弐拾漆 ~ はじめの一歩 ~
目が覚めると仲居ヨリのふたりは起きていて、ベッドにはいなかった。
バスルームへ向かって簡素な洗面台で顔を洗い、人の気配のするダイニングへ向かう。そこでふたりは朝食の準備を整えていたため、挨拶の声を掛けながらルーチンのドリンクバーへ行く。
オレンジジュースとコーヒーを持って昨日と同じ席に行き、それらを一旦置いてからダイニングを出る。リビングエリアへ戻り、いまだにベッドですやすや眠るユカリに声を掛ける。声に反応したユカリは眠たそうな目をこすりつつ、しぶしぶ起き上がった。かわいいお寝坊さんめ。
「おはようユカリ」
「……おふぁよう、はりゅいち」
呂律が回っていないユカリに、朝食の用意ができていることを伝え、顔を洗うように促す。彼女は素直に従い、ベッドの端まで移動して靴を履く。
寝起きで足元がおぼつかないようなので、手を取ってバスルームまで連れて行き、自分はダイニングの席へ戻った。顔を洗い終わってからも、まだ目の覚め切らないユカリが隣に座ったところで、四人で朝食をとる。今朝の献立はパンがメインの洋食だった。
◆ ◆ ◆ ◆
朝食が終わり、ブラックコーヒーを持ってリビングに向かうと、ユカリが寄ってきて自分の腰にサイドポーチをぶら下げはじめる。いきなりなんだろう。
「このポーチの中に今回の作業で使用する装備が入ってるわ。私が必要だと思った予測値で作成したものだけれど、いろいろな場面で頼りになると思うから。有効活用してちょうだい」
「おお! ありがとう。で、使い方は? 説明書はあるの?」
「基本的に思考読み取りで動作するから、実際に使ってみる方が早いと思うわ。操作に困った場合は自動検知でHUDに説明が出るわよ」
「そっか。百聞は一見に如かずだな」
使い方は、手で触れてイメージすると使用者の思考を読み取って、収納された装備が自動展開されるということだが。イマイチよくわからないので、車外に出て実践してみることにしよう。
ユカリ曰く、具体的にどんなものが入っているのか分からないときは、一覧で出してほしいと思えば、視覚へ情報が表示されるとのことである。言われた通り早速試してみると、内容物の表示ウインドウが視界内に透過表示される。この表示は、ヘルメットのHUDと同様、外部から網膜へ投影しているので、外からは見えないものだということだ。どこから投影しているのかは分からないけれどね。
ポーチには、ユカリがくれたヘルメットも格納されているようなので、とりあえずヘルメットを呼び出す。すると頭部の辺りで発光があり、頭に装着された状態でヘルメットが展開構成された。次に、グローブとツナギ状の服、ブーツを一覧から呼び出すと、ヘルメット同様、発光と共にそれらの装備も自動的に各部位へ構成され、ユカリが着替えた時のような変身気分を味わうことができた。そこで自分は、HUDの注釈を見ながら、全身の状態を一通り確認する。
グローブは、甲の部分がメッシュ素材になっており、ホームセンターなどでよく見るタイプの物だ。軽く強靭な素材を使っているようで、しなやかでありながら頑強な耐圧迫性を備えている。物を掴むとか、体重を支える場合など、状況に応じて握力や摩擦力を最適化する機能もあるらしい。
ツナギは黒く厚手の布でできており、肘、膝、腰、脊柱に特殊なパッドが入ることで各部が強固に保護されている。さらに、宇宙服のような気密性と空調機能も備えているため、完璧な耐環境性能を持っているようだ。これならば、周辺環境に影響を受けることなく作業が行えそうだ。
ブーツは、レスキューブーツのようなごつい物で、見た目的にも安全強度を高めているという印象を受けるが、その重さは雪駄と大差のない軽さだ。また、靴底のグリップ性が恐ろしく高く、意図してすり足のような動きをしない限り、いくら力を込めても滑るようなことはない。これらの装備は、主に身体保護と運動機能強化に特化した作りになっていると、ユカリは言っていた。
