参拾捌 ~ 安全✚第一 ~
昨日とは一転して、今朝の目覚めはすっきり爽快。
チカとムツミの献身的介護のおかげで悪夢にうなされることもなく、好調な目覚めを享受することができた。ありがたやありがたや。
しかし、晩飯抜きで寝てしまったため、起き抜けの空腹がより一層耐えがたいものとなっている。そんなわけで、はやばやと寝床を抜け出したおじさんは、ほぼ駆け足の速足でダイニングへ乗り込む。いそげやいそげ、餓死する前にご飯を食べねば。
「おはようございますかわいこちゃんたち! 今朝もかわいいね! 毎日かわいいけどね!」
今朝も三人が朝食の準備をしていたので、おそろいの小さな背中へ向かって挨拶をする。おじさん朝からテンション爆上げにござる。
「は、はい、おはようございます晴一さん」
「「おはよう御座います晴一様。お加減もよろしそうでなによりで御座います」」
三倍かわいい娘たちが、かわいいお顔でかわいいお返事をくれた。超幸せ。でもちょっとヨリが引き気味。やはり朝からテンションが高い人はウザイ。
「もうすぐご飯の準備が出来ますので、それまでこちらを召し上がってお待ちください」
ヨリがとりあえずと言って、塩おにぎりやお茶を出してくれる。昨夜夕飯を食べずに寝たことをこんなに気遣ってもらえるなんて。おじさんは実に幸せ者だ。
ついさっきまでは、朝食までソフトクリームでも食べて凌ごうかと思っていた。しかし、思いがけないヨリの嬉しい配慮に、お馴染みの“ついうっかり意図せず体が勝手におじさん”が発動し、自動的に抱き着いてしまう。これは許されざる事案。でもわざとじゃないんです。
「ふぇ~」
被害を受けた彼女はへなへなの声を上げる。もしもし、おまわりメェンヌ。毎度おなじみ私です。私なんです。
「うう……ありがとう。ヨリのお気遣いにおじさん涙が溢れそうですよう」
「い、いえぇ。どういたしまして~」
今は朝の忙しい時間だ。これ以上貴重な戦力を拘束するわけにはいかない。
すぐヨリを解放して、手を合わせてから大人しくおにぎりをいただく。絶妙な塩加減とにぎり具合で作られたヨリのおにぎりは、具におかか梅の練り物が入っていて、とてもおいしかった。
若干ぽやんとした感じのヨリが、作業へと戻ったすぐ後。リビングからユカリとリエの話し声が聞こえはじめ、間もなくふたりはダイニングへ入ってくる。
「おはよう」
「おはようございま~すですよ~!」
リエは元気に挨拶をすると、自分の隣でころんと横になり、膝の上に頭を乗せてくる。続いてやってきたユカリが、シートに寝転がりながら甘えるリエを奪い取り、自身の膝元に座らせた。
「ふたりともおはようさん」
「ええ。今日は大丈夫みたいね?」
「はる様お元気になったですね~」
ユカリとリエが昨日とは違う自分の様子に気遣いの言葉を掛けてくれる。皆に心配をかけていることが申し訳なくなる。
「やっぱりユカリも気づいてるか。ありがとうユカリ。リエも心配してくれてありがとうな」
「えへへ~」
「もう、今更でしょ。あんな様子の晴一に気づかない子なんて、あなたの周りにいるわけないじゃない」
バレバレである。ユカリの言う通り、これだけ時間を共にしているのに、気づかない方がおかしいというものだろう。彼女たちからすれば、昨日の自分の状態は、ゾンビが徘徊しているように見えていたかもしれないし。
「そだよな。一日中ぼ~っとしてたし。おじさん皆に大事にされてて嬉しいよう……」
「はいはい。普段からぼーっとしてるとは思うけど、それでも昨日よりはましって感じで何よりだわ」
いつものユカリによるトゲトゲ舌技がチクりと刺さる。そんなぼーっとしてるかね。
「リエ~、ユカリ姉ちゃんが酷いんだよう」
そうリエに泣き付くと、すぐさまユカリはリエに諫められ、おじさんは無事ユカリからの謝辞を得る。
少し温くなったお茶を飲み、意外と長いリエのお説教で小さくなっているユカリを眺めている間に、キッチン組の三人が朝食を持ってきてくれた。ここで皆そろったので、“いただきます”をして今日も朝食となる。なんかユカリには睨まれているけど気にしないでおこう。
◆ ◆ ◆ ◆
今から約六時間前に、動力制御区画への到着を果たしていた車両を降りて、保守管理区画で行った操作と同じ作業へ取り掛かる。
