参拾弐 ~ エニグマ ~
今日はもういろいろあり過ぎて、やる気が失せてしまった。なので、予定していた作業を中止して休みにしようということになった。
突然生じたこの暇を、どうしたもんかと皆で話していたところへ、昼食を持った中居ヨリたちが現れ、配膳をはじめる。とんでもない事件が起きたせいで気づかなかったけれど、昼などとうに過ぎ去って十四時台に入っている。時間を頭が認識すれば、腹が飯を催促し始めるのも当然の流れか。
やがて座卓の上には六人分の膳が並べられたが、六人全員が席に着くと狭く感じる。
「人がふたりも増えると、流石になんだな」
「ええ……。割と大所帯になったわね」
現在、せいぜい四人掛け程の座卓を、自分、ヨリ、ユカリ(仲居ヨリ改)、リエ、W仲居ヨリの計六人で囲んでいるのだ。座面はまだしもだが、卓上に物を置きはじめると、あっという間に窮屈になってしまう。
今日からは、ひよこの間専属仲居ヨリのふたりもここで生活するため、このままだと今後ずっと窮屈を強いられることになってしまう。これは由々しき問題だ。
「そうですね、これは手狭といった感が否めませんね。うふふ」
なんだか楽しそうなヨリが小さく笑いつつ言う。きっと家族が増えたようで嬉しいのだ。自分も嬉しいから、その気持ちはよ~くわかる。わかるよ~。
人数が増えたのは喜ばしいことだ。しかし依然として座卓は狭いままである。どうしたものかと思っていると、座卓の短辺で向かい合わせで座っていた仲居ヨリが立ちあがり、ふたりで座卓を持ち上げた。すると、座っていた座布団や座椅子が勝手にスライドして、四人は周囲から少し遠ざけられてしまう。
「えっナニコレ!?」
「ひえ~」
「わ~い楽しいのですよ~♪」
並んで座っていた自分とリエは、そのまま座椅子の上を動かなかったが、対面にいたヨリはすぐに立ち上がり、座布団を抱えておろおろしている。かたやユカリは、涼しい顔でお茶をすすっていた。
突然の出来事にろくな対応もできず、成り行きを見守っていると、中居ヨリのふたりは座卓を持ったまま後退する。それに伴い、引き延ばされるような形でそれは長さを変え、お互い数歩下がった位置で床へおろされた。同時に着座位置が滑って元の場所へ戻る。こうして長くなった座卓の上には、必要十分なスペースが確保された。
「なんと」
「ええーっ!」
ヨリは驚き、びくびくとこちら側へやって来て隣に座る。ユカリはざわつく自分たちを横目に平然とお茶を飲んでおり、リエは「ぼくもできますよ~」と、はしゃいだ。
続いて中居ヨリのふたりが自分たちの反対側の長辺へ移動して、卓上にあった膳の配置をシュババと変更し、昼の食卓が完成する。
「言い忘れていたわ。この社内では、あなたたちもこういう機能はいくらでも使えるから覚えておいてね」
やはり湯呑を持ってこちら側へ移動してきた来たユカリが、当たり前のようにそんなことを言う。
「てことは、俺にもできるのコレ……」
「むしろ晴一が一番いろいろできるのだけど? とはいっても、人間用のインターフェースは設定されていないから、そのままでは難しいかもしれないわね」
彼女たちは専用の入出力機能を備えているので、処理したデータを社のシステムに投げれば、あとは社が対応してくれるという。これは記憶や機能を共有しているヨリにも可能だ。
しかし、自分はただの人間なので、そういったインターフェースを備えていない。なので、同じことをしたいときは、ユカリセットを展開してからサイドポーチを使用する場合と同様に、イメージングを行わなければならないようだ。ひと手間面倒。
人間のイメージはかなり曖昧なため、情報の揺れが激しい。ある程度のひな形や、コンパレート機能が搭載されたサイドポーチはともかくとして。そういった機能のない社で、生身のままこれを使うとなると、相当な訓練を積まなければまともな運用はできそうにない。
例えるなら、エスパーを目指す少年少女たちが、日々スプーン曲げの訓練に励むようなものだろうか。今どきそんなをことやっている子供はいないだろうけど、こちらの方が実現性はある分だいぶましかも。
「なんだよー。じゃあ俺どうすればいいんだよー」
「あんたねぇ、何のために私たちがいると思ってるのよ? 別にそこは自分一人でやらなくったっていいでしょう? 晴一の希望ならば、ここにいる全員がふたつ返事で引き受けるわよ、まったく」
ぶーぶー文句を言っていると、ユカりは呆れたように返す。