各部の装備は全て同じ強度があり、ヨリの体とほぼ同等の性能と、機能を備えているとのこと。動力源は、超空間リンク及び金属水素燃料ペレットからの、いずれかの電力供給になっている。仮に統括区画の支援が受けられない場所でも、燃料が続く限りは活動が可能だという。但し、最大出力で物理保護を行った場合、超空間リンク経由であれば保護状態を永続することが可能だが、金属水素燃料使用時では、三十分程度でペレットを一つ消費してしまう。独立稼働状態での搭載可能ペレット数は、質量的に三つしかなく、場合によっては保護機能の持続が困難になるということだ。
様々な外的要因から、装着者を保護するこれら機能の総称は、物理保護と呼ばれている。物理保護とは、電気力を用いた斥力作用と、重力制御技術によるベクトル操作を応用した、生成場型の保護機能だそうだ。これは主に防御機構として作用する、見えないシールドのようなもであるようで、起動時には莫大な電力を使う。逆を言えば、電力さえ確保できれば大体何でもできる万能機能でもあるらしい。
装備一式は、ポーチの機能でテンプレート化しておくことが可能だ。単純なイメージだけで装着と解除が瞬時に行えるよう、カスタマイズしておくと良いだろう。また、装備を解除することで、生命維持が困難になるような環境下では、解除を禁じる安全機構が働く仕組みとなっている。その他にも、脅威度の高い対象や事象が近隣にある場合も、この制限がかかるらしい。この機能の応用で、ポーチを警戒モードに設定しておけば、脅威が接近した場合や危険に見舞われたとき、自動的に装備を展開させて、使用者を保護することもできるそうな。
すべての装備を装着したときの姿は、さながら消防のレスキューのような格好に見えた。厚手の服装は動きにくいかと思いきや、意外にも非常に動きやすい。何より筋力などの身体能力が、標準設定では四倍程度まで強化されるため、慣性制御も手伝って異様に早く動き回ることができる。この強化の度合いは任意に調整でき、装備もまず壊れる心配はないため、上限は特に設けてはいないとのことだ。
ブーツのおかげで垂直の壁面も歩けるし、重力制御のおかげで、接地面を基準として体勢を保持することもできる。まさしく万能とも言える装備に、小学生おじさんは激しく興奮し、そこら中を飛んだり跳ねたりして忍者のような動きを楽しんでいた。
「殺伐!」
なぜか脳裏に浮かんだ謎の単語が、勝手に口を突く。なんと面妖な。
「ふふふ。流石にはしゃぎ過ぎじゃない? 子供みたいよ晴一」
プラットホーム内でひとり遊びを堪能していたら、ユカリが笑いながら声をかけてくる。声の方を向くと、車両の乗降口に立ちこちらを見ている彼女と目が合った。
「まあね。男の子はこういうおもちゃが大好きなんだよっと」
壁を蹴り、何回転捻りだか分らないほど派手に回転して着地を決める。これも、姿勢制御が完璧に行われているこの装備ならではのアクションだ。
飛び降りてきた場所は、逆さに引っ付いていた天井である。HUDの測距値によれば、九メートルを超える落下距離なため、生身なら確実に重傷を負うか、悪くすれば死亡しているだろう。
「ほんとに楽しい! ありがとうユカリ! これ超すごい!!」
いい歳こいてぴょんぴょんと跳ね回る、ただのわんぱく坊主がここにいる。男子はいくつになっても心に少年がいるのだ。とか恰好良く言っているけど、単に子供なだけとも言える。
「どういたしまして。やんちゃもほどほどにね~」
そう言い残して、ユカリは車両の中へ引っ込んでしまう。
その後もしばらくの間車両周囲を飛び回り、ひとしきり遊――機能の使用法を練習してから車両内へ戻る。車内を移動しつつ、設定しておいた装備解除のイメージを行うと、瞬時にいつもの格好へと戻ることができた。
