陸 ~ 宇宙の海は星の海 ~
「部長。昨日来てた修正作業依頼の件、どうなりました?」
「あっ! 忘れてた。つつみんに言うの」
「ちょ……。酷くないですか?」
二日前に仕上げて出荷した製品に不備があり、返送するので直してほしいとの依頼が、発注元からメールで届いたのが昨日。自分が直接担当していたこともあって、やらかしたーと凹んでいたのだが。今日届く予定のソレが午後になってもまったく届かないため、部長のとこに確認に来てみれば、こんな感じだった。もう。
「つつみんのじゃなかったってよ、あれ」
「ええ~。じゃあ他所で受けたやつですか」
「そう。ロット確認したら違ったって。さっき担当さんからごめんなさいメール来てたよ」
「じゃ今日はもう?」
「うん、増えないね」
「あ~よかった。今組んでるやつもカツカツだから正直どうしようかと思ってたんですよねぇ」
「あ、ほんと? そりゃよかったねぇ」
いや、決して良くはないのだけど。
どうやら、別の外注さんが受けたロットの方で見つかった不具合らしく、担当さんもあわてて運送屋さんを呼び戻したりと、バタバタしていて連絡が遅れたらしい。とはいえ、自分はただ荷物を待ちながら仕事をしていただけなので、何も問題なかった。
それからしばらくすると、定時頃にメールの担当さんがやって来て、お詫びと言いつつ干芋を箱で置いて行った。干芋は自分も結構好きだが、事務の女子社員にはもっと評判が良かった。それはそれはとても幅広い年齢層で。
「つつみんさあ、今の仕事が終わったら少し俺の方手伝ってくれないかな?」
「いいですけど。いまどこやってるんですか?」
「L技研」
「ああ。はいわかりました」
◆ ◆ ◆ ◆
翌日。
過酷な環境下では、高耐久な業務用機材であっても、せいぜい五年程度で寿命を迎える。そのためここL技研では、大体そのくらいのスパンで、設備改修が入る。
午前中の作業もひと段落ついて少し片づけをしていると、部下の一人が、自分の担当しているブースに入ってきた。
「課長~。お昼どうします?」
「あれ? ぶっちょさんは?」
「なんか技研の人と行くらしいですよ」
「なんだ~。誘ってくれりゃいいのに」
どうせ行くなら一緒に行けばいいのにと、非難の言葉が自然と漏れる。いつもは言ってくれるんだけどなあ。
「いや~行かなくて正解だと思いますよ? 一緒に行くの深谷さんとですもん」
「あ~。そうなんだ。まあ、言ったら俺もあの人苦手だからなあ。悪い人じゃないんだけど」
「そうそう圧がすごいですよね、圧が。あとなんか偉そうだし」
「お前はちょっと言い過ぎ。そゆこと他で言うんじゃないよ?」
「そりゃ他所じゃ言いませんて~」
怪しいもんだぞ。
「あ~、じゃあ部長も気を使ってくれたのか。後でお礼言っとかなきゃな」
「え? ああ、なるほど。んじゃ、昼は寿司でいいですか?」
「ほんといっつも軽いよねぇお前。いいよ、お前の奢りなら」
「えーっ? じゃあうどんで……」
「はは。冗談だよ。いや本当何でもいいよ。今回は領収書切れるし」
「まじですか? やったぜ!」
間違いなくタダ飯タダ酒は誰でも嬉しい。
出張初日の昼食は、現場からほど近い定食屋に決まる。自分はカキフライ定食を頼み、部下はミックスフライでいろいろ試していた。昼食を終えて店を出ると、「揚げ物なら大体何でも外れはない」と結論付けてご満悦の様子だったが、何よりもタダというのが最高のスパイスだと思う。
帰り掛けにコンビニへ寄って、五百ミリペットのお茶を買い、近くにある緑地公園の駐車場に車を止めて昼寝をする。こういうとき、社用車での出張は気楽でいい。日中の直射日光を避けるため、できるだけすみっこの木陰に車を寄せ、シートを倒して横になると、隣でも部下が同じような恰好で窓から足を突き出し、帽子を顔に載せて横になった。
(定年までこんな感じでもいいのかもしれないな……。少なくともローンは返せるし)
ぼんやりとそんなことを考えつつ、自分も帽子を顔にかけ眠りにつこうとする。しかししばらくすると、横にいた部下が何やらもぞもぞと音を立てはじめ、いきなり自分の腕を掴んだかと思うと身を寄せてくるではないか。
