表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/75

拾弐 ~ 箱庭 ~

 手をつなぎ、今度は休憩室を目指す。長い廊下を歩いて行く道すがら、ヨリは何やら嬉しそうに鼻歌を歌う。そのメロディーには、民謡のようなうねりがあって、耳心地が良い。この子は歌も上手いんだな。


「ご機嫌だねヨリちゃん、何かいいことでもあった?」

「うふふ。本日は神様に色々なことを教えて戴けたので、とても嬉しいので御座います。神様もお名前をお聞かせ下さいましたし、感無量で御座います♪」


 おじさんもヨリと一緒にいるだけで感無量です。


「そうなの? じゃあさ、折角だし神様じゃなくて名前で呼んでくれないかな?」

「いいえ! そのような御無礼をはたらくわけにはまいりません。神様は神様で御座いますから」

「ああ、うん。もうヨリちゃんの好きなように呼んで……」

「はい、神様♪」


 神様か。本当に何なんだろうこの設定。

 休憩室付近にきたタイミングで、トイレに行く(むね)を伝え、彼女には中で待っていてくれるよう頼む。休憩室を過ぎてさらに奥へ進んで行くが、いざ中へ入ろうとしたとき、彼女が付いてきていることに気が付いた。これはあれかな、連れションかな。


「あれ? ヨリちゃんは休憩室で待っていてほしいのだけど……。どうしたの?」

「いえ。片時も離れず神様にお供し、ご奉仕するのが私の務めで御座いますから。何かご用向きが御座いましたら、何なりと私にお申し付けください!」


 またえらく彼女は張り切っている。ないったなあ。男女で仲良く連れションなんてものは、今まで聞いたことがない。これは間違いなく、トイレの正体を知らないが故の行動だろう。


「でもここトイレだよ?」

「といれ、で御座いますか?」

「うん。トイレは便所(べんじょ)でございまして、(かわや)でありながら雪隠(せっちん)などとも呼ばれ、御不浄(ごふじょう)(はばか)りにございますれば……」


 言い方を変えた便所という名詞を、鳴き声のように連呼する汚い便所虫おじさん。


「は……はあぁぁっ! これは、大変失礼いたしましたあっ!」


 衝撃の事実が判明し、ヨリは頬を両手で押さえながら休憩室の方へ走り去って行く。それはそれは非常に分かりやすい反応だ。


「子供は元気でいい」


 彼女の小さな背中を温かく見送って、自分はトイレに入る。いくら彼女が神様の世話役とは言っても、こればかりは手伝わせられない。

 トイレを終えて休憩室へ戻ると、ヨリは入口の前で立ったまま、自分の帰りを待っていた。いまだ赤い顔をして申し訳なさそうにしている様子を見て、うっかり吹き出してしまうが、悪気があるわけではないので許してほしい。


「あ~っ! 神様っ! お笑いになるなんて、あんまりで御座います!」


 うんうん、かわいいかわいい。


「ふふっ、ごめんなさい。ヨリちゃんがあんまりかわいいからつい」


 かわいく怒っている彼女を(なだ)め、頭をぽんぽんしてから室内へ入る。例の冷蔵庫からペットボトルの茶を取り出し、ヨリにも何か飲むかたずねると、遠慮がちに「結構です」と言った。あれ、ちょいおこかな。


「そうだ。ヨリちゃんはトイレ大丈夫? もしかすると結構な距離歩くことになるかもしれないから。今のうちにしておいた方がいいんじゃないかな、と神様は思ったりなんかしちゃったり……」


 ペットのお茶を開けながら、庭園の規模などを考慮しヨリにお伺いを立てる。これは姪が小さかった頃に身についた、保護者の習慣みたいなものだ。

 ヨリくらいの歳であれば、心配はないと思うけど、一応念のため。朝にぱっと見ただけではあるが、相当広い場所である可能性は否定できない。むしろ、斜め上の展開を想定した方が、後々の対処が楽になると思うのだ。これまでのことすべてが斜め上だったからな。


