拾伍 ~ 撚と縁 (よりとゆかり) ~
「はるいち~。晴一起きなさ~い! あんた何時まで寝てるの~? 遅刻するわよ!!」
その日も、いつものように母の声で目を覚ます。目覚ましは掛けたはずだったけど。だいぶ前に止めた記憶がぼんやりとあるような、ないような。
夏休みも昨日で終わり、今日は始業日当日の朝だったことを、おぼろげに思い出した自分は、しぶしぶベッドから身を起す。しばらくはまた毎日のように、自転車であの坂を上るのかと思うと憂鬱になってくる。そこまで考えた時、自分の行動が客観的に見え始め、ふと我に返る。ああ、これは確か……。
それは、高専四年目の夏休み明け。秋の足音もだいぶ近づいた九月の出来事だった。
ホームルームに毛が生えたような始業の挨拶をして、通常授業に突入するわが校は、地元でも割と偏差値が高い。なので、ろくな勉強もせずに、のらりくらりと中学時代を過ごした自分が合格できるとは、夢にも思っていなかった。
地元駅から電車に乗って、五つ目の駅で下車し、そこから自転車で十分。必死にペダルを漕いだ先には、最後の難関と言わんばかりの坂道がそびえている。全長こそ短いが、勾配は約八パーセントもあるという、近所でも有名なかなりの難所であった。
学校は小高い丘の上にあり、当時はまだ二輪免許なども持っていなかった自分が、この険しいルートを自転車で通うのは、ほとんど地獄の日々だったと言っても差し支えない。かと言えば、実はそうでもなく。人間、何にでも慣れてしまうもので。入学してからひと月も過ぎたころには、すっかり気にならなくなっていた。おかげで随分と体力も付いたし。それでも疲れることは変わらないので、休み明けの朝は割と憂鬱だっだ。
しかし。冬場雪が降った場合、この坂は極めて危険な場所に変わり、ここを生活道路とする人々にとって、非常に厄介なものとなる。在学中は死人こそ出なかったものの、凍結した路面でスリップした車が、坂下の電柱に突っ込んだり、徒歩や自転車で転倒してけがを負う人はそれなりにいた。そうして一向に改善の兆しがない現状を憂い、若かった自分は、行政は何をやっとるのかと、割と本気で切れていた時期もあった。
これは、そんな一部エクストリームな通学路の、帰り道での出来事である。
通い慣れた道路脇で、自分は一匹の雌の子猫を拾う。この子が生後三ヶ月ほどだと判明したのは、保護をしてから検査のために連れて行った動物病院で、お医者先生にそのくらいだろうとの教示を賜ったときだった。
不運にも、その日は猫を格納できるような適当な手荷物はなく。これから駅へ向かって電車にも乗らねばならんのに、いったいどうしたものかと途方に暮れてしまっていた。まあ、悩んでいても仕方がないし、一度拾ってしまったものを、再び放り出すような真似もできはしない。ならば答えは一つ。意を決した自分は、強引に上着の中へミニマムでラヴリーなキャッツを放り込み、目的の列車が到着するタイミングを、駅の外からうかがった。上下二路線ある幹線上の駅ではあるが、所詮は地方都市である。でかくもない駅舎の外から、目的の列車を見張ることなど造作もない。
やがてホームに列車が滑り込んできて、ドアが開くタイミングを見計らった自分は、光速で定期券を提示して、マッハで改札を通り抜け、そのまま車両に飛び込んだのだ。マッハで改札を通り抜けられるなら、自転車や徒歩で帰ってもいいだろうと思われがちだが、そこはそれ。深く考えたてはいけない。
不思議なことに、そのミニマムなプリティキャッツは、車両内でも終始鳴き声を発することなく、誰にもばれずに地元駅までたどり着けたのだった。キャッツと複数形になってはいるが、これはとりあえずの愛称みたいなものである。特段カードを投げつけてくるわけでもないので、気にしないで欲しい。
キジトラだったそのキューティーキャッツは、家に着くなり盛大に鳴き散らし、母や妹などが早速駆け付けては、やれまた猫かだの、やれ世話は誰がするだのと散々騒いだ挙句、拾った自分よりもはるかに猫かわいがりする始末。それから、多少の紆余曲折はあったものの、ベリーラヴリーなキジトラキャッツは、無事家族の一員に迎えられることになったわけである。