ここ動力制御区画ではセキュリティ形式が異なるため、作業前に非常用電源を復帰させる必要はない。その代わり、動力制御区画管理AIの量子脳を再起動した後、更に転換機構の起動チェックを行わなければならないようだ。
リエの情報によれば、ここは他の区画よりも遥かに堅牢な作りとなっているそうで、損傷が発生している個所はないと思われる。しかし、転換炉を手動で起動した後、復旧したAIに運転管理を引き継がせるなどの手順が必要らしく、AIの再起動だけでは復旧は完了しないらしい。
MAPで見ると、転換機構は隣の部屋にあるので、量子脳の再起動操作を終えた後、一行は格納プール室からさらに奥へと作業場を移す。転換機構のある場所までは、格納プール室から、全長約二百メートルの真っ直ぐな通路を通って行くことになる。目の前にある通路は、壁面につなぎ目などもなく、くりぬいたように滑らかな作りをしていた。通路の先には広い空間があるようだ。
改良されたユカリセット展開して、HUDで望遠をかけてみると、通路を抜けた対面の壁までは八百メートルほどあるらしい。更に、転換機構のある空間をMAP上で確認すると、直径六百メートル程度の円筒状になっていることがわかる。
とりあえず、ここまでは危険もないようなので、通路の入り口付近まで歩みを進めてみることにした。するとそこで、突然ヨリとユカリから止まるように声を掛けられた。それとほぼ同時に、HUD上には注意喚起アイコンが表示され、廊下の壁面や天井、そして床に至るまで、黄色の警戒色で描画された無数の四角形が現れる。四角い黄枠に付く注釈によれば、壁の内側には、侵入者に対する阻止装置が埋め込まれているとあった。
しかし。どういうわけかこの阻止装置は、自分たちを排除しようとしているようだ。
「やっぱいかにもって場所には、大抵こういう問題が待ち受けているもんだな。しかしここは正規ルートなのになんで歓迎されてないんだよ」
「うん。それがおかしいのよね……。セキュリティが起動していること自体は問題ないのだけれど、こちら側には解除用の操作パネルがないの。このまま通り抜けても、私たちに損害を与えられるとも思えないけど……。ここは警戒するべきだと思うわ」
ユカリは瞬時に阻止装置の分析を済ませ、そんな結果を伝えてくる。しかし、ここで自分は例のシーンが頭を過ぎり、足が竦む。
「……ところで。この阻止装置のスペックは把握しているのかい?」
「一応仕様データは持っているけど、恐らく私が現役の頃と変わっていないはずよ」
ユカリの言葉を疑うわけではないが、どこか引っかかるものがある。
念には念を入れたいため、リエにユカリや自分と同程度の防御機構を持つ囮となるUAVの作成を頼んだ。リエは、例の謎に包まれた装置を取り出して自分のオーダーを実行し、あっという間にUAVを作成してくれた。
自分は、完成したばかりのそれを受け取り、長い直線状の通路目掛けて思い切り投げ込むと、バレーボール大の球体は手を離れた位置で高度を固定された。勢いを保ったまま、球体空中を一直線に進んで行き、通路へ進入する。いや、進入できたかどうかは分からない。UAVが境界を越えた途端、通路の先の風景が暗転したため、姿が見えなくなってしまったのだ。
その直後。新幹線の警笛めいた高音と共に、通路との境界が眩しい閃光を放つ。やがて視界が回復すると、UAVは消滅していた。同時に通路からは突風が巻き起こり、軽いオゾン臭を感じた自分のHUDには、大気汚染警告と放射線量増加による耐環境保護機能の起動が告知されていた。
「そんな……」
ユカリは驚愕の表情をしている。何が起こったのだろうか。
「これは……。あのまま踏み込んでいたら、私たちも危なかったということですか……」
ヨリはユカリの手を握り、やはり驚きの表情で通路を見つめている。
主観時間伸長機能を使い、今の現象を録画していた自分は詳細を確認するため、HUDを操作して映像をリプレイしてみる。そこで隣に来たリエが左手をそっと握ったので、優しく頭を撫で返す。
