漆 ~ ヨリとお風呂と変態神士 ~
やったぜお風呂回
ふと気づけば、部屋の中には外の光が差し込んでいた。ハッとして横向きのまま縁側を見ると、どういうわけか間仕切りの障子戸が明るくなっている。
跳ね起きて間仕切りを乱暴に開き、擬装窓のような障子を開くと、そこは壁ではなく海の見える丸窓になっていた。一瞬「え?」となったが、毎時毎分イベントが起きるようなこの地では、驚いただけ損をすることが何となく分かってきている。この異変もこういうものだと割り切り、軽くため息をつきながら、トランスフォームした丸窓の障子を閉めた。
しかし、よくは知らないけど、丸窓の障子って内側じゃなくて外側にあるものじゃないの。それに、こんな一メートルくらいの穴が唯一の採光窓っていうのも無理がある。もうちょっとなんとかならんものか。あとどこの海の風景なの……。
広縁との仕切り障子を閉じて布団を見る。ヨリはまだ寝ているようだ。自分も疲れが抜けていないけど、ヨリの方がもっと疲れているはず。自分から起きるまで寝かせてといてあげよう。
ともかく。いちいち悩みは尽きないが、とりあえず伸びをしてバスルームへ行く。仕切り襖を開けると、すぐ足元には新しい新聞が数誌と、ポットや茶櫃といった茶器類が置かれていた。それと、昨日まではなかった大小の雪駄や、館内見取り図も添えられている。
はいはいといった具合で新聞とお茶類を回収し、座卓に置いた。ついでに引き寄せたリモコンでテレビをつける。いつものぶぃんという音がして明るくなった画面では、六時台の朝生番組がやかましく始まっていた。テレビの音で目が覚めたのか、布団の中のヨリがもそもそと這い出して来る。
「おぁようごふぁいもふ」
寝ぼけた顔とボサボサの髪でへなへなの挨拶をしてくる。寝起きのヨリは日本語が怪しいようだ。
「おはようございますヨリちゃん。よく眠れたかな?」
自分も挨拶を返し、どこぞの特務の青二才のような口調とセリフを添える。流行りの服はない。
「ふぁい……」
寝ぼけ眼で返事を返すヨリは、布団の上で女の子座りをし、しばらく頭をゆらゆらさせていた。一方テレビでは、相変わらずL技研で起きた事故のニュースが流れており、行方不明者もいまだ発見には至っていない。
「早く見つかるといいなあ」
全国ニュースで名を告げられている行方不明のおじさんはここにいた。
家族や会社の人も心配してるだろうとは思うのだが、帰る方法が判らないのではどうしようもない。なにせここは、地球とは別の惑星と思しき場所である。
地球ではないのも驚きなのだが、それとは別にして、とても気がかりなことが一つある。その気がかりな部分を、布団の上で寝ぼけ顔をしているヨリに聞いてみよう。
「ねえヨリちゃん。いまの将軍様って誰だかわかる?」
ヨリの言動や行動、または服装などから、何となく昔の人を連想していたため、適当に質問をしてみたけれど。年代の方をたずねるべきだっただろうか。ヨリは髪を手櫛で大雑把に整えている最中で、やっと覚醒してきたといった感じだったが、一瞬考える仕草を見せ、口を開く。
「はい、存じております」
「名前とか分かるかな?」
「はい。お名前は徳川様です。ええとなんていうお名前だったかな……」
きたきた。これでこの場所の時代設定は江戸時代の日本だということが確定した。いや確定したのだろうか。なにゆえ江戸時代。忍者とかいるのかな。とにかくどういうことだってばよ。
【今、宇宙は江戸時代】
疑問がふつふつと沸き上がる一方、脳内では有名コピーライターも噴飯物のキャッチコピーが爆誕していた。おっとどっこい過去。おっとどっこい未来である。それにしたって江戸って。クロヒョウとかいそう。
「確か、徳川家斉様ですね」
「徳川家斉……。記憶が正しければ、確か十一代目の絶倫将軍だったっけ」
