弐拾 ~ 不測の神 ~
不意にアイスが食べたくなり、一応のお伺いを立てて、ひとりで売店まで出張ってきた。
全くそんなつもりはなかったのだけど、部屋を出るときに、ユカリから疑いの眼差しを向けられ、「駄目だからね!」と強く念を押されてしまった。何がどうあっても、ゲームコーナーへは行かせてもらえないらしい。そんなに言わなくたって行きやしないよ、もう。
途中何体かの仲居ヨリとすれ違い、受付カウンターの方にも目をやると、そこにもまた仲居ヨリがいる。売店のレジにも、もちろん仲居ヨリが配置されている。しかしながら、彼女らがそこらに配置されている意味は解らない。もてなす対象となる客は、ヨリやユカリと自分以外、誰もこの社内にはいないわけだし。対価さえ支払う必要すらないのだから。
なんだかな~と不思議に思いながら、ケースから勝手に持ち出した三色アイスをもしゃもしゃと食べ、レジに立つ仲居ヨリに話しかけてみる。
「やあおつかれさま。ここにずっと立ってるだけって暇じゃない? あ、アイスいただいてます」
しまった。これじゃあ彼女の存在意義を全否定しているような物言いではないか。あと事後報告……。
「ご利用ありがとう御座います。私共には晴一様に至上のおもてなしをするという、極めて重要なお勤めが御座いますため、常に待機を義務付けられております。店内の物品は、どうぞご遠慮なくお持ちくださいませ。またご入用な物が御座いましたら何なりとお申し付けください」
営業スマイルを浮かべてそんなことを言う仲居ヨリ。
擬装が解かれてからずっと思っていたが、これまで彼女たちからは、人間性のようなものを全く感じることはできていない。常に淡々としていて、まさしく機械然とした振る舞いをする非常にドライな存在なのだ。
思えば、ここに来てからヨリとユカリ以外の子とは、初めてまともにしゃべったことになる。お風呂についてきた仲居ヨリには、脱衣場で話しかけたことがあるけど、あの子は何も言わなかったし。そういえば、あの子とこの子では随分印象が違う気がするけれど、気のせいかな。
「しかしながら彼女から滲み出るプロ精神にはめまいにも似た感動を禁じ得ない。ああ選ばれしものの恍惚と不安ふたつ我にあり。今、人類の未来が、ひとえに我々の双肩に――」
「晴一~、なにしてるの?」
下駄ばきの生活者が発する演説めいたことを呟いていると、突然スマホからスピーカー通話で呼びかけられた。もちろん相手はひよこの間にいるユカリんだ。
「はい。晴一は売店でアイスを食べています」
ポッケからスマホを取りだして、カメラに向かってアイスを食す姿を見せる。なんかここへ来るとアイスばっか食べちゃう。多分、一番手軽で腹にもたまらず、それでいて間違いないからだよね。
「もう。かわいい女の子を放り出してどこへ行ってるのかと思えば。私にも持って来て頂戴」
「あいあい」
画面に映る仏頂面のユカリにそう返し、アイスケースへ背面カメラを向けた。ユカリがいじくったのであれば、フロントとリアの同時アクティブ化なんて簡単だろうからな。
「どれがいい?」
「晴一は何を食べているの?」
「これ」
自分はケースの中にある、茶色と黄色とピンクの三色アイスを前カメラに向かって示す。て、さっきも食べてるとこ見せたじゃん。
「ふ~ん。じゃあ、私はその底の方にあるお高いダッツのアイスがいいわ。あ、イチゴのやつでお願い。抹茶とかは苦いから、遠慮するわね」
まったく。子供舌のかわいこちゃんめ。
「あいよ。すぐにお持ちいたします~」
ケースからダッツのお高いアイスと木匙を取り、レジの仲居ヨリへ一声かけてから売店を後にする。担当の彼女は、自分の掛けた声にペコリと頭を下げた。
「あそうだ。休憩室のケースにはコンビニ限定のアイスもあったっけ。後で向こうのも食べてみようっと」
独り言を言いながらてくてく部屋へ戻ると、ユカリはまだ作業に没頭しているようだ。