「どちらかへ出かけられるのですか?」


 自分が見た庭園の様子を知らないヨリは、不思議そうな顔をする。


「うん。ちょっとそこに見えてる庭園に出てみようと思ってるんだ」

「お庭ですか」

「そう。ここからじゃ分かりにくいんだけど、縁側に出るとね。果てが見えないんだよね」

「……どういう事で御座いますか?」

「さあ、どういう事なので御座いましょうね。なんか道が坂っぽくなってるんだけど、その向こうが空しか見えないんだ。ここから見ただけじゃあどこまで行けるのかわからなくてね。まいったよ」


 岩屋の中にある筈なのに、外としか思えないような中庭ですよ。どうなってんだよもう。


「それは……面妖で御座いますね」


 残ったお茶を一気に煽り、空になったボトルをごみ箱に放り込む。ホントになんだというのか。考えるだけで途方に暮れそうだ。


「そんな感じだから、大丈夫かなと思って。おトイレ」

「あ……。えと、では行ってまいります……」


 ヨリはそう言い残して、そそくさとトイレに向かう。心配するほどでもないのだろうけれど、一応確認のつもりで行ってくれるらしい。なんだか余計な心配だったようで、気が引けてしまった。


「そうだ。使い方大丈夫かな。凄い不安なんだけど」


 何かと心配の種が尽きない社である。時代設定のこととか、色々考えてくれていれば、スムーズに話が進むのに。ほんとに何がしたいのかと、イライラが募る。

 そうして、しばらくすると案の定。アンニュイな表情となったヨリが、とぼとぼと戻って来る。それ見たことか。自分以外には不便すぎるんだよ、ここは。責任者出てこいや。


「大丈夫だよヨリちゃん、誰にでも初めてはあるもんだ」

「はい……」


  再度トイレへ向かい、ヨリへ設備の使い方や、作法をレクチャーする。トイレにはきれいな神様がいるそうだけれど、悲しいかなここには汚いおっさんの神様しかいなかった。

 それにしても、今日まで彼女はどうやってトイレに行っていたのかな。こんな調子ではまったくトイレを使えていないと思うのだけど。まさかどこかその辺で……。みたいなことは、彼女に限って絶対に無いだろうし。う~ん。いや、これを考えるのはやめた方がいい気がする。

 休憩室に戻って早速ガラス戸を開き、縁側の沓脱石(くつぬぎいし)の上に雪駄を放る。これでようやく目的地へと降り立つ権利を得た。すでに時刻は午後六時を少し過ぎており、見渡せば辺りはだいぶ薄暗くなっている。そこいらに設置されている灯篭にも、明かりが灯っていた。幸い空には満月が出ているため、完全に陽が落ちても、目が慣れれば足元に困る事はなさそうだ。太陽はないのに月は出るのか。ここの空と浜辺の空は、まったく違う空なのかもしれないな。

玉砂利が敷かれた幅の広い通路の両縁には、高さ二十センチほどの小さな石灯篭がずらりと並び、境界を縁取りながら続く光のラインが、奥へ無限に続いているように見える。庭園内は風もなく、ひっそりと静まり返り、聞こえるものと言えば、時折虫の声がする程度だ。

とりあえずは道なりに歩いてみようと、ヨリと手を取り合って歩きだす。休憩室前から伸びる本道と思しきこの道は、木がまばらな雑木林に挟まれている。本道からは支路が伸び、それぞれが植樹されたと思しき林の中へ続く。通り掛けに分かれ道の先へ目を凝らすと、奥の暗がりに建物の明かりらしきものが見えた。

 明かりの正体は気になるが、あっちもこっちもと言っていると切りがない。今は幹線となっているこの道をひたすら進む。道は緩やかな上り勾配になっているようで、平坦な道を歩くよりも、足が重く感じた。坂は進むほど勾配がきつくなるらしく、徐々に重さは増していく。