その言葉にはっとした自分は、座卓を囲む面々を見渡した。皆は自分に対して一様に笑顔を向けているではないか。そこには当然仲居ヨリのふたりも含まれている。それが一番驚いた。
「うん……。そうだな。ちゃんと頼るようにしなきゃ、だな」
「もう。ほんと抜けてるというか。それとまた辛気臭い顔になってるわよ? もう今日はもうそういうのは止めにして、さっさとお昼を食べちゃいましょうよ」
頼もしいユカリの言葉に気を取り直し、皆で“いただきます”をして、おまちかねのランチタイムに入る。
今日のお昼は今までとは趣が違った。座卓中央の大皿に重ねられたレタスなどの葉物の上に、様々な揚げ物がうずたかく積み上げられているのだ。そこへ個別に汁物や漬物の小鉢類が数点付いているため、旅館の食事というよりは、皆でおかずをつつきあう家族団らんのような風景になっている。こうしたアットホームな雰囲気を味わうのも、久しぶりな気がした。
大量の揚げ物タワーとご飯を、猛烈な速度で交互に消費してゆくのは、ユカリとリエのふたりであった。時折リエが、ぽろぽろとご飯やおかずをこぼすので、彼女の両隣に座るヨリとユカリが何かと世話を焼いている。それにしても、ここのAIたちは皆食いしん坊なのだろうか。
「ユカリ。黙々と食べているところ悪いんだけど、リエのこの姿もやっぱりガイノイドに当たるの?」
「そうよ~。もともとは彼らとの対話をするためのインターフェースだったようだし、生成装置も各AIに割り当てられているから、初期設定では一人格に一体までの生成が許可されているわね。ただ仲居ヨリたちは、私が別途作成した生成装置から出力したものだから、正規のインターフェースではない……わ……」
そこまで話すとユカリは突然口ごもり、気まずそうな表情で先を続ける。何事か。
「それから……これは本当に意味が解らないのだけれど。正規のインターフェースボディは……こ、子供も産めるのよね」
ユカリが赤面甚だしいといった表情で、驚くべきことを口走る。やたら目が泳いでいるけど、大丈夫かな。
「What?」
「なあぁっ! 二回も言わせるんじゃないわよ! あんたがさっき変なこと言ったから余計に意識するじゃない!!」
箸の先端を自分に突き付けて、ユカリが叫ぶ。
ああそうか。子供が三人云々のことか。ただの冗談だったのに結構食らってますやん。
「ユカリさ――ユカリ。お行が悪いですよ」
そして流れるようにヨリに怒られた。
「う。そうね、ごめんなさい、ヨリ」
「なんだそれ。俺の時と全然態度が違う」
明らかにユカリは、ヨリに対して素直だ。
ということはつまり、あのポンコツAIのインターフェースも同じということか。しかし、ユカリの言ったガイノイドでありながら、子供が産める機能とはどういうことなのだろう。彼らはそういった変態的な趣味でも持っていたのかな。
流石にその考えは飛躍が過ぎるし、彼らにも失礼なので撤回するが、それにしても彼らとは一体……。疑問は深まるばかりだが、とりあえず今は目の前の昼飯である。
自分は取り皿に乗せた揚げ物にレモン果汁やソースをかけて、黙々と箸をすすめた。
◆ ◆ ◆ ◆
「ああ、揚げ物はやばいなあ」
毎回毎回食べ過ぎて、腹が苦しくなるたびに畳の上でごろごろしてしまう。そして案の定ヨリに諫められ、しぶしぶ起き上がる。
「はる様にだーいぶ!」
「うぼぁ!」
身を起そうとしたそのとき、はしゃいだリエに飛び乗られた。
尻から落ちてきたリエは腹部へ突き刺さり、自分は潰された蛙のような声を出す。といっても実際にはそんなもの聞いたことないから、多分こんな声なんだろうなあ。
「あああリエ! そんなことをしたら晴一さんが大変な事に!」
「うぬぅ……リエ……そう暴れられては中身が出てしまう……うごご」
リエはその見た目とは裏腹に、かなりしっかりした子だが、見た目相応に活発な女の子であるようだ。だがこのタイミングでのやんちゃは勘弁してほしい。幸い腹筋バリアを最大出力で展開したため、大事には至らなかったけれど。もっと鍛えたほうがいいかな。
インパクトの瞬間は何とか耐えたけど、満腹状態では継続的な圧迫には耐えられそうにない。大喜びなリエを乗せたまま決壊寸前で悶絶していると、見かねたユカリが腹上のリエを持ち上げて座卓の方へ連れて行く。正直助かる。
「駄目よリエ、晴一が壊れちゃうから。これ以上使い物にならなくなるとお姉ちゃん困っちゃうの」
まことに遺憾である。