映像には、UAVが通路の境界に到達すると同時に、通路内壁が三センチほどの深さで斜めに落ち込むように開き、射出口のような物が全面に展開される模様が映っていた。そこから、通路内の空間を埋め尽くすほどの小さな飛翔体が斉射され、一瞬でUAVは飲み込まれてしまう。
先ほど通路の先が暗転して見えなくなったのは、飛翔体の数があまりにも多すぎて、ほぼ完全に向こう側の光を遮ってしまったからだった。
「これはえげつないな。しかし、みんなはこんな映像を普段から見てるのかね」
何度も映像を操作しながら、誰に言うでもなくそんな言葉を口にする。
非常識なまでに分解を受けた高フレームレートの映像を見て、電子の目が生み出す視界に今更ながら驚愕してしまう。
「分析や解析をする場合はそうだけど、普段から主観時間を引き延ばすようなことはしてないわよ。普段の生活じゃ無駄なエネルギー消費になるもの」
「私も最近こういうことができることを知ったばかりなので……」
ヨリとユカリが発した言葉と共に、リエとチカとムツミの三人も無言で首を横に振る。皆も流石に日常的にはこんなことしていないようだ。そりゃあたりまえか。
しかしこれはどうしたものか。ユカリの詳細な解析によれば、UAVを分解するのに射出された飛翔体の数は、一千万発以上。その正体は、秒速八キロメートルで射出される、直径六ミリの球状をしたナノマシン知能弾だ。
飛翔体には物理保護が施されていて、それにより攻撃対象の物理保護領域を相殺侵徹する。目標への弾着後はナノマシンが発動し、分子ないし原子レベルで分解を行うという攻撃手段であるとのこと。
新たに受け取ったユカリセットでも、数千発程度なら全く問題はないのだが、このように膨大な波状攻撃を浴びせられては、ひとたまりもない。この規模の射出量では、たとえ戦闘艦クラスでも、確実に全装甲を抜かれてしまうそうだ。そしてこれは、かつての大戦で、主に人類勢力が用いていた一般的な武装であるという。
しかし、こんなものがセキュリティ機構に組み込まれていることを、ユカリは知らなかったと言う。これは想定外の事態だ。
「私が持ってる仕様情報ではこんな設備じゃなかったはずよ。普通ここのセキュリティには、強烈な運動エネルギーを与えて対象を破壊する通常型の武装が使われているはずなのに。なぜこんなことになってるの……」
ユカリは不安げな顔をして、また弱気になってしまっていた。
愕然としているユカリの肩を抱くヨリは、困り顔で自分へ助けを求めている。自分はふたりへ足早に近付き、ユカリをひょいと持ち上げて御姫様抱っこをする。そうして子供をあやすように、二、三度その場で回転してから彼女に言う。
「仕様にはなくても、現に目の前にある物はしょうがない。って駄洒落じゃないからな。それに戦争に使われた兵器だっていうなら、何か対抗する手段だってあったんじゃないの。撃ちっぱなし撃たれっぱなしってわけでもなかったはずだろ。ほら、落ち着いて考えてみよう。な?」
いまこそユカリの知恵が必要なときである。きみ考える役。ぼく実行する役。ユカリはいわば作戦参謀なのだから、こんなことでへこたれられては困るのだ。
腕の中で狼狽えるユカリをそっとおろして、「もっと自信を持ってくれ」とユカリの頭を優しく撫でる。すると皆も、不安な顔をしているユカリへ期待の視線を向けた。
「……あーもうっ! くだらないこと考え過ぎね! これはかなり難しいのだけれど、方法がないわけではないのよ」
ばんばんと頬を両手で叩いて、ユカリは対応策があることを説明しはじめた。
ここにある阻止装置が使用する飛翔体には、味方への誤射対策が施されている。この機能は、流れ弾などで飛翔体が味方に命中した際、損害を出さないようにするための措置だ。大まかに言えば、着弾直前に自己分解して、保持する各エネルギーを拡散させるという仕組みらしい。分解された後は、当然飛翔体が纏う物理保護領域も消失するため、射線上にある対象の物理保護領域を侵徹することもなくなる。
先ほどの攻撃が通路と格納プール室との境界で閃光を放ち、甲高い音と共に消滅したのは、施設の破壊を免れるために、飛翔体が自己分解した結果だったのだ。この自己分解機能は、飛翔体自身が敵味方識別コードを読み取ることで発動するため、飛翔体側からの返答要求コードを逆算して偽装すれば、理論上誤認させることも不可能ではないという。