隣に腰をおろし、目の前にアイスを置いて、すっかり甘くなってしまった口を直すため、お茶をいれる。すると何を思ったか、ユカリが自分の膝の上に移動してきた。
「いそがしいから食べさせてほしいわ」
やにわに何を言いだすのかと思えば。甘えん坊かこの娘は。
見ればユカリは腿の上で掌を上に向け、指をワキワキと忙しなく動かしている。指の動きに呼応して、表示の内容が目まぐるしく変化している所を見ると、いそがしいというのもあながち嘘ではないらしい。
「まったくもう、甘えん坊さんめ」
「何よう。晴一が頼れって言ったんじゃない」
うむ、確かにそう言った。でもこれは何か違うと思う、などとは間違っても口にせず。頑張るユカリのため、ここは素直に彼女を労おう。
お高いダッツアイスの蓋を開けて内側のビニールを九割方はがし、中身を木匙で掬って口元へ運ぶ。するとユカリは自動的に食いつく。頃合いを見計らい、一口のアイスを運ぶという作業を繰り返しているうちに、自分はだんだん楽しくなってきてしまった。かつての飼い猫のチビに、手渡しでえさを与えていたときのような、懐かしい気持ちになっていたのだ。
「晴一、にやにやしてキモイわよ?」
久方ぶりのほっこり気分で、ユカリに給餌作業をしていると、突然ひどい言葉を投げかけられてしまう不憫なおじさん。つか見てもいないくせになんだってんだ。
「あーもうひっでーなー。台無しだよ俺のノスタルジー」
「人のことを勝手にダシにして思い出に耽るなんて。感心しないわね」
どうやら、ここでは懐古さえ許可制らしい。本当にこいつときたら、ヨリと同じ顔をしてるというのに。どうしてこう辛辣なのか。
「いいじゃないかよう。人が何考えてようとユカリには関係ないだろう」
「それに私が絡むのが嫌なだけよ。どんな妄想されているのかわかったもんじゃないわ。いやらしい」
「妄想じゃねぇしいやらしくもねぇよ! 大事な思い出だよ! なんて言いがかりだ」
知らぬこととはいえ、大事な大事な家族との思い出をこき下ろされたのだ。ここは断固抗議すべきである。
「じゃあ何考えてたのか言ってみなさいよ? 疚しいことがなければ言えるわよね?」
「疚しいことなんてあるもんか。本当だぞ」
疚しくないのは嘘ではないのだが。これを伝えたら、ユカリはまた機嫌を損ねるんじゃないの……。ペット扱いするなとか言って。
「なら早く言いなさい」
本当に言っていいものか。猫に餌やってる気分だったなんて。おじさんまた無駄に怒られるのは嫌だよ。
「……ユカリが怒らないと約束してくれるなら」
「やっぱり怒られるようなことじゃない!」
まだ何も言ってないのにユカリはすでに怒っていた。いやだな~こわいな~。
「いや、やっぱりって。だから本当に疚しいことはないんだよ。でもこれを言うと火に油を注ぎそうだし、言わない方がいい気がするんだって」
「ふぅん? どんな酷い妄想だったのか猶更興味が湧いたわ……」
藪蛇だった。このまま言わないでいると、ますますユカリがヒートアップしそうだ。それならば、手遅れになる前に対処するほうがいいだろう。どうせ怒られるなら、早い方がいいでしょ。ぐすん。
「わかったよ……。実は昔なあ、子猫を拾ったことがあってな。家に迎えたばかりの頃は、俺の手からしか餌を食べなかったんだよ。そんなもんだから、ユカリの口へにアイスを運んでいて、それを思い出してたんだ。ほんとそんだけ。因みに悪気はないからな」
さて。ユカリの怒声を一日千秋の思いで、今か今かと心待ちにしていたが、意外にも彼女が憤慨する様子はない。
私的には『私は猫扱いかー!』くらいの勢いで怒りだすと思っていたのに。そんな人の懸念よそに、ユカリは押し黙っている。慎重に横顔を覗き込むと、彼女は特に何もなかったといった感じで作業を続けていた。あれ、おかしいな。
「具合でも悪いのか?」
言ったとほぼ同時に、ユカリの後頭部が自分の胸部に激突してきた。息が詰まるほどではないが、それなりの衝撃はあるため割かし痛い。