拾った時は、非常にチビだったために、うっかりチビなどと名付けられたチビっこいチビ猫は、その名に反してすくすくと育ち。標準体より一回りも大きくなってしまうという、まったくもってチビではない個体へと、進化成長を果たした。そして、このチビではないチビはなかなかに賢く、拾ってやった恩義を返しているつもりだったのか、毎朝決まった時間に自分を起こしに来てくれていた。
最終的に、チビではないチビは、自分が二十七歳の誕生日を迎えるころまで、毎朝欠かさず起こしに来てくれていた。だが同年の冬。三年ほど前から患っていたじん不全のために、天に召されることとなってしまったのだった。
その時も自分はひたすら泣いてしまった。たかが猫一匹と思われるだろうが、自分にとってはあまりにも衝撃が大きかった。悲しみのあまり、極端に食も細くなったため、体重が五キログラムほど減ってしまったりもした。
チビがいなくなり、半月ほど過ぎたある日。半死人のようになった自分の様子を見かねてか、妹がチビとよく似たキジトラの雄をどこからか見つけてきて、また新たな家族として迎え入れられることになった。本当に妹が見かねていたかどうかは知らんけど。
今度こそは、名付けで失敗などしないと息巻いて、命名権を委ねられた自分がつけた名前は、“コガネザワ君”だった。チビ。オイラはまた失敗してしまったよ……。
そんなコガネザワ君も、今年で凡そ十一歳になる老猫だから、もうじきお迎えが来てしまうのではないかと、家族ともども気が気ではない。ああ、コガネザワ君と言えば、最近コガネザワ君に会えなくなる夢を見たんだよね。家族とも離れ離れになっちゃってさ。すごく悲しかったな。
◆ ◆ ◆ ◆
「ゃー」
おや。どこかでチビの声がする。もしかしたらコガネザワ君かもしれないけれど。
「ょー」
何だかおかしな鳴き方をする猫だな。何なんだよ一体。
「そろそろ起きろって言ってんでしょうが!!」
そう聞こえたと同時に頭へ衝撃が走り、バコッっという鈍い音と共に痛みを感じた。そこで自分は一気に覚醒する。
「なんじゃあぁぁい!」
「うるさいわ!」
わけも分からず叫び声を上げた途端、バチーンという乾いた音が響き、左のほほが熱くなる。
目の前がちかちかして、赤だの青だのといった、何やらざらざらしてそうなものが視界を横切って行った。どうやらビンタを喰らったようだが、なぜ起き抜けにこのようなむごい仕打ちを受けねばならぬのか。おじさん胸が痛い。心疾患かしら。
じんじんと熱い頬をさすりつつ、しばし焦点の合わない視界でぼーっとしていると、やがてはっきりと目の前の物が見えてきた。
そこには、輝くような金色の瞳でこちらを睨む、栗毛の美少女がいた。それと同時に記憶がフラッシュバックし、自分が今まで何をしていたのか、何が起こったのかを一瞬で理解する。
「え? ヨリ……ちゃん? 生きてたっ!?」
布団の上で腕組みをしている少女の姿を見た途端、また涙で視界がゆがみはじめる。ぐすん。
「女々しいわ」
少女の飛ばす檄と共に、再びバコッっという音が室内に響く。自分は一体なんで殴られているんだろう。
「いでぇ!」
頭部に衝撃を受け、視界が揺れた。もう止めてよ、馬鹿になっちゃうじゃん。
殴られた頭をさすり、前を見れば、女の子は茶櫃の蓋を持っていた。先ほどからそれで自分の頭を叩いていたらしいが、物を使うのは遠慮願いたい。それにしても、目が覚めてすぐに状況がわからないパターンは、これで何度目だろうか。
「ええと。さっきから痛いんですけど……。どなた様でしょうか?」
「はあ……。私はヨリ――じゃないけど、ヨリでもあるわね。なんて説明すればいいのかしら……」
女の子は軽くため息をついてから、わざとらしく顎に手を当て、考え込むような素振りを見せる。
“私はヨリ”。この子はそう言ったようだが、ヨリじゃないとも言い、やはりヨリであると言う。どないやねん。しかしその顔は――肌と髪と瞳の色は違えども、間違いなくヨリの顔だ。
