肆拾参 ~ 節目 ~
虹の間の扉をくぐって社の廊下へ出る。数日ぶりに嗅いだ畳の匂いで、緊張は一気にほぐれる。それは、社以外の場所にいるだけで、こうも肩に力が入ってしまうものかと実感させられた瞬間であった。ストレスとは、こうして無意識に蓄積されるものなのだな。
初めて実際に進入する社内部の雰囲気に、ランはやや興奮気味な様子だ。内装のデザインや調度品の数々を眺めては、小さな頷きを繰り返す。その仕草は、何か納得しているようにも見える。
「雅ですわねぇ。流石はユカリ姉さまと言うべきでしょうか」
背嚢を装備したリエを背中に装着しているランは、実際に社内の様子を目にして、そんな感嘆を漏らしていた。しかしこんなに軽々と……。この子らのスペックはどうなってるんだ。
確かにランの言う通り、この社の雰囲気は極めて洗練されている。けど、雅という言葉を雅な雰囲気を持つラン自身が口にすると、言い得て妙と言うべきか。カチっと嵌ったような、とても自然な印象を受ける。中身はエロスの塊みたいな子だけれど。
「ランの雰囲気にぴったり合うな」
これは素直に感じたままの感想。
「どうやらまた晴一が、また変な顔しているようね」
社につくと同時に背中から飛び降りて、ランに付いて回りながら造形などの細かい説明をしていたユカリが、振り向きもせずにそんなことを言う。それもう脊髄反射じゃないの。
「変な顔とか失礼だろ。しかも何で“また”を二回言った。こっち見てもいねえのに」
「あら、私くらいになると気配でわかるものなのよ?」
「またそんな減らず口を」
この洒落臭いちびっ子めが。いつか狭いところにでも押し込めて、何ドンか分からないドンをもう一回食らわせてやるドン。
ぴょこぴょこと楽し気に揺れる、原理不明なユカリのアホ毛を背後から睨みつけていたら、ヨリに宥められてしまう。おじさんはここぞとばかりに超かわな彼女を確保し、頭に頬ずりを決める。いつものように赤面してしまったヨリは、短く声をあげて歩みがぎこちなくなった。かわいいようかわいいよう。
「それと、ヨリに変なことするんじゃないわよ?」
もう。こういうことを言うユカリはかわいくないよう。
「なんで見てないのにそういうことを言うんだよ。とっくに済ませたけど」
「なんですってーっ!」
すったもんだがありつつも、ワイワイと賑やかな一団は、やがて玄関もほど近い廊下の角部屋へ帰還する。だがしかし……。
住み慣れた風景に、やっと落ち着けると思ったのも束の間。部内の様子は一変していた。ひよこの間は、ざっと見た畳の部分だけでも二十畳ほどはあると思われる、恐ろしく広い空間になっていたのだ。ユカリの話では、居間は二十四畳に拡張されたそうで、隣にも別途寝室が用意されたとのことだ。そちらは十畳の広さがあるらしい。
二十四畳分の広さを与えられた居間は、今しがた入ってきた入口の反対側が、六枚の障子戸に置き変わっている。その向こう側に、これまた広くなった広縁を挟んで、頑丈な木枠で組まれた六枚のガラス戸が並ぶ。これは休憩室のガラス戸に近い。戸のガラス面には横張もなく、一畳近いガラスが、外の光をふんだんに取り入れている。
さらにその外には、休憩室の外と同じく空のある庭園が広がっている。戸を開けて一歩踏み出すと濡れ縁があるため、庇に覆われた濡れ縁兼渡り廊下という作りであるようだ。
濡れ縁の先には、沓脱石が設えられ、人数分の雪駄も用意されている。折角なので庭へ降りてみる。数歩歩いたところで振り返り、建物の外観を確認すると離れのような外観になっていて、建物の周囲を散策できそうだ。
再び離れを背にして右手の方を見ると、露天風呂の案内板が目に入る。玉砂利の敷かれた庭を矢印の示す方向へ進んで行くと、竹垣に囲まれた一画に行き当たった。その向こうには縁側を通って入る必要があるらしく、ここからでは竹垣を越えられない。ユカリセットを装備すれば飛び越えられるだろうけど、行儀がよろしくないので止めよう。