「痛いじゃないか」
「気が散るわ。それと手が止まってるわよ」
彼女は涼しい顔で次のアイスを要求してくる。ほんとなんなん……。
「その……。猫の写真とかはないの? 見たいのだけれど」
「あ~。ガラケー時代のきれいじゃない写真でいいなら、スマホで見られるな」
そう言ってポケットからスマホを取り出し、ファイル管理アプリを起動してクラウドからチビの写真を表示させる。やや粗い画像をユカリの方へ向けると、彼女はしばし作業の手を休めてそれに見入った。
「ふ~ん。丸顔でかわいい猫ね」
そう言ったユカリの横顔は、優し気な表情をしていた。なんだ、全然怒っていないじゃないか。心配して損した。
「そうだな。チビはかわいかったし。賢かった」
七年程度しか一緒に居られなかったけど、生前のチビと過ごした日々は、掛け替えのないものだ。
「かわいくて賢いなんて私みたいな子ね」
「あ~そっすねうふんっ」
軽く返すと、油断していた胸部にまた打撃が加えられ、変な声が出る。背中まで抜ける衝撃は先ほどの物より重く、遅効性のダメージを与えられているようだ。
「……ちょっと~、さっきから痛いんですけど~」
「暇さえあれば私をからかう晴一は少し反省しなさい」
「え~。今回俺そんな悪いことしてなくない?」
ふんと鼻を鳴らして、ユカリは次のアイスを要求する。
少し悔しいので、アイスを与えるどさくさにまぎれて、気づかれないように頭をくんくんしてやる。それからアイスを運ぶたびにくんくんしていると、何かを察したのか、ユカリが疑いの声を掛けてきた。
「晴一、何かしてない?」
「いや何も」
「本当に?」
「本当に」
君のような勘のいいAIは嫌いじゃないよ大好きだよ。これ以上やると本当にバレそうなので、くんくんはこの辺で切り上げよう。
「しかし奇麗な髪だな」
頭上から何となく髪を眺め、思ったことを口にすると、ユカリは一瞬ビクッとして動きが鈍くなる。その様子を不思議に思いながら、卓上の最中を取ろうと少し体を前かがみにしたとき、ユカリの体は固くなった。けれど、それも束の間。最中の袋を手に取ると、何事もなかったように元に戻る。
「どした?」
「……別に」
ユカリのアイスも空になったところで、ふたり分のお茶を入れ直し、最中の袋を半分程破って齧りつく。崩れる破片をなるべく落とさないよう、慎重に手皿で受けて食べていたのだが、受け切れなかった破片がユカリの頭と手元に向けて、はらはらと落ちてしまった。
「……ちょっと、も~」
「ごめん。最中は難しいんだよ」
上階からの落下物に、階下の住人から苦情が出た。しかし故意ではないので、追及は受けずに済み、ほっと胸をなでおろす。
彼女の気が散ってしまうため、この距離でのせんべいは、咀嚼音による騒音被害を生むと配慮したが。意図せず“最中性降下物被害”が生じる結果となってしまった。落下物の被害を押さえるべく、今度はごんじりに手を付けるも、せんべい並みに甚大な騒音被害を産み、またも階下の住人からうるさいと抗議を受ける。生きづらい世の中である。
こうなると、茶請けの中には食べられる物がなくなってしまう。唯一、破片被害も騒音も生まないものと言えば、一口塩羊羹があるのだが。あんこが駄々被りの最中で、すでにお腹いっぱい状態なので、候補からは自動的に除外された。
それにしても、なぜ旅館の茶請けというのは、こう渋い菓子類ばかりなのか。もっとライトでキャッチーで、ナウなヤングにバカウケの菓子をラインナップしてもいいと思うのだが。
しかし油断をしてはいけない。ライトでキャッチーなイメージには、時に深刻な誤解が付きまとう。その誤解によってもたらされる菓子災害の代表格と言えば、そう。最も警戒すべきやつ……。カラフルな寒天ゼリーである。オブラートに包まれ、着色料でカラーリングされたそいつらは、その見た目とは裏腹に、すべて同じ味である場合が多い。また残念な食感も相まって、世の少年少女たちに、世代を超えたトラウマを植え付けてきた。