個人的には、代を重ねるごとに江戸幕府はグダグダになっていった感がある。それはまあいいとして。家斉公の話が全て事実だとすれば、どんだけ性豪なんだ。そのご尊顔を拝見させてもらいたい所存。
「あの、神様。ぜつりん、とはなんでしょうか?」
あらいやだわ。ヨリお嬢様がお卑猥なおワードに強いご興味を持ってしまわれたわよ。これはまったくよろしくないので、なんにか誤魔化し方を考えねば。でもあまりいい加減なのもよくないので、遠からず適当な答えを返そう。
「お~。お、男の刀で何十人も斬ったてことかな~? 斬っては捨て斬っては捨て~、みたいな~? 多分ね……」
純粋な興味を湛えたヨリの瞳から視線を外し、そっぽを向いたまま適当な言葉でそこそこにいい加減な補足をする。これなら嘘は言っていないし、後ろめたさも感じにくいはず。だといいんだけど。
「刀で何十人もーっ!? そのように恐ろしいお方なのですか!?」
「う、うん。そんな感じらしいよ。俺も面識はないし、聞いた話だから良くはわからないけど……」
「なるほど……。太平の世でありながらも、恐るべき刀法をお持ちなので御座いますね!」
まあ当然誤解されてしまい、また騙したようで胸が痛むが、大体合ってはいるので良しとしよう。良しとしましょうね。
十人以上の妾に種をばら蒔いて、五十人程の子を成したというのだからなあ。そりゃあ間違いなく恐ろしい。こういった歴史上の人物は、面白サイドストーリーも教えた方が覚えやすいはずなのに。教科書はそういうとこにはあまり触れてくれない。徳川・スタローン・家斉ってミドルネームでも付けようものならば、知名度も鰻登りなはずなんだけどね。でも家斉公に関して言えば、十分すぎるほど有名ではあるか。
家斉公が当代ということは、ここの時代設定では西暦千八百年代初頭くらいだろう。うろ覚え過ぎて怪しいもんだが、少なくとも十九世紀なのは間違いないはず。こんなことになるなら日本史もちゃんと勉強しておくべきだった。せめてスマホがあればなどとも思ったが、ここで通信が確立できる保証はないし、あった所でどうにかなるかも分からない。それに、これ以上彼女へなぜなにと質問を投げかけても、自分が望む回答は得られないだろう。この話はこのくらいにしておいた方がよさそうだ。
考えごとをしながらテレビを眺めていると、テレビの横に据えられた固定電話が目に入る。よく観察してみれば、電話台の下の壁面にモジュラージャックへ刺さった配線がある。自分は立ち上がり、電話機に近付く。台の上に据え付けられた電話機の横には、パウチされた利用説明カードが添えられており、料金やルームサービスなどに関する文言が明示されていた。もうため息しか出ない。
“外線は〇〇番を押し、発信音が聞こえてから目的の番号を押してください。また通話などの各サービス料金は別途掛かりますので、チェックアウトの際に宿泊料金と合わせて、ご請求させていただきます”
目に留まった一文は、よく日本の宿で見る文言でしかなく、その無駄にリアルな内容に心がざわつく。
訝しみながらも徐に受話器を取り、耳に当ててはみるが、電話はまだ無音を返していた。説明に従い外線発信番号を押すと、受話器からはDTMF音が聞こえたため、一応通電されていることがわかる。そして間もなく、待機音のツーが聞こえてきた。試しに一一七番を入力すると、聞きなれた時報音のカウントが鳴りはじめたので、回線が使えることもわかった。機能に不備のない電話機に気をよくし、続いて一七七へ掛けてみると、やや間を置いて、天気予報を告げるアナウンスが流れる。
『気象庁予報部発表の、七月二十日、午前六時現在の気象情報を――』
「あれ、気象庁? 東京なのかこの回線……」
いつの間にか隣に来ていたヨリが、電話機を見て不思議そうな顔をしている。