そこで自分は、リエに敵味方識別装置の作成はできないかと聞いてみる。
「とっても残念なのですが、はる様……。この装置でも、だれも知らないものは作れないのですよ~」
しょんぼりした様子でリエはそう答えた。ごめんね、知らずに無茶言って。
「ありゃあそうなのかい。そしたらユカリも知らないの?」
「ええ……。兵站AIが起動してれば、もしかすると情報入手はできたかもしれないのだけれど」
「そっか。やっぱ、そううまい話はないってわけか……」
現状では、やはりコードを偽装をするしかないようだ。
ただ、識別コードは数ミリ秒ごとに暗号化のアルゴリズムを変更しているため、偽装をし続けるのには、高速な演算能力が必要になるらしい。そして、この阻止装置から放たれる飛翔体の密度に対して行える偽装面積は、ユカリの考えうる手段の限りを尽くしても、人ひとりがギリギリという程度しか確保できないという。
そういった事情から、リスクの方が大きいと言わざるを得ない回避策に、ユカリは怖気付いてしまい回答を渋っていたのだ。
「なんだ~。不可能じゃないじゃないか」
「あんたねぇ! ちゃんと私の話を聞いてたの? 少しでも不備があれば失敗するのよ? 失敗すれば死んじゃうのよ? さっきのUAVみたいになっちゃうの! そのくらいギリギリなのよ!?」
結局のところユカリが導き出した回答は、ここにいる演算可能な要員と、先ほど起動した動力制御区画管理AIの量子脳。それから社システムと五十人の仲居ヨリたちによる演算補助を用いて、ようやっと実現できるというものだった。
つまりそれは、演算能力のない自分が、必然的に通路を抜ける役目を担うことを意味している。心情的にも理屈的にも、この役目は誰にも譲ることはできない。
「でもできるんだろう?」
「そうじゃなくて! 危険がないわけじゃないって言ってるのっ!! 私たちAIの量子脳や仲居ヨリの模擬量子脳は、複雑な計算のループには向いていないのよ。だから……少しでも演算処理が間に合わなくなったら……」
ユカリは怒り泣きのような顔で自分を見ている。他の皆も気持ちは同じなため、沈痛な面持ちになっていた。
しかし、絶対的にこの通路を抜ける役目を担うのは自分しかいない。なぜならば、通路を抜けた先にあるセキュリティ解除パネルで認証操作を行うには、管理者権限が不可欠だからだ。ならばどうあがいても、ここは自分が行くしかないのだ。こればかりは覆らない。
「危険はあってもやるしかないことに変わりはないだろう? 他に手が無いならどうしたってこれは俺がやらなきゃダメなんだし」
「っ――でも……」
「ユカリ」
言い淀むユカリにヨリが声を掛ける。
「晴一さんは行くと決めていますよ? ならば私たちは、しっかりサポートして送り出すべきではないですか?」
ヨリは真剣な眼差しでユカリを諭すが、そんなヨリの言葉にさえ、ユカリは躊躇いを見せている。なかなか踏ん切りがつかない様子のユカリに、心配顔のリエが近付いたとき、意外なところから声がかかった。
「ユカリ様は私達のお役目をお忘れでしょうか」
「私共がここにいる理由には、晴一様の要望に応えるというお役目も含まれるのではないのですか?」
まさかの声の主はチカとムツミで、ふたりはユカリに意見具申をしていた。
「少なくとも私とムツミは、晴一様の要望に確実にお答えするために存在していると思っております。またそれらを完璧にこなしていると自負もしております」
「それは私達をお作りになられたユカリ様も、同じものだと認識しておりましたが。それは間違いなのでしょうか」
ふたりがここまで強い口調で、縁に対して意見を言うなどとは、まったく思っていなかった。まさかの事態に皆驚くばかりだ。
「「はっ! 気づけば衆人環視のさ中で御座いました。簀の子の下の舞の身でありながら皆様より脚光を浴びるなど、片生いの極みで御座います。出過ぎた真似をいたしました。申し訳御座いません」」
つい今まで個別に意見具申をしていたと思えば、今度はふたり口をそろえてスッと身を引き、いつものチカとムツミに戻ってしまう。
突如として豹変したふたりに、全部持っていかれたことで張り詰めていた空気も緩んでしまう。これには、ユカリも気をそがれてしまったようだ。