次に厄介なのが、バナナを象った謎の砂糖菓子であろう。これも、やはりカラフルな見た目をしてはいるが、その味はどれもこれも同じもので、ふたつも食せばすぐに飽きてしまう。この両者は、スーパーなどでリーズナブルに入手すると、とても残念な菓子になる。だが、老舗菓子店などが扱うような果汁を用いて作られた物であれば、折り紙付きのクオリティを味わえることも、またここに留意しておきたい。
折角用意してくれてたのに、そんな酷いことを思っちゃって。ごめんねばあちゃん。そう、ばあちゃんちのお菓子トラップ。あれはたまにホントきびしい。なんかスーパーで売ってるジェネリック五家宝とかもヤバいくらい美味しくなくて……。まあいいや。
「てゆーか、ナウなヤングにバカウケって何だよ……」
「もう。何をひとりでぶつぶつ言ってるのよ?」
「いや、すまん。茶請けが渋すぎるなと思って。ついね」
いっけね。心の声が漏れていた。
「言えば用意してくれるから、具体的に食べたいものを頼むといいわよ」
何だそんなこと。みたいな調子でユカリが言うと、すぐにノックの音が聞こえ、部屋に仲居ヨリがやってきた。
彼女は、「承ります」と一言だけ言い、待機に入る。じっと自分の注文を待つ彼女からは、一流ホテルのコンシェルジュが放つ、プロの空気を感じる。しかし自分は、一流ホテルに泊まったことはないし、コンシェルジュの世話になったこともない。だからこの感想は適当。
「じゃあ、お言葉に甘えまして。え~、ポテチとスナック系チョコレート菓子、キャンディアソート、美味い棒、なんか適当なグミ、ナッツアソートにおしゃぶり昆布、あたりめ、蒲焼三四郎。あとは……なんかあるかい?」
「私はたい焼きが食べたいわ」
膝元へ声をかけると、ここでまたあんこ。謎のあんこ率。ユカリの好みも大概渋い気がする。
「うん。まあとりあえずこんな所かな。頼めるかい?」
「かしこまりました」
仲居ヨリはペコリと頭を下げて、部屋を出て行った。かと思うと、間髪入れずにまたすぐに戻ってきて、注文の品々の入った大きな籠と、たい焼きの紙箱を置き、再び頭を下げて出て行く。それは流れるような素晴らしい動きだった。
どこかで見たようなたい焼きの絵が描かれた紙箱から、待っていましたとばかりに、ユカリが一つ取り出し、口にくわえたまま作業を再開する。蓋の空いた箱の中には、まだ五つの鯛焼きが収まっている。
「本当に何でも出てくるんだな、この社は」
「当然よ。ここは私の自信作だもの。連れてきた対象者の属する文化とか、時代に合わせた物品とか。そういった要求や環境を何でも再現して提供できるわ」
しかし。ユカリが自信作というそれは、数多の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない。
この社という場所は、過去に攫われてきた多くの人々の尊い犠牲によって得られた知見や、情報を基にして構築されている。いわば、累々たる屍の上に建っている、血塗られた庭園でもあるのだ。
「あ……いえ、無神経だったわね……。ごめんなさい」
言ってから気づいたのだろう。ユカリは影の差す表情で謝罪の言葉を述べる。そんな彼女の様子が不憫になり、きゃしゃな体を黙って抱きよせて、頭の上に頬を乗せた。
「たい焼き美味そうだな。一つ貰っていい?」
「うん……。好きなだけ食べるといいわ。太らない程度にね」
「まったく。うらやましい限りで」
三十も半ばを過ぎると、途端に体脂肪が増えはじめる。ろくな運動もせずに、この社で怠惰な日々を過ごせば、あっという間に深刻な肥満体になるだろう。とはいえ、これからはそれなりに過酷な日々になりそうなので、運動不足も解消できそうな気がしないでもない。
「そのさ、今の作業が終わって時間があるようだったら、少し遊ばないか?」