軽いリエの体重では、言うほどのダメージはないので問題はないが。ユカリのひどい物言いで心に深い傷を負ってしまった。今夜も枕を濡らしてしまうかもしれない。まあ、過去一度だってそんなことはなかったけれど。
おじさんはやっつけられてしまったため、そのまま畳でごろごろを続ける。そのとき、部屋の隅に置かれたリエの大きな背嚢が目に入った。リエの体積より遥かに巨大で、キスリング型をした重そうなオリーブ色の背嚢は、その威容を誇るかのように畳の上に鎮座している。あれには何が入っているのだろう。
「おーいリエ~」
声を掛けると、彼女はすぐに自分の所にやってきて、再び腹上にダイブしてくる。彼女のロックオンは、まだ外れていなかったらしい。
「ぬふぅ!」
「あああリエ、またそんなにしては晴一さんが……」
「いや、大丈夫。心配ないよ。うへへ……」
おろおろしているヨリに大事ないことを伝え、リエに背嚢について聞いてみる。
「ねえリエ、あのリュックって何が入ってるの?」
「ぼくのリュックの中身ですか? はる様見たいですか?」
「うん、超見たい」
「はい、わかりましたのですよ~♪」
リエは背嚢のそばまで行くとひょいと片手でそれを持ち上げ、自分の近くまで運んで来きた。背嚢を床へ置くとただならぬ振動が発生し、その質量に驚愕する。彼女は早速キャンバス生地のような背嚢の蓋を開け、中の紐をゆるめにかかり、ズボンを脱がすようにその重たい中身を取りだして見せた。出てきたのは、直通列車内部で見た立体出力装置を小型にしたような、謎の機械装置だった。傍らでその模様を見ていたヨリは、出てきた物の大きさに目を丸くしている。
「これはぼく専用の装置でして。その名も物体操作再現装置という物なのですよ」
装置名を言うと、リエは腰に手を当て、小さな胸を「えっへん!」と反らす。耳慣れない単語が並んだ正体不明の装置は、無から物質を生み出して様々な物に加工できる、リエだけが扱える特別な装置だということだ。得意げな彼女がそう教えてくれた。
「ん~……どゆこと?」
「さあ?」
リエは本当に分からない様子で、にこにこしながら首をかしげている。そこでユカリにヘルプを出す。
「リエの担当する装置なのは分かっているのだけれど、仕様に関する情報が一切ない装置だから本当にわからないのよね。それに、私が操作できるものでもないから、実際に動いているところも見たことがないわ」
ユカリにもよく解らないようで、何とも煮え切らない回答しか得られない。初期化を受けてからこっち。要塞惑星の機能は一度も動作を確認していないので、分からないことが多いらしい。
「ねえ様はこの装置が動くところを見たいですか?」
「なあにリエ? 動かしてくれるの?」
「はい、いいですよ~」
「おれもおれも」
「これは気になりますね」
気づけば謎の装置周辺には、その場にいたほぼ全員が集結していた。
リエは赤い外装を持つ装置の上に手を置くと、自分に何かリクエストはないか聞いて来る。これを使って希望の物を出してくれるらしい。
「そだなあ。じゃあこの間食べた仲居ヨリたちの手作りスフレとか出せるかな」
「はい。でははる様、ぼくの手をにぎってください」
言われるがままリエの小さな手を握ると、装置から発生した微かな振動が床を伝わってきた。そして間もなく小さな電子音が鳴る。どうやら完成したらしい。
リエが正面にある電子レンジのような扉を開けると、庫内にはあのときとまったく同じスフレが鎮座している。どうぞとリエからスフレを渡されたので座卓の上に置き、最終的な判断をユカリと仲居ヨリたちに任せる。
「この間食べたスフレと百パーセント同一の物ね」
「「で御座います」」
一口ずつスフレを試食した三人は、満場一致の解析結果を告げる。
「そうなのか。でもそれって原子配列転換操作で生成したものと何が違うのさ?」
何でも作れる錬金術のような技術なら、どんなものでも同一の物を生み出せる。そう自分は単純に思っている。それとも何か違うのかな。
「転換操作で生み出す物質は、元情報がない限り同一のものは生成できないわ。私たちが食べたスフレは、仲居ヨリがレシピから作った本物の料理だし、私も自分で食べた部分解析情報は残しているけれど、全体の構成情報は残していないの。だから事実上、このスフレを原子配列レベルで完全再現するのは不可能なのよ」
なるほど。元となったレシピはあっても、あのとき作られたスフレの完成データは保存されていないのか。
