拾 ~ ドキッ! 丸ごと水着!(略) ~
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
またブックマークや評価をしてくれた方々など、何方かの反応が得られてうれしく思います。
部屋を出て左手方向は、広く長い廊下になっている。それに沿って左右に計五十以上の部屋があり、突き当りは行き止まりの壁だけど、黒松か何かのでかい盆栽が置いてある。それにしてもだよ。ここにはふたりしか滞在しないはずなのに、なぜこんなにも部屋数が多いのか。
とりあえずは、隣室あたりから調査するべきかと思い、ひよこの間を出て左隣にある部屋の前にやって来る。部屋名が表記された札には、“鳳凰の間”と、いつもの達筆な毛筆体で書かれていた。
無垢松製と思われる引き戸の取っ手に指をかけ、力を籠める。すると音もなく、するりと引き戸は開いた。てっきり施錠されているものと思っていたので、これには少々拍子抜けしてしまう。クローゼットスペースとバスルームの前を通り過ぎ、部屋と玄関口の仕切り襖を開けると、内部はひよこの間と全く同じ間取りになっていた。
ヨリとふたり、どこか変わった点はないものかと、薄暗い部屋の中を見回す。すると、左手の壁に立てかけられていた、古ぼけた木柄のピッケルが目に入る。まさか、この社に自分たちの外にも誰かがいるのか。そう思ったが、室内には茶道具一式などが見当たらない。座卓も端に立てかけられているし、ここに滞在した部屋の主は、もういないのであろうことが何となくわかる。
再び室内を見回してテレビを見ると、四対三のブラウン管テレビが置かれていた。それは、画面の右側にチューニング用のつまみが付いているタイプなので、結構な年代物のようだ。当然のように、隣の棚には電話機が置かれ、プラスチックのメモ台も添えられている。台付属のボールペンは、紛失防止のスパイラルコード付き。近頃じゃ銀行でも見ないタイプだなあ。
「なんだかいやに古臭いな……」
自分のいる部屋には、新しくはないにしても、ワイドテレビが置かれている。電話もプッシュ式のビジネスタイプだが、ここの電話はダイヤル式の黒電話である。さらにくまなく室内を見れば、細かいところが微妙に古臭い。室内灯は袋打ちコードで吊り下げられた、和風の丸型二灯式蛍光灯だし。金庫上の置時計も、ラジオと合体した古めかしいアナログ式のやつだ。
あちこちの見た目は古くとも、掃除は行き届いているようで、どこかが汚れていたり破損しているようなことはない。レトロな作り以外特筆すべき点はないが、何か滞在を拒むような居心地の悪さがある。形容しがたい気味の悪さに、呻吟めいた溜息を吐いたとき、横にいたヨリが自分の浴衣の袖をつかみ、身を寄せた。
「特に何もないようだけど、もう少し調べてみようか」
「はい……」
まずは、最初に目に入ったピッケルから調べることにする。むしろ、これくらいしか変わった点がない。他人の持ち物を、勝手に弄り回すのは気が引けるが、自分たちの置かれた状況を思えば、そうも言っていられない。
よく使いこまれている古めかしいピッケルは、見た目通りずっしりと重い。昔の人は、よくこんな重たい道具を担いで、山なんかに登ったものだ。そう感心してしまうほどに重い。古木めいた風合いのある柄の部分には、なにか文字のようなものが彫ってある。気になるそれに目を凝らして解読を試みるが、すり減って消えかけたそれを読むことはできなかった。
また袖を引かれたような気がして隣を見やると、一緒にピッケルを眺めていたヨリが、何とも言えない表情を浮かべている。彼女も、この部屋の雰囲気が怖いのだろうか。障子が閉じていて薄暗いし、先に明かりをつけるべきだったかな。
「ヨリちゃん、どした?」
「……いえ、なんでもありません」
何でもないようで、何でもなくないようで。煮え切らない様子のヨリは、とりあえずそう言ったように思える。即ち、なんでもなくはないのだろう。
「怖かったりするかな? もしそうなら言ってね。すぐ切り上げて出るから」
「はい……。お心遣いありがとう御座います」
そう言って頭を下げたヨリは、いつものヨリだ。
部屋は、全体的に古臭いというだけで、特に変わった様子がない。これ以上得られるものもなさそうだし、居心地も悪いので引き上げよう。
鳳凰の間を出て、ヨリと共に隣室の扉の前に立つ。中を調べるべく引き戸に手を掛けたが、どんなに力を籠めようとも、戸はびくともしない。何よりも、指をかけた取っ手からは、例の感触がしていた。これは社の玄関先や、砂浜の四角錐を触れたときに感じたあれだ。