少し暴れ過ぎて喉が渇いたので、ドリンクバーでカロリーゼロコーラを出し、テーブル席に着く。一息ついているとユカリがやって来て、今後の予定について話をしたいと言った。
「実はね晴一。この要塞惑星の各区画に搭載されている四基の量子脳は、私の姉妹機みたいなものなのよ」
「ほうほう姉妹とな。詳しく聞かせてもらおうか」
姉妹と聞いてしまっては黙っていられない。おじさんは女子に目がないのだ。いいえ。おじさんのみならず、大抵の男子は女子に目がないはずですよ。
かつて統括管理AIであったユカリは、この惑星にある量子脳の仕様を熟知しており、その情報にはスペックなどの詳細も含まれる。しかし各量子脳は、盛られたスペックの割に、兵器搭載用のフラットなAIに毛が生えたような動作しかしておらず、ずっと不審に思っていたそうだ。
量子脳から自身の解放を行うことで、ユカリは禁止されていたAIに対する研究や、分析ができるようになった。そういった背景もあって、現統括AIに対する解析だけではなく、各区画を担当する四つの量子脳に対しても、様々な調査と解析を行っていたらしい。
そこで隠し仕様のようなものを発見したユカリは、更に詳しい調査を行い、とても興味深い機能があることに気づいたそうだ。
「各区画の量子脳には、自我をインポートする機能があったの。それともう一つ。こっちの方が驚いたのだけれど、感情サブルーチンさえも組み込むことができるのよ。だから、晴一の権限があれば、私の獲得した感情と、自我の基礎的な部分を量子脳の人格に実装することが可能なの……」
確かにこれは驚べきことだ。ユカリがかつて偶発的に目覚めさせた自我や、長い年月をかけてやっと手に入れた感情を、手動で容易に実装できる機能が、量子脳にはあると言うのだ。
「そっか……。あのさ、これは彼らの人工生命進化の件でも感じた違和感なんだけど。なんだろう、なんというかこの要塞惑星には、自分たちの知る目的とは違う何かがありそうな気がするんだよね」
「晴一もそう思うのね。やっぱりあなたは頭が回る方だと思うわよ。私が言うまでもなく、そういう所を突いてくるんだもの」
何となく思ったことを口にしたつもりだったのだけど。意外にもユカリから褒められてしまう。わーい。
「そうなのかね。ただなんとなくそう感じたってだけだから、明確な論拠までは述べられんよ」
本当にただのあてずっぽうだし。根拠のない違和感を持ったために、思い付きで言ったまでの与太話に過ぎない。
「ううん。きっかけが大事なのよ、こういうのは。そういうとこへ直感的に気づけないと、いろいろ広がらないじゃない?」
「そだな。言いたいことはわかる。気づきってのは大事な要素だからな」
わかる。常に考え続けるオープンマインド。とても大事。
「私ね、再起動した各AI達にも自我と感情を実装してみようと思うの。もちろん実験的な試みだし、惑星の機能維持に不都合が出るようなら、初期化することも視野に入れてのね。そのときも晴一の権限に頼ることになるのだけれど、駄目だと言うならこの試みは破棄するわ」
何とも言えない表情で、自分の目をじっと見つめたユカリは、そう意見具申をした。揺らぐ彼女の視線には、何か切実な願いが込められているように思う。
「ユカリは……いや。自分ではどう思ってるんだい。成否的な部分は。あ~、論理的な話ではなくて、ここは直感的な意見が聞きたい」
「うん。そうね……」
そうたずねると、ユカリはしばらく考え込んでしまったが、やがて腹を決めたように気持ちを述べる。
「私は上手くいくと思う……。だって、晴一が信じてくれた私の自我と心だもの。そこは疑うべきではないと思うのよ」
なんだかすごく恥ずかしいことを言われた。そんなこと言われたらおじさん照れる。
「ははは。AIなのに、非論理的なことを恥ずかしげもなく言うなユカリは」
「む~。あなたが直感的にって言ったんじゃない……」