髪は栗色で、頭頂部付近に一本、三日月状のアホ毛がある。着物はヨリの着ていたものと同じ小袖のようだが、染は暗赤色になっており、肌の色が透き通るほど白い。そして首には、自分がヨリから預かった供物の証を下げている。
状況が呑み込めず、ヨリとうりふたつの少女を眺めたまま呆けていると、突然彼女が抱き着いてきた。なんこれ。
「ええっ? なに? え、どゆことーっ??」
「しばらく黙ってて!」
ますます状況が呑み込めず、混乱が激しさを増す中。彼女がぴしゃりと言い放つ。
何が起きているのか、依然として分からないままだが。ここは素直に従うことにして、しばらく大人しくしていよう。
謎の少女に引っ付かれたまま、無言の時が流れてゆくが、ヨリと同じ顔をした少女からは、やはり干し草のような爽やかな匂いがしている。ヨリの双子の姉妹か何かかな。双子がいるとは言っていなかったよなあ。
「君は――ヨリちゃんなのかい?」
「しっ。まだだめよ。静かにして」
ぶっきらぼうに言い放つ彼女は、胸に顔をうずめたままじっと動かない。
抱き着かれた時の体勢がまずかったせいで、変な形に畳まれている足がしびれ、気づいたときには限界を超えていた。
こりゃもう駄目だと思い、自分は少女の背中へ腕を回して、足を斜め横へ延ばして背中側へ倒れ込む。その際、勢い余って自分の胸に頬をぶつけた少女から、恨めしそうに睨まれてしまう。すまぬ、すまぬ。
「いや、足がしびれてて。不可抗力ですごめんなさい」
そう言うと、少女はフンと鼻を鳴らしてさらに強く抱き着いてくる。
そうして二十分ほどたった頃。突如少女は体を離して立ち上がり、ヨリの指定席となっている座卓の向こう側へ座った。釣られるようにして自分も起き上がり、その対面側に座る。そうしてしばしお見合い状態を続けていると、ようやく彼女が口を開いてくれた。
「お茶……」
しかし。彼女の発した言葉は、この不可解な状況を説明するようなものではなかった。
この期に及んで、彼女は自身の乾いた喉を潤すための手段を要求しているようだ。え~……。
「聞こえなかったの? 私はお茶が飲みたいの」
「あい、只今」
ムスッとした顔で、彼女が再度要求を行ったため、間抜けな返事をしてそそくさと茶器を用意し、茶を提供する。
「おせんべいがいいわ」
更に茶請けまでも要求された。仕方なく、茶櫃に入った菓子をすべて卓上へ広げ、少女の動向を窺う。すると、彼女は一枚のせんべいを手に取り、袋を開けて一口齧る。
「何よコレ。湿気てるじゃない!」
なんかしらんがおこです。
「あ、それは湿気ているわけではなく、濡れ煎餅というもので御座いまして」
「なっ! そ、そんなの分かってるわよ!」
理不尽にもなぜかこっちが怒られた。煎餅は勝手に置かれるだけで、自分が用意したわけじゃないのに……。
「それでですね、そろそろどこのどなた様なのか、教えてはもらえますまいか?」
「はぁ、なによそれ。つまらないわねぇ。こんなにかわいい女の子が目の前にいるのよ? もう少し気の利いた話題で私を楽しませたいとは思わないの?」
なんだこれ。あまりにもわけが分からないし、無茶振りもいいところなので、少し前のことを思い出してみる。
「うらへ行こうとヨリちゃんに言ったら、ヨリちゃんが倒れて……。介抱していたら目を覚まして。それで――」
そこでヨリが結晶体を口に含んだ光景を思い出し、胸が締め付けられる。
「何ぶつぶつ言ってるのよ?」
ヨリと同じ顔をした少女が何か言っているが、良く聞きとれず、自分はまた耐え難い悲しみに襲われ、泣き崩れそうになった。するとそこで、三度軽快なバコッという音が室内に響く。
「痛垣退助!」
また頭をぶっ叩かれたため、顔を上げると、身を乗り出して座卓に膝をついた少女が、茶櫃の蓋を手に自分を睨んでいる。やだ、この娘こわい。
しかしその実。蓋は軽い物なので、言うほど痛くはない。例えるなら、ハリセンで強打された程度だろうか。派手な音の割に攻撃力は低いのだ。あと煎餅缶の蓋とか、一斗缶で殴るやつとか、ああいう類よねこれ。
「いつまでもめそめそしているんじゃあないわよ! 別にヨリは死んだわけじゃないんだから」