受話器から漏れる天気予報は、気象庁ということで、ここの回線は東京を起点にしているらしい。東京以外なら、地方気象台の情報が流れるはずだ。宇宙でも東京は有名なのだろうか。大阪管区気象台にかけると、新喜劇のBGMが流れてから、アナウンスが始まるとか始まらないとか。まあ嘘だけど。
ならば自宅や会社にかけても通じるはず……なのだが。今のところそれは避けなければならない。いまだ帰れる保証もないのに、生存報告なぞしようものなら、向こうがどれだけ面倒なことになるか。自分には想像もつかない。
確か民法には失踪宣告というものがあって、平時なら七年間行方が分からない場合、戸籍の上では死亡扱いになるはずだ。しかし今回の場合は、事故に巻き込まれて行方不明になっているので、失踪宣告ではなく死亡認定になるのかもしれない。とは言え、自分は法律に詳しいわけではないので、本当のところはどうなのかわからないが。
いずれにせよ、神様の任期が十年だというのなら、日本では確実に死亡扱いになるだろう。まだ確定ではないが、絶対的に十年ここに拘束される可能性があるというならば、そういうことも考えておかないといけない。とにかく分からないことしかないのだから、最悪の可能性は常に考慮しておくべきだろう。
昨夜、夜空を眺めた際に自分なりに立ててみた仮説では、これは神様が~みたいなファンタジックな事態などではない。恐らくは何者かの意思により、何らかのテクノロジーを用いて行われた、“誘拐行為”だと思われる。というか、そう考えるのが妥当だろう。この世には、魔法のような神秘に満ちた都合の良いものは存在しないのだし。
あくまでも仮説ではあるが、物理法則的方向で考察すれば、何らかの未知の技術が関与していると思う方が普通――とは言えないにしても、大分ましなはずだ。とは言え、こんな宇宙人によるアブダクション的考察も十分飛躍しているし、オカルト話の域を出ていない。それでも、現に自分は説明のつかない事態に巻き込まれているわけだし。いやあまいったなあ。
それとも、テレビで見た情報も含めて夢なのだろうか。まさか精神的な病に侵されて、自分にしか見えない世界を生きているとか……。そんな漫画の怖いオチみたいなのは嫌だな。
疑い始めたらきりがないが、いずれにせよ主観的にしか捉えられない状況では、確証もなにもない。やっぱ無駄に考えるのは止めよう。そしたら今できる範囲で動いて、現状を打破する方法をみつけねば。
電話の前の自分はいやに冷静で、達観しているというか、諦念というか。妙に落ち着いていた。そのせいで今後のことなども含めて、色々と考えてしまうのだが、今の自分にはなすすべがない。
実家の老朽化が激しかったため、五年前の建て替えのときに組んだ住宅ローンは、まだ三十年近く残っている。帰還の可能性が絶望的だと考えると、最低でも七年間は家族に返済を肩代わりしてもらうことになるだろう。七年が経過して、自分の死亡が法的に決まりさえすれば、団体信用生命保険でローン残高がチャラになるからな。
そんなことを考えつつ横のメモ帳を寄せ、それ迄の返済額を試算してみようとボールペンを手に取った。だが、ふと思い直して手を止める。それを知った所でどうなるというのか。少なくともここにいる間はどうしようもないことなのだ。
幸いなことに実家には妹も同居しているし、稼ぎも悪くはないので、返済や生活もなんとかなるだろう。母も倹約できる人だし、親父も退職金と企業年金が期待できる。きっと自分がいなくても大丈夫だ。しかし両親も若くはないため、この十年で病などに倒れる可能性も十分有り得る。もしかしたら、それが元で二度と会えなくなるような事態になるかも知れない……。
