拾肆 ~ 出会いと別れ ~
午前三時。左腕に巻いたバイブレーションアラームが、あらかじめ設定していた時を告げ、目を覚ます。
ヨリを起こさぬよう布団を抜け出し、アラームを腕から外して座卓の上へ置くと、広縁から猫の抱き枕を持ち出して、自分の寝ていた場所に滑り込ませた。この偽装に、どの程度効果があるかはわからない。まあ、ないよりはましな気もするので、形ばかりではあるが一応置いておこう。万一ヨリが起きてしまっても、寂しがらないようにね。
昼間注文しておいた双眼鏡と、シュノーケリングセットの袋を持って廊下に出ると、その場でウェットスーツへ着替える。続いて頭にゴーグルとシュノーケルを装着し、空いた袋へ双眼鏡を放り込んで、社の外へ出た。玄関先で双眼鏡を取り出し、対岸にあるうらへ向けてピントを合わせる。次に手前の祭壇にピントを合わせて、供物がまだ届いていないのを確認してから、桟橋の先端まで行き、海へ飛び込んだ。浅い海を軽く泳いで、祭壇付近にある岩の向こう側へ回り、昼間見つけておいたいい感じの足場から岩の上によじ登る。そこから双眼鏡を構えて、いよいよ村の監視に入った。
しがらみ衆は、三時から四時の間にやってくるとヨリは言っていた。腕時計を見ると、現在時刻は三時五分。暗がりになれた目には、無機ELバックライトの放つ淡い光が、眩しく感じる。しがらみ衆には申し訳ないが、こればかりはどうしても見定めておく必要があるのだ。今回だけは許してほしいと、心の中で謝罪しつつ、再び沖のほうへ双眼鏡を向ける。しばらく海を眺めて、意外とうねりがあるなと思っていたとき。突如視界に変化が訪れた。
「えっ? いつの間にあんな近くに」
かなり集中して注視していたにもかかわらず、気づけばかなり近い位置まで、小舟が近づいてきていた。近いとは言っても、まだ四、五百メートルほどは離れているようで、双眼鏡のレンジファインダーから距離を見ると、四百八十メートル前後の位置にいることがわかる。
「あの舟……少し速すぎやしないか」
小さな木造と思しき舟は、どういうわけかかなりの速度で桟橋へと近づいてきていた。
あまりの速さに慌てて岩をおり、静かに水中に入ってゴーグルを装着すると、シュノーケルをくわえて水面下に隠れる。桟橋からは死角になる位置に陣取り、舟が接舷するのを息を殺してじっと待つ。
やがて、水面を滑るようにして小舟は桟橋へと到着し、乗っていた三人の男たちが、積んで来た供物を祭壇へ上げはじめた。そこで自分は更に深く潜り、船底をくぐって舟の反対側へ回る。そのまま海中を進み、ある程度距離を確保してからそっと水面に顔を出し、慎重に観察を続ける。殆ど音もたてず、一言の会話もない男たちは不気味だ。その一方で、厳格な場での規律をしっかり守っているようにも見えるため、これもしきたりとやらの作法なのかもしれない。
星空が明るいこともあるが、目も十分暗さに慣れたため、動かなければ注視するだけで、男たちの顔をはっきり見ることができる。しかし、彼らの顔を見て、自分は絶句した。あろうことか、全員同じ顔をしているのだ。いいや、顔だけではない。注意深く観察すると、背格好までもがまったく同じに見える。まるきり三つ子のような存在だ。それとも、本物の三つ子なのだろうか。本人たちに直接聞いてみればわかるのだろうが、それをすると彼らの人生が台無しになるので、そんなことするわけにはいかない。
男たちはの年齢は三十前後に見え、細身の筋肉質な体に褌ひとつという出で立ちだ。髷のない短髪は黒く、顔だちも一般的な日本人の相貌と大差はない。細かい数値は分からないものの、双眼鏡のミルレティクルで見た限りでは、百六十センチメートル前後の身長はあるように思う。
やがて最後の供物を祭壇へ積み終わり、桟橋で荷の受け取り役をしていた男が、舟に乗り移ろうとしたとき。うねりが一際大きく桟橋を揺らした。その煽りをまともに受けることとなった男は、バランスを崩して海へ落ちてしまう。
とはいえ、水深は大して深くもなく、大人が立てば顔が水面に出る程度なので、心配はない。彼らも海の男だし、溺れることはないだろう。だが、ここでさらに奇妙な光景を目にすることになった。舟上の男たちは、海中に落ちた男を顧みることはなく、ただ沖の方を向いて静かに船上で座っているだけなのだ。そればかりか、男が戻るのを待つことなく舟は離岸し、まさに水面を滑るように加速したかと思うと、あっという間に沖へと消え去った。どう見ても小舟には、櫂などの推進器具は装備されておらず、傍目からでは、どうやって海上を移動しているのかまったく分からない。