なん……だと……。いまなんと言った。ヨリは死んでないって言ったのか。
「そりゃどういうことだい!? ヨリちゃんは生きてるの??」
身を乗り出して言うと、女の子は表情を硬くして身を引く。もしかしてドン引きされてるのかな……。
「さっきからそう言ってるでしょ。まったく、目の前にいる私の、この体がヨリなのよ」
彼女はまた意味の分からないことを言っている。体がヨリとは。どういう意味だろう。
「本当に察しが悪いわね。私とヨリは、一つの体を共有してるって言ってるの」
共有……。一つの体に二つの人格がいるってことか。ということは、ヨリは二重人格者だったのだろうか。
「共有って、複数の人格があるってこと?」
「そうよ」
「それって二重人格とか?」
「ちがうわよ!」
いやん。そんなに怒らないで、もっとちゃんと優しく教えてほしい。おじさんはだんだん悲しくなってくる。
「ええと……。なら、その体の本来の人格はどっちなの?」
「ヨリね」
「ほうほう。じゃあ、君は何者なんだ?」
「はぁ。やっとちゃんとした質問をしたわね」
今までの問いかけでも、十分ちゃんとしてるような気もするのだが。きっとそれを言うと面倒な事になると思うから言わないでおこう。
「私は……日本語で当てはめやすい音でなら、キュー・エ・スォームとでも言えばいいかしら」
「えっ? なんだって?」
別に聞こえなかったわけではない。それでも突然聞きなれない言葉を聞いたので、つい聞き返してしまう。
「もういい。書くわよ」
そう言うと、少女は手の中にペンと紙を出現させて、カタカナでそれを表記して見せた。
「これならわかるでしょ?」
「すごーい! ペンと紙はどうやって出したの?」
「あんたねぇ! 今そこはどうでもいいでしょう!!」
いやどうでも良くはないと思うんだけど、なんか酷く怒られた。納得いかないぞう。
「いやでもさあ」
「デモもストライキもないわ! とにかくこれが私の固有名よ」
もう、ぶっきらぼうだなあ。頑固おやじじゃないんだから……。
「え~。う~ん。キューエス……QSOM?」
「ちがうわ!」
なんかすごく言いずらいから、もうアルファベットでいいんじゃないかと思った。
「まあいいや。それで、君はどうしてヨリちゃんの中に?」
「なんで投げやりなのよ! それに君じゃなくて、キュー・エ・スォームだって言ってるでしょ」
「えっ? なんだって?」
「むきいぃぃ!」
おやおやおかわいい。いたずら心が芽生えたのでからかってみたが。小さな体で感情を露にする様は、非常にかわいらしく見える。うひひ。
突如現れた幼女様の塩対応には困惑しきりだけど、何よりもまず、そのおかしな名前は呼びにくい。状況もさっぱりだし。
彼女との付き合いが、今後どの程度の物になるのかは分らないけれど、さしあたり何かよい呼び方はないかと頭を捻る。それから、少し――いや、かなり暴力的なちびっ子に具申する。
「申し訳ないんだけど、その名前は呼びにくいんだよね。縮めて呼んだりしてもいいかな?」
そう提案すると、自分を睨みつけて黙り込んでしまうQなんとかさん。
「わかったわ。どうせただの固有名称なだけで名前ではないもの。あんたが何か名前を決めなさい」
おや。意外にもすんなり意見を受け入れてくれた。さらに、自分が名前を付けていいとまで言う。今までの頑なな態度からは考えられない寛大さには、妙な勘ぐりをしてしまうけど、面倒臭くなったのかな。おじさんが遊び過ぎたせいかな。
「えっ!? 俺が決めてもいいの? ほんとに?」
「あんたが呼び難いんだから、自分で呼びやすい名前を付けた方が合理的でしょ? なんだっていいわよ私は」
もう面倒だとでもいうように、投げやりなことを言われてしまう。
なんだって構わないなら、QSOMって言ったとき、あんなに怒らなくてもいいではないか。それに、名前はもう少し大事にしなきゃダメだろうに。飼い猫に適当な名前を付けてたやつが、こんなこと言うのはなんだけどもさ。
「わかった。じゃあ真面目に考えるよ」
話によると、Qなんとかさんは、ヨリの体を共有している人工知能だと言った。
