拾壱 ~ 異文化コミュニケーション? ~
派手な海パンをはいたおっさんと黒髪褐色の美少女は、ひとしきり浅瀬で暴れ回り、現在は打ち上げられた鯨類のように、浜辺でぐったりしている。なんかめっちゃ疲れた。水の中って異様に体力使うんだよなあ。
「あ~。もう歳かな~。少しはしゃいだだけでこの有様だよ」
「いえいえ。そのようなことは御座いませんよ~。私のお父様などは、齢四十を超えておりますが、まだまだ元気に漁に出ておりますし。神様はお若いではありませんか?」
自分の隣で三角座りをして、抱えた膝に頬を乗せたヨリが言う。
時は江戸時代。ではないが、ここは江戸時代、十九世紀初めの日本。という設定であるらしい。もう半世紀もすれば、カイコクシテクダサーイと黒船が到来して、武力を盾にした一方的なブラック外交が始まる事請け合いだ。まあここへは絶対来ないだろうけれど。
確かこの頃の人々の平均寿命は、三十代後半から、長生きでも四十代後半程度だったと記憶している。これは日本国内に限らず、世界中の国々でも似たり寄ったりの数字だったはずだ。大体が病気して死んじゃうんだよね。
有名な日本舞踊の一つ、幸若舞の敦盛フェチだった彼の織田信長も、いびき代わりに『人間五十年~』とは言っていなかっただろうけど、この一節は寿命のことを指しているわけではないので注意したい。いや、これは全然関係ない話か。
そんな昔の人々の決して長くはない平均寿命の直中に生まれたにもかかわらず、四十代で現役というのは、かなりの傑物ではなかろうか。現代人なら七十代後半から、場合によっては片足棺桶半身仏壇の範囲にある年齢だと思うし……。うーん。ものすごく幸運なのかな。ちょっとしたことで亡くなることの方が多いもんね、この時代。
そのとき脳内には、海の深い青とは対照的な白い六尺褌を潮風にたなびかせながら、船の舳先に片足を乗せ、腕組みをして海原へ繰り出す日に焼けたマッチョなお父さんのイメージが浮かんでいた。褌締めて、取舵一杯。
「神様が虚弱なだけなんだけどねぇ」
対して自分の仕事は重労働でもないし、最近は積極的に運動するようなこともなく。ただ腹の肉が余ってきた感のある中年男でしかない。
そんなことよりも村人のことだ。仮に、ここが地球外のどこかの惑星だったとして。ヨリを含めた村の人たちは、一体どこからやって来たのか。地球にある日本という島国で、江戸時代に栄えたどこかの漁村の文化と、ここで発生進化してきた地球人類と瓜二つの人類が、偶々偶然ほぼ同じ文明を生み出して、発展してきたとでもいうのだろうか。いや、ないない。そんなことは万に一つもあるわけがなく、片腹痛えってなもんだろう。
となると、江戸時代の日本のどこかに存在した漁村を、丸ごと攫ってきたという可能性が考えられやしないか。あまりに現実離れしすぎているため、真面目に考えるのを避けていたことではあるが、やはりそういった可能性も含めるべきだろう。人一人を瞬時に攫ってこれるのだから、安易にあり得ないなんてことは言えないと思うし。
ならば、やはりしがらみ衆を調べる必要がある。神である自分を、島に隔離しておかなければならない理由が、うらという村には有りそうだし。折角ヨリ以外の村人が向こうからやって来てくれるのだから、それを調査しない手はない。
「それにしても……」
「はい」
「なんか肌がじりじり熱いんですよね」
「そうで御座いますね。私は慣れておりますが、今日は一段と日差しが強いので御座いましょう」
太陽など全く見えやしないのに、ヨリは日差しなどとおかしなことを言う。どうなってるのさ。
「ねえヨリちゃん。お日様とか、太陽は知ってるかな。あ、お天道様でもいいや」
「はい、存じております。お天道様と言えば、空に御座します、神様の中でも最も位の高いお方で御座います。お天道様は、決して姿はお見せになられませんが、常に人々を見守りながら、日の光のお恵みを齎してくださいます」
ヨリの話によってまた新たな謎が浮彫となった。
この世界では、太陽についてもそういう設定になっているらしい。確かに神様は見えない存在だろうけれど、それと太陽が見えないというのは、全く別の話だ。天岩戸にお隠れになられた天照大神でもあるまいし。代わりにやや変態チックで、見苦しいおっさんの神様が見えているけれど、残念ながらこの見える神様は、何の役にも立っていない。それとも、おっさんが裸で踊ったら、お天道様も顔を出してくれるのかね。ないわ~。