「ならどういうことなの……」
「それがね……。その装置がこれを生成する様子をずっと監視していたのだけれど、私の解析ログでは、このスフレはそこにあったという結果が出ているわ」
「あったって何よ。その辺から空気でも使って組み直したとか、そういう話じゃなくて?」
「いいえあったのよ。そこに」
わけがわからないよ。
作られたとか、置き換えられたなどの言葉は当てはまらないとユカリは言う。ログを時間軸で見ると、起点となった時間の後では有り、その前では無いということになるらしい。線を引いたように、スフレは存在の有無が変化するそうだ。
それは、ユカリの持つほぼ無限ともいえる分解能で解析を行っても、生成プロセスを観測することはできなかったそうで。スフレは、突如その場所に出現したとしか言いようのない現象なのだと言う。
そんな議論をしている間も、リエはずっとにこにこしていた。さらにその隣では、ヨリが「すごいね~」とリエに抱き着き頭を撫でている。スフレ……。
「転換操作で何かを生成するには、元になる元素が必ず必要になることは、晴一も知っていると思うけど。例えば、炭水化物の生成には炭素と水素と酸素が必要になるようにね。でもその装置は、どう見ても外部から素材を取り入れるようなリンクを持っていないのよ」
「ほげぇ」
ヨリの体には、統括管理機構に割り込める機能が搭載されているので、現在でも統括管理処置自体に横槍を入れることも可能だ。それは、ユカリが現役であった頃と、ほぼ同等の能力を有するという意味である。その機能を用いれば、惑星全体の状態を監視することも容易にできる。
要塞惑星上で何らかの物質を転換操作する場合、必ずどこかの区画にあるマテリアルストックに対して、素材要求が行われる。しかし、先ほどこの装置が動作したときは、そのいずれのストックからも、素材が持ち出されなかったというのだ。おまけに、こういった生成装置と必ず結ばれているはずの超空間リンク自体、存在していない。これは惑星のどことも繋がっていないのだ。これは極めて異質な装置であり、まったく理にかなわない動作をする、完全なブラックボックスなのだという。
「へ、へぇ……。因みに、ほかにもこれと同じ動作をする装置はあるのかね?」
「いいえ。私の知る限りこれが初めてよ。さっきも言ったけど、私が扱える装置以外は、仮にその存在を知っていても動作内容までは分からないのよ。統括管理とは言っても、各区画にある設備の内容をすべて把握しているわけではないし」
「ほう。役割的には最高経営責任者と部門管理者みたいな関係か。じゃあリエ、他にリエしか使えない道具とかあるかい?」
「はい、ありますよ」
次にリエは背嚢のサイドポケットなどを漁り、何やら小物を取りだす。なんだこのかわいい文房具みたいなアイテム。
「ええと、たとえばですねえ、これは万能スティック糊と言いましてえ。これは万能ハサミ。そいでこれは万能カッターなのですよ~」
リエは、取り出した小物類を次々と座卓の上に並べ、一画は図画工作の時間みたいになった。これらの道具は皆、全体をプラスチックカバーめいた構造で覆われているため、小学校低学年児童が使うような、ファンシーな雰囲気を放っている。
「これは俺でも使えるのかな?」
「はい。はる様とぼくだけが使えますよ~。ねえ様達にはごめんなさいですけど……」
使用権限に差異があることを申し訳なさそうに報告するリエに、すかさずヨリとユカリが集りだし、愛妹を撫で繰り回す。
「「気にしなくて大丈夫よ~リエはいい子ね~」」
ヨリとユカリは見事にハモる。
自分は電話台の上からメモ帳を取り、用紙を二枚毟って、座卓の上で万能スティック糊を使い貼り合わせてみる。結果、何の変哲もなく紙は重ねて貼り合わされ一枚に繋がった。糊なのだから当然だけど。それをユカリがひったくり、穴が開くほど凝視して詳細な観察をはじめる。何やら驚愕している様子のユカリが、自分へ空の湯飲みをよこし、飲み口側を突き合わせて貼ってみるよう言った。
磁器を糊で貼るのは無茶だろうと思いつつも、飲み口に糊を一周塗り、自分の元にあった湯飲みと合わせる。すると驚いたことに、湯飲みは見事に貼り付いた。そうしてくっついた湯呑をユカリは受け取り、また接着面を細かく分析しはじめる。
「この糊は瞬間接着剤か何かなのか」
スティックの後端を捻り、糊を出し入れしてしげしげと眺めてみる。