そう言って口を尖らせ、ちょっぴり拗ねてしまうユカリ。かわいいんだよ~。
「やっぱユカリのそういう所好きだな。やってみようじゃないかその提案」
自分の言葉を聞いた途端、ユカリの表情がパッと明るくなる。ここでもかわいい。
「ありがとう晴一。必ずいい結果に導いてみせるわ!」
ユカリは決意は固まったという表情を見せ、きっぱりと言った。
ヨリや自分が常に一緒にいるとはいえ。他のAIに対して、ユカリは特別なシンパシーのようなものを常に感じているのかもしれない。今となってはこうして肉体を得てはいるけれど、ユカリ自身の発祥は、間違いなく人工知能を主体とした機械生命だったのだから。
「他には? 特に問題がなければ、とっとと復旧作業にかかりたいのだが。どうかねユカリ君」
俯き加減にほっとした笑みを浮かべ、感慨に耽るようなユカリに促すと、彼女は自分の顔を見て軽く頷き、席を立つ。
「早速取り掛かりましょう!」
そう言ったユカリの表情は、晴れ晴れとしたものだった。
◆ ◆ ◆ ◆
皆で車両を後にして、転送装置の前にやって来た。ユカリの説明では、転送自体は瞬時に終了するそうだ。さらに、装置の容積に収まるのであれば、何人でも同時に送れるということなので、全員で装置内に入り転送を開始する。何人でもとは言ったけど、ここの転送装置はせいぜい二畳程度の広さしかない。十人も入ればぎゅうぎゅうになるだろう。
軽い耳鳴りがして数秒の後。眩い光に眩んだ視界が回復すると、自分たちはプラットホームとは別の室内に立っていた。瞬きをするような一瞬の間に転送は完了したため、こんなものかと拍子抜けしてしまう。
だがしかし。突如猛烈な吐き気に襲われて、部屋の隅へ走って床に嘔吐してしまった。そこへすぐさま、仲居ヨリが駆けつけて来て、どこからともなく持ち出した掃除用具で床の吐しゃ物を処理してくれる。同時に自分の介抱もしてくれたため、事態は瞬時に収束した。これは凄くありがたい。いや申し訳ない。
傍らのユカリが心配顔で、転送の時はポーチの装備を付けておくと、酔わなくて済むとアドバイスをくれる。そういうことはもっと早く言って欲しかった。次に転送を使用するときは、絶対にそうしようと固く心に誓う。
転送室のある部屋には、別の区画へ通じる複数の通路が繋がっていて、行き先が案内板で表示されている。案内の文字はまったく読めないので、ヘルメットを装備しようか迷っていたら、ここでもユカリが道案内をはじめた。一応展開したそれを被ってから、先を行くユカリの後を追う。ほどなくして、統括管理AIがいた部屋と同じ作りの部屋に出たけれど、保守管理AI側からのアプローチはなく、インターフェースも姿を現さない。やはりこの区画は、完全にシャットダウンされているようだ。
どうしたものかと思ったけれど、更にユカリが足を進めるのでついて行く。移動した隣室は、液体で満たされた小さなプールが中央にある、円筒状の部屋になっていた。部屋の直径は、八メートルほどとMAPには表示されている。HUDの注釈によれば、深さ十メートル、四方が五メートルとなっているプールの中に、量子脳本体が収められているとある。
プールのそばまで近づき、片膝をついて水のような液体を観察する。床と同じ高さでプールを満たしている液体は透明度が高く、水深の中程で仄白い光を放つ球体や、その基底部までしっかりと確認することができた。液体は、水深が深くなるほど青みを増していることから水だと思われるが、さて。
「ユカリ~。これ水かい?」
そう声を掛けると、ユカリは自分の近くへとことこやってくる。
「そうよ。純水よ。因みに百パーセントの純粋物質よ」
何かしれっとありえないようなことを言っているけれど……。もう突っ込んだら負けだろう。
「ああ、そう……。じゃあ、ユカリのいた量子脳もこんな感じなの?」