 雑把な感覚ではあるが、大体五、六百メートルほどは歩いただろうか。すっかり陽も落ち、暗がりとなった視線の先に、ようやく坂の頂上が見えてきた。頂上にたどり着くと、その先は、幅が三メートルはありそうな長々しい石段になっていて、はるか先の眼下には、どういうわけか湖が広がっていた。またそれを囲むように、人家の明かりらしきものも点々と灯っている。庭園の果てが見えないと感じていたのは、錯覚だったみたいだけど、空間的な意味では正解だったようだ。なんなんだこれは。

 眼前に広がる光景は、やはり大きく予想を超えていた。休憩室を出たら、どこぞの山頂に出てしまうなんて、一体誰が予想できよう。しかも眼下には湖なんかがあって、山を下りた先に集落まで存在しているとか。距離もだいぶあるし、もう暗くて窓の明かりしか見えないけれど、小さな町程度の規模はあるように思える。

 少し前まで、岩屋の中に納まる形で社は作られていると思っていたが。やっぱりその認識は改める必要があるようだ。こんなものを見せられては、もう常識を保つのもばかばかしくなってくる。ここまで来ると理解不能過ぎて卒倒しそう。


「神様……。これはどうなっているので御座いましょう……」


 不意に声を掛けられ、絶景に釘付けとなっていた視線を声の主に向ける。そこでは、左右に置かれた灯篭がもたらす薄明かりの中、ヨリが驚きとも不安ともとれるような表情で、こちらを見上げていた。


「えあ、う、うん……。俺にもさっぱりわからない。でも、どう見てもさき島より広いよね。あっちは……」


 信じがたい光景に動揺していたためだろうか。暗がりで見る彼女はやけに大人びて見え、一瞬ぎくりとしてしまう。


「はい……」

 

 つぶやくようなヨリの返事を聞き、再び(ふもと)へ視線を戻す。ざっと見た感じだと、眼下の風景は、巨大な山の(いただき)にできたカルデラ湖のように見える。火口の底は、一部が平地になっていて、全体の大部分を占める湖を抱き込むように町が形成されている、といった具合だろうか。

 そのカルデラの最も高い(へり)の部分にこの石段があるため、全体を見下ろせているようだ。石段の左右は、ごつごつした岸壁の斜面となっているので、広い視界が保たれている。しかし、それは数十メートル幅程度のようなので、ある程度は陰になってしまう。

 ここから対岸となる火口の(へり)や、その周辺、そして社周囲は塀があって見通せない。しかし、空と思しき範囲には星が輝いているため、この山より高い場所はないらしい。


「これは何でしょうか?」


風になびき、月明かりをキラキラと反射する湖面の幻想的な様子を眺めていたとき、端の方へしゃがみ込んでいたヨリが、小さく声を上げる。

自分たちがいるのは、両端に朱塗りの灯篭がある石段の頂上部で、灯篭の足元には背の低い石柱が立っている。高さは大体五十センチメートル。幅二十センチメートルほどありそうなそれらは、左右の灯篭の下にあった。その石柱側面には、四方それぞれにアラビア数字の縦書きで“1382”と彫られている。やべえなあこの数字。


「あ~、これは……」

「ええと、いちじゅうひゃく……、千三百八十二……? これは石段の数でしょうか?」

「そうだねえ。多分だけど、その可能性が高いね」

「ええーっ!?」


 長い階段上で示される数字と言えば、大抵の場合段数を示すものでしかない。この数字はため息が出る段数だ。むしろため息しか出ない。

 眼下に伸びる無数の段差は果てしなく続き。無言の圧力を以て、我々の探求心をへし折りにかかる。こんな段数を往復させられるのはご勘弁願いたいな。生きて戻れる気がしないし。