「なんだよ? え? ちょ冗談だろお前? おいやめろ! どこさわ!」
部下は股間に自分の腕を挟み込み、荒い息遣いで腰をもぞもぞと動かす。ここは背徳の町ソドムだろうか。こちらは男の体になど興味はないというのに。
「まじでやめて! 僕は女の子がいいの! ああ汚れちゃう僕のピュアマインドが! 汚されちゃうー!」
なぜこんなことを言ったのかは分からないが、振り絞るようにして、盛りのついた犬のように腰を動かしている部下へ声をかける。だが、部下は行為を止めることはなく、やつの腰はますます勢いを増してゆく。なにこれ怖い……。
「おい、ほんとにやめろつってんだろ! やめろおるあぁぁっ!!」
◆ ◆ ◆ ◆
何かを叫んだ自分の声で目が覚めた。なんだか物凄く嫌な夢を見たような気がして首を浮かせると、首周りはじっとりと嫌な汗で濡れている。なんかすごくしんどい。
すでに夢の内容は思い出せないが、思い出さない方がいいと本能が警鐘を鳴らしているような気がした。気が付けば、どこかで見たことのある木目の天井が目に入り、和風な感じのシーリングライトが煌々と灯っている。なんだいこりゃあ、まぶしいなあもう。
「ふぁ……。なんだっけ? ここどこだっけ?」
あちこちごわつくと思ったら、作業着のまま畳の上で寝ていたらしい。布団はきちんと被っているけれど、なぜか寝る前のことが思い出せない。
硬い畳のせいで背中が痛いと思っていると、岩場で寝ていたときの記憶が不意によみがえってきた。嫌なことを全て思い出した自分は、浮かせていた頭をふたたび枕に落とし、ぼーっと天井を眺めた。夢ではなく、明晰夢でもなく。まぎれもない現実。にわかには受け入れがたいその事実に、陰鬱な気持ちになる。
そういえば、あのニュースを見てからどのくらい時間が経ったのだろう。今は手持ちの時計がないから、ぜんぜん時間が分からない。思い起こせばスマホもセキュリティへ預けたままだった。
「どっきりか何かなのかな。素人相手に? まずないよなあ」
日本のテレビ番組が見られて、周囲の文化形態を見る限り、高い確率でここが国内であるということは想像に難くない。むしろ、それ以外の可能性などありはしないと思う。だがそれだけしかわからない。
仮に、何者かが自分に対してこんな状況を作り出していたとして、何が目的でこんなことをするのか。それでどんな利益を得るというのか。考えてはみるが、なにもわからない。わかるわけがない。
「親切な誰かがヒントをくれるわけでもないし。こんな状態で考え込んでもエネルギーと時間の無駄でしかないか。まあいいや。バカバカしいことはやめてふて寝しよ……」
とりあえず今はできることもないし、人間あきらめが肝心である。
畳の上に直に寝ているため腰や背中が辛く、ゆっくり右へ寝返ろうとする。そのとき布団の中の異変に気付いた。右手の甲側に、何やら暖かで柔らかいものが密着していて、自由が利かないのだ。はっとなり目を向けると、布団の隙間からは艶やかな黒髪の束が生え、枕の上で広がっている。それにより状態は判明した。だが状況は理解できず、この子はなぜ一緒の布団で寝ているのかと疑問に思うばかりだ。
黒髪の広がった枕元に目をやると、上品な茶染めの着物が奇麗に畳んで置いてある。そこで自分は、高台の上でヨリを初めて目撃した時のことを思い出し、頭を整理する。岩陰からこちらの様子を窺っていたときや、立て看板の所であほな冗談を言ったおかげで、この子が着物を脱ごうとしていたとき、着衣が一重の物であることは確認していた。それに、襦袢らしきものも着けてはいなかった。
相変わらず布団の中では手の甲がふにふにと温かく、肘あたりにかかる圧力が周期的に増減している。恐らくこれは、呼吸に合わせて体積を変えるヨリの胸部が、腕を圧迫しているためだ。おじさんは非常に困ってしまう。状況証拠からの判断ではあるものの、今のヨリがどういう状態なのかがわかってしまったからだ。
「ヨリちゃん、起きてるかい?」
声を掛けてしばらく待ったが、彼女からの返事はない。布団のふちに耳を傾けると、彼女は深くゆっくりとした寝息を立てていた。