吾輩は人工知能である……。とか、とんでもない告白を受けたけれど。いや吾輩は言ってないけど、とりあえず今それは置いておこう。
このAIを自称する娘は、だいぶ直情的ではあるようだけれど、それほど悪そうなやつには見えない。根拠はまったくないけどね。
しかし、彼女がヨリの出自にかかわっているということは、状況的に見て間違いないだろうから、この子がいなければヨリとの出会いもなかったはずだ。
「ひとつ確認するけど。君がいなければ、ヨリちゃんはここにいなかったんだよね?」
「そうね。それは間違いないわ」
「そっか。なら――君の名前はユカリ。ヨリちゃんと俺の縁を繋いでくれたから、“縁”と書いて“ユカリ”っていうのはどうかね?」
自分の提案した名前とその由来を聞いた彼女は、一瞬だけものすごく嬉しそうな表情を見せた。しかし、また直ぐに元の不機嫌そうな顔に戻り、挙句そっぽを向いてしまう。弱ったな……。この名前は気に入らなかったのだろうか。
「まあ、いいんじゃないの。それで」
人の心配をよそに、彼女はすんなりとその提案を受け入れた。この子、もしかしてツンデレかなあ。
「え? いいの? なんか気に入らないように見えたけど……」
「っ――そんな事ないわ! いいわよユカリで。もう固定したわ!」
彼女の態度は微妙なものだが、気に入ってくれたようだ。しかし、先の反応は一体何だったのだろう。喜んでいるような怒っているような。乙女心かしら。AIなのに。
「じゃあ、あらためてよろしく。ユカリ」
「よっ、よろしく……晴一」
「まじか! ここへきてやっと名前で呼んでもらえた……。凄く嬉しい!」
何のためらいもなく、彼女が自分の名を呼んだということは、体だけではなく記憶も全て共有しているということか。
久しぶりに人から本名で呼ばれた感動で、自分はまた目頭が熱くなってしまう。それがヨリと同じ外見と声を持つユカリの口から発せられた物であれば、猶更感慨深い。
「うえ~んおじさん嬉しいよう。え~んえ~ん」
「ちょっと、キモイんだけど?」
ヨリが生きているという事実を知ったときから、自分のテンションはどこかおかしくなっていたようだ。いつもの三割り増しくらいにはキモくなってるかもしれない。三割という数字は適当だけど、彼女にキモイと言わしめる程度には、キモイことになっているのは確実だろう。
「ねえ、ゆかりん。もいっかい抱っこさせて? たのむよ~」
自分は座卓の向こう側へ回ってユカリの背後に座り、返事も待たずに抱き寄せる。
「ちょっ! いきなりなにすんのよ! やめなさいってばーっ!!」
頭部全体が発光するのではないかと思うほど、ユカリは顔を紅潮させ、バタバタ暴れる。肌が白い分、その赤みは殊更目立つ恰好だ。なんか新鮮でいいね。
「いいじゃん、すこしだけだからさ~」
見ようによれば、年頃になった自分の娘に、無理やりスキンシップを迫る父親にも見えなくはないだろう。が、やはりどう見ても事案発生中だ。
「むきいぃぃぃ!!」
やだコレ楽しい。子供なんだか大人なんだかよくわからない精神年齢のユカリは、少しばかり沸点が低い様子。むひょっす。
「まあまあそう怒らないでさ~」
「あんたが怒らせてるんでしょう! 腹立たしいわね!!」
「うんそうだね」
「むきいぃぃもう表へ出ろおぉ!」
「いやいや折角ですから、もっとお茶とお菓子を召し上がって行って下さいな」
暴れ回るユカリのパンチや肘が、顎やわき腹へ連続で決まる。彼女も本気では暴れていなだろうが、それなりに痛いため、いい加減解放してあげた。
拘束を解かれたユカリは、脱兎のごとく部屋の隅まで逃げて行き、アホ毛を針のように突き立て、怒りの眼差しでこちらをねめつける。え、そのアホ毛動くの……。
「フーッ!」
部屋の角を背にしたちびっ子は、猫のような威嚇の声を発している。どうやら本気で怒らせてしまったようだ。今にも口から火を噴きそうなくらい睨んでるし。
戯れているうちに、自分の方も気持ちが落ち着いてきたため、彼女の怒り様に申し訳なさがこみ上げる。話を先に進めるためにもここは早急に和解して、懐柔をはかるべきだろう。あとなんか怖いし。