一方、置き去りにされた男はというと、海面から頭を出し、沖へ向かって海中を歩きだす始末である。その異様な行動に呆気にとられてしまい、成り行きを見守っていると、徐々に水深は深くなってゆき、やがて男の頭は海面下へ没したきり見えなくなってしまう。これはまずいと思い、自分は水中に潜って男の行方を捜索するが、驚いたことに、男はそのまま海底を歩き続けており、寡黙に沖を目指していた。その後も男は一度も浮上することはなく、この奇怪な光景は、自分の視界が届かなくなる距離まで繰り広げられた。
◆ ◆ ◆ ◆
海から上がって真っ直ぐ社内へ戻り、廊下の端に寄せておいた衣類を持って、大浴場へ向かう。浴衣などの衣類を手近な籠へ放り込んでから、ウエットスーツ姿で浴場へ入り、湯船へ飛び込んだ。
海水で冷えきってしまった体に熱めの湯は心地よく、動揺していた気持ちも徐々に落ち着いてくる。湯の中でウエットスーツをこすり、砂などを落としてから裏返す形でスーツを脱いで、風呂の外へ放り出す。次いで、頭についてるゴーグルとシュノーケルを湯船の中ですすぎ、放ったスーツの上に置いた。それからしばらく湯につかり、先ほど海岸で起こった怪事について、記憶を反芻してみる。
普通の人間が、息を止めたまま延々と海底を歩き続けることなど、到底できるはずがない。
フリーダイビング競技で、潜水深度の記録に挑戦しているような人でも、水の中で歩行運動をしながら、長時間息を止めるなどということは困難なはずだ。筋肉は稼働させる際に、大量の酸素供給を継続的に受ける必要がある。息を止めたまま水中で歩行などをしようものなら、重たい水の抵抗も相まって、肺や血液中の酸素はあっという間に消費され、とても息は続かない。それは潜って泳ぐよりも過酷なことなのだ。
島周辺の海水は透明度が高く、昼間であれば五十メートルくらいまで視界が利く。一旦男の姿が見えなくなってから、自分は少しだけ沖へ出て追跡を掛けた。桟橋の先端から、大体二十メートル程沖へ出た辺りまでは、男の姿を捉えることができたが、やはり男は一度たりとも浮上しなかった。
しばらくすると海は深くなり、男は暗い海の底へ消えてしまったのである。沈んだ彼が、その後どうなったかは分からないが、普通の人間なら溺死は避けられない。今は、アレが人外であることを願うばかりだ。
「あれは……人間じゃないよな……。だとすれば。人の形をした別の何かだと考えるのが妥当だよな……。後味が悪すぎるから人であってほしくないな」
うらに住む村人も、あのしがらみ衆の三人と同じような存在なのだろうか。ヨリの家族も皆あんな風に同じ顔をしていて、呼吸の必要もなく水中活動ができるというのか。
「本当は村なんてないんじゃないのか……。ヨリちゃんも……実は人間じゃ……」
しかし、まだ村人全員に接触したわけではない。十把一絡げにしてしまうのは、時期早々だ。
今回はとりあえずしがらみ衆なる者たちが、正体不明の連中だという事が判明しただけである。実際には、なにも判明してないに等しいが、それでも収穫はあったといって良いだろう。そう思いたい……。
疑いはじめればキリがないことを延々と考えるのは無駄だ。それはスマホを発見したときに納得済みである。徐々に手詰まりになっているような気がしないでもないが、やはりこれ以上考えるのは悪手だろう。
程よく体も温まったので、そろそろ部屋に戻ろうと思い、放り出していたウエットスーツを力いっぱい絞って、入念に水分を落とす。脱衣場へ行き、今度はシュノーケリングセットの袋に入れておいた双眼鏡を取り出して、付着した海水や砂などを洗面台で丁寧に洗いながした。高耐久な軍用規格準拠品と言えども、汚れなどからくる無用なダメージは、極力与えないに越したことはない。道具はきちんと手入れをしてこそ性能を発揮するものだし。
浴衣に着替え、急いで髪を乾かす。やがて部屋へ戻る頃には、時計が四時十分を指していた。注文品が届いたときのように、クローゼットスペースを開いてそっと荷物を置き、寝ているヨリを起こさないよう、慎重に襖を開く。すると、ナツメ球の頼りない光が照らしだす薄暗がりの中にたたずむ人影が見え、ギョッとなる。
「ヒェッ!」
仰天した自分はおかしな声を発して、半歩程たじろいでしまった。しかし、落ち着いて観察してみれば、何のことはない。人影はヨリだった。