「神様は、神様の国でお天道様にお会いしたことは御座いますか?」
「うんあるよ」
殆ど毎日拝んでるからね。
「えーっ!? すると、どのような御方なので御座いましょう?」
「ん~そうだね。すごい生真面目なやつかな。時間はきっちり守るし。あと眩しいし、暑苦しいときもあるね。特に暑苦しいときは、光に当てられて人が倒れることもあるよ」
「そうなのですね! お天道様の御威光で倒れられる方もいるなんて……。私も一度お会いしてみたいです!」
う~ん面白い。
「向こうへヨリちゃんを連れて行けば、毎日会えると思うよ」
「ええーっ!? 私のような者にも毎日会ってくださるのですか!?」
「うん。多分ほとんど毎日国中の人間に会ってるんじゃないかな」
「そ、そんな……。毎日国中の人々にで御座いますか!? さぞやお忙しい事で御座いましょうね……。お疲れにはならないのでしょうか」
遠く空を仰ぎ見るヨリの後ろ髪から、一粒の水滴が乾いた砂浜へ滴り落ち、灰色の窪みを作る。
そうだよなあ。自分のように、一個人として存在する神といった認識が前提にあるならば、単なる太陽の話をしても、面白いことになるのは仕方がないよなあ。しかし、これは同時に悲しいことでもある。ヨリは世界の在り様を誤解したまま生きていることに他ならず、ここにいる限り真実を知ることができないのだ。そんなのあんまりなんだぜ。
ほのぼのとした雰囲気の中、かみ合っているようで、その実全くかみ合っていない話をしているうちに、空の色は薄い水色になっていた。だいぶ腹も空いているため、昼が近いのは確実だろう。
「ヨリちゃん。神様の腹時計はそろそろお昼っぽいんだけど、ヨリちゃん的にはどうかな?」
「はい、ジカン的には日中午の刻くらいになるでしょうか?」
自分は、十二辰刻の文字盤をどうにか思い浮かべ、子が頂点なら、その対角は午だったよな、と一人で納得する。しかし時計がないとやっぱ面倒だな。
「ヨリちゃんはさ、お昼とか食べないの?」
「おひる? で御座いますか?」
「あー。こっちだと何ていうのかな。朝餉と夕餉の間に食べるご飯の事なんだけど」
「あ、中食で御座いますね」
胸の前で手を合わせ、ヨリがかわいく教えてくれる。
「そっか、中食って言うんだね。そいでお腹すいてない?」
「そうで御座いますね……。頃合いかもしれません」
お腹を両手で押さえ、恥ずかしそうにヨリは言う。かわいすぎて転げまわりたい。
「んじゃ、部屋に戻ろっか」
「はい!」
このまま砂浜で寝転んでいても暑いだけだし、腹は減るしでいいことがない。とっとと部屋へ戻って昼を食べよう。どうせまた用意されてるんだろう。
自分たちは盛大に寝ころんでいたため、あちこち砂まみれになっている。なので、玄関先で念入りに砂を落としてからクソ重たい引き戸を開き、ひよこの間へ向かった。
◆ ◆ ◆ ◆
まずはバスルームにヨリを連れて入り、シャワーの操作方法を教えて、水着を脱いでシャワーで砂を落とすよう伝える。相変わらずすぐに脱ごうとするので、それをやんわりと窘め、ヨリをバスタブに入れて、カーテンを閉めてから脱ぐようにと、再々念を押しした。すぐに脱いだら駄目なんですよ。
「髪もきちんと洗ってね」
「は~い」
背中越しに言い残し、バスルームのドアを閉じる。
本来であれば、バスタブで砂を流すのは、サニタリー的に大変よろしくないのだが、きっとこの世界なら大丈夫だろう。どうせふたりきりしかいないんだし。と、二言目にはこればかりを言ってる気がする。良くないねこういうのは。
ヨリの浴衣をもってまたバスルームへ行き、バスタオルの間に浴衣を挟んでその旨を伝え、居間へ戻って指定席へ座る。思惑通り、座卓上に用意された昼食は、部屋に入ったときにはすでに用意されていた。品数が大幅に増えた昼食の献立は、朝よりもずっと盛沢山である。
少しのどが渇いたので、お茶を入れて飲んでいると、バスルームから浴衣姿のヨリが出てくる。彼女の髪は乾いていた。ちゃんと洗面台についているドライヤーを使えたようだ。
シャワーも空いたし、先に食べているよう彼女に伝えて、自分もバスルームへ向かう。蛇口をひねり、少し熱めのシャワーを浴びはじめると、体の表面がヒリヒリと痛い。なんでや。
「焼けたのは何となく気づいていたけどさあ……。日も出てないのに日焼けとかおかしいだろ。ったくもう」