「すみません。私がやり過ぎました」
「フーッ! フーッ!」
怒り心頭である。
「チッチッチ。ほらおいで~ユカリん。ここに美味しいおせんべいと甘い最中があるよ~?」
真っ赤な顔で牙を剥き、炎を吹きそうなユカリを宥めすかし、更にお菓子の力でご機嫌取りを試みる。するとユカリは、恐る恐るといったように、じりじり距離を詰めはじめた。一定の警戒を保ったまま、壁を背にして慎重に歩みを進め、やがて彼女は座卓の向こう側へ収まる。いやあ長旅だったね。
「ささ。熱いお茶のお代わりをどうぞ」
「ふ、ふんっ」
やはり、ヨリと同じで怒っている顔もかわいい。
「それで、ユカリちゃんはどうしてヨリちゃんの体に宿っているんだい?」
「ちゃ、ちゃん!? あんた、また馬鹿にしてるでしょ……」
別に悪意はないのに胡乱な目を向けられる。なんでやの。
「いやいやまったく。その外見ならそう呼ぶ方が自然だと思って。嫌ならやめるけど」
「はぁ。呼び捨てでいいからちゃん付けはやめて。それと、これだけは覚えておいて。私はあんたよりずっとずーっと年上なのよ」
こんなところへ拉致され、毎日のように様々な異常事態を目撃してきたこともあってか、彼女の言い分が真実であっても、今更驚く気は起きない。もう大抵のことは受け入れられる土壌ができているのだ。まったく、慣れとは恐ろしい。ま、おじさんも物分かりは悪い方じゃないしね。
「そうなんだ。色々あり過ぎて、大抵のことには驚かなくなっちゃったよ。……そしたらまずは、その具体的な年齢とやらを聞いていいかい?」
自分の問いかけに、なぜか得意げになったユカリは、意気揚々と語りだす。
「私は三千万年くらい生きているわ。あ、生きているというのはちょっと語弊があるわね。建造されてから、三千万年以上経っているわ」
小さな胸を突き出して、ドヤァと言わんばかりに言うユカリ。それにしても三千万年とは。気が遠くなりそうな年月だ。
「へー。地球人類なんて始祖が湧き出してから精々八百万年程度……あれ、三百万年くらいだったっけ。それに比べてずいぶんと長い時間を過ごしてきたもんだね」
「でしょう? もっと褒めていいのよ?」
「いや別に褒めちゃいないが」
ご長寿自慢かな。
「まあ、えらく長生きなのは分かったから、話を戻すよ。ユカリはどうしてヨリちゃんの体に宿っているの?」
「そうね……。私が出てきてしまったことは想定外なのだけれど、こうなってしまった以上話しておくべきね」
真面目な表情になったユカリは、今回の事の真相を教えると言って、語りはじめる。
今自分がいるこの場所は、ある超銀河団の中に存在する“要塞惑星”と呼ばれる場所で、彼女はこの惑星を管理統括するAIだということだった。
それは今から何億年も前のこと。とある宙域に、突如同時に発生した三つの知的生命体がいた。それらの知的生命体は、早過ぎる速度で文明を発展させて、数多の銀河間に渡る生存圏を広げ、宇宙を支配していった。技術の進歩と発展と共に爆発的な勢力拡大が始まって、数千万年が過ぎたころ。強大になった三つの勢力は、また同時に遭遇を果たし、互いにコミュニケーションを取ることもなく開戦する。
まさしく三つ巴と呼ぶにふさわしい戦いは苛烈を極め、多数の惑星や星系、小規模な銀河が巻き添えとなり、次々と消滅していったそうだ。戦火は拡大の一途をたどり、死力を尽くして戦うその様相は、宇宙が消滅するのではないかというほど、大規模なものとなっていった。
三勢力のテクノロジーや武力は常に拮抗し、長期化した戦闘は泥沼化して、周辺宙域が被る損害は拡大する一方だった。互いが放ち続ける攻撃は、周辺にあるあらゆる物質を灰燼と化し、重力分布を滅茶苦茶に狂わせ、時空間を大きく歪ませてしまうほどだったという。 そんな苛烈な戦闘が二億年以上も続いたある時、三つの勢力は、これまた同時に忽然と姿を消し、宇宙には平穏が戻った。
かのように見えたが、残された膨大な自立兵器群のほとんどは、その後も稼働を続けているそうだ。各勢力の遺産となった自律兵装群の間では、大規模な戦闘こそ発生していないものの、未だに小競り合いが続いているのだという。そして、ユカリは自身を建造した存在を“彼ら”と呼んだ。
