアの人間はこの神殿にとって最優先事項だ。ほとんどの神官や巫女たちは彼らへの協力を惜しまない。とどのつまり、何がなんでもこの魚を奪われてはならぬと言うことだ。
「ああ、聖女。聖女ね。…彼女がリンに興味を持つとは到底思えないんだが…。マイルズ!」
今何ができるか。ラプティアではなく、この国のためにこの魚を逃してくれる、そんな人間はこの部屋にいる老人と、ガリウスこの2人しかいない。だが彼らは肩書上、長がついている。多少の情報拡散や忠実な部下がいることを願うしかない。
「マイルズ、時間稼ぎはできそうかい?」
しばし頭を抱えていた老人は、一度大きなため息をつく。だが次に開かれた瞳は、その年齢にも負けないほどの鋭く、そして屈しないと言う強い意思を感じるものがあった。
「…このイシュリアの神殿ではラプティアの情報網が網目のように貼られている。それを潜るとなると…10分ほどが限度でしょうか。」
「君の力を持ってしてもかい。」
リコは務めて穏やかに老人に話す。衣服の乱れを直し終えたガリウスもその答えに同意するように苦しげな表情を浮かべている。
「ええ、大変お恥ずかしいお話なのですが…。ラプティアは随分とこの神殿に執着しているようでしてね。ここ数年間、奉納金が異常な数字なのです。それに伴い街の環境整備にも力を入れ始めてから、民からの信頼も厚い。そのおかげで神殿内でもラプティアの者が多く所属してあるのです。
ただ、経理の女がラプティアの金は怪しいと感覚で訝しんでいる。勘が理由とは言いにくいですが、この女の慧眼はバカにできぬ者。留意いただけると幸いかと。」
「わかったよ。それじゃ、その10分でどうにかしないといけないね。」
「あの、導く魚の声様。」
突然今まで黙っていたガリウスが会話に入り込む。話に入り込んだ事で彼の顔を少し見たが、幾分か血の気が良くなっていた。その瞳は最初に対面した時のように穏やかで、抜かりないものに戻っていた。
「今は王都に参りたい、そうですね?」
何か確信があるように彼は、会話の途中に執務机の引き出しを開けた。だが時間がないせいで、かなり荒っぽくなっていたがこの状況なら仕方ないだろう。そしてその机から巨大な羊皮紙を取り出した。そこにはこの国の詳細な地図が事細やかに描かれた立派なものだった。
「ああ!王都に行きたいとも!」
「ならば、彼女に協力を求めましょう。…まだ近くにいるはずですから。」
ガリウスはまた机からなにか宝石の様なものを取り出す。そしてその宝石に向かって彼は話しかけた。
「イミティア・エル・ソレム!ルェ・エヴァ!」
突然宝石から眩い光が閃光する。その光は、窓のガラスを通り抜けたと思ったらすぐに快晴の空へ消えてしまった。深層心理から見ていたリンは、しばし心の中で絶句していた。あまりにも突然、美しいものだったから。光はすでに消えた後だったが、あの光景はしばらく目に焼き付いて離れないだろう。
「マイルズ神殿長、あなたは首を突っ込まない方が良いでしょう。」
神官長はその光が空に飛び去ったことを確認し、老人にそう告げた。だが、その言葉に老人は怒りの表情を見せていた。
「何を言っている。私はもう老いぼれだ。いつ死ぬかわからん人間を守るより己のことをどうにかするべきだろう!」
ガリウスは今まで見たことがなかったマイルズの激昂した姿に目を丸くする。いつも偏屈と言われ、神官、巫女たちからその存在が疎まれていた老人。彼の今までの姿はその程度だった。だがそんな彼がそれで止まるはずがなく、唇を湿らせて言葉を続ける。
「私はお前を誤解していた。もう、私の意思を継いでくれるものはいないと。だが、まさか…こんな近くにいたとはな。だがお前の家の名前を知っていればそれも道理だろうな。…まだやるべきことができた。ならば今私がどうにかせねば。」
マイルズは懐から小さな像を取り出した。事情を知らない人間からすれば奇妙な光景だったが、彼はふらふらとガラス戸をあけ、庭のタイルにあるくぼみにその像を納めた。
「イミティア・シェ・ソレム!やぅか・おん・ざしぇ・はは・げるす!」
言葉を紡ぎ終えると、その収めた像ががこん!とう音と共に、ゆっくりとそのくぼみから消えていった。代わりに庭の装飾の一部だと思っていた泉のが重いものを引きずる音とともに、横へずれていった。体感では2分くらい経った後には元あった泉はとうに消え、ぽっかりとした洞穴が出来上がっていた。
「この穴は、神官長がルェ魔術でつなげたもの同志での移動が可能になる。だが一方通行にしかできない。それは気をつけなさい。」
まさか自分の執務室の庭にこんな細工があるなんて思ってもいなかったのだろう。神官長は口を間抜けにもすこち開けて絶句していたのだから。