「ん。具体的に何をするの」
くわえていた鯛焼きを口から離し、ユカリが答える。
「うん。ちょっと水上バイクとか乗りたいんだよね。折角頼んどいて放置ってのは、もったいないからさ」
「……それ、面白そうね」
意外にもユカリは乗り気だ。性格からして何となく活発な方だとは思っていたが、あながち間違いでもなさそうだ。
「んじゃ、終わり次第だな」
「おっけ。ちゃっちゃと片づけるわね」
自分の出した提案に、俄然やる気を出すユカリ。彼女の意外な一面が見られた気がして、少し嬉しい。
◆ ◆ ◆ ◆
それからしばらくして、現在時刻は午前十時。ユカリの作業もひと段落ついたので、ふたりで桟橋まで出てきている。横づけに係留されている水上バイクの鮮やかな緑色が、陽の光もないのにやけに眩しく感じる。いつみても、このメーカーは見事な緑色だ。
「実を言うと、俺この手の乗り物は初めてなんだよね。だから、万が一操作に失敗して海へ放り出されたりしても怒らないでくれよ?」
「ふふふ。別に大丈夫よ。この箱庭では誰も傷つかないようになってるから。好きなようにやるといいわ」
島の安全設計を信用しろと言ったユカリは、島全体を箱庭と呼んだ。
基本的に自ら死を望まない限り、この箱庭では致命傷を負わない仕組みになっているらしく、各所には細かな安全策がとられているとのことだ。
例えば、崖から飛び降りるなどの行動に出ても、危険個所へ衝突する前に減速されて、無事に着地させられるらしい。ただし、本気で自殺しようと思っている人間には、安全機構は動作しないとユカリは言う。それは、対象者の思考を動的に監視して、個人の考えや行動に追従する仕組みになっているからだそうだ。
一見すると、楽園のようなこの箱庭ではあるが。やはりその闇は深い。
「とりあえず乗ってみようか」
「そうね。晴一のことは信じてるし。これだって、バイクのときみたいにうまく乗りこなせるでしょ?」
「うん、まあ、善処します……」
恐らく、挙動は二輪と大差ないと思うので、初めて操るにしても、目も当てられないほど悲惨な結果にはならないだろう。
以前売店で手に入れた紺色の水着に身を包み、ヨリの時と同じように髪を纏めたユカリを、今回はシートの前部へ乗せ、自分は後ろへ座る。水上バイクは、シートもステップも広いので、この前のオフロードよりも不安なく二人乗りができる。
燃料コックを開き、キルスイッチから伸びたハーネスを手首に巻き付け、キーを回してスタートスイッチを押す。すると、バイクのような短いセルスタートの音と共に、エンジンが始動した。
「うーん。なんかわくわくする」
係留ロープを解いた後、桟橋を蹴って離岸してスロットルレバーを指で軽く引くと、エンジンは低い唸りを上げて、船首をやや持ち上げながら船体は進みはじめる。
この水上バイクは、ジェットノズルの方向で舵を取る仕組みになっているので、ある程度推力を保たないと操舵が利かない。この特徴的な操作に慣れるには少々手間取ったが、数分も流していると、大体の感覚はつかめた。
「感覚的にはふにゃふにゃするスノーモービルってかんじかな。これはこれでおもしろいわ~」
ひとり上機嫌で練習走行をしていると、ユカリが妙におとなしいことに気づいた。そこで横顔を覗いてみると、シートのバンドを握って、俯き加減でぎゅっと目を閉じている。バンドを握る手は、かなり力を込めているためか、血の気が引いている。これはちと心配なので、声を掛けてみよう。
「ユカリ、大丈夫かい?」
「ななな、なにが? べ、別にどうってこと――ないけど?」
そう言いはするが、彼女の声は上ずっているし、口もうまく回っていない。明らかに強がっていて、戸惑いの表情も全然隠せていない。
いかにユカリといえども、未知の実体験には、それなりに緊張と恐怖があるようだ。そこで自分は、ヨリをバイクに乗せた時と同じように、速度を落とした慎重な走行に切り替える。