更に残念なのは、姪っ子の高校生姿を見られないことだろうか。すでに老猫であるコガネザワ君とも会えなくなるだろう。そこまで考えたところで無性に悲しくなり、頬を伝った涙が電話機の上にこぼれ落ちる。もう二度と、愛する家族に会えなくなるかもしれないという酷な現実は、耐えがたいものだ。本当になんでこんなことになったのだろう……。
「あぁ神様! どうなさいましたか!?」
前触れなく涙を流しはじめる自分を見たヨリが、シャツの裾を握っておろおろしている。いかんいかん、いかんですよ。ヨリに泣くなと言っておきながら、自分は一体何をしているんだ。
「いやー、あはは。うん、何でもないよ。ごめんね、またこんな体たらくで」
涙を拭いながら、傍らで心配顔になっているヨリへ、痩せ我慢のような苦笑を向ける。そこで、自分は彼女の丸い頭を撫でて覚悟を決めた。
それから頬を叩いて気合を入れ直し、涙の痕を誤魔化すためバスルームへ向かう。洗面台の棚には、洗濯済みのハンドタオルとバスタオルが二組ずつ置いてあった。使い捨ての毛の密度が荒い歯ブラシで歯を磨いていると、ヨリがやってきてバスルームをそっと覗く。
逃げるようにここへ来ちゃったけど、ヨリにも顔を洗ってもらわねば。常に身なりを整えておかないと、色々勿体ないからな。
ヨリはユニットバスの様子に警戒していて、中に入ろうとはしなかった。自分は口をすすぎ、ハンドタオルで顔をぬぐってから、戸口で恐々覗いているヨリへ声をかける。
「ふふ。別に怖いものとかいないから大丈夫だよ」
笑いかけて言うと、ようやく警戒を解き、困惑した様子で中へ入ってきた。彼女はバスタブをのぞいたり、自動で跳ねあがる洋式便器の蓋にびくびくしている。この便座の無駄機能は、壊れる部分が増えるだけだから、特別な事情がない限りご家庭ではいらない気がする。
「ヨリちゃんも顔洗おうか」
「はい!」
ひげをそりながら言うと、彼女は元気に返事を返し、どうすればいいのかたずねてくる。
洗面台や歯ブラシの使い方を説明して、実演してみせると、彼女は目を輝かせ、言われた通りに顔を洗いはじめた。そんな各設備を扱う彼女の姿は、妙に堂に入ったように見えて、自分はまた小さな違和感を覚えた。
浴槽の方へ視線を向け、軽くシャワーでも浴びようかと思ったとき。雪駄とともに置かれていた見取り図のことがふと過る。旅館であるのなら、ここには大浴場があるのではないか。そう思い、いそいそとバスルームを出て、放置していた見取り図を手に取る。はたして思惑は当たった。社には大浴場が存在し、部屋を出て右へ二回折れれば、その一画へたどり着けることが案内されていた。これは素直に嬉しい。
「よしきた。ヨリちゃん、お風呂に入ろう」
「お風呂ですか!!」
風呂という言葉を聞いた彼女は、顔を拭い終えると自分の元へやってきて、遠慮がちに飛び跳ねる。小さな体からは、おじさんを卒倒させかねないほどの愛らしさが振りまかれているじゃないか。こりゃ堪らねえ……。
ユニットバスも風呂には違いないのだけど、折角だから大きな風呂に入りたい。それに、了承も無しでこんなところへ連れてこられているのだから、最大限に贅沢をしてやるべきだ。これは当然の権利と言える。
部屋の中へ戻り、何か着替えはないものかと室内を見回すと、もう案の定というべきか。積んである座布団の上に、いつの間にか四角い盆が置かれていた。のっているのは浴衣と帯のセットだったが、ご丁寧にサイズと人数分が揃っている。こんなもの先ほどまではなかったはずなのに、一体いつ出現したのだろう。自分たちの行動が逐一先読みされているような気がして、身震いしてしまう。すごく怖い。
そういえば、昨夜寝るときに片づけていなかった座布団も、朝起きたらきれいに片付いていたっけ。ひょっとすると、ここは迷い家か何かなのだろうか。なんとも薄気味悪いことだが、容易には窺い知れない何かがあることは間違いない。そんなちょっとしたサプライズのおかげで、取り留めのない考えがまたぞろ頭の中を駆け巡る。しかし、今は風呂へ入って頭を切り替えるべきときである。考えるのはそのあとでも構わないし、社内の探索に出てもいいだろう。昨夜は時間がなくてできなかったからな。