「神殿長、そんな便利なものなぜ…?…神殿長!」
確かに、こんな便利なものであればさっさとだしてよかっただろう。リンは心でそう思っていた。しかしガリウスの悲鳴のような声で気づいたが、老人の顔色は土の色ほどにくすんでいた。その呼吸音もどこかかすれており、とても苦しそうだった。
「…やはり、老いたな。この程度の圧縮魔術でここまで疲弊するとは…。なに、気にするな。だがこの魔術はお前が試してはならぬぞ。…先ほどのものは、己の生命というべきか、それをエネルギーに使うものでな。魔素を使った魔術とは術が違うのだ。」
ひゅー、ひゅー!と肩を大きく揺らせて、老人はその場に座り込んだ。その瞬間、空から先ほどの光が戻ってきた。神官長は慌ててその光を手で包み込む。光は、1人でに聞き覚えのある女性の声を紡いだ。
『”ウル・エル・ソレム!ルェ・ガリウス!”』
その声を聞いたガリウスはまた言葉を語りかけた。
「”ディデェ・ルェ・エヴァ・オル・マルス”いまからそちらに向かう。魚を連れて王都に向かいたい。可能か?”クゥオ”」
また光は飛び立った。
「先ほど、魚を連れてきた薬草師の女に連絡を取付けました。彼女ならば、王都への道がわかるでしょう。それと、差し出ましいですが、導く魚の声様、王都から王宮への道すじはご存知なのでしょうか。」
彼は倒れ込んだ神殿長をなんとか支え、部屋に戻ってきた。すぐに大きな腰掛に老人をゆっくりと座らせた。やはり弱ってしまったようで先ほどまでの力強さはない。
「ああ、王都に入れば私がこの子を導く。…君たちには王都まで任せるよ。」
─少しはこの世界ができてもよかったのかもしれない。
リコは言葉に出さず、口にしなかった感想を心に留めた。
また光が戻ってきた。案の定、王都への道筋案内を承るという連絡だった。マイルズはルェ魔術であの洞穴と、連絡した薬草師の女の場所まで道を圧縮して、無理やりつなげたのだろう。ただでさえ、古代魔術式は強力だがその力の代償は大きい。あの疲労も老人にしては、軽いほうともいえる。王都にいけさえすれば…。
目に綿密な計画を素早く会議している彼らを、ちらりと目の端に入れる。今彼らに私の言葉は不要だ。…見つけてほしいものも伝えられた。…ああ、まずい。そろそろリンに所有権を返さなければ。一言リンに、返すよという。返ってきた返事はここにきた時よりもだいぶしっかりしたもので、これならばある程度問題ないだろう。
─やっとスタートライン。
リコはリンの体を動かした疲労を休めるべくしばし目を瞑った。
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「ジャック!」
己の名前が呼ばれゆっくりと左目を動かす。そこには大柄な男がのそのそとこちらに向かっていた。毎回みてもその顔は驚くくらい顔色が悪い。本人曰く、もとの肌色らしいが。
「ヴェクター、どうした。何か用か?」
そう、彼は”ヴィクター”。そう呼ばれている。俺は”ジャック”。一族の中で、俺は’切り裂く’を与えられた。ヴィクターは確か…。’繋ぐ’だったか。
「用もなにもない、仕事の時間だ。…私も同行しろと言われたのだ。なにやら北の雷光がこちらのことを感知したようでな。…あの雷光は全てにおいて早い。」
確かに。我々の創造主は彼との相性が悪い。なんせ前の雷光を不意打ちで焼き尽くし殺したくらいだ。ちりも残らず、痕跡も残らず。これは普通の民なら知る由もない大きな出来事だった。確かそのあと、エレグドニアでは雷光が戻るまで快晴が続いたと聞いた。民はずいぶんと混乱したそうだが、雷帝がいたおかげで、それも鎮火したときく。その後2年ほどで雷光は弟であるボルカニアの炎の地で見事再誕したそうだ。…その間創造主はかなり計画を詰めていたが、肝心のものは届かなかったようだ。
「…それがやっときたとなれば…」
それなら創造主の喜びもひとしおだろう。…自分はそれを叶えるためにこの刃物を研ぐしかない。
「俺は娼婦殺しならやったことあるが、魚を捌いた事はないんだがな?」
手に持っていた刃物入れには、刃渡り30センチほどのものが冷たく収納されていた。それを見ていたヴィクターはしばし黙っていたが、小さな声で嘆きのような言葉を漏らした。
「…我々は、死の世界からその概念があるというだけで記憶を埋め込まれた人形だ。これが終わればこの役目を終えて、ふつうの、人間になれるのだろうか。」
ジャックと呼ばれた男はその質問に答えなかった。
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─”いまからそちらに向かう。魚を連れて王都に向かいたい。可能か?”