彼女は、偽装として置いた猫の抱き枕を斜に抱え、布団の上に正座をし、鋭い眼光を湛えた目でこちらをねめつけている。おお怖い怖い。
「……神様。このようなものまで御用意なさって。一体どちらへ行っていらしたのですか?」
胴長猫の抱き枕をぎゅうと抱きしめて、顔を半分ほど覗かせている彼女は、恨めしそうな口調で問いかけてくる。
「あ、あははぁ……えーと……ト、トイレ?」
まさかの事態に動揺を隠せない自分は、適当な言い訳を疑問形で答える。
「半……いえ、一時間近くも、で御座いますか?」
静かな口調ではあるものの、言葉の端々からは怒気のような物を感じる……。きとヨリはすごく怒っている。ということは、自分が布団を抜け出してすぐくらいには、ヨリも起きていたということか。まじで……。
「どうしたのかなヨリちゃん。何だかすごく怒っているような……?」
あまり刺激をしないよう、極力無難な声掛けを行う。無様な神様おじさん。
「いえ。別に怒っているわけでは御座いません。私はただ、神様にお尋ねしているだけで御座います。よもや神様は、私が怒るようなことをなさっておいでなのですか?」
「いえ……滅相も御座いません……ハイ」
鼻から下は枕の陰になっているし、部屋も薄暗い。そのため、ヨリの表情は良く読めないが、状況的には誰がどう見ても、確実に怒っていると見ていいだろう。
しかしながら、今しがた自分が見てきた事の顛末を、正直にヨリに伝えるなど、到底できはしない。ならばここは、恐らく彼女の疑念の元と思われる行動に出ていたと認めることで、やり過ごすしかあるまい。ええいままよ……。
「ゲ……ゲームコーナーに行っておりました」
ああ。これでまたあの場所が遠くなっちゃうんだろうなあ。
「はあ。やはりそうで御座いましたか……。とりあえず、こちらへお座りください」
「はい」
部屋の戸口で突っ立ったままだったため、おじさんはヨリ様に呼びつけられ、布団の上に正座する。正面には、長い猫枕を抱いたヨリの姿がある。薄暗くてもヨリはかわいいなあ。はあ……。
「神様。私があれ程いけないと申し上げたにも拘らず、またあのような場所へ赴かれたのですか!」
「はいっ、どうしても我慢できませんでした! 申し訳ありません!」
おじさん平謝り。
「ふぅ。当分反省いただけたようですので、今後はきちんと言いつけを守っていただきとうございます。私の献言は少々厳しいかと存じますが、なにも意地悪がしたくて神様を叱っているのではございません。そもそも、あのようにいかがわしい場所は――」
まるで親の仇のようにゲームを憎んでいるかの如く、お説教をはじめるヨリの姿を見て、自分は中学時代、学校帰りにゲーセンへ寄って、教師に発見されたときのことを思い出していた。
あるときは、今帰れば担任には言わないでおいてやるから、などという甘言にまんまと乗せられて、翌日登校してみれば、しっかり担任にも怒られ。大人の汚いやり口に反感を持ち、その場で口論となったこともある。しかし、生活指導の教師に騙されたことを伝えると、担任はそのことについてはきちんと対応してくれた。
またある時は、調子よくスコアを伸ばしているタイミングで、先述のブラック生活指導教師に見つかり、注意を受けるものの、「今いいとこなんで勘弁してください」、などとうっかり口を滑らせ、「お前舐めてんのか!」と首根っこを掴まれて、ゲーセンの外へ引きずり出されたこともあった。まったくあの野郎め。
本当は、途中で寄り道などせず、一度帰宅してから行けばいいのだけれど。自宅の方角や、学校との距離的な関係上、なかなかそれが難しかったのも事実。改めで思いだすと、学生時代のゲーセンの思い出ってろくなものがないな。高専時代も、どこぞのヤンキーに絡まれたりしたし。なんだってんだよもう。
「神様っ!」
自分が上の空であることを察したのか、ヨリが声を張り上げる。ひーん。
「はい!」
うわーんママーン。ヨリがこわいよー。
「私のお話を聞いておいでですか?」
「はい。それはもう。一言一句漏らすことなく……。はい」
いいおっさんが夜も明けきらない早朝に、歳の差がふたまわり以上もある女の子から、説教を受けているという度し難い状況。おじさん凄く切ない。
だけども、このままでは絶対良くないので、どうにかしてヨリのゲームに対するイメージを改めてもらう必要がある。これは、可及的速やかに執り行うべきだろう。やらなければならないことがまた無駄に増えていっている気もするが、こればかりは疎かにするべきではない。割と真面目にそう思う。実際の優先順位的に見ると、どうでもいいことなのは言うまでもないけれど。