「ありゃあ。これは熟睡モードだ。慣れない環境で疲れてたんだろうなあ」
小声で呟き体勢をあおむけに戻す。
こんなちっちゃな子が、どこの馬の糞とも知らないおっさんの世話をするために、ひとりで奮闘しなきゃならんのだから。疲れて当然だよ。そうすると、ここで起こしてしまうのはかわいそうだ。
まあしかたない。どうせふて寝するつもりだったんだから、このまま何も見なかったことにして二度寝してしまおう。うんそうしよう。朝になればヨリの方が先に起きるだろうし。そうしたら何も知らないふりをして、とりあえず二人で朝の散歩にでも出かけよう。
そんなことを考えて、まんじりともぜずにうつらうつらしていると、右腕の辛さに意識を引きもどされ、一気に覚醒してしまう。布団の中では、長らくヨリの体に伸し掛かられている右腕が、血流を阻害されて冷たくなっていた。その辛さに耐えかねて、できるだけそっと位置をずらすと、徐々に腕の血行が戻り、それとともに猛烈な痺れがやってくる。この状態になってしまうと、少しでも腕を動かせば、恐ろしく辛いしびれに襲われてしまうことだろう。実際は少しも動かさなくとも辛い。
「ああ、これは寝違えたときのあかんやつだ……」
ずっと畳の上で横になっていたため、右腕以外もそこかしこ痛いし、全身がだるくてちっとも寝ている気がしない。また、彼女に遠慮をして寝返りを打てないことも、辛さに追い打ちをかけていた。
相変わらず時間の感覚も曖昧なままなので、時計を見ようと強引に首を曲げて、仰向けで真上を向くような格好になり、床の間の方を覗きこむ。やっとのことでギリギリ見えた置時計の文字盤は、十時くらいを指していたが、それが午前なのか午後なのかまではわからない。
安楽いすが置いてある広縁の窓を見ても、障子が閉じているため外の様子はみえないし。それにここから見た限りでは、障子を通して外の光が入って来ているということもなさそうだ。業を煮やした自分は、布団を出て障子を開きに行くべくそっと身をひねる。だがそのとき、突然痺れた右腕をきゅっと掴まれたため、悲鳴を上げそうになった。自分は、少し布団をめくって中を確認する。
「きゃ」
すると、腕に抱き着いていた彼女が、小さく声を上げた。屈むように頭を奥へ引っ込めたヨリは、やはり全裸のようだ。困りますよお嬢さん。
「あ、いや、ごめんよ」
謝辞を述べつつ布団を元に戻して続ける。
「おはようヨリちゃん。お布団かけてくれてありがとう。畳痛かったでしょ? 神様も背中と腰が痛くってさー」
それ以上に右腕が、ってこれはもういいか。
「お、おはよう御座います神様。お、御加減はいかが……でしょうか?」
布団の中から、自分を気遣うヨリのくぐもった声が返って来る。
ここでふと、自分が倒れたことを思い出す。目が覚めた時にはきちんと布団がかけられていた。一緒に寝ていたヨリの様子からも、彼女が突然倒れた自分を介抱してくれた事は、容易に想像できる。この子は本当にいい子だ。嫁にしたい
「もうばっちり。ヨリちゃんのお陰ですっかり良くなったよ。心配かけてごめんね。自分でも何が何だか分かんなくてさ」
「いいえそんな。でもほんとに……本当に良かったです……」
祈るような口調でそう言った様子からも、彼女にはだいぶ心配をかけてしまったようだ。幼い彼女へ気苦労をかけたことを申し訳なく思い、しんみりしてしまう。が、そこで忘れかけていた目的を思い出した。
「あーと、ヨリちゃん。ちょっと神様お布団から出たいんですけど、いいですかね?」
ひとまず、布団を出るためにうかがいを立てる。ヨリがなぜ全裸で一緒に寝ていたのかは後で聞くとして。
「あ、はいどうそ! 私も起きますので!」
ヨリはそのまま布団から出てこようとするので、即座に窘める。加えて着物を着るように促した後、布団を抜け出して広縁に向かい、居間とを仕切る障子戸を閉めた。そのまま踵を返し、向こう側に窓があるであろう縁側の障子を片方だけ開いてみる。しかし、そこにあったのは客室内と同じ宇治色をした京壁だった。ここは岩屋の中だし、何となくそんな気はしていた。けれど、実際にそうだと分かるとがっかりしてしまう。これはもう部屋の外に出て確認するしかないだろう。