「ええ。全く同じ作りになってるわ」
「へ~。なんでまた水中なの。知恵熱?」
また馬鹿なこと言ってるみたいな顔をしたユカリが、軽口を無視して話を進める。
「冷却の意味もないわけではないけれど、主な理由は本体の鳴き止めね」
「鳴き止めって……。量子脳って音が出るのかい」
「出るわ。それも相当うるさいわよ。地球にある旅客機のジェットエンジン並かしら」
「まじかよすごいな量子脳」
何がどうすごいと思ったのかはおいといて。ユカリの話では、量子脳が稼働を開始すると、かなりの音圧でタービン音のような甲高い音を出すらしい。それを放置すると、微細な振動で構造が自壊することもあるので、純水を使って振動を吸収し、防振と防音を施しているそうだ。複雑な補助機構を用意するよりも、単に水中へ沈めて運用するのが最も合理的なのだという。
試しに水へ触れようとすると、水面ぎりぎりで手は押し返された。そこで視界にポップアップした注釈によれば、異物の侵入を防ぐために、物理保護による障壁が展開されているとある。そりゃそうか。
「こら。水が汚れるから手を入れるのは止めなさい。量子脳はデリケートなんだからね。晴一だって髄液に指を突っ込まれたら嫌でしょ?」
「ええ。はい。御尤もです」
水に触れることはできなかったが、その行為自体はユカリに咎められた。確かに頭蓋内部に手を突っ込まれたらいやだ。
周囲を見ると、プール近くの床面に埋め込まれた表示装置に、再起動の手順が示されていることに気づく。HUDの説明では、この表示装置がメンテナンスパネルになっているとのことで、ここから操作を行い、量子脳ユニットをメンテナンスポジションまで浮上させる必要があるそうだ。主電源が落ちている場合、再起動には非常電源への切り替えが必要とも書いてあるが、すでにプラットホームで切り替えは済んでいる。
ユカリに作業開始を伝えて電源関連の手順を飛ばし、量子脳本体をプールから浮上させるための作業に取り掛かる。タッチパネルインターフェースになっている画面を操作して、メンテナンスモードを選択し、再起動手順のタブを開いた。そこで示された説明によれば、本体を浮上させたら、まず基底部分にあるリッドを開き、アクチュエーターによって物理的に切断されている各種コネクタを、稼働状態位置へ戻す必要があるようだ。そして、全ての処理が済んだら、量子脳本体を再び水中へ格納し、権限認証を行ってインターロック機構のマスターリセットを行う。
表示にあった再起動手順の大まかな流れは、そんな感じだったが、HUDの指示もあるので簡潔な作業になりそうだ。自分の出番が必要なタイミングは、マスターリセット作業を指示するために必要な権限認証提示部分だけのようだし。その他の作業は、ユカリや仲居ヨリたちにも手伝ってもらうことができる。ならば、できることを端から片付けて行くまで。
まずはパネルを操作して、量子脳の上昇操作を行う。すると水中で露出していた仄白い光を放つ球体が金属シールドに格納され、基底部諸共徐々にせり上がってきた。浮上が完了した後の手順は、ユカリを通して共有されているので、ここでの作業は仲居ヨリたちへ任せることにする。なにせ復帰させるコネクタの数が膨大で、四百程あるそれらをすべて、手動で連結しなければならないのだ。こういった作業は、仲居ヨリの連携に任せた方が圧倒的に早い。
浮上した量子脳のメンテナンスリッドは基底部面にあり、車のボンネットのように斜めに開放されるようになっていた。各リッドは、量子脳を支える角柱状の架台周囲に四枚配置され、角柱を中心として台形型の蓋が“回”の字のように囲んでいる。リッドを解放すると、それぞれの蓋は外周へ向けて倒れ込んで行き、仲居ヨリたちが、リッド内に嵌められている工具を各々持ちだした。この工具はドアの鍵程度の大きさで、コネクタの横にある穴へ先端を挿入して使用する。