結局ヨリのお説は二時間以上続き、先ほどようやくお開きとなった。思ったよりも長時間に及んだため、現在時刻は午前六時過ぎ。ほぼほぼいつもの起床時間である。それなら、このまま起きようということで、今はヨリとふたり、洗面台の前に並んで歯を磨いている。
彼女は、もう慣れた調子で歯ブラシを使いこなしており、何も不安はない。この子は、教えれば不思議と何でもすぐに覚えて、そつなくこなしてしまうのだ。
知らないことに対して、初めは驚きや困惑もするけれど、一度そこを乗り越えてしまえば後は真摯に取り組むため、あっという間に物にしてしまう。この子にきちんとした現代の教育を施したら、飛び級くらい余裕なのではないだろうか。そのくらい、ヨリの理解力と洞察力には目を見張るものがある。
「……忘れていることを思い出しているような。なんて」
「なんでしょうか?」
特に意味は無い呟きに、ヨリがハンドタオルで顔を拭きながら返事をする。
「いや独り言です。何でもないですよん。それよりもご飯ご飯」
今朝のご飯は、顔を洗っている間に用意されようで、居間へ戻ったらもう準備は整っていた。敷きっぱなしだった布団も当然片付いている。毎度の手際の良さにもやもやしながら席に着き、こうも今日とてふたりで“いただきます”をして、食事を始める。
朝食を食べながら“IMAKUL”を使い、ヨリの新たな自転車を注文しておいたので、きっと部屋の外には新しい自転車が置かれていることだろう。ヨリにも、体格にあった新しい自転車が部屋の外にあることを伝え、残った十六インチ自転車の処遇について考える。といっても、社内は広いので、邪魔になるわけでもないのだが、ほっぽりだしておくのもなんなので、処遇は考えなければなるまい。
しかし。あれだけ訝しんでおいて、すっかり“IMAKUL”の世話になっている自分ときたら。斯くも人間とは現金なものか。だが、これに頼りきりになるのは、やはり危険な気もする。今後は何でもかんでもという使い方は避け、使用にはもっと注意を払おう。
◆ ◆ ◆ ◆
朝食を終えて一息ついた後。ヨリの新しい自転車を試すため、社の外に出てきたはずなのだが。なぜか玄関先には、二ストローク八十CCのエンジンを搭載した青いオフロードバイクが置かれており、調子に乗ってふたり分の保護具一式もそろえてある。もちろん、ヨリも自転車を乗り回して楽しそうにしているが、その間おじさんは暇を持て余してしまう。
そこで“IMAKUL”の登場となるわけだが……。舌の根も乾かぬうちに、またこういう物をぽこぽこ注文しているダメな神様は、Tシャツとハーフカーゴパンツに着替え、うきうき気分でヘルメットをかぶり、肘膝にプロテクターを付けてブーツを履き、グローブをはめ、ほぼ完全装備でバイクに跨っていた。これは、雀百まで踊り忘れずというやつだが、本当に駄目なおっさんだ。性根が腐ってやがる。
「ヨリちゃん、ちょっと一周だけ島の周り走ってくるね~。すぐ戻ってくるよ~むひょ~」
言うが早いか、思い切りキックレバーを蹴り込んでエンジンをスタートさせたおっさんは、一気にスロットルを開き、マフラーから響く二ストロークエンジンの乾いた音にしばし酔いしれる。
続いてギアを入れてクラッチを離すと、ブロックパターンの後輪が派手に砂を蹴飛ばして、青い車体は颯爽と走り出した。
「OH YES!!」
島の全容が気になって、調査のためにとオフロードを注文したのだが。その実自分が遊びたいだけ、というのは内緒。自分の予想では、外周には岩壁などもあるだろうし、一周はできないかとも思っていた。
しかし、実際に走ってみるとそんなことはなく。全周に渡って砂浜が囲っていたため、二十分弱程で簡単に島を一周でききてしまった。走行距離を見ると、約九千二百メートルとなっていたので、これが真円であれば直径約三キロメートル程の島になるだろう。走った感覚で言うと、さき島の大まかな形は、二つの異なるカーブを持った、卵のような楕円をしているようだ。
社前に戻ってエンジンを切ると、自転車を片付けたヨリが、何か言いながら駆け寄ってくる。彼女は抗議をしている様子だっため、昨夜から怒ってばっかりだな、などと間抜けなことを考えてしまう。全部自分のせいなのに、酷い話だよ。
「神様! 突然おかしな格好で外へ出て来られたかと思えばそのような乗り物であっという間に行って仕舞われて! 心配いたしましたよ!」