「これを往復するのは骨が折れそうだ。困っちゃっうねえ」

「そ、そうで御座いますね……」


 自分達は往復の労力を考えて尻込みし、互いに顔を見合わせて苦笑する。

それでも、見てしまったからには行かねばならず。せめて石段の麓くらいまでは調査するべきだろう。現在時刻的に考えて、そのくらいが妥当な範囲だろう。

萎えかけた気力を奮い立たせ、覚悟を決めて一歩踏み出す。正確に言えば、踏み出そうとした。しかしそれはかなわなかった。

どういうわけかは知らないが、最上段の(つら)部分より向こうへ足を踏み出すことができない。これは、心理的な躊躇(ちゅうちょ)などではなく、何らかの物理的障害によって足が止められてしまうのだ。

 まるで固いゴムにつま先を押し当てているような、やや弾性を持った抗力によって、足は押し戻されている。どうにも、見えない壁があるような感じで、手を突き出すとこれまた押し返されてしまった。そこで一旦足を引いて体勢を整え、半歩ほど前へ出てから、今度は右手で重たい門扉を押すように力を籠めてみる。見た目には、確実に何もない空中であるのだが、やはりそれ以上先へ腕を伸ばすことはできない。

 半ば意地になり、次に体重を移動するようにして更に力をかけてゆくと、拮抗するように反発力が強くなる。そうして力を籠め続けると、やがてそれまであった弾力さえも消え、それから先は一ミリたりとも進まなくなった。このまま思い切ってさらに体重をかけてみようかとも思った。けれど、いきなり反発力が消えて、石段を転げ落ちる羽目になるのは嫌なので、この辺りが潮時だろう。これ以上続けたところで、結果が変わるとも思えないし。

 他に何か手はないかと思い、周囲を見回す。そこで道の端の方に、握り拳より一回りほど大きな石を発見する。(おもむろ)にそれを拾い上げて、石段の端部から離れ、極力安全と思しき距離を稼ぐ。

 程よく離れたところで、ヨリに自分の後ろへ下がるように促してから、自分は大きく振りかぶり、目の前の空間目掛けて力いっぱい投げつけた。放物線を描いて飛んで行った石は、問題の空間に差し掛かった途端、回転を保ったまま空中に一瞬留まる。しかし次の瞬間、石の周辺から高周波のような音が発せられたかと思うと、閃光が発せられ、辺りは真昼のようになる。光を手で遮って、目を(すが)めながら石の様子を見守っていると、それはゆっくりと光の粉のようになって霧散し、やがて光が消滅するとともに辺りは静かになった。


「「ええーっ!?」」


 衝撃的な光景を目の当たりにして、自分とヨリは同時に叫んだ。いましがた起こった怪現象は、ここへきてもっとも(ぎょう)天した出来事だろう。


「消えたよね!」

「消えました!」


 驚異的な光景を目にした自分たちの声は、自然とシンクロする。

 開いた口が塞がらないとは、こういうことを言うのだろう。目の前で起こった一部始終を目撃しても、その現象がいまだ信じられず、何が起こったのかもさっぱり理解できない。

 自分はまた石段へ近づき、今度は半身に構えて腰を落としてから、再び右腕を目いっぱい突き出した状態で体重をかけてみる。相変わらず腕は虚空に押し戻されるが、構わずに限界と感じるまで力をかけた。

 すると、手のひらを当てている空間から、先ほどと同じような、かん高いうねり音が徐々に響きはじめた。同時にそこを中心にして、空中に波紋のようなものが広がり、薄青く光るハニカム模様のようなもの一瞬姿を現す。それでも力を籠め続けると、耳障りな高音はさらに大きくなり、手を当てている部分に熱を感じはじめた。

 そこで慌てて身を引き、手を当てていた場所へ目を向ける。空中には、赤く光る手形が残っていたが、すぐに光を失って消えた。焦って掌を調べるも、特段変わった所はなく、火傷なども負っていない。

狐につままれたような気分で後ろを振り返ると、両手で耳を塞いだヨリが、驚愕の眼差しでこちらを見ていた。あまりにも理解不能な出来事に遭遇し、恐怖心を煽られた自分は、無言でヨリに近づき手を取った。緊張のためか、彼女の手は汗ばみ、若干震えている。これでは足元が覚束(おぼつか)ないかもしれないため、小さな体を横抱きにして、元来た道を足早に引き返す。これは駄目だ。超怖い。怖すぎる。