「はあ」
自分は肩を落として、向こう側に窓のない障子を閉めて振り返る。そのタイミングで仕切り側の障子が開き、着衣を終えたヨリが顔をだす。
「どうかなさいましたか?」
「う~ん。いやね、ここから外が見えるかと思ったんだけど、ご覧の有様だったんだよね~」
壁だった方の障子を少し開けてみせると、「まあ」と少し驚いた顔になるヨリ。
「なもんで、ちと外に出て今の時間を確認しようと思ってさ」
「じかん? ですか?」
「え~と……刻限?」
「あ、なるほど! 神様の世界では、刻限を時間と呼ばれるのですね!」
なにゆえか目を輝かせて感嘆するヨリ。
「うん、まぁそんな感じだね」
現在時刻は十時十一分。少なくとも置時計の針はそう指していた。ニュースで見た時刻のテロップの記憶が正しければ、倒れたのは十七時過ぎくらい。もし今が午後だとすれば、ちゃんと布団を敷いて本格的に寝る用意をしないといけない。
「ご一緒いたします」と申し出たヨリと、連れ立って部屋を出ようとしたところで、待てよと思い直す。別にわざわざ外へ出なくても、テレビがあるんだからつければいい話じゃないか。どうやらまだ調子が良くないらしく、上手く頭も回っていないようだ。無言で座卓に戻り再び座布団に座ると、あれ、というような感じでヨリも向かいの座布団へ座った。
「あのう、神様?」
「ああ、うん、ごめん。ちょっと寝ぼけてたみたい」
あははと一人乾いた笑い声を放つと、ヨリもつられてにっこり笑う。エブリタイムかわいい。
「さてリモコンは、と……」
先ほどまでは座卓の上にあったはずのリモコンだが、今は手近なところに見当たらない。困惑しながら方々へ目を向け座卓の下を覗くと、テレビ台の下あたりで無造作に放り出されたそれを発見する。自分は四つん這いで座卓を迂回し、手にしたリモコンをテレビの方へ向ける。
と、突然「だめーっ!」と叫んだヨリが両手を広げて、テレビの前に立ちはだかった。何事。
「なんでーっ!?」
「いけません神様! これは悪い箱で御座います! また神様のお体に何かあれば私は申し訳が立ちません!」
「どゆことー!?」
ヨリは、自分が倒れた時のことを必死に説明しはじめた。
先刻、自分がテレビをつけて少ししたら倒れ込んでしまったので、その理由はテレビにあると思ったらしい。ヨリの説明を聞いて、自分もおぼろげながら倒れる前の記憶がよみがえって来た。言われてみれば、確かに倒れた理由は、テレビの放送内容にある気がする。実際にかなりショックを受けたし。これではヨリが慌てるのも無理はない。
それでもテレビの情報は欲しい。今のところ詳しい事は話せないものの、テレビ自体が原因ではないことを一生懸命説明すると、渋々ではあるが、なんとか退いてもらうことができた。
気を取り直して。再びテレビをつけようとすると、ヨリが自分の背後へ回り込み、小さくなってテレビから隠れようとする。まるで掃除機を怖がる猫のようである。このままテレビをつけても、この子は怖がって画面を見ようとはしないだろう。そうなると誤解を解くのも難しくなるため、彼女にはしっかりと視聴に付き合ってもらいたい。
自分は立ち上がり、部屋の隅に積まれた座布団を、囲うように挿してある合板製座椅子を、一つ引き抜いた。座卓へもどってそれに座り、また後ろに回り込もうとしているヨリを捕まえて胡坐の上にのせる。顔を耳まで真っ赤にしたヨリはぎこちない動きで振り返り、自分の顔を見上げて「ええーっ??」というような表情をしていた。そんなヨリにウインクを返し、両掌で頬を挟んで前を向かせる。その上で頭の上にあごを乗せ「ヨリちゃんはおとなしく座っててください」と言って、テレビの電源を入れた。
ぶぃんという消磁回路の音と同時に、スピーカーからは喧しいくらいの音声が飛び出したため、慌てて音量を下げる。倒れる前に上げたボリューム設定のままだったらしい。ゆっくりと明るくなる画面を見ていると、嫌な予感は的中しており、まんまと夜の番組がやっていた。
「なんてこった」
「へ? えっ? えっ?」