また無駄にに心配をかけてしまったようだ。
それにしても、これは自分が心配をかけすぎているのか、ヨリが心配性なだけなのか。果たしてどちらなのだろう。
この島自体には、危険らしい危険はないようだけど、未知の島であることに変わりはない。ヨリは。その辺りを心配しているのだろうか。自分は割と楽天家な所があるからなあ。
「ごめんねヨリちゃん。あ、ちょいとここで待ってて」
ヨリの抗議を制するように言って社の中へ走って戻り、ヨリのために用意しておいた保護具を取ってくる。今はヨリの話を聞かなきゃ駄目なのになあ。
「はい、ヨリちゃんこれ被って、はいこれ着けて、これ履いて、これはめて。はいかわいい!」
彼女があわあわしているうちに、自分と同様の装備を矢継ぎ早に着けさせてもらう。
ヨリくらいの体格では、子供用ヘルメットでもだいぶ大きく見えるため、そのアンバランスな見た目が、また非常に愛らしい。
各保護具の装着状態を再度確認し、ヨリを持ち上げて先に後ろへ跨らせ、彼女の前に自分が乗る。本当はヨリを前に乗せようかとも思ったのだが、チャンバーの位置が前方寄りの外側へと、意外に張り出していたので、足にやけどを負わないよう後部へ乗せることにした。
「やっぱりフォーストにしときゃ良かったかなあ」
一人でぶつくさ言っているとヨリが声を掛けてくる。
「神様、一体どうなさるおつもりですか? これはどういうことですか!?」
「そうだね。とりあえずヨリちゃんはしっかり俺に掴まってて欲しいかな」
再び踵でキックレバーを起こし、力任せに蹴り込んでエンジンをかける。やや開き気味のスロットルでそっとクラッチを繋ぎ、ゆっくりバイクを進めた。
さして速度は出していないが、後部のヨリはキャーキャーと声を上げ、自分の腰に必死にしがみついてくる。急な操作もしていないから、ヨリが落っこちるようなことはないだろけど、負担にならないように慎重な運転を心がけた。
「取り回し優先で八十CCにしたけど、砂地をふたり乗りじゃますますトルク不足を感じる。むしろ、ジュニア競技ベース車にふたり乗りする方が間違いなんだろうけどな~」
ヘルメットの中に独り言を吐き出し、時速二十から三十キロメートル程度の速度で、ゆっくり海岸線を走る。すると、バイクに慣れはじめたためか、あまり声を上げなくなったヨリが、シャツをぐいぐいと引っ張って何かを主張しはじめた。何事かとバイクを止めて後ろを向くと、彼女は思い切り涙目になっているではないか。やばい。
「え? ちょ、ヨリちゃんごめん! もしかして怖かった?」
「はい……。すごく怖かったです……ふぇ……」
このところ、ヨリ的には刺激的なイベントも少なかったので、すっかり忘れてしまっていたが、臆病な所は相変わらずのようだ。人の性分は、そう変わるものではないのだから、当たり前だろう。
適当な石の上にサイドスタンドを立て、ヨリをバイクから降ろしてヘルメットを脱がせると、ひどい目にあったと言った様子で、その場にへたり込んでしまう。計距離を見ると丁度道半ばという程度で、あと四キロメートルちょい走らなければ、社にたどり着くことはできない。ヨリの状態次第では、このままバイクを押して帰宅する事もあり得るが、その時はその時だ。この子をシートに乗せて、ひーこら押して行きましょう。無理に連れ出したのは自分なんだしね。
「神様……。何かをなさるときは、私にもお声掛けください。そうして頂ければ、私は必ずご一緒いたしますから」
懇願するような目でヨリは言ったが、真意はよくわからない。なぜこんな悲しそうな顔で言うのだろう。
いまのヨリの表情は、ただ単に怖くて泣いているといったものではないように見える。なにかこう、別の意志が込められているというか。どうしてしまったんだろう……。
「ああ……。うん。ほんとにごめんね……。ヨリちゃんのそんな顔は久々に見た気がするよ。でも、ヨリちゃんこれに乗るのは怖いでしょ? 勝手に乗せて来ておいてなんだけど、ヨリちゃんが怖いなら、もう無理強いはしたくないんだよね」
「いいえ……。私は、神様に仰って頂けさえすれば、気持ちを切り替えることができます。神様のお声掛けがあるのとないのでは、全く違うのです……」
全幅の信頼なのか。あるいは依存と言うべきか。時折彼女が見せるこの辺りの気持ちは、解釈が難しい。
「それは、俺が頼んだら、ヨリちゃんは我慢できるってことなのかな?」