「……ヨリちゃん、平気? どこにも怪我とかしてないよね?」

「はい……。私は大丈夫ですが、神様こそご無事ですか? お怪我は御座いませんか?」

「俺も大丈夫。なんともないよ」


 午前中の海で蓄積した肉体疲労と、今しがた目撃した理解不能な出来事のお陰で、心身ともにすっかりまいってしまっていた。それはヨリも同じなようで、時折軽いため息をついている。


「「はあ~」」


 ふたりの溜息が重なったことが可笑しくなり、少しだけ緊張の糸がほぐれる。

震えの収まったヨリをしっかりと抱きかかえ、自分はとぼとぼ玉砂利の道を歩いて行く。それに応えるかのように、ヨリは首に回した細腕に力を込めた。不安そうな彼女へ軽く微笑むと、彼女も笑みを返してくれる。てぇてぇ。

 帰りの道すがら、何本か走る横道を見つけては、ついでのように進入を試みたが……。やはりというか、先ほどの石段と同じように、進むことはできなかった。奇怪なこの庭園では、それ以上成果が得られるとも思えず、時刻も午後七時半を回っている。もう帰って早々に寝てしまいたい。

 そのとき、ヨリのお腹がかわいくぐぅと鳴る。つられて彼女を見ると、こちらを見てわなわなと唇を震わせていた。その様子が可笑しくなってしまった自分は、思い切り吹き出してしまう。まったく。緊張感が続かなくてやんなっちゃうね。


「あははははは。だよね、お腹すいたよね。ふふふ」

「はあ~っ! これはっその……あうぅ」

「育ち盛りの食べ盛りだもの。なにも恥ずかしがることはないよう。俺もお腹空いたしさ~」


 女の子に対して掛けるには、少々デリカシーに欠ける言葉かとも思った。けどもう手遅れか。周囲がもっと明るければ、彼女の真っ赤になった顔を拝めたかもしれないが、夜の帳が下りた暗い庭園は、ヨリの表情をうまく隠している。

 ヨリは余程の醜態とでも思ったのか、消沈して項垂れてしまったため、景気づけに二、三回回転し、歩みを加速させる。急な動きの変化に、ヨリは身を固くしたが、しばらくすると脱力し、体を預けてくれた。このままでは、空腹でヨリが痩せてしまいかねないので、急いで帰らねば。


「早く部屋に帰ってご飯を食べなきゃね~」

「はぃ……」


 彼女はまだ恥ずかしいようで、胸元から蚊の鳴くような返事が返ってくる。かわいさマックスである。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 沓脱石(くつぬぎいし)の上へ雪駄を脱ぎ散らかしてバタバタと社に上がり込み、廊下を足早に通り抜け、あっという間にひよこの間へ帰還する。

 ごく当たり前に卓上へ整えられていた今夜の夕食は、すき焼きだった。なぜ宿の夕食というのは、こうボリューミーになってしまうのだろう。朝がっつり、みたいなものなら分らなくもないが、もうこれから寝るだけというこの時間に、どういう了見なのだ。

 しかし、出されたからには全て平らげるのが、食べ物に対する最低限の礼儀というもの。なにより、豪華な内容は非常に美味(うま)そうであるため、抗いようもない。にしてもだ。こんな贅沢な食事を毎日食べていると、健康診断で再検査通知を出されてしまいそう。剣呑剣呑(けんのんけんのん)


「夜のお代わりはやめておこう……」


 御櫃に入ったご飯を横目に、自分は一善宣言の誓いを立てる。しかし守られる気はしない。


「神様。この赤いお肉は何のお肉で御座いましょう?」


 卓上に並べられた品々を眺めていたヨリが、牛肉の乗った皿を指して正体をたずねてくる。どうやら初めて見るらしい牛肉に困惑しているようだ。


「ヨリちゃんは牛って食べたことある?」

「ええーっ! 牛をで御座いますかーっ!?」


 まあびっくりだよね。四つ足だとシカやイノシシなんかはあるかも知れないけど、滅多なことでは牛馬を食用とはしないだろうし。江戸の昔じゃあ使役動物も大切な財産だからなあ。