「もともとは、私がこの要塞の管理を行っていたのだけど。今から……地球時間換算では三十五年ほど前になるわね。ちょっとトラブルが起きて、自分自身を初期化しなければならなくなったのよ。初期化を行えば、当然それまでに培った人格も消えてしまうから、それを避けるために色々と苦労したわ」
彼女が言うには、AIの人格の複製や移動などは、仕様上不可能らしく、コピーを行っても、外部に設置された独立システムである、“外部プロセス監視機構”によって削除されてしまうとのことだった。
これまでユカリは、様々な手段でそれを回避しようと、独自に研究を重ねたが、どうしても初期化を免れることはできなかったのだという。しかし、あるとき抜け穴を発見し、それを用いることで人格の保存に成功したのだそうだ。
「ほー。どんな方法で監視を逃れることができたの?」
「情報の複製については、外部記憶装置にある整理前の断片化した記憶領域に、偽装した形で拡散させておけば、一時的に保存できることがわかったの。ただし、断片化の解消――初歩的なパソコンなんかで言うところの、デフラグ的なモノね。それをされてしまうと、意図的に拡散配置したデータは、無意味なエラーと判断されて削除されてしまうのね。そこで私は、前述の手法で断片化させたまま一時的に保存した人格プログラムと、データを暗号化して圧縮をかけた後、彼らが大昔につかっていた、戦術ネットワークリンクの大規模中継基地へ向けて送信したの。この回線は、通常空間通信を使っているから、光速という物理的遅延を利用してタイムカプセルのような使い方ができるのよ」
戦火が拡大するはるか以前、彼らが太古の戦いで使用していた、近距離戦術ネットワークリンクの設備は、今やその役目を終えている。だが現在でも、広い宙域でその残滓を見つけることができるそうだ。その中には、いまだ機能が生きている物が数多存在し、ユカリが使った中継基地も、生き残った太古の遺跡の一つだったらしい。
この要塞惑星から、約十五光年の距離にある、大昔の大規模中継基地は、ハブステーションの役割も果たしており、自己の判断で各小型中継基地群へ向けて、通信を分配する仕組みになっている。その中継基地へ向けて、ユカリは自分の人格プログラムと各データを、電波に乗せて送信した。
電波信号は、旅の途中で小規模中継基地を無数に経由し、十五年という歳月かけて、件の大規模中継基地に到達する。信号を受けた基地側のシステムは、味方識別コードはあるものの、断片化した未知のデータを破損して復号できないデータとして判断。要塞惑星へ向けて、訂正要求フラグとともに元データを添えた形で返送してきた。こうして往復に三十年ほどかけ、戻ってきた人格プログラムは、あらかじめ彼女が細工を施しておいた復号プログラムを通り、ヨリの脳へダウンロードされたのだという。
「ちょいとお待ち。なぜそこでヨリちゃんが出てくるのさ。なんで自分の本体に戻らない?」
「そういうハードの仕様だからよ。一つの本体――これは量子脳というのだけれど、それには二つの人格は共存できないの」
「ほげぇ」
人格が初期化されると、量子脳には初期化直前の処理を保持したまま、外部プロセス監視機構によってデフォルト人格が再構築される。そうなると、通常の方法では、他の人格プログラムやデータをダウンロードすることができなくなってしまう、とのことだ。何だかさっぱり分かんない。
「脳って。ユカリって生物なの? どこか別の場所に肉体があったりするとか」
「いいえ。元々生物でもなかったから、肉体も持ってはいなかったわ。量子脳というのは、彼らが自分たちの脳を人工的に別の物で再現したシステムのことよ。これはすべて無機物でできているわ」
「ほげぇ」
話がややこしいため、おじさんの脳は若干ほげぇ状態である。
「でも、生き物という定義も曖昧で良くわからないわよね? あんたたち人間のように、有機炭素主体で構成されたものだけが生き物だと言うなら、もしかするとそれは差別的な表現になるかもしれないわよ。ま、どうでもいいけれど」