いまいち要領を得ない。今後のためにもここはきちんと聞いておかなければと思い、彼女の真意を確かめる。お話、大事。
「いいえ。我慢ではなく、覚悟で御座います……」
覚悟と言ったヨリの表情には、無理をしている様子はなく、なにか別の、強い使命感のようなものを感じた。これにも例のしきたりとやらが絡んでいるのだろうか……。十中八九、そうなんだろうなあ。
「そっか。わかったよヨリちゃん。今度からは前もってきちんとお話するね」
「はい」
半べそながらも、明るさを取り戻したヨリの様子に気をよくした自分は、畳みかけるように、一つ大事なお願いしてみる。
「じゃあヨリちゃん。早速なんだけど、社に戻ったらさ、俺ゲームコーナーに入りたいんだよね」
「駄目で御座います」
ハイ駄目でした。駄目でしたが、なぜかヨリはにこやかな笑顔を向けていた。残念。
それからしばらく浜辺に座って話をしたら、彼女も完全に落ち着いた。もう大丈夫そうなので、再度バイクに乗ってくれるようお願いすると、ためらいなく座席の後部に跨ってくれる。しかし自分は、内心気が気ではない。また泣いてしまわないだろうか。大丈夫かなあ。
帰り道は、さらに慎重を期して加速をはじめ、穏やかにバイクを走らせて社へ向かう。ヨリを怖がらせないように、至極丁寧な運転を続けると、十五分くらいで社前に到着した。
車体を跨いだまま、踵でサイドスタンドをかけると、ヨリはバイクの後部からぴょんと飛び降りる。なぜか元気な彼女の様子が気になり、バイクを降りて小さなヘルメットのフェイスシールドを覗くと、奥の方で愛らしい笑顔が輝いていた。ああ、泣いたりしていなくてよかった。
「慣れれば楽しい物で御座いますね♪」
顎紐を解いて、ヘルメットを脱がせてあげると、ヨリは嬉しそうにそんなことを言う。やっぱりヨリは順応性が高い。
「なら、今度はヨリちゃんが運転してみるのもいいかもしれないね。また機会ができたときに教えてあげるからさ」
「そうで御座いますね。神様にご指導して頂けるのであれば、直ぐにでも上達してご覧に入れます!」
「お、いいね~、頼もしいね~。かわいいよ~ヨリ~」
ヨリの形のいい頭を撫でて、談笑しながらふたり仲良くひよこの間に足を向ける。とりあえず、バイクはポストの前辺りに置いとこう。
◆ ◆ ◆ ◆
部屋に入ると、時間的に丁度お昼時だったため、座卓の上には膳が配置されていた。今日は海鮮丼が用意されており、副菜として大小様々な鉢が添えられている。よく見ると、自分の席に用意されている丼はやや大きめであるため、また食べ過ぎになってしまうかもしれない。
「たべる~、わらう~」
席に着き、“いただきます”を済ませた後。自分は、手始めに小鉢にわさび醤油を作りながら、ずいぶんと前に見たアニメの挿入歌を何となく口ずさむ。
「それはお歌で御座いますか?」
「うん。本当はふたりで掛け合いになるんだけどね~」
しあわせ落書き。
かわいい娘子と談笑しているうちに、昼食は一瞬でなくなった。デザートのプリンを食べて目が星になっているヨリは、本当に嬉しそうだ。こんなに喜ぶならばと、手を付けていない手元のプリンも彼女に進呈する。
自分は、食後のお茶をゆっくりと味わいつつ、ころころ変わる愛らしい表情を楽しむ。思いがけず、ふたつ目のプリンを得た彼女は、益々目を輝かせ、幸せに満ちた表情を見せてくれた。いつ見ても、何度見ても、子供が喜ぶ顔というのはいいものだ。
「神様っ、このプリンというお菓子は、心が豊かになるような美味しさで御座いますね♪」
めっちゃかわいい笑顔でめっちゃかわいいことを言うヨリ。めっちゃかわいい。
「ほんとだよね。なんでプリンてそんなに旨いんだろうね」
確かに。プリンは食べるだけでしあわせになる魔性の、いや、魔法のお菓子である。そして、ヨリが嬉しそうにプリンを味わう様子を見るだけで、自分も幸せになれるのだから不思議だ。
「本当にふたつも頂いてしまってよろしいのでしょうか?」
自分が渡したプリンを食べながら、罪悪感にさいなまれたような顔で、ヨリがそんなことを言う。いいんじゃよ。お子様が遠慮なぞするものではないのじゃよ。
「俺はね、ヨリちゃんがプリンを食べて、幸せそうな顔をしているのを見るのが好きなんだよね。だからそんな顔しないで、もっと嬉しそうにしなきゃ。主に神様のために!」
そう言うと、ヨリはいつもの嬉しそうな笑顔になる。あ~本当にかわいい。
自分はゆっくりお茶を飲み、ヨリはたっぷりと時間をかけてプリンを味わう。そんなことをしているうちに、気づけば時間は十四時近くなっていた。