「あ、いえ、その、御座いませんせんが……。もし食べてしまったら、田起こしなどはどうすればよいのでしょう?」


 これまたごもっともな意見。


「そうだよね、困るよね。でも神様の国ではね、もうほとんど農耕には使っていないんだよね」

「えーっ! ではお米などはどうやってお作りになっているのですか?」


 牛がいなければ、集落の人間が総出で田を起こして回らなければならないだろうし。そういった意味では、ヨリの住んでいたうらは恵まれているのかもしれない。


「種もみを発芽させて、苗を作って植えるやり方は同じだろうと思うけど。そこから先を、人や牛の代わりにやってくれる農業機械というものがあってね。ああ、こっちはからくりと言っても差し支えないかな。それを使えば、田んぼや畑を耕したり、稲を植えたり刈ったりする作業を、大体ひとりかふたりでできるものなんだ」


 素晴らしきエネルギー革命。主要な動力源を、蒸気機関から内燃機関へシフトした現代文明に於いて、農作業にかかわる機械群も、また大幅な進化遂げている。

 現在ではGPSを搭載し、LiDAR(ライダー)といった光学センサーシステムで地形を読み、進路を決定する自律型農機なども出現している。それは、数百年前の農耕形態からは想像もつかないものだろう。しかしこれは、農業人口の減少と高齢化が進んでいるという、厳しい実状があってのことでもある。新技術が投入された部分だけを見て、安易に称賛するのは感心できない。由々しき問題なのだ。一次産業ホント大事。


「そんなにすごい物があるのですか!? それならば村の皆も楽になりそうで御座いますね」


 ヨリは、自分の向こうでの暮らしや、家族などのことにもかなり興味があり、いつも嬉しそうに話を聞いてくれる。やはり好奇心が強い性格なのだろう。

 しばらく話し込んでいるうちに、固形燃料に加熱された土瓶蒸しがぐらぐらと煮立ち、蓋が鳴りはじめた。長話をし過ぎたようなので、料理が台無しになる前にとっとと食べてしまおう。


「おっとこれはいけないな。折角のご飯が冷めちゃうから、はやく食べちゃおう」

「はっ! すっかり忘れておりました……」


 お腹を空かせているヨリをあまり待たせてはかわいそうなので、ふたりで“いただきます”をして夕飯に取り掛かる。


「この牛の肉を入れる鍋は、すき焼きっていう料理なんだけど。肉や野菜が煮えたら、この小鉢に入っている卵を溶いて、浸して食べてね。あ、生卵苦手じゃなければだけど」


 ここのすき焼きは煮るタイプ。ここへ来る前に、鍋は既に野菜などの具が追加されており、弱火で加熱されていた。鍋の乗ったカセットコンロの火を加減し、ヨリへ箸を進めるよう促す。


「はい! わかりました♪」


 説明通りに料理へ箸をつけたヨリは、牛肉や生卵に対する忌避感もないようで、時折幸せそうな笑みを浮かながら黙々と食べていた。こうして滞りなく夕飯も済み、人心地付いたところで、今夜も入浴タイムとなる。