イラッとして文句を言いつつ、シャワーの温度を下げ、肌の表面を慎重に洗い流す。どんなに優しく触れようとも、赤くなった敏感肌は痛みを訴える。しんどいなあこれ。
「ヨリがこんがり焼けている理由が分かった気がするな……」
とめどなく愚痴が溢れ出す中、念入りに体中を洗いあげ、バスタブを出る。洗面台の前で髪を乾かし、浴衣に着替えて居間に戻ると、ヨリが食事に手を付けずに待っていた。先に食べるように言ったのに。仕方ないにゃあ。
「ありゃ~。先に食べててほしかったよう」
「いいえ。供物である私が神様を差し置いて先んじるなど、恐れ多いことで御座います」
「先んじ……そっか。お腹空いてるのに待たせちゃってごめんね」
「いえいえ、そのようなお気遣いは無用で御座いますので」
またこの子はわちゃわちゃしてる。かわいいなあ。
いついかなる時も神を立てるヨリの姿勢は、大したものだと感心する。そして、この不自然なしきたりには疑念しかない。まあいいや。くだらない考察は置いといて、早くお昼を食べてしまおう。これ以上ヨリを待たせるのは忍びない。
「では頂きますかね」
「はい、いただきましょう」
いつものようにふたりで手を合わせ、“いただきます”をして昼食にとりかかる。
瞬く間に昼食を食べ終え、食後の茶を飲み一息つく。いいや、つきたかったのだけれど、案の定また食べ過ぎてしまったため、腹が苦しいことになっている。こうなると座位は辛いので、楽になるためには横になるしかない。
「神様、食べてすぐ横になられるのは行儀が悪う御座います。牛になってしまいますよ?」
残念。即座に行儀の悪さをヨリに諫められた。すまぬ。何もかも、ここのご飯が美味しすぎるのがいけないのだ。おじさんを許して……。
「そうだねー。お袋にもよく言われたよ。なんか、ヨリちゃんお母さんみたいだ」
「な……」
彼女はまた赤くなってる。
「いいでしょ、お昼寝させてよヨリお母さ~ん」
ママァ。
汚らしいおっさんが、甘えた声でそんなことを言う地獄絵図。すると、仕方ないといった感じの笑みを浮かべたヨリが、座卓のこちら側へやってきた。おやおやこれはもしかして……。
「では神様、膝枕など如何でしょうか?」
「はいはい! ぜひオナシャス!」
彼女は大変貴重なサービスを提言してくださいました。やったー。
嬉しさのあまりコメツキムシの如く跳ね起きて、ピシッと正座をすると、自分の体は自動的に頭を下げ、深い感謝の意を表明する。これ即ち土下座。
そのいかがわしい様子に、彼女はあたふたと恐縮してしまうが、おかげでがら空きとなった膝の上へぬるりと滑り込むことができた。はなから膝枕をしてくれるって言ってくれているのだから、隙をつく必要なんかないのにな。
「はあ。やっぱり……」
膝枕をしてもらった途端、彼女が纏うほんのりとした芳香が鼻腔くすぐる。それと共に、自分はとても安らかな気持ちになり、やがて猛烈な睡魔に襲われた。恐らく、午前中にはしゃぎ過ぎたツケだろうと思うが、このまま落ちてしまってもいいものだろうか。
「どうかいたしましたか?」
「うん。あのね、ヨリちゃんいい匂いするんだよね」
社の玄関でも感じたように、やっぱりヨリからは干し草のような爽やかな匂いがしていた。あのときは畳の匂いかと思ったけれど、い草とは明らかに違うことが、今嗅いで分かった。この香りは、恐らく干した稲わらに近い。あの独特の甘みを帯びた香り……。なんか変態みたいで嫌だな。と自分が思うより、ヨリの方が嫌がるでしょうが。烏滸がましいったらありゃしないよこのおじ神様は。
「へ? そ……そうで御座いますか? ……ありがとう御座います」
一日の約半分は、顔が赤いんじゃないかと思うくらい、ヨリはしょっちゅう赤面している。当然そうさせているのは自分なのだろうけれど、それにしてもちょっと赤くなり過ぎではないかな……。
「落ち着く匂いで……大……好……」
◆ ◆ ◆ ◆
「ふがっ!? 寝てた……」
汚らしいブタ声を発してビクッとなり、目が覚めた。豚に謝れ。
一瞬、今まで自分が何をしていたのか分からず、考えを巡らせる。徐々に醒めゆく脳裏には、昼食後すぐヨリの膝枕で寝落ちした記憶があった。遊び疲れて寝落ちとか。夏休みの小学生男子でもあるまいし、何をやっているんだか。