最近この時間になると、ヨリはよくテレビで午後映画を見ている。本日の放映内容は、ベトナムで囚われている米兵の捕虜を、特殊部隊の隊員が救出に向かうといったストーリーらしい。内容はというと、ひげ面の主人公が、片っ端から敵をなぎ倒してゆくという、脳筋万歳、U・S・A! U・S・A! の破天荒な作品だ。これは特に視聴年齢制限もない地上波で放送されているのだが、こんな映画をヨリに見せていいものか。正直疑問だ。今後の彼女の成長に、悪影響を与えなければいいのだが。そんな、オヤジアクションの決定版的映画を横目に、昨夜紐を伸ばした首飾りを掛け、自分は決心する。対岸の村、うらへ行ってみよう。
今朝遭遇した、怪奇な出来事を反芻して出した答えはそれだった。分からないなら直接確かめに行けばいいじゃない。そんな単純明快な話だ。また、うらの探索にはヨリにも同行してもらおうと思っている。計画の実行にあたって問題になると思われるのは、ヨリの言っていたしきたりの中での二点だが、これはすでに問題にはならないはずだ。
ひとつは、供物が島から離れるのを禁じるというもの。もうひとつは、すでに供物となった者が、再び村へ上陸するのを禁じる、というものだ。
ひとつ目は、自分がヨリに指示をし、一緒に行動することで解消すると思われる。これは、全裸での添い寝を、神の指示で禁止できたことを論拠としている。
ふたつ目は、単純に上陸しなければいいだけの話だ。今回は、あくまでも村人の視認が目的なので、上陸の必要はない。今朝方あれだけの怪事を目撃しているので、もう村人がいようといまいと、結果にそう違いはないだろうし。いるならいるで、そのときはそのとき。また考えればいい。
さしあたって、対岸へ渡るには海を越える必要があるため、足が必須となる。だが、この島に舟などはない。それは、午前中に外周を一周してみた時も確認しているし、陸が続いているような場所もなかった。となると、手段はひとつしかなく……。
自分は“IMAKUL”を起動して、救命胴衣二着と水上バイクを注文する。早速部屋の扉がノックされ、荷物が届いたことを知らせてきた。見に行くと、廊下には段ボール箱のみが置かれており、箱の中には救命胴衣が二着入っていた。
その足で玄関へ向かい、ボロい引き戸を開けて桟橋を見れば、予想通り。首尾よく水上バイクが係留されていた。どうやら、荷物はちゃんと相応しい場所へ届けられる仕組みになっているようだ。目的の物の確認できたため、部屋に引き返しヨリに声を掛ける。
それにしても、このアプリの利便性はいやに高くて不安になる。痒いところに手が届くのは助かるが、かえって届き過ぎている嫌いがあるようにも思う。本当にこのままこれに頼り続けていていいのだろうか。何かと不安は募るが、ほかに手段もないので、今は信じるしかないだろう。
「ねえヨリちゃん、ヨリちゃんは俺が行くところには必ず付いて来てくれるんだよね?」
「はい! もちろんで御座います!」
テレビを見ていたヨリは、またシュババっとそばまでやって来きて、きちんと正座をしてから答えた。ヨリの目には、元気な返事に勝るとも劣らない光が宿っている。そんな彼女の目を見て、じんわりと胸が温かくなった自分は、小さな体をそっと抱き寄せる。
「えひゃ!?」
またもや、突如としておっさんに抱き着かれ、動揺するヨリの体は脱力気味だ。そろそろ捕まるよ、マジで。
「ヨリちゃん、俺はうらへ行ってみようと思う」
「へ?」
抱き寄せたヨリの背中から、腕に伝わる動悸が早い。さらに、うらへ行くと言った途端、ヨリは身を固くして、鼓動もより高まった。この子がしきたりに対して抱く感情は、やはり複雑なようだ。
「今……何と仰い……ましたか?」
ヨリはかなり動揺しているようで、震えた声で自分の言葉を聞き返す。
「ヨリちゃんの故郷の村、うらへ行ってみたいんだ」
再びそう伝えると、ヨリの体はは小刻みに震えだし、さらに鼓動は早鐘のように加速する。
今迄に感じたことのない変化があったことで自分は不安になるが、これは重要なことなので、途中で止めるわけにはいかない。
「まだ詳しくは言えないんだけど、俺はどうしても確かめなくちゃならないことに気付ちゃったんだよね」
無言になったヨリは、ずっと小さく震えている。そんな小さな背中をやさしく撫でながら、話を続ける。