そうして普段より控えめになったチカとムツミに対して、しばらく胡乱な視線を向けていたユカリが、やがて大きなため息をつく。
「はあ。わかったわ……。ここでもたついていても、問題が勝手に解決するわけじゃないものね。それとほかに手段があるわけでも無し。気乗りはしないけれど、やるだけやってみるわ……」
ユカリはしぶしぶ了承した。やっとだよ。
「おっそ。ユカリおっそ」
「なっ、なによー! 私はあんたの身を心配して言ってるんじゃない!」
「うむ、それはよ~くわかっとるよ。ユカリは心配性で優しい子だからな。俺はよーくわかってる」
そう言ってユカリへウインクをすると、ユカリからは嬉しそうなキモイという声が返ってきた。キモくねえし。
ユカリの試算結果によれば、大量に撃ち込まれる飛翔体の弾幕に対して、識別コードを偽装可能な時間は約一・三秒。どうあってもそれ以上の猶予は捻出できず、社のシステムや仲居ヨリたちがもたないということだ。
それを聞いた自分は「やべぇ失敗した」と内心思ったが、やると決めたからには引き下がるわけにはいかない。これは自分にしかできないことだし、どうせなるようにしかならないのだ。ここは腹をくくって、ユカリのプランに耳を傾けるのが妥当だ。
「せめてもう一基、量子脳かそれに近い演算機があれば良かったのだけれど……」
ユカリの言葉に、「アハハ」と笑うポンコツな姿が脳内イメージとして飛び込んで来た。
だが、そんなものユカリが納得しないことは明らかなため、早々に思考の遥か片隅へとご退場願う。自分も極力アレの世話にはなりたくない。
「ところで。晴一は百メートルを何秒で走れるの?」
「自慢じゃないが俺は百メートルを五秒フラットでどうたらこうたら」
「そんな漫画みたいな設定は聞いてないわ。大体十五秒くらいよね? そういう事にしておくわよ?」
軽く流されてしまったが、自分の足でも、成人男性の平均くらいはカバーしているはず。……だとは思う。
それにしても。ユカリは紛れもなくヤツを知ってるようだ。
「晴一の足が平均より多少遅くても、六十倍くらいまで速くなれば音速は超えるはずだから、一秒あれば余裕ではあるのよね。以前飛んだり跳ねたりして遊んでいたあの使い方の応用よ? 運動機能の強化補助と慣性制御、靴底の摩擦係数制御、物理保護による空気抵抗の無効化と推進力の補助……大体こんな所かしら。ちゃんとできるわよね?」
そうユカリに聞かれたので、とりあえず格納プール室で動きを練習してみる。
室内は円筒なので、最も長い距離となる二つの対称点をHUDに表示させてから、壁に足を当てたクラウチングスタートポーズで走り出してみた。すると、一歩進むか進まないかくらいのタイミングで、反対側の壁に激突してしまう。AIによる姿勢制御のおかげで、自分は背中から対面の壁へ逆さに張り付いた。そこで主観時間を切り替えていなかったことに気づいたが、今更手遅れだ。
それに伴って、発走直後に発生した衝撃波が室内に轟音をとどろかせ、瞬間的な暴風が生じる。すると、ヨリとユカリは着物の裾がめくれてパンツが丸出しとなり、ラッキースケベ現象が巻き起こった。これは嬉しいチェインリアクション。いや別に喜んではいない。
さらに、格納プール室内には施設保護警告のアラームとアナウンスが流れ、これ以上の施設への攻撃が行われると、防衛機構による排除が行われると勧告を受けてしまう。区画の基本管理システムがおこである。
「まあ……アレだ。これからやることの感覚はざっくりと掴めたよ。うん、大丈夫」
言いながら床に降りて、よろよろとユカリの元へ戻る粗忽者おじさん。
「はぁ。ざっくりとじゃ困るのだけど……」
なんかもうどうでもいいわという感じで、ユカリには呆れられ、ヨリとリエにまあまあと慰められてしまった。だってしょうがないじゃん。
ともあれ。何をどうしたって、二百メートルの直線を一気に駆け抜けるだけの簡単なお仕事である。あとは皆のサポートを信じ、事に挑むだけだ。大丈夫。天井の染みを数えてる間に終わるさ。
でも失敗したら染みも残さず消えるんだろうなあ。
「んじゃ行ってくるから。タイミングはユカリの方で寄こしてほしいかな」