金庫の上の時計を見ると、十五時二十分辺りを指しているので、あれから三時間近く寝ていたようだ。頭の下には、枕代わりに二つ折りになった座布団が敷かれている。横向きで寝ている自分の胸元には、こちら側に背を向けて、自分の左腕を被るように回し、小さく寝ているヨリの頭がある。ヨリも疲れていた筈なのに、自分が寝るまで眠気を我慢していたのだろう。ほんと申し訳ない。ちゅーしたい。
「膝枕してくれてありがとう、ヨリちゃん」
起こさないよう小声で言いながら、ヨリの横顔に乗っている髪をそっと耳にかけ、手の甲で頬を撫でる。ぷにゅぷにゅのほっぺの感触が大変尊い。
小さく寝息を立てている愛らしい寝顔をしばらく眺めていると、軽く唸るような声を出して、ヨリは薄目を開けた。やはりすぐには頭が回らないようで、やや間を開けてからハッとしたようにこちらを向き、至近距離でばっちり目が合う。デュフ、ちゅーしたい、デュフフ。
「やあ。おはようヨリちゃん」
彼女の頬を撫でながら言うと、みるみる真っ赤になり、急いで起き上がろうとする。しかしせっかくのチャンスなので、「もう少し撫でさせて」と言って引き留めた。
「ええーっ!」
「ふふふ。ヨリちゃんてさ、よくえーって言うよね」
自分の胸元で首をすくめ、ヨリは頬や頭を撫でられるままになっている。あ~たまらねえぜ。
「そそ、そうで御座いますか? あまり自分では分からなないですが……。もし、神様がお嫌でしたら、今後は控えるようにいたします……」
「いやいやいやいや、嫌なんてそんな。むしろ逆だよ? かわいくていいと思うよ、そういうのは」
大好物ですゆえ。
「さ、左様で……御座いますか……」
なぜかヨリはへなへなになってしまう。
「さてと~。そしたら次はどうしたもんかね……」
身をすくませて、一層小さくなったヨリの頬を撫でたり摘まんだりしながら、これからやるべきことを考える。
「本日のご予定でしょうか?」
「うん、まだ全然決めてないんだけどね」
一日遊ぶ予定ではいたのだけれど、午前中に全力投球したせいで、すでに自分はくたくたといった有様だ。時間も十五時を回っているし、実際には何をする時間もない気がしている。結局のところ、言い訳に徹している気がしないでもない。
「ゲーセンでも行こうかなあ。いや駄目か。あそこは一度入ればそれきり脱出できなくなる魔窟だから……」
「げえ、せん、で御座いますか?」
「うん。休憩所の隣に部屋があったんだけど、そこがね。いろいろ遊べる……なんていうのかな~、機械? からくりと言うのは雑な気もするし。おもちゃと言うのも違うし……」
いかん、適当な言葉が思いつかない。
今日まで、会話の大部分が通じているのは大変有難いのだが、固有名詞や概念などは、それに代わる言葉を知らなければ、途端に意思疎通の妨げとなってしまう。この時代に存在しないものは、なかなか言葉にできないため、伝えるのは難しい。
それに何か、どこか中途半端でちぐはぐな感じもしていた。彼女と自分の生きる時間には、二世紀近い隔たりがあるはずなのに。話し言葉がすんなりやりとりできている点には、強い違和感がある。昔の人間と現代の人間が、こんなにも簡単にコミュニケーションが取れるものだろうか。
自分は歴史学者でも言語学者でもないので、確かな事は言えないが、本来はもっと言葉にも齟齬が生じるものなのではないだろうか。とはいえ、その辺りのことについては、疑問に思うことはあれど問題になるものではないので、特に深く考える必要もないのだが。
「うーん……。まぁいいか~」
とりあえずそれは置いといて。まずは優先度の高い問題から解決していこう。
「ええーっ! 何か神様おひとりでご納得されておりませんか!?」
「そだねえ。話を振っといて放り出すなんてひどいよね。ごめんね」
言いながら、丁度手元にあるヨリの頭を撫で繰り回す。
「あ、いえ、これは差し出がましいことを……。ですが……何か誤魔化された気もいたします……」
「ふふふ~。かもね~」
「ええーっ! あんまりでは!?」
かわいく不満を漏らすヨリの頭を、自分はひたすら撫でる。ついでにハスハスいいにおい~。
となれば、次は休憩室の外にあたる日本庭園を調べてみるべきだろうか。あそこは、今のところこの社内で最も怪しく、最も不可解な場所であると言える。いや、そのほかの場所も大概ではあるか。まったく、この社ときたらどこもかしこも。
「さて、そしたらお出かけしよっか」