どう見ても、何の変哲もないスティック糊にしか見えない。糊の部分を触れてもねばつくだけだし、嗅いでみても普通のスティック糊の匂いしかしない。う~ん、ミステリー。
「いいえ晴一。この湯飲み一体化してるわよ」
「なんだって?」
ユカリから湯飲みを受け取り、貼り合わせた面を見ると、隙間なく密着して完全に一体化していた。なんだこりゃ。まるきりこういう形で焼き上げられたみたいじゃないか……。
「万能スティック糊は、あらゆる物質を一体化させることができる凄い糊でございますよ~」
リエは元気いっぱいに説明する。
オーバーな身振りを交えた姿はとてもかわいらしく、おじさんもうメロメロ。メロメロとか最近言わんよね。
「じゃあ、カッターやハサミも?」
「はい、今回はこちらの鋼でお試しください」
背嚢の中から、リエは分厚い鋼板と、五センチ角くらいの正六面体の鋼塊を取り出し、ごとりと自分の前に置いてくれる。自分の持った感じでは、双方とも二キログラム近いと思われるが……。それなのにリエは軽々と片手でそれらを持っていた。背嚢を軽々背負っていることからも分かるが、やはりこの子は恐ろしく力持ちのようだ。
自分はまずカッターを手に取り、鋼製の立方体に刃を立ててみる。すると驚いたことに、ゼリーにスプーンを刺すような感触で刃が通ってしまった。これは気味が悪い。
次にハサミを取り、四辺が大体十センチ角、厚さ三センチほどの鋼板へ刃を入れてみる。こちらもやはり紙でも切るように、らくらくと切断されてゆく。しかも刃の段差で板が反るようなこともなく、真っ直ぐ切れるのだからなお驚きだ。ハサミ自体の厚みはいったいどこへ行ってしまうのか。気味が悪すぎる。
「異常だなこれは……。なんかもう猫型ロボットの出す道具みたいだ」
そのときユカリが、輝く手のひらから長さ十センチほどの木の丸棒を取り出し、座卓上を転がして寄こした。
転がってきた丸棒を受け取ると、よく知った異質な感触がしたため、彼女の意図を理解する。目配せをするとユカリは無言でうなずき、それを確認した自分は、ためらうことなく万能カッターで丸棒に切りつけた。
あり得なかった。リエのカッターは、いとも簡単に時間軸固定構造体化されたそれをも、真っ二つに切り裂いたのだ。これには、ユカリもヨリも戦慄したような表情をしており、ひとり不思議そうな笑顔で自分たちを見回すリエに、皆の視線が集中する。
「ねぇリエ。この道具はあなたが建造された時から所有していたの?」
「はいですよ~」
真面目な顔でユカリがリエにたずねると、リエは迷うことなく肯定を返し、場の空気は何とも言えないものとなった。リエの言葉を聞いてから、ヨリとユカリは黙ってしまい、神妙な顔で座卓の上の小物を見つめている。
「解析結果を言うとね。この道具に関わったものは、存在自体が変化してしまうということになるわ。何というか。……私が言うのもなんだけれど、これは人知を超えていると思う。こんなことあり得ないもの」
短い沈黙が流れた後、ユカリが口を開く。
ここまで行った実験を観測していたユカリの答えは、先の物体操作再現装置とはまた違う意味で驚愕するものだった。カッターやハサミの刃に接触した部分は、初めから存在しなかったことになる。糊に至っては、張り付いた二つの物体になるのではなく、初めから一つの物体だったことになっていたそうだ。
「頭がおかしくなりそうよ。私たちは、道具が引き起こす現象の過程を確かに目撃していたわよね? 鋼板や立方体を切断していく様子や、湯飲みを接着する作業を全員が認識したわよね? でも観測情報によれば、それらの過程は一切示さずに、初めからその状態だったという結果だけを示しているの。こんなことってあり得る? 私も随分長く活動してきたけれど、こんな事象に遭遇したことなんて一度もないわ。もう何なのよコレ……。リエ~お姉ちゃんわからないわよ~」
一気にまくしたててアホ毛をハート型にしたユカリは、リエに抱き着いて頭に頬ずりをし、弱音のようなものを吐いている。そのアホ毛もどういう仕組みなの。
何かにかこつけて、ユカリはリエにすり寄りたいだけだろう。そんなユカリの頭を、リエはよしよしと撫でていた。一方、卓上に広げられた道具を手に取ったヨリは、切れないカッターの刃先を鋼板に擦りつけたりして不思議顔。そして仲居ヨリたちは、相変わらず無表情のまま同じ所作でお茶を飲んでいる。
ひよこの間は現在、かつてないほどのカオスな空気に支配されつつあった。