あごの下でオロオロしているヨリは、困惑した声をあげる。また、自分の方を向こうともしているようだが、断りなく頭を動かしていいものか、考えあぐねている様子だ。出会ってまだ半日も経っていないのに、幼気な少女を手玉に取って膝上で弄ぶとは。本当に悪い神様である。まあその前に裸で同衾していたことの方が余程問題ではあるが。犯罪者だよマジで。
というわけで時間を照らし合わせてみると、ここの時間と元の場所の時間はほぼ一緒のようだった。つまり、自分がここへやて来てからすでに七時間ほど経過していることになるだろう。やはりここは日本国内のようだ。でもそうすると、ヨリとこうしているだけで逮捕される可能性がある。心情的には、日本国内であってほしい部分もあるが、そうじゃない方が都合が良い部分もある。いや別に変なこととか考えてないですし。
「ああ~。よし、寝よっか」
「ええーっ!? 今しがた起きられたばかりでは!?」
まさしく。ついさっき起きたばかりなのに、もう寝るのかとヨリは驚くが、今はまだ午後十時過ぎ。本来夜は、いい子も悪い子も寝る時間である。
「中途半端に寝ちゃってなんだけど、ええと何時になるんだ。子丑寅……。とにかくまだ全然夜なんだよね~」
説明のため、どうにか昔の十二辰刻文字盤を思い浮かべるが、うろ覚えすぎて判然としない。
「そうなのですか!?」
「うん、間違いないよ。きっと外は真っ暗だとおもう」
「えーっ!?」
口癖だ。
「岩屋の中じゃ外も見えないし、短い間に色々ありすぎたし。時間の感覚がどっか行っちゃうのも仕方ないよね」
「確かに……そうで御座いますね」
そういう意味では、幼いヨリのほうが遥かにこたえてるはずだ。それでもしっかりしてるヨリの様子に、おじさんは感動を禁じ得ない。
「なので、ちゃんと布団を敷いて今度こそまじめに寝ませう」
「はい! 只今ご用意いたしますので、少々お待ちください!」
ヨリはそう言って立ち上がり、ちゃっちゃと押し入れから敷布団を引っ張り出して、寝床の準備をはじめた。自分は座卓の上を片付けて、用地確保のために端の方へ持って行く。
「ちょっとトイ――厠へ行ってきます」
せっせと布団を敷いているヨリにそう言い残して部屋を出る。
この部屋には、トイレ一体型のユニットバスが付いているようだが、トイレは単なる口実で、外を覗いてから社内を軽く探索しようと思っていた。このひよこの間は角部屋のため、玄関が非常に近く、ロビーエリアを抜ければ外への出入口は目と鼻の先にある。とは言っても玄関がだだっ広く、扉までは結構距離があるのですぐに外へは出られない。
キレイに揃えられていた安全靴を履いて見すぼらしい引き戸へ向かい、ぐいと力を込めて少しだけ開けてみる。クソ重たい引き戸の外はすっかり暗くなっており、やや上に視線を向ければ満天の星がうかがえた。いや、満天過ぎる。
なぜなら星空には、過密と言えるほどの星々が所狭しとひしめき合い、例えるならば、空全体が天の川のようになっていたからだ。そしてそれは恐ろしく明るい光を放つ天の川であり、何より驚いたのは、肉眼で大小の銀河さえもが見えていることだ。
「まじか……」
とにかく普通ではなかった。星の数が多すぎて、さほど目を慣らしていなくとも満月の夜よりずっとよく辺りが見える。
あまりの光景を目にしたことで、居ても立ってもいられなくなったおじさんは、子供のように岩屋を飛び出し、海岸目掛け一気に走り抜ける。桟橋のあたりまで来たところで振り返ると、島の陰になっている部分以外のほぼ全天が、視界に収まった。そこに見えた驚愕の光景は、日本ではないまったく知らない場所の星空だった。
当然知っている星座などあるはずもなく、見えている星々のほとんどが、マイナス等級かと思われるほどの明るさを誇っている。それ以下の星は、明るい星の光害によって肉眼では見ることができないだろう。もしかすると、電磁波観測でも帯域が埋め尽くされてしまい、詳細な観測は困難かもしれない。星空がまぶしいなどと感じたのは、後にも先にもこれが初めてだ。
「一体あと何回、俺は驚かされるんだろうね……」