このままヨリの頭をずっと撫でていても、私的には一向に構わない。むしろ積極的にそうしていたい。けれど、流石にずっと撫でていては、ヨリのかわいい頭が禿げてしまいかねない。名残惜しくはあるが、この辺で切り上げることにする。
「はい。お次はどちらへ行かれるのですか?」
「うーん、とりあえずまた売店にでもいこうかな」
「はい。土産物屋で御座いますね♪」
のそのそとふたりで起きだし、ふと座卓の上へ目をやると、いつの間にかB五判程の紙が一枚置かれていた。その中央付近には、マジックか何かで一筆添えてある。
“テレビを交換いたしました”
文面につられてテレビを見ると、そこには初めにあった物よりも一回り大きな液晶テレビが置いてあった。またもイラっとした自分は、その紙をクシャリと丸め、広縁の方へ思い切り投げつける。そこそこな勢いがあった紙の球は、障子を突き破って向こう側へ行ってしまった。やってやったぜ。
「あわわわわ……か、神様何ということを……」
ためらいもなく障子をぶち破ったことに驚愕し、ヨリは慌てふためく。そんな彼女を抱き上げて、自分は部屋の出口まで運んでゆく。障子の一枚や二枚破ろうとも、ここでは大した損害にならないだろう。むしろ、私的にはなってほしいところだが。
「ええ~っ!?」
「まあまあ。いいからいいから~」
突然抱きかかえられて、驚きの声を上げたヨリだが、数歩歩いた玄関口ですぐに降ろされる。そこで、きれいに揃えて置かれていた彼女の雪駄を取り、裏面で合わせてから脇腹辺りの帯の隙間へねじ込んだ。
「うひゃぁ!」
素っ頓狂な声を上げるヨリに、きつくないか聞くと平気だと言った。自分も同様に雪駄を挟み、出口へ向かうが、そこでヨリに袖を引かれる。
「神様。やはり先ほどの紙をお片付けしたいのですが……」
几帳面なヨリは、もじもじしながら障子を貫通した紙ごみを、どうしても片付けたいと言う。
「気にしなくても大丈夫だよ。あれは腹いせみたいなもんだから」
納得のいかない様子で、疑問符を浮かべているヨリの後ろに回り、浴衣の裾を軽く持ち上げて足の間へ頭を突っ込む。
「ひぃぃ! 神様何をを!!」
浴衣の裾をめくり上げられた挙句、股座に頭を突っ込まれたヨリは、当然悲鳴を上げた。
「怪奇の事件はλの仕業! 変態ゴッドおじさん! ゴーッ!」
変身特撮めいた掛け声を発して一気に立ち上がると、なんと肩車が完成する。スゴイ。
なんの予告もなくいきなり肩車をされ、大わらわとなった様子のヨリを笑い飛ばし、そのまま部屋を出て売店へ向かう。鴨居をくぐる際には、衝突しないよう屈むことも忘れてはならない。肩車をするときは、上方向への安全配慮が極めて重要だ。これは、度重なる姪への接待で学んだスキルである。
「あ~、ヨリちゃんの太もも気持ちいいなあ」
そんな変態じみた言葉に羞恥心を煽られ、身をこわばらせたヨリは、強く両足を閉じてくる。oh……ここは天国か。ヨリちゃんのお父様お母様、誠に申し訳御座いません。私は大事な娘さんにセクハラをしております。
ほくほく顔のおっさんは、畳敷きのロビーを悠々と進んで行く。ほどなくして、売店に到着したので、ヨリを降ろして股間から頭を引き抜いた。そのとき、後頭部に浴衣の裾が引っ掛かり、目の前に丸出しになった褐色の尻が現れる。無言で裾を元に戻し、何事もなかったように自分は売店へ急いだ。何事かを察したのか、しばらくの間ヨリは隣で尻の辺りを押さえており、自分へ微妙な視線を向けていた。しばらく肩車は控えるべきだろうか。いやそれよりも、まずヨリに下着をはかせたい。うら若い乙女がノーパンではいけない。丁度いい機会なので、ついでに衣類売り場で彼女の下着を見繕っておこう。
店内を探索し、“子供用下着”と書いてあるプレートが掲げられたワゴンへ近づく。ワゴンの中には、ビニールパックされた下着類がぎっしりと詰め込まれていた。幾重にも盛られているそれらを物色して、ひとつずつ目当てのサイズを確認してゆく。
今の自分は、女児用下着を凝視して、ぶつぶつ言っているただの変態にしか見えないだろう。だが、パンツを知らない彼女に選ばせるわけにもいかないので、そこはやむをえまい。というか、こーゆーシチュエーションは、ここへ来てから何度目だろう。娘子を持つ父親というのは、日ごろからこんな風に世間体を気にしていたりするのだろうか。世知辛えなあ。
「ヨリちゃん、これなんだけど」