先ほどまで煎じていた薬たちは煎じ主から放って置かれたせいで、表面が少し乾燥してしまった。だが煎じ主─エヴァからすればそんなことを気にしている場合ではない。彼女はその伝言を聞いてから忙しく荷物をまとめていた。王都に行くためには、大量の薬草を持っていかなければならないからだ。
─何か神殿で起きたんだわ。
それを確信にするように、戻ってきた神殿の方面から罵声やら土埃やらが立ち回っている。一瞬外の窓から、白と青の布がちらりと見えた。あれは─
「ラプティアの人たちね。」
イシュリアを収める貴族たち。他の貴族とは違い、近所の人たち含めてずいぶんと慕われている。彼らの事業は軒並み大当たりすれば、また街に多くの金を落としてゆく。
─でも薬草師の私には関係ないことだわ。だって薬草師は嫌われ者ですもの。
もともと巫女になりたかったわけではなかった。私の家は代々薬草師の家で、多くの薬のレシピを持っていた。だが、なぜか薬草師の仕事はすぐにはできなかった。
『エヴァ、面倒だと思うが一度神殿で15になるまで巫女を務めなさい。』
『父さん、なぜ?』
『それはなこの辺りでは、薬草師は嫌われるんだ。…神殿に在籍していたかどうかは、お前の今度にとってはとても意義があることなんだ。』
─お前も、神殿にいけばわかるよ。
神殿の巫女になって何年か勤めた後、薬草師の道に進んだ。そして父の言葉がようやく理解できたのは王都での薬草市に参加したことが原因だろう。私が巫女ではなくなった次の年に父に連れて行かれ、王都の市場で薬を売る手伝いをしていた時だった。突然反対側の露店から罵声が聞こえてきたのだ。
「お前、ガイワだな!」
ガイワとは、ラオールの言葉で’外れもの’という意味で主にラース教ではないものに対してよく使われる差別用語だ。
なぜそれがわかったというと、ラース教徒の証である神殿紋章をつけていなかったからだ。父も随分と若い時に、神殿で神官だったらしい。父はイシュリア神殿の紋章を、店の商品棚にクロスのように敷いていた。他の店も似たように飾っていた。
「ガイワの薬なんて飲みたくもないわ。さっさと消えろ!」
「またガイワがいるの?衛兵はどうなっているのよ…。」
ざわざわとした声とは裏腹にその露店の前だけがポッカリ人がいなかった。薬草師の男はその現実をみて顔を真っ赤にさせて、店じまいを素早くさせていた。
「…ラース教では差別はないかもしれない。でもそれはラース教を信じている人たちの間の話だ。」
父の悲しげな瞳と、同じくくりでしか人を認められないことに私は違和感を覚えてしまった。でも、それに立ち向かう蛮勇さも、正義感もとっくに消えてしまった。
─家族ができたら、そんな義憤飲み込むしかなかった。
本当はあの魚の黒髪をそこまで忌避感はない。でも、家族を守るには最初から芽を摘んでしまいたかった。
─あの時の彼女は、ただの人間にしか見えなかった。…この子にこの世界を救えることなんでできないくらい、ふつうの、女の子だった。
「ゲイルとカインにも言わないといけないわ。」
もしかしたら、もうこの家には戻れないかもしれない。なにせ、ラプティアに背くことになるかもしれないから。できればまた海沿いの街がいい。ゲイルも慣れない仕事より、慣れやすい仕事の方がいいだろう。カインもまだ神殿に入る前でよかった。神殿入りまでまだ2年くらいある。エヴァは時間が許す限り、荷物整理をしていた。
また連絡を知らせるルェが送られてきた。どうやらそろそろこちらと繋げるらしい。
ふと強い閃光が部屋を包む。事前に窓に布を貼っていたが、まさかここまですごい光量とは思わなかった。
「これからどうなるのかしら。」
エヴァの心の鎖はどこまでも重いものを引きずっていた。
どろどろ