陸拾陸 ~ カレーの日 ~
翌朝。今日からまた通常業務に入るべく、直通車両プラットホームにやってきた。中央に位置する車両の上部には、情報区画と表示されたパネルが発光していて、該当車両がいつでも運行できることを告げている。
「ちゃんとアクティブになったようね」
情報収集解析区画への車両を眺めて、ユカリが意味深なことを言う。
「なにが?」
「なにがって、兵站区画の復旧が完了したから、この車両も使えるようになったっていう意味よ? その前はあのパネルも消灯してたでしょう?」
「いや、全然知らなかった。つか、気づかなかった」
へー。そういう仕組みだったのか。
「ああ、そうね。説明してなかったものね。悪かったわ。記憶共有が普通だと思っていると、言葉足らずになりがちでだめね……。それで、情報収集解析区画へ向かうためには、兵站区画の復旧が必要なのは言ったと思うけど、これもその仕様のせいなのよ。先に兵站区画を復旧させないことには、まず車両が動かないのよね~」
この表示パネルは、車両運行にかかわるステータス表示も兼ねているらしく、昨日の兵站区画復旧に伴って、路線が使用可能となったことを示しているとのことだ。
言われてみれば、各車両上のパネルも全て緑色の枠で囲われていて、稼動状態表示となっていた。
「確かに。言われてみればだけど、気にしてないと分からないもんだな」
と言っても、HUDの方には注釈が付いてそんな説明も入っているので、よく読んでおけば分かったことだ。自分はなるほどと思い、周囲を見回して細かい部分を観察していたが、ユカリから早く行こうとお呼びがかかったので、乗降口へ急ぐ。
今朝も朝食前に部屋を出たためか、車両に乗り込むと、何やらいい匂いが漂っている。匂いの元はダイニングで間違いない。気になるソレを早く確認したいがために、いそいそと足を進め、車両の奥へと進んで行く。すると背後で、乗降口のハッチが閉じる音がして、壁面モニタの工程表示で、車両ステータスが運航中に切り替わる。
ダイニングに入るとヨチム組の三人と、なぜかアイが作業をしており、意外な組み合わせに驚く。彼女らは、それぞれ作業に没頭しているようなので、声を掛けずにディスペンサーまで行き、コーヒーカップを手に取る。ディスペンサーの提供内容に、新しい紅茶のラインナップが増えていたため、今日は気分を変えてカップへ紅茶を注いだ。すると、昨日アイに出されたときと同じ香りが漂い、この設定はアイによるものだということを理解する。これは本当にいい香りだ。
カップから立ち上る湯気をひと嗅ぎして、ダイニングテーブルに着くと、やって来たアイに声を掛けられる。彼女は、軽めの茶請けにと、クラッカーをふた切ればかり持って来てくれた。ありがてえ。
「おはやうございます晴一さん。早速飲んで頂けてますねぇ? お気に召されたようでうれしいです~」
今朝のアイは、仲居ヨリと同じ小袖に前掛けをした仲居姿で、なかなか様になっている。また、長い髪を邪魔にならないようローポニーでまとめることで、大人の雰囲気も醸し出していた。凄くできそうな仲居の雰囲気があって驚く。
「おお、おはよう。茶請けまですまないね。やっぱりこの紅茶はアイの趣味だったか。昨日飲んだのと同じ香りがするし、これ好きだな」
「それは何よりです~♪」
アイによれば、これは世界的にも有名な某ブランドの紅茶を再現しているとか。
なんでもそれは、フランスの老舗紅茶店らしく、おフランスな流れをくむ伝統のあるフレーバーなどのブレンドがどうとか言っている。
一般的に紅茶というと、イギリスを思い浮かべてしまいがちだが、コーヒーのイメージが強いフランスでも紅茶は飲まれている。むしろ、紅茶が伝来したのはフランスの方が早く、イギリスほど文化的な定着はしなかったものの、浅からぬ歴史を持っているのだとか。まあ、自分は紅茶マニアではないからよく知らんけど。
お茶の歴史自体は、中国や日本の方が、西欧などよりもはるかに古いことも留意しておきたい。流石だなオリエンタルマインド。
まあなにはともあれ、美味いものなら大歓迎なので、アイには感謝しなければ。
「それと、その仲居スタイルも。よく似合ってるよ」
「へ? あ……えへへぇ、ありがとうございます。でもちょっと照れますね」
ふにゃっと照れ笑いしてその場で回転し、アイは全身を見せてくれた。とどのつまりこの子もかわいい。