「行くと言っても村へ入るわけじゃなくてね。ただ、ヨリちゃんの生まれ故郷を近くでみてみたくなったんだ。それからしきたりのことだけど、島を出てはいけないってことについては、俺の言いつけで出ていくことにして、常に行動を一緒にすれば平気だと――ヨリちゃん?」
そこで、明らかにヨリの様子がおかしいことに気づく。抱いていた彼女の体を離して顔を見ると、目は虚ろで焦点が合っておらず、口も半開きの状態だ。さらに、呼吸も過呼吸のように、速く短い物に変わっていた。
「なっ、ヨリちゃんどうした? ヨリちゃん!?」
声を掛けて体を揺するが、いつものような反応がない。ただならぬ様子に自分は激しく動揺する。
「ヨリちゃん? ヨリちゃん!」
頬を軽くはたいたり、背中を叩いたりして刺激を与えてみたが、彼女からの反応はまったくなかった。
「これって、本気でまずいんじゃないか……。どうしよう……どうしたら」
打つ手なく、ただ動揺するばかりの情けない自分の前で、ふとヨリは意識を失い、腕の中へ倒れ込んでくる。ヨリを抱いたまま押し入れから布団を引っ張り出し、慎重に彼女を寝かせて、とりあえず見様見真似で体温や脈を診る。彼女の心拍はかなり速く、相変わらず呼吸も荒い。幸い熱はないようだが、顔や体は汗ばんでいた。
「ああどうしよう、こういう時はなんだ、えーとどうするんだっけ」
意識を失った者を無理やり覚醒させるのは良くないと、昔何かで読んだ気がする。しかしそれ以上自分には対処法が思いつかなかった。単なる過呼吸であれば、明確な意識の反応があるから、これはそういった類のものではない。
「とにかく今は対症療法しかないか……」
心を落ち着かせてバスルームへ行き、固く絞ったハンドタオルを持って来て、ヨリの額の汗をぬぐう。これで容体が変わるとは思えないが、自分にできるのはこの程度が関の山だ。
「ヨリちゃんごめん、少し帯緩めるよ」
意識のない彼女へ声を掛けながら、腰帯の結び目を緩め、かるく着物をずらして楽な状態に保つ。ずっと荒い息をしているヨリの手を握り、祈るような気持ちで、額や頬に手を当て様子を見ていたとき。ふと荒い息が落ち着き、ヨリが薄目を開けた。どうやら無事目を覚ましたようなので、ひとまず胸をなでおろす。
「ああよかった! ヨリちゃん大丈夫かい?」
額の汗をタオルで拭い声を掛ける。しかし、彼女は虚ろな視線を向けはするものの、反応は薄い。そんなヨリがやがて腕を伸ばし、力のない指で引っ掻くように自分の胸元をまさぐりはじめた。
「なんだい? 何か言いたいことがあるの?」
依然として声に対する反応はなく、虚ろな目を自分へ向け、もぞもぞと手を動かし続けている。そこで自分は首飾りのことを思いだす。
「あ! これかいヨリちゃん?」
彼女の首飾りを慌てて襟元から取り出し、空を掻く手に触れさせる。すると首飾りに触れたヨリは、緑の石を強く握って引き寄せ、口に含んだ。
彼女の唐突な行動は止める間もなく、瞬間、自分は取り返しのつかないことをしてしまったことに気づいた。自分の立てた無謀な計画のせいで、ヨリは、供物の証の毒による自害の道を選んでしまったのだ。
「ヨリっ!!」
今なら間に合うかもしれない。自分は咄嗟に結晶体へ手をかけ、取り上げようとした。しかし、そうするまでもなく。力なく垂れ下がったヨリの腕の重みで、それは自然と口から離れた。
それきり、彼女は動かなくなってしまった。
安らかに眠るような少女の顔を見た自分は、息が詰まって胸が苦しくなり、目の前が真っ暗になる。誰かの叫び声が聞こえた気がして意識を向けると、それは驚くほどの大声を上げて取り乱す自分の声だった。
自分は、彼女の体を力いっぱい抱き締めたまま泣き叫んでいた。
己の浅はかさに怒りがこみあげ、しでかしたことの重大さに対する悔恨の念と、罪悪感で押しつぶされてしまいそうだった。神の命令は絶対なものなのだと、勝手に自己完結し、一人で暴走した結果がこれだ。ヨリにとっては神の命令などよりも、しきたりの方が遥かに重要なものだったのだ。
「ごめんよ! ごめんよヨリ! ごめんよ!!」
いくら泣きわめき謝罪の言葉を口にしたところで、彼女は戻ってこないだろう。
あの愛らしい笑顔も。自分を呼ぶ鈴の音のような心地のいい声色も。
暖かな温もりも。
何もかも失われてしまったのだ。
握りしめた彼女の掌からは、徐々に温もりも消えて行き、命の火が消えてしまったという辛い現実を認識させられる。
延々と自分は泣き続けた。するとやがて、暗闇へ落ちてゆくように、あらゆる感覚が遠のいていった。