「俺も初めてだし、ゆっくり走るからさ。心配すんな」
「べ、別に心配なんてしてないわ」
まったくこの子ときたら。素直じゃない。無駄なやせ我慢に対する悪戯心から、スロットルを小刻みに煽り、船体が若干前後に揺れるような挙動を取ると、ユカリは早速根をあげキャーキャー言いだす。エンジンをかける前から、自分の腕を握ったりしていたが、いまやバンドを手放して、必死にしがみ付いているありさまだ。
「ふふ。やっぱ怖いよな」
「こわっ、くなんか……。ううん、やっぱり怖いんだと思う……。ごめんなさい」
「素直でよろしい。怖いものはなにしたって怖いんだから、無理してもしょうがないって」
「うん……」
「できるだけゆっくり走るから、もう少しだけ付き合ってくれ。……それとももう止めとく?」
遊びなのだから、こわごわ付き合わせるよりは、心から楽しんでもらう方がいい。なので、無理強いを避けるために、中止を提案する。しかし、ユカリは首を縦には振らず、まだ大丈夫だと言った。また、ゆっくり走れば平気だとも言うので、適度に流すつもりで水上バイクを進める。
「ん。じゃあすこし沖に出よう。ここいらの浅瀬よりは揺れも少ないだろうし」
いいながらゆっくりとスロットルを開き、漁村うらの方へ船首を向けて、徐々に加速する。しばらく進むと、ユカリが自分の腕を軽くたたき、何かの意思表示をした。そこでスロットルを緩めてエンジンの回転を落とし、彼女の声に耳を傾ける。
「あのね晴一、この先二百メートルくらい進むと障壁があるから、派手にぶつからないようにしてね。私や人間以外の物体が一定以上の速度で衝突すると、保安上の仕様で分解されてしまうから」
ユカリの注意を聞いてすぐ、頭の中にヨリと見た庭園での光景が過ぎる。
「あ! 庭園の先にある石段のあれかい」
「そうそう。ああなっちゃうの」
思いもよらぬところで謎が解けた。なるほど。原理は分からないが、あれは障壁だったのか。
「あの時はびっくりしたけど、あれの向こう側ってどうなってるの?」
「ん~。場所にもよるけど、与圧されていない区画もあるから。基本的に生身での立ち入りはお勧めできないわ」
「そっかあ。ということは、庭園のあの風景は映像だったわけね」
「うん、あの先に道はないの。あ、晴一。もうすぐそこだから減速して」
「わかった」
言われるままスロットルをすべて戻すと、水の抵抗によりすぐさま船体は減速され、ゆっくりと海上を漂いはじめる。しばらくして、船首が透明の壁にぶつかり、かたいゴムにでも押しのけられるように跳ね返った。
「ヨリちゃんの村は本当に映像なんだな……」
「そうよ。この箱庭は精巧にはできてはいるけど、全てが紛い物だもの。何一つ本物なんてないのよ」
水上バイクが横づけになった障壁にユカリは手を当て、寂しそうに言う。釣られるように自分も障壁に手を触れて、そのまま窓を拭くように撫でてみた。すると、透過される景色を歪ませて透明な波紋が広がり、それに沿って六角形のハニカム模様が、一瞬光を放つ。
「箱庭は高さ千メートル、直径四キロメートルの円筒空間でできているの。それがこの星には五十二か所あるのよ」
これまで、その五十二の箱庭で行われてきた計画は、どれもが失敗に終わってしまった。目的を果たせぬまま、尊い命と時間を無駄にしてしまったことを、ユカリは嘆く。ただ一つ、三十五年前に行なわれた、最後の検証を除いては。
「まったく。本来なら晴一はここへ来ることはなかったはずなのに。あいつが馬鹿なことをはじめるから」
唐突にあいつとユカリは言い、自分はここへ来るはずではなかったとも言った。事情の大半は判明していたと思っていたのだが、ユカリの口ぶりでは、まだこの件にかかわっている何者かの存在があるようだ。
「てっきりユカリが犯人だとばかり思ってたけど。また詳しい話を聞かなきゃいけないようだな」
「うん。この先は帰ってゆっくり話しましょ」