「わかったわ」
真面目な顔になったユカリは、いつものように透過コンソールを展開し、ヨリはユカリの背後から抱き着く。チカとムツミはヨリの肩などに手を置いて、間に入ったリエと手を繋ぐ。こうしてちびっ子たちの間には、簡易的な接触型超超高速通信網が完成された。らしい。
動力制御区画の量子脳と社システムに加え、五十体の仲居ヨリと同期が取れたことを確認したユカリは、準備が出来たことをHUD越しに伝えてくる。それと共に眼前には、十秒前から始まるカウントダウンが表示された。先ほどと同じく、クラウチングスタートの体勢になった自分は、運動会や体育祭で走った短距離走のスタート場面を思い浮かべ、その瞬間が来るのを待つ。
やがてカウントはゼロになり、時計はプラスカウントへ移行して、スケールはミリ秒へと切り替わる。それと同時に、同期されたユカリセットが主観時間を自動的に引き延ばし、自分はただ全速力で駆け出した。
HUDには秒速四百メートル超えの速度が表示され、部屋と通路の境界を越えた途端、周囲の内壁から黒い靄のように飛翔体が沸き上がる。それと同時に前方の視界は完全に閉ざされた。しかし次の瞬間。偽装コードを受けた飛翔体は自己分解を起こし、暗闇だった前方が閃光に包まれて真っ白になる。するとヘルメットのシールドが暗転して、肉眼では確認できなくなった進路をHUDで示してくれた。
分解が間に合わなかった飛翔体のかけらを、物理保護領域で方々へ弾き飛ばしながら、ゆっくりと流れる主観時間の中を、|超高速のスローモーション《・・・・・・・・・・・・》のような動きで素早く駆け抜けていく。この絶妙に奇妙な感覚は斬新で、自分は少しワクワクしていた。少しでも演算が途切れれば、おじさんなんて塵ひとつ残さず消し飛ぶのにね。
砂漠の砂嵐の中を移動したら、こんな感覚なのだろうか。などと思ながら走り続けると、突然視界が開けて通路を抜けたことがわかった。そこで自分は急速反転して、這うような姿勢で制動を掛けた。停止したその場で視線を上げると、同時に通路からは強烈な衝撃波と、それを追いかけてきた暴風が吹き出す。生身であれば、間違いなく吹き飛ばされていた。しかし、ユカリセットの物理保護領域は、それらを難なく逸らしてしまう。
しばしごうごうと噴出していた風もやがて収まり、ふと自分はスタート地点に目をやる。通路の向こう側では、皆が歓声をあげながら手を振っていた。自分もそれにこたえて、両手を大仰に振り返す。そこで出入り口の傍らにある端末が目に入り、セキュリティの解除認証を行った。
◆ ◆ ◆ ◆
自分が無事通路を抜けてから数分後。ようやくといった感じで転換機構のある区画までたどり着いた一行は、手動制御室と表示のある一室で茫然としている。
阻止装置で溢れかえる通路を無事抜けた残りのメンバーと共に、ユカリの案内で訪れたこの部屋で、作業内容確認のために起動した操作端末の手順を見てのことである。
「コレぇ~。全部やらなきゃダメなのかあ……」
「ええ……。そのようですね……」
室内にはふたり一組になり、コンソールを起動して手順の内容を確認している面々がいる。そんな中で、自分とヨリも一つの画面を凝視してため息を漏らしているのだ。
「いくらなんでも膨大過ぎるだろこのリスト。総数四千八百ヶ所ってなんだよ。しかもたった六人で、この広い空間を手動で調べて回れって。冗談キツイなあ。はっはっは」
おじさん若干現実逃避。
「はぁ、これは思っていた以上ね」
「ですねえ……。ぼくの装置で自律機械を製作すれば、少しは省力化できますけど。それでもこの数では圧倒的に手が足らないのですよ……」
概略によれば。用意された専用端末を使用、若しくは個人の補助端末に専用アプリケーションを導入し、設備各所の数値やセンサー類などをユニットごとにチェックしてゆく。その後、動作試験結果の可否をこの部屋の制御端末に反映させる。ここでの作業はそんな手順になっていた。
そしてここのシステムは、エリア内にいる人員の数を把握しているらしく、作業所要時間は約三十時間と表示されている。しかしながら、この工数にしてこの予想時間は、かなり短い気がするのだ。
「いや確かに俺達には有り余るほど時間があるけども……。けれども!」