思い返してみれば、昼間は一体何に照らされていたのだろう。太陽を見ただろうか。日差しは感じていただろうか。自分やヨリに影はできていただろうか。根拠もなく夢の世界だからと高をくくり、周囲の観察を疎かにしていたことを、今更ながら反省する。
絶景を誇る空から視線を水平に戻したとき、波打ち際のラインに沿って、何やらぼんやりと光るものが転々と並んでいるのが目に入る。周囲を見回し、一番近くにあった発光物に恐る恐る近づくと、それは全体が燐光を帯びた四角錐の物体だった。そして、恐々と触れたその感触を、意外にも自分はよく知っている。それは、社の玄関先で各部を触れたときのあの感触だ。触れた瞬間、表面温度が手のひらの温度と同調するとでもいうか。温かいでも冷たいでもなく、ただ触れているだけの感覚。
目を凝らしてみれば、海底にも同じように光る物体が等間隔で並んでおり、桟橋と同じラインで対岸の村へ向けて一直線に続いているようにみえる。本当にこの島に来てからは、そこいら中わからないことだらけだ。しばらくあたりを見回していたが、いくら星空が明るいとはいえ、流石に昼間ほどの見通しは効かない。そうなれば、これ以上新しい発見が得られるとも思えない。
そろそろ社へ戻ろうかと思い、岩屋へ足を向ける。すると、開け放してきた引き戸から、丁度ヨリが出てくる姿が見えた。彼女は少しの間辺りを見回していたが、自分を見つけると何事か声を上げながら一目散に駆け寄ってくる。しかし途中で何かに躓いたようで、派手に砂浜へすっ転んでいた。
「あいたぁ」
漫画かな。
やや離れた場所から気の抜けた悲鳴が聞え、緊張気味だった自分の気持ちは、穏やかなものへと変化する。しっかりしているようで、実はドジっ子なのだろうか。
「ありゃりゃ。ヨリちゃん大丈夫かい?」
早足に彼女へ近づき、怪我などをしていないかざっと確認しながら、着物に付いた砂を払い落してやる。薄暗くてよくは分からないが、幸い転んだのが柔らかい砂の上だったおかげで、どこにも怪我などはないようだ。この子の珠のお肌に傷がつかなくてよかった。
「あ、有難う御座います。とんだお手数をお掛けいたしまして――っ、ではなくてですね! お布団を準備してお待ちしていたのに、一向に戻っていらっしゃらないので、途方に暮れてしまいました。一体このようなところで何をなさっているのですか?」
グーにした手を胸の前で揃えるヨリは、遠慮がちにぷんすこしているご様子だ。マジヤバかわいい。
「これはどうもすみませんでした」
自分が深々とお辞儀をして謝罪をすると、謝られているヨリのほうがもっとペコペコしはじめる。いちいちかわいい。
「いやね。少し外の様子を見に玄関から顔を出したら、あまりにも星がきれいでさ。つい年甲斐もなく走っちゃったよ。ちょっとした出来心です。申し訳ない」
自分の言い訳を聞いて、ヨリは何やらポカンとしている。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「神様はお星様がお好きなのですか?」
「んん? そうだねえ、多少興味がある程度かな。ただ、故郷とは随分と見え方が違っていたからね。びっくりしちゃって」
自分がそういうと、彼女は“故郷”という言葉に興味を持ったようだ。その証拠に興味津々といった表情で鼻息まで荒くしはじめ、自分が住んでいた場所や家族、配偶者などについて矢継ぎ早な質問を捲し立ててくる。このままゆくと収拾がつかなくなりそう。
「ちょいと待って~。そんなにいっぺんに聞かれたら神様の限界超えちゃうよ~」
随分とマージンの狭い神様もいたものだが、自分はヨリの興奮を押さえようとお茶を濁すことに躍起になる。もうお部屋へ帰りましょうよ。
「はっ、そうで御座いますね。申し訳御座いません」
そう言ってヨリはまたぺこりと頭を下げる。
勢いからして、もっと食い下がられてしまうかと思っていたが。とても聞き分けのいい子なようで、それ以上の追及を受けることはなかった。よかった。
「うん、ま~今夜はもう遅いからさ。お話しはまた今度にしようね。いい子はとっくに寝てる時間だから」
子供の夜更し絶対ダメ。健やかな成長には、十分な睡眠が必要不可欠。寝る子は育つのだ。