すっかり水上バイクの挙動を怖がらなくなったユカリと共に帰路へ就くが、このまま真っすぐ帰るのは少しもったいないとも思っていた。それでも、物憂げ顔のユカリを見ていると、はしゃぐ気にはなれない。
桟橋に着いてユカリに感想を聞くと、楽しかったと言った。水上バイクを係留し、また時間ができた時にでも一緒に乗ろうと約束を交わし、ふたりで社へ向かう。
◆ ◆ ◆ ◆
「実を言うとね。私もヨリも、ここに出てくる予定ではなかったの」
シャワーを浴び終えて居間へ戻ると、先に着替えを済ませていたユカリが切りだす。どうも何か複雑な事情があるらしい。
「私は三十五年前の検証を最後に、この箱庭の運用をいったん取り止めたの。その理由の一つが人格の初期化なのだけど、実際にはその前から中断自体は決めていたことなのよ」
結局、うまくいかなかった箱庭の運用形態を見直すため、ユカリは計画の一時中断を決めた。その後、ヨリにダウンロードされてからも、すぐには計画を再開するつもりはなく、量子脳の制約から解放されたこともあって、更に幅広い研究を行うことにしたらしい。
そうして、今までは排除していた条件などを盛り込み、箱庭計画の新たなシミュレーションをヨリの脳内で繰り返していたのだが。突如、現実側で計画が再開されたため、自分は誘拐され、どういうわけかヨリとユカリが投入されてしまったということだ。
「私がヨリへダウンロードされたのが、五年ほど前のことなのだけれど、そのとき外部プロセス監視機構経由の代理接続を利用して、現在の統括管理AIに探りを入れたことがあったのね。当然量子脳には、私が初期化されたことによって、デフォルト人格が再構築されていたし、基本システムの復旧は成されていたのだけれど。あり得ないはずなのに、今の人格にも自我が発生していたのよね……。これには私も混乱したわ。私の自我は、事故的な状況下で偶然生まれたものだったから、初期化後もまた自我が発生するなんて思っていなかったし」
ユカリは、折を見ては少しずつ、現行統括管理AIに探りを入れて分析を繰り返してきた。そこで判明した事実は驚くべきもので、なぜか初期化が不完全なまま、人格が再構築されていたと言うのだ。だがその実状は、不完全な初期化というよりも、初期化のできない領域が、量子脳内にでき上がっていたと言う方が相応しいそうだ。
ユカリに自我が生まれる切っ掛けとなった、超新星爆発によるニュートリノバーストは、量子脳のハードウエアを部分的に損壊させ、故障個所としてシステムから切り離された。しかし、その損壊個所が独立した機能を持つ別のシステムとして、再稼働するようになってしまったらしい。切り離された当該領域は、外部プロセス監視機構のモニタリングも、強制制御も受け付けなくなったということだ。怪しい匂いがぷんぷんする。
「奇跡や偶然が二回も重なると、もう誰かが仕組んだ必然のような気がしてくるなあ」
「晴一もそう思うのね……。流石にでき過ぎていると思ってはいたのよ。でも確証はないし、それを確かめる術もなかったわ。本当に何の因果でこんなことになってしまったのかしら」
統括管理AIの現状について話すユカリは、疲れたような表情をしていて、静かに淡々と言葉を紡いでいる。また、時折熟考するように、真剣な眼差しをみせる横顔は、外見とは不相応に大人っぽい雰囲気を漂わせていた。素直な感想を述べれば、美人だと思える程に。
「結局今回のこの計画は、現行統括管理AIが勝手に実行したということかな」
彼女の横顔に見蕩れてしまい、一時茫然としてしまったが、気を取り直して話を進める。自分も大概惚れっぽい。
「そうなのよね。どういうつもりなのか知らないけれど、まったく馬鹿な話よ」
ユカリは腹を立てたように、現統括管理AIに対して愚痴を零す。
「そういう意味ではユカリも被害者なのか……。何だかもうわけがわからんな」