やるせない気持ちで、下着の物色を続けた結果、無事適合するサイズを見つけることができた。傍らで共に下着を眺めていたヨリに向き直り、着用法について詳しい説明に入る。
「これは、所謂男でいうところの褌の類なんだけど、ヨリちゃんもこういう物を身に着けるべきだと思うんだよね。だから、これからははいてもらえるかな?」
手にしている女児用パンツのパックをヨリに示し、毎日の着用を義務化してほしいと願い出る。これも酷い絵面だ。酷くしかなりようが無いけど。
「はい。神様の御申しつけとあらば。……因みにそれは、湯文字のようなもので御座いますか?」
「ゆもじ?」
“♨”こんな文字の事かな。なわけないだろ。
「はい。年頃になった娘が、着物の一番下に着ける腰布で御座います」
なるほど。いまいちイメージはわかないけど、恐らく下着の類であることは変わらないだろう。
「あ~そうそう、そういう感じのやつ。神様の国ではね、男も女もほとんどの人がこういうのを一番下に着るんだ。……ってあれ。年頃って意味じゃあ、ヨリちゃんだってそうだと思うんだけど」
「はっ! そういえば姉様からもそろそろつけなさいと窘められておりました」
お姉さんには怒られたはずなのに。ヨリは何やら嬉しそうだ。
「そうでしょうそうでしょう。神様もお姉さんの言うことは正しいと思うよ」
笑顔と共に、適合サイズの“三枚入り五百円”と書かれたビニール袋をヨリへ渡す。商品の中には、アニメキャラなどのバックプリントが入った物もあるかと思ったが、ここには簡素な基本スタイルの製品しか見当たらない。それでも、ないよりは全然ましだ。
「それじゃあ水着と同じように試着室ではいてね」
「はい。わかりました」
彼女は袋を抱えて、ぺたぺたと試着室へ走って行く。
物はついでということで。自分の分も持って行こうと思い、隣のワゴンを漁って紳士用ボクサータイプ“三枚入り八百円”(グレー)を一つ手に取る。こいつがあれば、稲荷神もそう簡単には出て来れないだろう。
そういえば、お稲荷さんというと狐のイメージが強いけど、稲荷神自体は狐ではなく、人型をしている宇迦之御魂神という神様だったりするんだよね。故に、狐は神使と呼ばれるお使い役で、いわば社長秘書みたいなものにあたる。いや、営業かな。ともかく、そんな尊い農耕の神を、おっさんの稲荷袋の固有名詞にするとは、なんと罰当たりなことか。誰だ、初めにこんなことを言い出した不届きな奴は。
さて、次に本来の目的の物を探すため、店内を隈なく徘徊すると、程なくしてアクセサリー売り場の端の方で、それを発見した。それは、ホームセンターなどでよく見かける、回転式の陳列ラックにぶら下げられた腕時計だ。巷では、しばしばチープカツオなどとも呼ばれている。チープでも機能は申し分ない。
「スマホがなくて時間が判らんし。時計があった方が便利だからな~」
ぶつくさ言いながら棚を回転させ、適当な時計を見繕って見比べてみる。吊るされている物は、どれもこれも無難なデザインで必要十分な機能を備えているが、今回は多少雑な扱いでも耐えられそうな、樹脂バンド型で五気圧防水のデジタル時計を選ぶことにした。これは、海水につかる機会が今後もあることを想定しての選択だ。
「神様ぁ……」
好みのデザインを選ぶために、時計をとっかえひっかえしていると、少し離れた試着室の方から、何やら情けない声がかかった。またもやトラブルでしょうか。
「なんだいヨリちゃ~ん?」
試着室の前まで行きカーテン越しに声を掛けると、ヨリがカーテンを開いて浴衣の裾をめくり、下着がはけたことを見せようとしていた。お客様困ります、あーいけません。
「ちょ、まって! 見せなくていいから!」
「えーっ!」
えーっはこちらのセリフじゃよ。
「いやそこは驚くところじゃないと思うんだけど……」
「ええ……。でも、何やら履き心地が変で御座いますし、本当にこれでよいものかわからないので御座います……」
ヨリは居心地が悪そうに、もじもじそわそわした様子をみせる。仕方ないので、見せてくれるよう言うと、彼女は再度浴衣の裾をめくり上げ、白く質素なパンツを露にした。大変恐縮です。
「うん。ヨリちゃんそれ後ろ前だね」
「ええっ! 前後があるので御座いますか!」
「うんあるよ」
ヨリの足元に置かれた袋の中から、別の下着を一枚取り出して、前後に差異があることを説明する。そうして、十分に理解が得られたことを確認してから、カーテンを閉じた。しばらくすると、にこにこ顔でヨリが出てきて「今度は大丈夫です」と元気いっぱいに言う。