そこで雪駄を脱いで縁側に上がり込み、露天風呂の様子を見てみることにした。入口には相変わらず“混”と書かれた大きな暖簾が掛けられていたため、ここでも否応なしの強制混浴制となっていることがわかる。そんなことは最早気にもかけず、暖簾をくぐれば大浴場と似た作りの脱衣場に出くわす。その奥には、衝立を挟んで浴場につながる出入り口があるようで、こちら側へ薄く湯気が流れ込んでいるのが見える。
脱衣場を経て衝立の向こうへ回り、扉のない出入り口に首を突っ込んだ。中では、天然石で組まれた浴槽が湯気を上げていた。しかし、その周囲には畳が敷き詰められているため、一風変わった趣のある洗い場になっているようだ。
「いやいや、畳って。畳は流石にはないだろう、ははは」
まさかそんなことはないだろう。そう思い、その場へしゃがんで足元を確認するが、それはどう見ても畳であって、柔道場で見るような畳風ビニールマットではない。ここには、本物の畳が敷き詰められているのだ。
しかし。手でよく触れてみれば何のことはなく。これは時間軸固定構造化された畳であるため、腐敗して台無しになるようなことはないだろう。それと同時に、ソフトな感触を維持したままでも、時間軸を固定することはできるのだなと感心した。これまで遭遇した同構造体は、どれもこれもが硬いものばかりだったからなあ。
露天風呂内の広さは、大浴場の半分程はありそうで、浴槽の上にのみ東屋のような屋根がある。ここの天候も自由に変えられるのだろうから、屋根が付いているんだろう。もしかしたら雪見風呂と洒落込む、なんてこともできるのかも。
これで確認は済んだし、もう十分だろう。ひよこの間に戻るべく脱衣場へ入ったら、ランが着物を脱いでいる場面に遭遇した。その意図はなんとなく予想がついたけど、「もう風呂か、はやいな~」などと惚けた声を掛けて、彼女の背後を足早に通り抜け、逃げるように脱衣場から出る。
がしかし。寸でのところで捕縛を受け、脱衣場へ引きずり込まれてしまった。ここは人喰い露天風呂か。
「わかっていたさ。ここへ来る途中から、何となくランがつけて来ていたことも。そして、ただではここから逃がしてくれそうにないことも」
「うふふふふ。話が早くて助かりますわ♪ そうと決まれば、さぁ晴一くんも脱いでくださいまし!」
「何も決まっちゃいないし、俺はまだ風呂に入る気はない! これからちとやることもあるんでな。申し訳ないが」
素早く振り返り、すでに長襦袢になっているランをお姫様抱っこすると、ダッシュで浴場へと駆けこんだ。
突然抱っこをされたランは、「きゃー」とか言って嬉しそうにはしゃいでいる。そんな彼女には悪いと思ったが、勢いのまま彼女を浴槽へ放り込む。質量体を放り込まれた浴槽では、派手な水柱が発生して、飛沫を周囲にまき散らす。そこですかさずユカリセットを展開し、大きく竹垣を飛び越え、緊急離脱に成功する。
着地した縁側の屋根を駆け抜けるとき、浴場の方から「いけず~!」と言うランの叫び声が聞こえていたのが面白い。
「わはは。すまんな」
まったくもって心のこもらない謝罪の言葉を呟いて庭園に降り、ユカリセットを収納しながら部屋の中へ戻った。そこで、雪駄を置いてきてしまったことに気づいた。だが回収は後回しにして、先ずは今回の拡張工事について、ユカリの話を聞くことにする。
「……あれ? ユカリは?」
なぜか部屋にはチカとムツミしかいない。ユカリの行方をたずねると、皆隣の部屋に集まっていると言う。ああ……。
「「先ほど晴一様をお迎えに行くと仰って、ラン様が出て行かれましたが」」
ふたりは綺麗にハモる。そういうことだったかあんにゃろめ。
スケベ総理大臣クラスの自分からしても、桃色親善大使なランの行動には、目に余るものがある。これは後でお仕置きが必要だと思った。しかし尻を叩く程度では、かえって大喜びさせてしまいかねない。ここはユカリやヨリと相談の上、対処法を決定した方がいいだろう。大変だなあ。
◆ ◆ ◆ ◆
自分はチカとムツミを連れて鳳凰の間へと向かう。部屋の中では、ヨリの遺体が格納された例の箱を囲むように、三人が小窓を覗いていた。
「やっぱりこのタイミングか。俺もこのくらいが丁度いいかなとは思ってたんだ」
「皆思うことは同じようですね」