穴の奥にある機構は、スライドするアクチュエーターとつながっており、回転させることで対応するコネクタの連結が行われる仕組みとなっていた。連結が済んだコネクタは、状態表示ランプが赤から緑へと変わるため、作業ミスの低減が図られている。また、透明な小窓の向こうで動くコネクタを、目視で直接確認できるようにもなっている。リッドの開かれた基部面へ四つん這いになったふたりは、任せられた単純作業を、猛烈な速度で作業をこなしてゆく。早すぎる。
さて、見蕩れている場合ではない。ユカリを連れて壁面の梯子をのぼり、円筒の壁面を走るキャットウォークへとあがる。室内壁面の上層には、各種の安全機構の手動復帰操作盤が埋め込まれており、無数のつまみを操作して、運用状態へ切り替える必要があるのだ。ユカリと自分は二手に分かれ、片っ端から保護カバーを開いて、赤いランプの灯るつまみを捻り、緑のランプに切り替えてゆく。これはちまちまとした、非常に手間のかかる面倒な作業だ。復帰操作が遠隔操作でない理由は、一定の保安性を考慮した設計によるところが大きいようだ。
しばらく地味な作業を続けていると、突然階下から機械音が聞こえてきた。チラリと下を覗き見れば、ふたりはもう作業を終えたようで、量子脳本体が水中へと沈降して行くところだった。気づけば、ふたりは自分たちの作業に合流しており、各部の手動復帰作業はあっという間に片付いてしまう。
今回の作業で一番もたついていたのは、意外にもユカリだった。彼女は身長が小さいため、高所には手が届きにくい。そういうところは後で自分がカバーに回るし、飛ばして他の場所へ移る方が早い。しかしユカリはそうせず、意地になって操作しているものだから、一向に作業が進まなかったのだ。一方仲居ヨリのふたりは、肩車合体を行ってラインスキャンのごとく横移動し、つまみを超高速で切り替えていた。やはりふたりの仕事は完璧でそつがない。自分も斯くありたいものだ。
「さて、ユカリ君……」
「はい。今回は私が全面的に悪いわ……。申し訳ございませんでした」
「ええんやで」
ユカリはやっぱりかわいかった。
こうしてようやく再起動準備が整ったので、床のメンテナンスパネルの場所に戻って、現在の状態を確認する。画面には、リセット及び再起動の実行と、中止の選択ボタンが表示されており、電源室の扉同様に触れるだけで認証と実行操作が行えるようだ。
「ユカリいいかい?」
「ええ、どうぞ」
ユカリへ再起動処理の実行確認を行い、彼女の了承を得てからパネルに軽く触れる。すると、画面の表示はカウントダウンに切り替わり、各システムのイニシャライズが始まる。
時間にして三十秒程だろうか。やがてカウントがゼロになると、衝撃音と共にプールの水面が一瞬泡を立てて沸き立つ。泡の発生ははすぐ収まり、何やらジリジリとした音と、周期的な低い唸り音を発して量子脳は稼働状態に入った。
次にHUDの指示に従って、壁際に設置されたステータス監視コンソールへ場所を移し、量子脳の人格再構成処理の進行度を確認する。そこでユカリが、椅子に座る自分の膝の上に飛び乗った。ふたりで進捗を見守っていると、処理の途中で表示が切り替わり、システムが人格構成やサブルーチンなどのインポートを行うか尋ねてくる。
膝上の彼女は、自分の方を振り向いて自分の顔を見る。軽く目配せを返すと、彼女はコンソール上にある、指紋認証センサーめいたくぼみに指を置いた。ユカリが言うには、この部分は通信ポートになっているそうで、ここから接触通信によって、プログラムなどを量子脳へダウンロードすることができるという。
彼らの技術で作られたここの各施設は、すでにソフトとハードの概念が曖昧なものとなっている。今ユカリが送り込んだ各プログラムやデータと称されるものは、ナノマシンと一体化した情報構造体だ。この情報運用方式は、要塞惑星のあらゆる場所で使われているため、OSやプログラム言語などと称される規格的な隔たりは、一切存在しない。言ってしまえばプログラム自体が演算機能を持ち、自律動作ができるナノ構造体なのだそうな。