「はい。ではお社に戻るといたしましょう」
幼気な女の子に手を引かれ、夜の浜辺をねり歩く怪しいおじさんがいる。まったくこの島の治安はどうなっているのか。早く責任者出てこい。
部屋へ戻ると、真ん中にはきちんと布団が敷かれていたが、なぜかそれは一組しかなかった。不思議には思ったが、時間も遅いのでそそくさと服を脱ぎ捨てて、トランクスとTシャツ姿になる。傍らでは、なにやらヨリがこちらを見ていた。
「ん~? どしたん?」
「あ、いえ、なんでもありません」
どういうわけかヨリは落ち着かないご様子。どこか居心地の悪そうな……。
「そうですか」
風呂に入りたかったなと思いつつも、時間も時間なので、とっととオフトゥンに潜り込む。すると、今しがた無造作に放り投げた作業着をヨリがひろいはじめ、大事な物でも扱うように、丁寧に膝の上で畳みはじめるではないか。あーこりゃいけない、今後はもっと気を付けないと、またヨリに余計な手間をかけてしまう。
彼女の真心を見てないふりでやり過ごし、心のなかでありがとうとお礼を言って、頭まで被った布団の隙間から彼女の行動をさらに観察する。背筋を伸ばした状態で小さく正座をして、自分の衣類を畳んでいる彼女の姿は、なんだか母親のように見えた。やがて服を畳むのを終えたヨリは、迷わず着物を脱ごうとする。そこで、お待ちなさいと彼女を窘め、自分は起き上がった布団の上に彼女を呼んだ。
「はい、ヨリちゃんそこにお座りなさい」
「はい」
布団の足の方にヨリを座らせて、自分は頭側に腰を下ろす。その際あっと思って股間に枕を乗せた。胡座をかくことで大開放されたトランクスの裾より、稲荷神がご降臨あそばされるのを食い止めるためだ。おじさんなりの気遣いである。
「そんで。ヨリちゃんはあれかい。裸じゃないと寝られないのかい?」
「はい。私は裸でなければ寝ることができません」
うらで流行りの健康法か何かかな。
「う~ん。念のために聞くけれど、それはヨリちゃんが自分で考えて、好きではじめたことなのかな?」
「いえ、これは供物のしきたりで御座います」
「ほうほう、それ詳しく聞かせてくれるかな」
おじさんはやけに興味津々だ。
「はい。神様への供物となった娘は、神様がお休みになられる時、必ず同衾しなければなりません。そしてその際には、着衣することは許されず、必ず裸で床に就き、あとは神様に身を委ねなければならない決まりになっております」
聞いているこちらが赤面してしまいそうな内容を、年端もゆかない少女が誰はばかることなく淡々と、そして堂々とした面持ちではっきりと、しっかりと語ってくれた。たいへんおいしゅうございました、ごちそうさまです。じゃねえんですよ。
「実に興味深い……。じゃあなくてねヨリちゃん。今言ったことの意味を、一から十まで全部わかって言っているのかな?」
「ええと……。神様と同じお布団で一緒に裸で寝ると、何か私にご褒美がいただける……ので御座いましょうか?」
「いいえ。神様と同じお布団で一緒に裸で寝ると、何か神様に大変な凄くご褒美です」
残念なことにヨリは半分もわかってなかった。
古代の神事には、生贄とか人柱とか生々しいやつがあるよね。時々ドスケベだったりもするし。つーか神様こらーっ。だめでしょーこんな子供にそんなことさせたら。大体最初の雨神様って女神じゃなかったんかい。百合なのかい。憤慨。
「えー。ヨリちゃんへ神様から大変残念なお知らせがあります」
残念なのは主に自分にとってかも知れないが、ここは一つ年長者として断りを入れておかなければなるまい。大体小さな女の子と裸で寝ても嬉しいことなんてないし。ある……ないし。やっぱあ……ないし。
「はい」
「今後一切、裸で寝ることを神様は禁止します」
「えーっ!?」
このかわいいリアクションにもそろそろ慣れてきた。
「ですが、しきたりは絶対に守らなければいけないと祈祷師様が……」
「だめです」
「えーっ!!」
もうえーっていうかわいい玩具みたいになってきた。正直かなりほしい。言い値で買い取ろう。
「ヨリちゃんは供物なんだよね?」
「そうで御座います! ですので――」