「誰も……何も言わなくても申し合わせたようにこうなるって。幸せなことね……。私もヨリと出会えなければ、こんな気持ちも永久に分からなかったかもしれないわ……」
格納容器を眺めるヨリとユカリも、全く同じことを考えていたようで。人間関係が織りなす絶妙な機微に触れたユカリは、微妙な顔をしている。でも、少しだけ嬉しそうだ。
この部屋に皆が集まっている理由は言うまでもない。オリジナルヨリの遺体を弔うためだ。ランと風呂場でじゃれている間に、お別れは済んでしまったようだが。
この瞬間に至るまで、特にユカリには並々ならぬ思いがあったことは、あえて想像するまでもない。その原因となったものの殆どは、少し前に周知の事実となっているのだ。ならば、この場において長い挨拶めいた言葉もないものだろう。
ヨリに至っては本人でもあるし。個体は違っても、自己は同一なのだから、今のヨリの思いをそのままオリジナルの思いと言い換えても、差し支えないはず。自分で自分を送るという奇妙な感覚に、彼女は困惑しているかもしれないけれど。いずれにしても当人たちがいいのなら、それが一番だと思う。
それから少しして、ランとチカとムツミがやって来ると、ユカリが立ち上がった。
「私からは……これといって特に言うことはないのだけれど。この記憶というか、かつての実験ログデータは、内容が内容だけに完全共有しているわけではないわ。それでもここの皆には大まかなことは伝わっていると思う。これは私やヨリのけじめのようなもので……。皆には、その、あまり関係がないことだと思うのよ。でもそれは悪い意味ではなくて、心配を掛けたくないというか。……その」
ユカリは、これに至った経緯のような話をはじめる。
やはりこれは今更な気もするけれど、彼女なりの決別みたいなものが必要なのだろう。これでユカリが自分を納得させられると言うのであれば、気の済むまで吐き出せばいいと思う。
「ユカリねえ様は水臭いと思うのですよ~」
「はあ。まったくですわ」
言葉に詰まるユカリの様子を黙って見ていたAI姉妹のふたりから、唐突に鋭い指摘が飛び出した。自分は黙って聞いてあげようと思っていたのだけれど、妹たちには呆れられてしまったようだ。流石は姉妹。理解が深い。
「いいじゃないですの。私たちは家族同然なのですから。心配事や迷惑なんて、掛けられてなんぼですわよ?」
「まったくです、ユカリねえ様は面倒なのですよ」
ランにもダメ出しをされ、リエも珍しくトゲのある言い方をして、大げさな仕草とともにやれやれとため息をつく。
ふたりの態度を見て、ユカリは一瞬呆気にとられたような表情を見せる。しかし彼女なら、すぐに文句の一つも返すだろう。そう思ったのだが、彼女はそうはせず。ふと肩の力を抜いて、珍しくはにかんだ笑顔を見せた。
「そうよね。あなたたちの言う通りね。ええと、つまり。私たちの過去に踏ん切りを付けるための我が儘に付き合ってほしいのだけれ――ううん。付き合ってちょうだい」
ユカリは照れたように縮こまりながら、皆の様子を窺うように言った。
この場にいる全員が、ユカリの言葉に無言の肯定を示す。今更反対する者などいるわけがない。それを確認したユカリとヨリは、手を取り合って格納容器へ向き直る。ユカリが格納容器に手をかざすと、すぐにパネルのUIが表示を変えた。その内容は理解できなかったが、次に箱の中で起きた変化を見て、ユカリの意図を理解した。
十九世紀の日本を生き、最後は過酷な運命に翻弄されることとなったヨリの本体は、今光の粒子となって箱の中で分解され、その存在を消失してゆく。数秒後、格納容器の中はすっかり空となり、ユカリは容器の封印を解いてハッチを開いた。箱の中には、ユカリの持つ緑色の結晶体とよく似た、青く透き通る六角柱だけが残っていた。黙ってユカリはそれを拾い上げると、少し悲し気な笑顔でヨリへ手渡す。結晶体を受け取ったヨリは、目を閉じて両手でそれを包み込み、祈るように胸の前へ持って行く。
一呼吸ほど置いてから目を開いたヨリは、自分の近くへやって来きて、結晶体に紐を付けてほしいと言った。自分はその依頼を快く引き受け、また売店で紐を見繕ってこなければと思い、早速彼女に似合いそうな色合いを考え始めた。