今度こそちゃんとはけたようでよかった。自分はヨリの頑張りをねぎらい、頭をくりくりと撫でる。するとそこで、ヨリは自分の腕に巻かれた時計に気づき、興味深そうに凝視しはじめた。素晴らしい洞察力である。
「あ、気になる?」
「はい。これは何で御座いましょうか?」
「これはねえ、なんと時計なんですよ」
「えーっ!? こんなに小さいので御座いますか?」
この時代設定にある時計は、ぜんまいを動力とした機械式時計が主流のはずだ。この頃の工業技術水準は高くないため、実用的な腕時計など勿論存在していない。携帯できる機械式時計があったとしても、舶来物の懐中時計くらいだろう。
「うん。神様の国ではもっと小さいのもあるよ」
「これよりももっと小さいので御座いますか!?」
「小さいねえ。作る気になれば米粒よりももっと小さいものだって作れるよ」
「えええーーっ!?」
人が読むような表示機能を持たせなければ、プリント基板上に実装する程度の物もあるので、間違いではない。実際、ウォッチドッグ機能などに使用される|RealTimeClock《RTC》などは、小豆サイズの製品もある。そういった組み込みに限った用途でならば、単純に一ヘルツのパルスを出すだけの物から、複雑なシリアルデータをやりとりするものまで、様々な仕様の製品があったりするし。過去には、うちの会社の製品でも採用実績がある。
「この社の中にあるものは、殆どが神様の国にあるものと同じみたいなんだよね」
「そうなので御座いますか!? 見慣れぬ物ばかりなのは、そういう理由なので御座いますね」
「そうらしいね。ところで、ヨリちゃんにも時計の読み方を教えておきたいのだけど、いいかい?」
「はい! ぜひご教示願いたいです!」
ふんすと鼻息の音が聞こえそうな勢いで、時計に対する知識欲を露にするヨリ。恐らく、この子はできる。
レジの上にあったボールペンと、サッカー台(レジで買い物かごを置く部分)の引き出しをあさってメモ帳を引っ張り出し、十二辰刻文字盤と現代時計の文字盤を書いて、比較しながら説明をする。江戸も末期となったこの時代には、時計の概念もそれなりに浸透しているため、読み方だけを教えればヨリは簡単に理解してくれた。
「なるほど……。こちらでは一つの針で半分にしていたものを、こちらでは短い方の針を二回りで見るので御座いますね」
「そうそう。ヨリちゃん理解が早い。賢い!」
簡単な説明だけで、彼女は時刻の見方をすぐに理解した。これは驚くべき理解力だとおもう。
「えへへ。あ、でも、神様のお着けになっている時計は、ずいぶん違う物のようで御座いますが?」
「そだね。これは数字を直接表すものだからね。いい機会だから、アラビア数字も覚えようか。これが読めれば、社内の数字表記も全部わかるようになるから」
「はい! ぜひお願いいたします!」
自分も子供の頃にこのくらいの勉強意欲がほしかった……。ヨリは本当に偉いなあ。
「まず数字だね。漢数字では――」
メモ帳に漢数字とアラビア数字の対応表を書いてゆく。その間、ヨリは片時も文面から目を離さない。
「あ、その前に漢数字はわかるよね?」
「はい。心配御座いません。あまり得意では御座いませんが、多少算術の心得も御座いますので!」
「そっか~。なら大丈夫だね」
ヨリも基本的な事は分かっているようなので、簡潔に説明を進める。
確か計算の概念は、インドから中国を経由してもたらされたと記憶している。この時代の主流である手動式デジタル計算機のそろばんも、中国から渡って来たものだ。
江戸時代の庶民の識字率は相当に高く、身分格差にかかわらず、子供へ積極的な教育を行っていた家も少なくなかったらしい。そんな世情背景もあってか、ヨリの理解はとても早い。おかげで教える自分の方も楽しくなってしまい、自然と熱が入る。素晴らしいことに、四則演算などは教えるまでもなく、彼女は難なくこなした。
「凄いなヨリちゃん……割合がきちんとわかってるし。これなら分数も完ぺきじゃないか」
「ぶんすう?」
「あー、これもなんて言えばいいのかわからない~」
また言葉の壁にぶち当たってしまい、おじさんは唸りながら考え込むしかない。
そこでふと腕時計が目に入り、よく見れば時刻は十七時三十分になっていた。そこでさらに、まだ大事な予定が残っていたことを思いだし、はっとなる。