「そんで。なんでアイはそんな恰好でキッチンにいるのかね」
「あ~、それはですねぇ。お社の方へお迎えして頂いてから、わたしも皆さんと共に食卓を囲むということがとても好きになりまして。それならお料理を提供する側になれれば、わたしも含めて皆さんにも一層喜んで貰えるのではないかと思った次第なのです。……といったわけなのですが、いかがでしょうか?」
「いかがも何も俺は大いに結構だと思うよ。アイ自身が嬉しいとか楽しいと思うなら、それでいいんじゃない?」
「ほんとですか! わ~いやった~! 晴一さんが許可するならいいって、ユカリさんも言ってましたし~、これでわたしも晴一さんの胃袋を握ることができますよ~♪」
特に許可制でもないし、皆好きなようにしてもらって全然かまわないんだけどね。
「なんだかな。それにそう簡単に胃袋を握れるかは分からんよ? 何せウチの台所には、とんでもないライバルが三人もいるわけだし」
そこでキッチンへ目を向ければ、それぞれが調理器具を手にして、こちらへ向けて怪しい眼光を放っている。あれは間違いなくプロフェッショナルの眼。
「ぐぅ、たしかに。あのお三方には勝てる気がしませんねぇ……。しかぁし! 志は高く持った方がよいと申します! わたしは頑張りますよぅ!」
予想外にも、あのポンコツなイメージしかなかったアイが、強い向上心を露わにし、自分のやりたいことを見つけて努力をはじめていた。しかも、相当レベルの高いヨチム組と張り合おうというのだから驚きだ。
なぜ彼女が、そこまでひたむききになろうとしているのか疑問に思い、その理由を聞いてみれば、それは実に単純な話だった。彼女は、とにかく暇で寂しかったのだそうな。
アイは覚醒してから、ずっとひとりであの前室にいた。日課と言えば、機能復旧を果たした各区画担当AIとの定時データの交換のみで、それが終われば後は何もすることがない。一度各AI達との会話を試みたこともあったが、自分が権限を固定してしまっているので、定時連絡と同じ単純なステータス情報程度のやりとりしか許可されず、人格とのコミュニケーションまでは不可能だったという。
たまに人恋しくなってSMSを自分宛に送るも、毎度のような一方通行。なしのつぶてと言った具合で、全く相手にもされない。結局、地球の動画サイトを見たり、テレビを見たりと無為に時間を消費し、代り映えのしない毎日を、何もない部屋の中でただ漫然と過ごすしかなかったのだ。
前掛けの裾を胸のあたりで握りながら、アイはそれはそれは暇で暇で寂しい日々を送ってきたと、ここぞとばかりにこぼす。そんな一方的にまくし立てている彼女の話を、自分は紅茶を飲みながら黙って聞いていた。
「ところで、ちゃんと聞いてますか晴一さん?」
あまりに無反応な自分の様子を見て、アイは更に不満そうに言う。
「ん? ああ。大丈夫だよ、ちゃんと聞いてるから。アイは不憫な子だってことがよーくわかった。かわいそうだなあアイは。俺っち涙が出そうだよ」
汚いウソ泣き顔で涙を拭う振りをする、毎度の嘘つきおじさん。
「もーまたそうやってぇ! 酷いじゃないですか~! 馬鹿にしてるんですかぁ!?」
「いやしてないって。同情してるんだぞ」
「むー! いいですよ~もう。朝ご飯のカレーは、晴一さんだけ激辛ですからね!」
「えーまじか」
いやしかし、朝からカレーというのも珍しい。カレーは大好きだし、ある程度辛いものも平気ではあるけれど、度が過ぎた激辛は勘弁してほしい。
激辛でも食べる時は別にいい。口の中や周りはまだ我慢が利くし、偶の刺激は嫌いではない。だが、辛いものほど出て行く時が問題で。ブツが通過する際に、デリケートなお菊さんが悲鳴を上げるのが非常に困る。洗浄機能付き便座があればまだ救いはあるが、そういった環境がない場合、熱い刺激に耐えかねて、しばらく個室の中で悶絶する羽目になるだろう。
しかも朝から危険な食事を口にして、一日を不安に過ごすような状況は避けたい。ここはきちんとアイに謝っておこうと思う。
「相すまんかった。本当は少しだけ馬鹿にしてた。勘弁してはくれまいか」
踵を返してキッチンへ戻ろうとするアイを引き留めて、素直に頭を下げる。ちょっと駄洒落含みだけど。
「ふふふ。いやだな~冗談ですよぅ。食べ物で遊んではいけませんし~、ちゃんと普通のカレーをお出ししますから。何より今日の朝ご飯は、私が初めて調理した記念すべき第一号ですからね~」