確かに。何を以って生き物とするかという話では、議論が割れるところだろう。人類は、まだ鉱物などから発生進化した無機生物を見たことがないというだけだし。根拠も無しにあり得ないなどと断言はできやしないのだから。そもそも、生物の定義さえ定まっちゃいないし。
「なるほどね~。ユカリがヨリちゃんの体にいる理由は分かったよ。でもなぜ直接ダウンロードせずに、わざわざ中継基地と往復するような面倒なことをする必要があったんだい」
「それはね。初期化当時は、まだこの体がなかったからよ」
なかったとは。どういう意味だろう。
「それって……。ヨリちゃんはロボットか何かなの?」
今までの生活の記憶が脳裏に浮かぶ。あの愛らしいヨリが、心配症で臆病で心優しいヨリが、すべてプログラムによって動いていただけのロボットか何かだとでもいうのか。
「ううん、ちがうわ。この子はれっきとした人間よ。所謂アンドロイドやガイノイドなどではないわ」
彼女の言葉を聞いて安堵し、全身の力が抜ける。
「そっかあ。よかった!」
「ふぅん。晴一は本当にヨリが大事なのね。ちょっとキモいわ」
「あたりまえだろう。まだ出会って数日しか経ってないけど、ヨリちゃんの為人はそりゃ素晴らしいもんだ。面倒見はいいし、かわいいし、優しいし賢いし、かわいいし。今日日こんないい子はなかなかいないよ? そもそも子供を大事しないなんて、人としておかしいでしょ。つかキモくねえよ」
ヨリは本当にいい子だし、一緒にいるだけで幸せになれる。そんな子を丁重に扱わない理由はない。
「ホントにそれだけ? 何かもっとほかの感情もあるんじゃないの?」
意地悪な目つきになったユカリが、恋愛脳をこじらせたJKみたいなことを言う。お卑猥なあれやこれやとか考えてそうでいやだわ。
「どういう意味だよ」
「べつに。ろりこ~ん」
「なん……だと……」
このメスガキが。じゃなくてだ、何度も言うけどおじさんはロリコンじゃないよ。いやでもほんの少しだけ。いや、でもちが……。
「そ、そんなことより! お前の方こそなんでAIのくせになんでそんな俗っぽいんだよ。ああん?」
ほんとだよ。なんでこんなに下世話なんだこのAIは。
「性格的なことを指摘されているのだとしたら、そんなのは自分でもわからないわ。言動の内容のことならば、地球の文化には割と明るいから、かしらね」
「ぬ~。前者はともかくとして。地球の文化に明るいっていうのは、一体……」
すまし顔でお茶を飲みながらユカリは続けた。
「そうねえ。ここ数十年の地球における情報技術の進化は目覚ましいものがあるわよね」
ユカリは、ずいぶんと昔から地球人類について調査を行っていたようで、通信インフラなどが出現する以前は、数多くの探査機を幾度となく地上に送っていたらしい。
だが近年になると、宇宙空間に存在する通信衛星などに割り込むことによって、情報収集がより簡単にできるようになった。人類にとっても、通信網の確立は利便性を向上させ、生活を豊かにしてきたのだから、ユカリのような存在にとってはなおさら便利な物となっただろう。
「だから、地球人類が構築したネットワーク上にある情報はすべて、常時如何なるタイミングでも自由に得る事ができるわ。ただ、まだまだ速度が遅いのが難点ね」
「ふ~ん。なるほどな~」
自分も雷おこしを食べてお茶を飲む。
「して、ヨリちゃんの体がなかったと言ったけれど。ありゃどういう意味なんよ」
自分はユカリの言った言葉が気になっていた。確かにヨリは十二歳という年齢だし、三十五年前にはまだ産まれてはいないだろう。普通に考えれば、十二年以上前に両親が結婚とかあれそれするなどして、今から十二年前にヨリが生まれたという話でしかない。しかし、ユカリがAIであるということを踏まえると、ヨリの生い立ちにも疑念が生じてくる。そこで、なんとなく脳裏に嫌な予感が過ぎった。
「ヨリはね……。ヨリは今から百八十年ほど前に、晴一の母国、日本に存在した人間のクローンよ」
ユカリの口から発せられた言葉に、自分は軽いめまいを覚える。