「じゃあ行こうかヨリちゃん」
「はーい♪」
お風呂から出たら着るようにと、ヨリへ小さい方の浴衣を手渡し、ふたりで大浴場へ向かう。
廊下へ出ると、ヨリが手をつないでくるので、自分もそれにこたえ、小さな手を握り返す。すると彼女は、返礼とでもいいように、嬉しそうな笑みを返してくれた。でゅふ。
こうしてふたりで歩く姿も、傍から見れば親子に見えたりするのだろうか。仮に、こんなにかわいらしくてよくできた子が自分の娘であったなら、相当誇らしいと思う。そんな風に思いながら風呂へ向かう道すがら、にこにこと笑って嬉しそうにしている。この子も風呂に入れるのが嬉しいのだろう。
部屋を出て右へ二回折れ、玄関ロビーと並行に走る長い廊下を歩いて行くと、左右の壁際には交互に立派な盆栽や調度品が飾られていた。薄い茶色の京壁には、等間隔で柱が入り、天井には木目の美しい天板が、廊下と並行に張られている。廊下はかなり長いのだが、天板には継ぎ目がない。玄関の框のように、一枚の板で出来ているようだ。
壁と天井の境には、長押と欄間が設えられていて、ずっと奥まで続いている。廊下全体は、障子張りの欄間から照らされる間接光が照らしており、天井に照明は付いていない。欄間光はさほど眩しくないが、不思議なことに廊下は十分な照度が確保されている。この社では、そういった細かい所で不審感を煽られがちだ。かくいうおじさんも、幼気な美少女の手を引いているから不審者にしか見えない。ヨリに不審がられたら悲しい。
豪華で華やかな畳敷きの廊下を行く途中、自分の左側にいたヨリが、何やら右側へ移動してくる。そのとき、前方の生け花の盆から飛び出した槇か何かの枝が、何かに接触したようにガサッと音を立てて揺れた。まるで、透明な何かとぶつかったような動きだった。すげー怖いんですけど。
(え? 何、怖っ! 絶対になんかいるだろ!)
うっかり声を出しそうなくらい驚いたが、ヨリを驚かせていけないと思い、心の中で叫ぶ。もしかして、幽霊とか座敷童の類でもいるのだろうか。
不可解過ぎる現象に見舞われて平常心を失いかけたが、隣でかわいい座敷童がにこにこしていたため、窮地へ陥った蚤の心臓は直ちに癒された。しかし、ヨリは今の現象に気づいていないようだ。彼女にも見えていたと思うのだけど。やっぱり変だなここ……。
不可解に揺れた生け花から距離を取り、おじさんはみっともなくびくびくしながら横を通り過ぎる。特にその後は何も起こらなかったので、こっそりと胸をなでおろした。そんなこんなで、なんとか浴場の入り口へ到着したけれど。
入口には、大浴場の看板と共に暖簾が掛けられているが、幅の広い入り口が一つしかない。また暖簾には、染め抜きの白文字で“混”と大きく書かれている。ちょっと嫌な予感がするど、恐らく中で男女を分けるタイプなのだろう。
気を取り直して暖簾をくぐると、予想通り通路は左右に分かれていた。いや、間違いなく分かれてはいるのだが、左右の突き当りにある入口にも、同じ染め抜き柄の暖簾が掲げられているではないか。此は如何に。
「これさあ……。ちょいとヨリちゃんは左から入ってみてくれる? 神様は右から入ってみるから」
「はい!」
元気のいい返事を返したヨリに手を振り、ふた手に分かれて同時にふたつの暖簾をくぐる。
「それはつかの間の別れでございました。果たしてふたりは同じ脱衣場へと到り、すぐさま涙の再会と相成ったのであります。どっとはらい」
あれだ、つまりだ。これは否が応でも一緒に入れということだ。多分この社には絶対一緒に寝させるマンとか、絶対混浴させるマンでも居るんだろうさ。まったくもう。ヨリもぽかんとしちゃったじゃん。