引き留められたアイは、その場で半回転してにこやかな笑顔で言った。
危機に瀕していた尻が救われた安堵感と、彼女の楽しそうな様子を見て、自分もつい口元が緩んでしまう。お尻も緩みそう。
やがてリビングにいた面々も次々と集結し、わいわいとテーブルを囲むと、四人に増えたシェフの手によって朝食が運ばれて来た。人も料理も揃ったところで、皆で“いただきます”をして、この朝も楽しい朝食がはじまる。
ぼっちの頃から、入念に情報収集をしてきた結果の賜物らしいこのカレーは、アイが企画した自信作だということだ。スパイスの選択から調合までを完璧にシミュレートして、本格的に仕上げられた特製カレーの味は、見事に調和がとれており、何かとうるさいユカリでさえも唸らせる逸品に仕上がっている。
ネットワーク回線の掌握だけでなく、地球上には、かつてユカリが送り込んだ自律型探査機が今現在も多数潜伏している。それらを用いれば、リアルな情報の入手も可能だ。暇しかなかった彼女は、日本国内の有名外食店や専門料理店などから、大量のサンプルを入手し、様々な情報を蓄積し続けたのだと言う。凄い努力だ。
「え、じゃあ無人機にただ食いでもさせてたとか?」
「も~、人聞きが悪いですよぅ。小型の探査子をちょっとだけ厨房にお邪魔させてもらって、空気中の香り成分や、鍋の縁に付いたルーとかスパイスなんかを、分子レベルで拝借しただけですぅ。それから、調理のノウハウもずっと観察し続けて、全て盗みましたので~」
「何その超々ハイテクスパイ行為。怖っ」
「あ、スパイスだけに?」
「いや、別に上手くないからな。カレーは美味いけど」
「これは晴一さんに一本取られましたねぇ」
大喜利か。
時間ばかりは無駄に沢山あったので、無人機を使ってあちこち飛び回らせては、興味を引かれる物の情報を集めまくっていたのだとアイは言う。
そこまで研究熱心なら、何で服装がコスプレ大会になるのだと聞けば、サブカルチャーは奥が深すぎて難しいのだとか、およそファッションセンスとは全く関係のない話をする。
「大体あの時は晴一さんが萌を学べとかおっしゃったんですよぅ?」
「確かにそりゃそうなんだけど。それも正直すまなかった」
あまり適当な事は言うものではない。面倒でもぞんざいに扱わず、それなりの誠意をもって対応するべきだった。
「それについては私にも責任があるわ。あなたの解析結果から人格を判断して、勝手に危険分子とみなして、復旧計画から外そうとしたのは私だもの。これは昨日のお風呂でも話した通りだけれど」
あの時は色々とあり得ない事が起こって、猜疑心が高まりまくっていたから仕方がない。当時のアイの挙動も、自ら行っていたわけではないようだし、被害者の一人と言える。問題は、なぜアイに自我が芽生え、感情までも獲得できたかなのだ。
「ま、いいだろう。今はアイのカレーが美味いのは間違いないし、レパートリーも確実に増えただろうから。四人の作る食事が一層楽しみなったのはとてもいいことだ」
やけに大盛りだったカレー皿を空にして、コップの水を一気に流し込み、シンク下の生成器へ食器を持って行く。
いつもは、自分と同じくらいに食べ終えているはずのチカとムツミが、今回はじっくりと味わうように時間をかけて食べていたので、今日くらいは自分で片づけようと席を立った。
ついでにディスペンサーに立ち寄り、食後のコーヒーを持って一足先にリビングへ戻る。途中、食事中のヨリが口元に手を当てて、すみませんと言っていたため、気にしないよう促す。何かと忙しい彼女にも、ご飯はゆっくり食べてもらいたい。それに、汚れた食器は生成機に入れれば、分解されて新たな食器に生まれ変わるし。日ごろ何かと世話を焼いてくれる皆の手間を考えれば、この程度のことは何でもない。むしろこちらが頭を下げる立場だ。
◆ ◆ ◆ ◆
食後のコーヒーを楽しんだ後は、リビングの壁際にあるソファへ寝ころんでヘルメットを展開し、この間やったサクラとの手合わせをリプレイしてみる。データで見ても、サクラの動きはとても素早い。
参考までに、彼女の視線座標の検証を行うと、自分が動きだすのとほぼ同時に、攻撃予測範囲を全て視界へ納められる位置に視線を向けていた。こうすることで、相手の動きを見落とすことが無くなるため、一挙手一投足を確実にフォローすることができるのだ。これではフェイントも何もなく、仮に三本目の手足があったとしても、間違いなく全部読まれて受け流されてしまう。事実、彼女との組手では、こちらは掠らせることさえできていなかったし。これが脅威度次第では、視覚以外にも電磁波領域などの監視も加えるはずだから、猶更手も足も出なくなるだろう。