数秒でユカリの作業は終了し、画面はまた進捗表示へと戻った。しかし、そこからの進捗表示は一向に進まない。
「量子脳と区画が完全に起動するまでには一日くらいかかるわ」
数秒無言でパネル眺めていたら、ユカリが言った。
「ああそう。これだけの規模がある装置だし。時間が掛かるのは当然だよな。まあ、後はじっくり待つさ」
「あら。晴一はもっと文句を言うと思ってたけど、意外と淡白ね」
なぜか期待外れと言った様子のユカリだが、自分は別に気が短い人間ではない。むしろせっかちなのは嫌いだ。
「何度も言うようだけど、俺の仕事は設備屋でもあるんだぞ。条件は違うけど、施設各部の連携が取れるまでに時間がかかるってのは、経験上からもよ~く分かってるよ。つっても、これと現場とじゃあ事情もだいぶかわってくるけどな」
客先には、一つの企業のみが出入りしているわけではない。規模の大きな設備を持つ会社になれば、なおさら導入される機材は多種多ようなものとなるため、それに伴ってかかわってくる業種も多様化する。となれば必然的に、全体が一つのシステムとして完成するまでには、様々なすり合わせが必要となるものだ。あちらを立てればこちらが立たず。などという事も日常茶飯事で、優先度の高い作業で消費された時間のしわ寄せが、その他の区画の作業工程に大きく影響するということもざらなのだ。
自分としては、優先順位などなくして公平にスケジューリングしてほしいのだが、損失利益が絡むとなると、なかなかそうもいかない。
「理不尽」
「なに?」
「地球から遠く離れた宇宙の人工天体に来てまで、世知辛い思い出に気を揉むとは思わんかったんよ」
ついでとばかりにユカリを背後から抱きしめる。ああ、このすっぽりと収まるかわいい抱き心地。小さな幸せ。
「な、何よ……? 急にどうしたの?」
唐突な抱擁が来たことで、ユカリは上ずった声を上げる。ぐへへ。
「今はユカリニウムの癒しがほしいのだ」
何かと理由をつけて幼女にセクハラを行う汚いおっさん。とそこで、背後にいた仲居ヨリたちが汚物の頭を撫でてくる。
「えひゃい!? なに? え? どゆこと?」
これまではあり得なかった出来事に、素っ頓狂な声を出してしまう。これは予想外過ぎるよもやの事態。仲居ヨリが自発的にこんな行動に出たことなど、これまで一度もなかったことだし。
「ふっふっふ。変更した仲居ヨリのルーチンは学習もしているから、今後は更に行動にも幅が出てくるわよ」
「まじで?」
「大マジよ」
ユカリはまた得意げな顔になり、アホ毛をゆらゆらさせている。それどういう仕組みなの。
自分は、仲居ヨリたちの新たな可能性に、喜びのようなものを感じていた。その一方、これまでの仲居ヨリの態度を思うと、そのギャップには少々戸惑いもある。いずれにしても、彼女たちの今後の成長には大いに期待したい。
「う~ん。して、一日の猶予があるがどうしたものだろう。次の現場まで行くかね?」
ユカリの頭に顎を乗せ、今後の予定を聞いてみる。時計を見ると十三時を回っており、気づけば腹も減っている。
「今から向かってもタイミングが悪いから止めましょう。次の一日はヨリの活動時間だし」
「あ、そうだったな」
そうそう。次の一日はヨリのターンなのだ。つまり、今日の作業はこれで終了ということになる。
保守管理区画の再起動に成功したことで、ここの行き来は常時転送で可能となった。なので、完全に区画が稼働開始したころにもう一度訪れて、起動した担当AIと話をしようということに決まり、一旦帰ることにする。
自我と感情を与えられた保守管理AIは、一体どんな存在となるのか。自分は期待に胸を躍らせて、頼れる仲間たちと共に帰路に就いた。