「お風呂もご一緒のようで安心しました♪」
いやいや、そこは安心してはいけないと思うんだ。こんな怪しいおっさんと、この世の至宝のような美少女が裸のお付き合いをするなんて。実にけしからんですな。
「あ~そうね。でも大丈夫? 本当にいいの?」
何がどう大丈夫と聞いたのか、自分でもわからない。それでも意思確認くらいはしておかなければ、人として駄目だろうことはわかる。しかし、責任を子供に投げているみたいでやだな……。本来なら、大人の責任できっぱりと対処するべき場面だし。
「はい、大丈夫です! しっかりとお背中をお流しいたしますね!」
そういう大丈夫じゃあないんだけど、ヨリは嬉しそうだし。まあいいか。
「え~……はい。お、お手柔らかにお願いします……」
張り切った様子のヨリを見て、自分は即座に覚悟完了していた。大体風呂へ誘ったのはこちらなのだから、この期に及んでやっぱやめようなんて言えやしない。言えやしないよ。
脱衣場の床には茣蓙のようなものが敷かれ、濡れた足でも滑らないようにという配慮が感じられる。壁や部屋の中央に設えられている棚には、バスタオルが詰まった沢山の脱衣籠が並んでおり、どこを使って構わないようだ。にしてもえらく数が揃っているけど、こんなに人が来ることもあるのかね。
早速適当な場所を選び、服を脱ぎはじめようとしたら、ヨリがぴたりと隣についてくる。試しに横へふたつほどずれてみれば、彼女もふたつ詰めてくる。あるぇ~。
「あのねヨリさん」
「はい、なんで御座いますか?」
「今から裸になるに当たり、一つ問題があると思うのですが」
「問題で御座いますか?」
なかなかに大問題ですよ奥さん。
「うん。恥ずかしいとか、その、そういうのはないですか?」
いい歳をしたおっさんがもじもじと聞いてみるが、その絵面がすでに犯罪的であり、自分でもきもい。
「は、恥ずかしくないわけではないです……。ですが、これも大切なお役目で御座いますので!」
ふぅ。お役目じゃあ仕方ない。慣れてくしかないか。
「そっか。ならこれ広げてるからさ、着物を脱いでかごに入れたら言ってね」
自分からはヨリの裸体が見えないようバスタオルを広げ、体がすっぽり隠れるようにする。備え付けのタオルが大き物で助かった。
「お、恐れ入ります……」
赤面して礼を述べたヨリは、そそくさと着物を脱ぎはじめ、几帳面に畳んで籠の中にしまいこむ。本当にしっかり者だよなあなどと思っている間に、脱ぎ終わったようなので、ヨリをバンザイさせて、腋のラインに合わせてバスタオルを巻き付けた。最後に端の方を左の腋付近で内側へねじり込むと、タオルはしっかり固定される。
「ありがとう御座います」
「いえいえ、どういたしまして」
赤さの残る顔でぺこっと頭を下げるヨリかわいい。
彼女へ先に入っているように促し、自分も服を脱ぎ捨てて、しっかり腰にタオルを巻いてから浴場に入る。用意されているボディタオルは、厚さがあって面積も広いので、頼りない粗品タオルのように、自分の粗品がボロンしてしまうこともなかろう。って誰のナニが粗品やねん。
湯気がもうもうと立ち込めている浴場内には、天然石が敷き詰められ、自然な凹凸を生かした作りの床となっている。浴槽は床に埋め込み式になっている木製の物で、真新しさを感じるヒノキの芳香が、室内を満たしていた。壁際には、公衆浴場で見かける一般的な鏡とプッシュボタン式の蛇口があり、どこかで見たことのあるシャンプーやボディソープも備え付けられている。
蛇口のある壁の反対側は、一面がガラス張りの窓になっていて、オレンジ色の雲海のような景色が広がっていた。その風景だけを見れば、この浴場は数千メートル級の山の上にでもあるのかと思ってしまうが、別段山などは見えない。あれは一体どこの景色なのだろう。
「……とにかく謎しかないな」