そしてやはり、サクラは手加減していた。けれど手加減をされること自体は問題ない。明らかに実力差があるのだから、そこは簡単に埋められるものではないし。彼女に容赦なく攻められようものなら、ひとたまりもないのだ。問題は、彼女がしないと言った手加減をしているという事実の方で、このままでは嘘をついていることになってしまう。しかし、彼女が嘘をつくとは考えにくい。
これは一体どういうことなのだろうか。考えたところで全く分からないので、直接聞くためにサクラへ通信を入れる。
『はいよ~? 何晴兄』
「今暇? もし暇だったらこっちの仮想共有空間まで来ておくれ。忙しかったら後でいいよ」
そう言って、自分はとりあえずサクラに招待を送っておく。すると、すぐにサクラは自分のホストする空間へやって来た。
「ほいほい? ここで組手? それともデート?」
「うん、デート」
「え? まじで? ウケる~」
「嘘だけどな。本当はちと話があるんだよ」
「なんだ~嘘か~。あはは~」
サクラはちょっと残念そうだけど、さほど気には留めていない様子で笑う。
先ほどまで見ていたリプレイデータをサクラにも見せて、反応速度や挙動に突っ込みを入れ、加減をしてるだろうと意思確認をした。
「だよね~。やっぱ気づくよね~。あたしも言おうと思ってたんだ、うん。で、実を言うとね。晴兄に対して本気って出せないんだよね。あーこれは意図的に手を抜いているとか、そーゆー意味じゃなくて。あたしらのシステム制限て意味でさ。仕様って言うの? 晴兄に危害が加わるような行動はできなくなってるんだ~」
「マジか」
「マジで」
マジらしい。
「そっか」
疑ってはいなかったけど、サクラが嘘をついていないとわかって安心した。それにしても仕様か。直接的な攻撃でなければ回避できそうではあるな。
「ならここではどうだい。仮想現実なら全力を出しても大丈夫じゃないの?」
「あーうん。そりゃ別にいいけど、多分面白いことになっちゃうと思うよ?」
というわけで自分たちは向き合い、例のごとく組手をはじめる。だが、自分が出した打撃にカウンターを合わせられ、一瞬で吹っ飛ばされてしまった。
なるほどと思った自分は、比例制御をやめて主観時間伸長スケールを大幅に上げ、身体強化パラメータの上限も外してみる。それでもう一度サクラに挑むと、今回は一瞬とまでは言わないものの、多少は対応ができるようになり、十回に一回程度はサクラに触れることができるようになった。そうして数分間、超超高速な立ち回りをしていると、強烈なめまいに襲われて意識が飛びそうになり、仮想現実モードが強制的にシャットダウンされる。
突如現実へと引き戻され、頭がぼーっとしたまましばらく目を閉じてると、サクラがやってきて、自分の様子がおかしかったことを心配しはじめた。彼女に大事無いことを伝えて目を開けた時、HUDの中央には大きな赤い文字が点滅していて、“脳機能に重大な障害を与える可能性があるため、仮想現実モードを終了しました”などと表示されていた。
エラー内容の詳細を確認する項目には、脳神経網に対する膨大な情報の割り込みは、神経細胞の破壊につながる可能性があると説明されており、その前段階として眩暈や酩酊感のようなものが症状として現れる、となっている。
あれだけの膨大なシミュレート情報を、生身の脳神経に対して流すのは、やはり無理があるらしい。また、このまま続けると意識障害なども起こりうるため、診断を受けた方がいいとも勧告がなされていた。なにこれ怖い。
「ファーッ!」
「え!? なにどしたの晴兄?」
「うん、なんかね。脳が壊れるからあまり無茶はするなって。ヘルメットのAIに怒られた」
「まじでー!? だいじょぶなん? 生きてる!?」
「うん、生きてはいるけど。でも、どうなんだろう。とりあえずユカリ先生呼んで来てもらえるかな」
「わかった!」
脱兎のごとく飛び出して行くサクラの背中を見送っているうちに、激しい睡魔に襲われる。それはひどく酔いが回ったように周囲が回転しているような感覚で、なんとも心地いい浮遊感に包まれていた。