半ば意地にでもなっているかのように、ヨリは頑なな態度でしきたりに従おうとする。だが、そんな彼女を制して自分は続けた。
「ヨリちゃん落ち着いて。まずは神様の話を聞いてほしい」
「はい……」
釈然としない様子ではあるけれど、聞き分けはとてもいい子である。
「ヨリちゃんは供物なので、それは神様の持ち物と同じって意味だよね?」
「はい」
「じゃあ神様の言うことは、絶対に聞かなくちゃだめだよね?」
「はい」
「ならしきたりよりも、神様の言うことのほうが大事だよね?」
「……もちろんです」
よかった。ここで譲ってくれなきゃどうしようかと思ってた。
「そしたら神様の言うこと――これから裸で寝るのは禁止、というのも聞いてくれるよね?」
「……はい」
渋々といった調子で、ヨリは小声の返事をする。そんな残念そうにされてしまうとは意外だ。ぼくも残念です。
「なら、よろしい。とりあえずそれ以外のことはヨリちゃんの判断に任せます」
「はい。承りました」
「うんうん。それとさ、なるべくなら一緒に寝るのもやめてほしいのだけど」
「えっ……」
彼女は一瞬あっけにとられたような顔をしたが、次の瞬間には物凄く悲しい表情になり、見る間に涙を溜めてゆく。いやいや、これは泣くほどのことなのか。しかし、ここは心を鬼にしてダメ絶対を突き通すしかない。
「え、ちょ……」
「どうしてもご一緒してはいけないのでしょうか?」
「う、は、はい。どうしても個別に寝る必要が御座いますれば。これは神様の決めた掟ですよヨリちゃん」
おじさんは血涙を流し、てはいないけど、そのくらいのつもりで半泣きになったヨリを諭す。誰が何と言おうと、これはこの子のためなのだ。
「ふぅぅぅ……。わかりました……。神様がそう仰るのであれば……そういたします。うぅ……」
オロオロと逡巡していたヨリは、弱々しい涙声で呟く。うおぉ胸が痛いストレスで毛根もやばいまじで禿げそう。
彼女はまだ子供ではあるけれど。十二歳ともなれば、昨日今日出会ったばかりの見ず知らずの異性と、床を共にしていいわけがない。これは至極正しい判断だ。男女七歳にして席を同じゅうせず。昔の人もそう言っていることだしな。ペッ。
すっかり消沈してしまったヨリは、並べられたふたつの枕の一方を拾い上げる。それから、隅に積んである座布団の山をズルズルと引っぱってきて、敷かれた布団の隣に整然と並べはじめた。
「え……。ヨリちゃんなにしてるの?」
不可解な行動に疑問を抱き、この世の終わりのような顔でのそのそと座布団を並べているヨリへ声をかける。押し入れにはまだ布団が入っているだろうし、わざわざ座布団を並べて寝ることはなかろうに。
「このお部屋には……お布団が一組しか御座いませんので。ふえぇ」
悲し気に鼻をすすりながら、彼女が発した言葉を耳にした途端、自分は光の速さで限界突破した。そのように粗末な寝床で彼女を就寝させるわけにはいかぬ。
「それはいけない! 一緒に寝よう! さあ早くこっちへおいで! 急いでおいで!」
一心不乱にオフトゥンをばちんばちんと叩いて、おいでおいでコールをくりかえすと、半べそだったヨリの顔がぱあっと明るくなる。
小走りで寄って来た彼女は、一瞬で枕を並べて嬉しそうに自分の隣へ横になった。なんたる早業。そんなヨリはこちらに向き直り、膝を曲げて丸くなったかと思うと、軽く握った両手を口元に添え、照れ隠しのような上目遣いで自分を見上げた。やべ~かわいすぎて殺される。
それにしてもこの神様はちょろすぎてマジ髪生えそう。仕方ない。もう一組の布団は明日にでも探すことにして、今夜は一つの布団で寝るしかないだろう。
(これもうしょうがねーよなー。布団一組しかないんだもんなー。あーあー二組あればなー)
言い訳がましい言い訳を心の中で盛大に叫び、疚しい気持ちを払拭したつもりになる卑しいおじさんは、ガシャガシャと紐を引き、明かりをナツメ球にモードに切り替える。照度の落ちた部屋の中、仰向けで布団をかぶると、橙色の薄暗がりの元で隣のヨリが腕にしがみつき、顔を半分ほど埋めてくすりと笑った。
案外この子には強かな面があるのだろうか。やはり女性は怖い。