「あーっ忘れてた! 庭園見に行かなきゃいけないんだった」
つい夢中になり、脱線した豆知識などを教えていたら、ずいぶんと時間が経ってしまった。いっつもこんな感じだな。
「そうで御座いました! 神様、大変貴重なお話をありがとう御座います。おかげ様で、あらゆる時計の読み方も完ぺきで御座います!」
キラキラした目でガッツポーズのような格好をするヨリかわ。
「やー。ヨリちゃんの理解が早くて神様も楽しかったよ。こちらこそどうもありがとう」
このままもっといろいろなことを教えてゆけば、中学数学くらい簡単に理解してしまいそうだ。いやむしろ、高校数学や物理、化学だって余裕かも知れない。意欲があるということももちろんだが、なにより彼女は恐ろしく理解が早いので、実は計り知れないポテンシャルを秘めているのかも。
そんなヨリを時計の棚の前まで連れてゆき、陳列された腕時計を見せて好きなものを選ぶように促すと、彼女は迷わず、猫めいた謎のキャラクターが描かれた、ピンク色のアナログ腕時計を選び取る。それは世界中で大人気の、日本が生んだあの謎猫様生物を使用したキャラクター時計である。ヘロー子猫っぽい何かちゃん。
また意外にも、パッケージには公式のホログラムシールが貼られていた。各権利の使用許諾を正式に得た商品にのみ添付が許される、紛う事無きオリジナル品の証である。どことも知らぬ宇宙でも、小猫っぽい何かちゃんは人気商品なようだ。なわけないんだよなあ。
「流石はヨリちゃん。お目が高い」
「へ? 左様で御座いますか?」
首を傾げながら、とりあえずにこにこしているヨリに、右手と左手どちらがいいかを聞く。彼女は「神様にお任せします」と即答したので、左手首の内側に文字盤が来るよう装着した。
「うん。似合うね。やっぱ女の子にはピンクだな」
「ぴんく、ですか?」
「そう。桃色の事だね」
「なるほど~。この帯の部分などの色で御座いますね♪」
フフフ……かわヨ。
ようやく売店での目的が果たされたため、退店する前にまたもアイスケースへ立ち寄り、自分はガブガブ君ソーダ味を取りだす。ヨリは、ガブガブ君あまおういちごサワー味を選んでいた。
時間も押しているので、庭園に向かって歩きながら食べようと提案したが、ヨリ曰く「御行儀が悪いです」とのことなので、ベンチに座って食べることになった。とにかくヨリはしっかり者だ。トホホだね。
「ヨリちゃんてさ、もしかしてお家の躾とか厳しい方だった?」
今朝方から気になっていたことなので、このスキマ時間に家庭環境についてたずねてみる。
「そうで御座いますね。特別厳しかったわけでは御座いませんが、母様や姉様からは、よく注意を受けておりました。特に姉様からは、事あるごとに口うるさく注意を受けておりまして」
ヨリははにかむような表情で、やや力なく「えへへ」と笑う。お姉さんが特に厳しそうかな。
「じゃあ、お姉さんの教育によるところが大きいのかな。その様子じゃあ、しっかりした人のようだし」
「はい。姉様は私の憧れでもありました……」
故郷の村に思いを馳せているのか、ヨリは遠い目をして言う。彼女が、もう家族とは会えないということを考慮すると、今後こういった話は控えた方がいいかもしれない。
「因みにお姉さんの名前はなんていうの?」
「はい、姉様の名は“リン”と申します。お父様がおっしゃるには、風鈴の鈴の字から頂いたとのことです」
名前の響きのおかげだろうか。何やら自分の脳裏には、凛とした女性のイメージが浮かんだ。
「そっか。ところでヨリちゃん。名前で思い出したんだけど、神様の本名ってまだ言ってなかったよね?」
ヨリの姉の名前を聞いて、自分は自己紹介がまだだったことを思い出した。高台の上で、突如神様呼ばわりなどをされたため、流されるまま、成り行きでここまで来てしまっていたのだ。
「そうで御座いました。私もいずれおうかがいしなければとは思っていたのですが、失念しておりました。申し訳御座いません」
なぜかぺこぺこと平謝りしているヨリ。
「いや大丈夫だよ。それにこれはヨリちゃんが謝ることでもないと思うけど。じゃあ、きちんと名乗っておくね」
ベンチを立ってヨリの前で片膝立ちになり、彼女の目を見ながら自分の名を告げる。
「改めまして。俺の名前は堤 晴一。歳は三十五歳。しがない会社勤めのサラリーマンです」
そう言って、ガブガブ君ソーダの当たり棒をヨリへ差し出す。