あちこちを見て回っては、はしゃぐヨリを横目に、手近な蛇口前へ腰を下ろしてボタンを操作する。蛇口からは少し熱めの湯が出てきたので、一度洗面器にためてから掛け湯をした。熱い湯を浴びると、久しぶりに風呂に入るような気がして、とても気分がいい。続いてボディソープをハンドタオルにとり、軽く泡立ててから胸や腕をゴシゴシやっていると、後ろの方からペタペタと足音を立ててヨリがやってきた。
「お背中お流しいたしますね」
背中に立ったヨリがそう言うので、泡まみれのハンドタオルを手渡す。本当にいいのかな、こんなことして。懲役食らったりしないかな。
「あい。ではよろしくお願いします」
「はい! お任せくださいっ!」
元気よく言うと、彼女は意外に強い力で背中をゴシゴシ擦りだす。誰かに背中を流してもらうのなんていつぶりだろう。
幼いころは、よく父親と風呂に入って背中の流し合いをしたものだったが。ここでもまた懐かしい思い出がよみがえる。おじさんは、しんみりとした気持ちになってしまい、ちょっぴり泣けてきた。
しかし、こんなことではいけないと、それ以上考えるのを止めようと思ったとき。「力加減の方はいかがでしょうか?」と、まるきり三助さんのようなヨリが、気遣いの言葉を掛けてきた。て言っても、三助さんに洗って貰った事なんて一度もないんだけどさ。
「うん、すごく気持ちいいよ~。上手だねヨリちゃん」
お世辞抜きで、程よい力加減のタオル運びは、本当に気持ちが良い。
「えへへ。実はお父様のお背中もよくこうして洗っていたので御座いますよ」
「へぇ~。親孝行な娘さんを持って、ヨリちゃんのお父さんは幸せ者だ~ね~」
そういうと、ヨリは少しだけ黙ってしまった。そこで自分もまた父親のことを思い出してしまうが、切ない気持ちと共に頭の隅へ追いやる。
「神様は……。神様は幸せで御座いますか? 私はきちんとお世話できているのでしょうか……」
自信無さ気なヨリは、抑えたトーンで自分の現状を憂うような言葉を投げかけてくる。思えば、お互い家族と離れ離れになっている状況であることにあらためて気づかされ、ハッとなった。この年で親元を離れるのは相当辛いはずなのに。岩山で出会ったときから、この子はずっと人の心配ばかりをしているのだ。
しかし、彼女も自分の家族構成に興味があるようだし。良い機会だと思うので、少し話をしておくとしよう。可能な限り楽しんでもらう方向でね。
「ヨリちゃん。昨夜さあ、星空の話したときに神様の家族のこと聞いてたよね」
「はい。あ、差し出がましいようで御座いましたら……」
「ううん、全然そんなことないよ」
昨夜は、時間的な事情で適当に流してしまった話だったが。
自分は再び両親と妹のことや、姪や飼い猫の話を、面白エピソードなども交えて話して聞かせた。また同時に、家族との関係を少し振り返ってみる。不仲でこそないが、年齢を重ねるにつれて会話もめっきり減ってしまい、近頃では食事時以外に団欒の機会もなくなっていた。ルーチンワークのように、ただ出勤しては帰宅して、飯を食べて寝るの繰り返しだった日常に、今更ながら後悔する。家族との触れ合いは、もっと大事にするべきだったのだ。
「神様も人も家族は大切で……。掛け替えのないものなのですね」
離れ離れになってから、ようやく大事な存在だと気づき、情けない気持ちでいっぱいになる。こんなことになるならば、もっとたくさん話をしておけばよかった。実に馬鹿げた話だ。
「ときに神様。奥方様はいらっしゃらないのですか?」
「プギッ」
とんでもないとこから飛んできたパンチに不意打ちを食らい、鼻水が噴出する。なんて恐ろしい子なのヨリサン。
「えあ~……。まあ、ね。お嫁さんはいないんだけど。昔お付き合いしてた人はいたよ……。うん」