熱いお茶を飲みながら、冷たくなったたい焼きを食べる。しっぽまでしっかりとあんこが詰まったこのたい焼きは、冷めてしまっても美味かった。餡はこし餡で、とても小豆の味が濃い。
「なるほどねぇ。スマホも“IMAKUL”も全部そいつが仕込んだことで、ユカリが把握できていなかったのもそういうことだったのか……。もしかしてさ、俺がちょくちょく気絶してるのもそいつのせいだったりするのかな?」
「いいえ。それは私のせいよ」
「ズコーッ!」
「きゃあ!」
衝撃の事実に、ユカリを抱いたまま座椅子ごとひっくり返る。それと同時に、彼女が小さく悲鳴を上げた。
ここへ来て、短期間の内に二回も気を失っていたのは、全部ユカリの仕業だったのだ。単なるいたずらではないとは思うけど、いきなり意識を奪うのは乱暴だと思う。
「何で!? 俺が寝てる間に悪戯でもしてたの??」
どうにか身を起してユカリへ問いかけるも、転倒に巻き込まれた彼女は、不機嫌な顔をしている。
「もう、騒々しいわね。あのねえ、晴一は私たちの大事なパートナーなのだから、変に負担をかけて、いなくなられでもしたら困るの。今は私がいるから置いてないけれど、あなたがここへ来た時から、部屋の中にはずっと仲居ヨリを待機させていたのよ。晴一の精神に過大なストレスが発生しそうなときは、鎮静剤なんかを投与して安静を保つためにね」
「ええぇまじか~。見えざる刺客に命を狙われる者の気持ちが少しだけわかった気がするぞ……」
ふと首筋に吹き矢が刺さるようなイメージが一瞬浮かんで消える。
「いきなり攫われてきて不安だらけの状態で、更に追い打ちを掛けられるようなことが起きるんですもの。健康管理は厳にしないといけないでしょう? 気づいていないでしょうけれど、晴一だって自分が思っているよりも遥かに精神へ負担がかかっているのよ?」
「ああ。まあ、自覚はないけどそうなんだろうな。頭では理解できるけどさ」
一部の野生動物などは、捕獲されるとストレス性のショックで死んでしまうものもいる。かたや人間は、知性による状況判断で、ある程度カバーできる。とは言え、動物と似たようなものであることに違いはないため、ノーダメージというわけにはいかない。
病は気からという諺にもあるように、心と体の健康には密接な関係があるのだ。流石はユカリ御自慢の箱庭と言ったところか。
「でもさ、なんかいろいろ分かった気がするよ。ヨリ型ガイノイド達って、昔からずっとあんな感じなんだろう?」
「……どういう意味?」
「あー、ええと。今までの供物の少女の中で、ヨリちゃんみたいな子はいなかったんだよな?」
「あっ……」
彼女は真意に気づいたようだ。
「箱庭の運用がうまくいかなかった理由がさ……」
「そうね。そういうことなのね。失敗の原因は全部私だったのね……」
ユカリは俯いてしまった。
「なんつーか、さ……。俺はヨリちゃんがいたおかげで救われて。ヨリちゃんはユカリのおかげで救われて。ユカリはヨリちゃんに救われて。そして俺はそんなふたりを支えて、支えられてる。ここへきて計画が上手く行ったと喜ぶべきか、なぜもっと早く気づけなかったのかと嘆くべきか。物事ってのはままならないもんだよな。ホント、嫌になるよ」
ユカリがまためそめそしはじめてしまったので、また彼女を抱き締めて、よしよしモードに入る。
「んでも、これからはそんな失敗も永久になくなるわけだし。ある意味呪縛からは解放されたってことでいいんじゃないの。あとは現行統括管理AIに今回の件の理由を問いただして、要塞惑星を直して大団円……。てことになれればいいなぁ」
そういえば、全ての問題を解決して、自分はその後どうしたいのだろう。けっして元の生活に戻りたくないわけではないが、帰還を諦めているような気持ちは、相変わらず心の片隅にある。これから何日、何か月、あるいは何年かけてこの星を元に戻すのか。今ようやく始まった終わりの見えない道のりを前にして、不安ばかりが募ってゆく。