「流石にこれはという感じですね……」
隣のヨリもそう言って苦笑している。
ユカリの方はというと、やはり小言を言いつつ、頭を抱えたりのけ反ったりしていた。 対して、リエとチカ&ムツミの三人は静かなもので、淡々と手順を読み込み頭に入れているようだ。あるいは、それぞれエリア別の段取りを組んでいるのかもしれない。
「大がかりな作業は辛いなあ。これはヨリチャニウムが不足してしまうかもしれない」
冗談めいた独り言を呟き、タッチパネルの項目をめくっていると、隣のヨリが「はい」と言って目をつぶり、直立不動になった。どうなさったのかしら。
「え、どしたの突然?」
「いえ……あの、不足してしまうと言われたので……」
「あ! やったー!」
おじさんはお言葉に甘え、近くにあった椅子を端末の前に移動させ、ヨリを膝にのせて作業を続けた。ふたりで画面を確認していたら、リエを背負ったユカリがやってきて、こんなときにいちゃつくなとぷりぷりしはじめる。
「もう片方膝が開いてるがどうするね? 先着一名。早い者勝ちだぞ?」
「……リエもいるのよ? そのスペースじゃ無理よ」
スペースが許すならと言わんばかりに、迂遠な言い回しをするユカリ。
そんなユカリの言葉を受けて、背中を降りたリエは、自分と対面するように座って、「これならユカリねえ様も座れます~」と元気に言う。
だが、その絵面を見かねたユカリが「はしたない!」と叱りつけ、結局リエを抱いて膝に座るという格好で落ち着いた。いきなりユカリから注意されたリエは、なぜ自分が怒られたのか分からないといった顔をしている。自分もリエの気持ちは良く分かる。しかしユカリの言い分もすごくよくわかる。
それにしても、この座り方で長時間過ごすと両足が痺れてしまう。ユカリを誘ったことを少し後悔した。
「あー、うー、おー……。心が折れそうです。折れそうだけど、ここでめげててもしゃーない。とっととやることをやってしまおう。どうせ転送装置は確保してあるんだし、なんなら社から通えばいいんだし~」
などとボヤいていたら、ユカリから突っ込みが入る。
「何言ってるの。手順書の冒頭に書いてあったでしょ? 転換炉を起動させないとこの区画を出られないって」
「え? うそーん!? まじで?」
自分は端末に表示されている手順書の項目を先頭まで戻し、じっくりと説明文に目を通し直す。
“セキュリティの仕様上、このエリアの復旧作業が完了するまでは、保全要員が退出することは認められません。そのため、当区画へ接続された各連絡路は、作業完了時まで完全封鎖されます。尚、封鎖期間中に何らかの方法を用いて強行退出されますと、法令により処罰の対象となりますのでご注意ください。また緊急時の対応については――”
「……何と言うことでしょう。基本的に問題が起こらない限りはここから出られないのか」
更にページを読み進めると、施設の完全な見取り図が表示されて、福利厚生設備を利用できることが判明する。とりあえず、ここでも衣食住に困ることはないようだ。
それから、社と同等までとはいかないものの、そこそこ広い売店エリアが併設されたカフェテリアなどもある。二十四時間利用可能な風呂もあるし、なかなかの好待遇ぶりのようだ。
「囲い込む気満々じゃないか。確かに助かるけどさ……」
「晴一さん、すごいですよここ。キッチンスペースがあります! これは腕を振るいたくなります!」
台所関連に絡む情報を得たヨリが俄然やる気を出し、珍しく鼻息を荒くする。見れば、チカとムツミも口元に謎の笑みを浮かべ、目を爛々とと輝かせていた。三人がこんな態度を見せる初めてなため、おじさん面食らってしまう。
この好待遇は、復旧できるまでは何日でも滞在したまえという設計者の思し召しか。それとも、ここには住み込みの管理者がいたのだろうか。いや、これだけ自動化が進んだ設備に、人の常設要員など必要だろうか。色々と謎と文句は尽きないが、ここにいる以上、それにあやかるのが最善であろうことは、火を見るより明らかだ。
その一方で、がた落ちだった自分のモチベーションも、ゆるやかに通常状態へ戻りつつある。滞在に不自由がないなら頑張れそう。心からそう思う現金おじさんであった。