「そうなのですか!? どのようなお方だったのでしょう? さぞや素敵なお方だったのでしょうね~」
横合いから目をキラキラさせて、さらに強烈な二発目を容赦なくぶっ放すヨリ。この話止めませんか……。
「……うん。そうだね。素敵な人だったのは間違いないね……。それよりも、ヨリちゃんこそ村に好きな子とかいなかったの?」
いい歳したおっさんがむきになったように、子供相手に全力でカウンターを放って距離をとる。これで仕切り直しだぜ。ふふふ。
「私にはおりませんでした」
なんてこったい掠りもしないじゃない。
「ああ、そうなんだ……。ま、まあそんなことよりも、ヨリちゃんの背中も流してあげるから。ちょいとお座りなさいな」
恋バナカウンターを躱された腹いせに、とうとう変態おじさんは実力行使へ出る。幼女の背後に回り込み、巻かれたバスタオルを毟り取って丸裸にする凶悪犯がいますよお巡りさん。こいつです自分がやりました。
奪い取ったボディタオルで背中を洗いはじめると、彼女はけたけた笑いだして身をよじってしまう。ヨリはくすぐったがりらしく、さらに追い打ちをかけるように腋とお腹もゴシゴシすると、前屈みになって一層激しい抵抗をはじめた。
やっていること自体は、小さかった時分の姪っ子を洗っていたのと変わらないのだけれど、他所様の女の子を洗うとなると、えもいわれぬ背徳を感じてしまう。真面目な話、大人が子供の面倒を見るのなんて、普通のことだと思うのだが。そういう時代のせいかなやっぱ。悲しいね。
「もひぃぃひひやめてえひひひゃぁぁああい」
笑い過ぎて、まともに言葉を発することもかなわず、彼女は身を捩りながらじたばたと暴れまわる。あまりくすぐったがりを弄り倒すのも良くないので、頃合いを見て洗面器にためておいたお湯を頭からザバっと浴びせて泡を流す。これにておじさんの雑な三助サービスは終了となった。晴れて自分も前科者だぜ、へっへっへ。
「ひゃーっ」
突如頭上からに湯が降ってきたため、ヨリはかわいい悲鳴を上げる。こうしてできた隙を見計らい、おじさんは浴槽へ逃げるように飛び込んだ。
濡れて張り付いた髪をまとめて、ボディタオルで鉢巻き状に固定し、バスタオルを体に巻きなおしたヨリが、遠慮がちな抗議の言葉とともに、湯へ浸かりにやって来る。頭に巻いたタオルのおかげで、彼女はすっかり粋で鯔背な感じになった。
本当は、タオルを湯につけるのは良くないのだけれど、どうせふたりしか使わないから構わない。特に注意書きなんかもないし、気にしない方向でゆく。さらわれた腹いせのひとつと思えば、心も痛まないでしょ。
浴槽のふちに両肘をかけて寄りかかっていると、そろりと寄ってきたヨリが背中を向けて胡坐の上に座り、体を預けてきた。悪いことではないのだが、時々この子の行動にはちぐはぐな部分があるように思う。
「神様……。私はこれからもきちんとお役目を全ういたしますので。……たまにこうして甘えさせていただいてもよろしいでしょうか……?」
意外な言葉を口にしたヨリ。横顔がやけに紅潮して見えるのは、熱めな湯のせいだろうか。特に耳などは、よく熟れたリンゴのように真っ赤になっている。なにかと礼節を重んじるヨリが、こんな直接的な感情を自分へ向けるなんて。やはり童心と仕来りとがせめぎ合うような、難しい感情があるのだろうか。そんな心の負担があるのなら、この程度の要望に応えることなどお安い御用だ。
「うん、いいよ。たまにじゃなくて毎日でも。ヨリちゃんが甘えたいときはいつだってかまわないよ。素直にそうしてもらえたほうが神様も嬉しいからね」
「あ……。ありがとう御座います。神様……」
その後はゆっくりと湯に浸かり、満足のゆくまで風呂を堪能した。
だがしかし、許容量の小さいヨリが、自分に合わせたことで茹で上がってしまったため、彼女を抱えて慌ただしく浴場を出る羽目になった。今後は気を付けないと。