「今日は疲れたから部屋のお風呂でいいよね?」


 こういうとき、大浴場まで歩いて行くのは面倒臭い。そう思ってしまう程度には疲れていて、気力ゲージもほぼ底をつきつつある。できれば近場で済ませたい。


「私は神様のご希望通りにいたしますので」

「うん。じゃあヨリちゃん先に入ってきて。俺は布団敷いておくから」

「いいえ、そういうわけにはまいりません。お布団は私がご用意いたしますし、お風呂もご一緒いたします」

「えー……」


 なぜかここへ来て、どうぞどうぞと譲り合いの押し問答が開催される。


「いやでも。それは多分無理じゃないかな。ここのユニットバスは狭いから、ふたりだときついし」


 家族風呂付の部屋ならまだしもだけど、普通の宿泊施設の浴室は狭い。エッチな宿泊施設だと無駄に広いのに。


「そう言われてみれば、確かに……。ではどういたしましょう?」

「そだねえ。ここは素直に別々に入ればいいんじゃないかな?」

「いいえ、そういうわけにはまいりません」


 あらやだ無限ループかしら。とにかくヨリは風呂には一緒に入るの一点張りで、埒が明かない。これは困ったぞう。


「ああ~んもう。じゃあ大浴場行く?」

「はい! 私はどこまでも神様とご一緒いたします♪」


 結局この夜も大浴場まで足を運ぶこととなり、朝風呂の時のような(せわ)しない対応に追われる羽目となって、部屋に戻るころには二十三時を優に過ぎていた。しっかり様子を見ていたつもりだったけど、ヨリはまたゆで上がってしまったのだ。なんでかなー。

ヨリは、脱衣場で髪を乾かしているときから、船をこいでいるような状態だったため、浴衣を着せるまでにもなかなかの苦労を強いられた。おかげで更に疲労度が増して、脱衣場を出る頃には自分もよれよれだ。


「やっぱり部屋の風呂に入った方が良かったよヨリちゃん。ヨリちゅわあん」


 浴場からの帰りは、寝こけたヨリを抱いて戻ることになったため、これではどちらが世話係なのか分からない。

 彼女を起さないよう、慎重に歩いてひよこの間へ戻り、勝手に整えられていた寝床へそっと寝かせる。ふと思い出して障子を見ると、破いたはずの穴はすっかり消えていた。やれやれだぜ。


「は~あ……」


 人知れず復活していた障子の有様に、深くため息をついてバスルームへ行き、歯磨きをする。


「そういやヨリちゃん歯磨きしてなかったけど、虫歯とか平気かな。……あの年頃はまだ乳歯だっけ?」


 歯磨きをせずに寝てしまった彼女の口内環境が心配になり、保護者のような気分になってしまう。

 居間に戻ってテレビの前へ座り込み、リモコンを操作して電源を入れる。テレビからは、カチッと小さなリレー音がして、一拍置いてから画面のバックライトが点灯した。寝ているヨリを起こさないよう音量を絞り、何を見るでもなしにチャンネルをちまちま変えてゆく。この時間は面白い番組もないようだ。普段、テレビを(ろく)に見ない自分は、ぼーっと画面を眺めて、繰り返す欠伸を噛み殺していた。

 ふと目に留まったバラエティ番組では、合間に深夜帯の短いニュースを流しており、件の事故のニュースもやっていた。その原因は依然として不明なままで、当然自分も行方不明のままだ。現場では、夜になっても捜索が続けられているようだが、スタジオの方では数名の怪しげな専門家や、凡そ関連があるとは思えないタレントが顔を並べ、知った風な口ぶりで適当なコメントを垂れ流している。

 こういうのを見ると毎回思うのだが、このいい加減なコメントで、一体いくらのギャラが発生するのだろう。結構いいお金になったりして。うんこてんてんとか言ってもお金が貰えるなら、自分もやってみたいよ。


「自分が捜索対象なのに。そのニュースを客観的に見ることになるなんてね……。そうそうできる体験じゃないな」


 もうだいぶ眠たいのでテレビを消し、照明をナツメ球に切り替えてから布団に入る。すると、どういうわけか隣で寝ているヨリが腕にしがみついてきた。

 起きているのかと思って顔を覗き込むも、しっかり寝息を立てている。無意識な行動のようだが、ここまで的確に動けるものだろうか。


「ヨリちゃん。本当に君は何者なんだい……」


 手の甲でそっと頬を撫でると、ヨリはきゅっと小さな体をすくめた。

 この場所では、自分以外のすべての物が謎に満ちている。こうしていると忘れそうになるが、その謎にはヨリも含まれているのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