仕方なくその場を離れ、ほかの部屋を見て回るが、どこの扉も同じ感触があるばかりで、ビクともしない。途中、ヨリと自分は手分けをして、全ての部屋をしらみつぶしに回った。けれど、結局は隣室の扉しか開くことはできなかったので、客室エリアの探索は骨折り損で終わった。
さしたる収穫もないまま、どうしたものかと思案し、なんとなくふたりで玄関ロビーの方へ向かう。客室の並ぶ廊下を背にして、左手側にあるロビーには、座椅子と座卓が設えられている。これらも自由に利用して構わないのだろう。さらに左奥の一画を占めている売店では、土産物などを扱ってるらしい。何から何まで、とことん日本の温泉宿を再現しているな。腹立たしい。
「むぅ……」
店先には赤い布製の幟が出ていて、白縁取りの黒文字で“お土産。ご自由にお持ちください”と書かれていた。色々と調子はずれな様子に、ふたり顔を見合わせて売店エリアに入る。ロビーに面する側には、集客を狙ったと思しき“さき島名物 温泉饅頭”と書かれた陳列棚があり、何の捻りもなく整然と饅頭の箱が積まれていた。
「ぐぬぬっ。これはこれでまた腹立たしい。腹しか立たん」
また傍らには、ご丁寧に断面を晒した食品サンプルが、“見本”と書かれたクリアケースに納められている。添えられた説明によれば、ここの風呂は単純温泉らしく、温泉の熱を利用して蒸しあげたなどと、いかにもな文言が綴られていた。風呂に入った時は、泉質の説明など全く気づかなかったけれど、最早そんなことはどうでもいい。何か小馬鹿にされているようで、焦燥感と苛立ちが募るばかりだ。イライラ。
「今知りたいのはそういうことじゃないんだよっ!」
手に取った饅頭の箱を、床にぺたんとたたきつけると、近くにいたヨリが「ひぃ!」と声を上げる。
「あああヨリちゃんごめんよ」
やっちまったと思ったが、ヨリは饅頭の箱を拾い上げ、怒ったような顔でこちらを見る。
「神様っ! いかに神様と言えど、食べ物を粗末にされてはいけないと思います!」
拾い上げた饅頭の箱を大事そうに抱えたヨリに、軽率な行動が諫められてしまう。ヨリが怒るのも当たり前だ。おじさんだって、食べ物を粗末にするなと、昔から父母にも言われてきたでしょうに。
「す、すみません。つい……」
とことん付き合うと言ってはみたが、それなりに状況は逼迫しているわけで。そんなところへきて、煽りを入れられているような状況を見せられたら、それは腹を立てるなというのが無理な話ではなかろうか。まあ、それでも饅頭に罪はない。これは有難く貰って帰り、お茶と一緒にいただくことにしよう。財布はあるがここに払う金はない。無人だしかまわんだろ。
饅頭陳列エリアのすぐ近くにはレジがあり、レジ袋もあった。ここでは、あらゆる行動の自由が保障されている、というのであれば、レジの中へ勝手に入り、袋を取っても構わないはずだ。相変わらずイライラも募るし、いい機会だから、毟り取った袋へ饅頭の大箱を三箱、腹いせのように詰める。日本でこんな場面を目撃されれば、窃盗の現行犯で通報されるだろう。
「これは部屋へ戻ったら一緒に食べよう」
「はい」
間の抜けた言葉をヨリに掛け、さらに店内の物色を続ける。提灯やら木刀やら十手やら……。ほんと色々あるな。
店内に並ぶ品々は、観光地の土産物屋めいた品揃えを誇り、学生時代の修学旅行を想起させる。キーホルダなどのアクセサリー類も、やけに充実しているため、つい懐かしい思い出と照らし合わせてしまった。
そんな中、陳列の一角に目が留まる。そこには、色とりどりの美しい組紐細工があった。ヨリから預かった首飾りの紐を、伸ばそうと思っていたこともあり、品定めをして藤色と藍色の市松模様風になった紐を選び、万引き袋の中へ放り込む。ちょっと太いかもしれないけど、これしかないからしゃあない。そばには、女性用のアクセサリーもあり、髪留めの類がいくつか置いてある。これはヨリに似合いそう。
「ヨリちゃん、こっち来てごらん」
自分は振り返り声を掛ける。彼女は少し離れた壁際で、モチーフのわからない謎のぬいぐるみに目を輝かせていたが、声を聴いた途端たちまち駆けてきた。
「お呼びでしょうか?」
「うん。ごめんね突然。それで、こんな髪飾りとか髪留めがあるんだけど、ヨリちゃんにどうかなと思って」
自分は、ひときわ目を引いた大きな白いリボンのバレッタを取り、ヨリへ見せる。
「わぁ~、ぶんこむすびのようで素敵です!」
ぶんこむすびとは。おじさんは知らない言葉に困惑した。恐らく何らかの結び方なのだろうけど、とりあえず今は誤魔化しておこう。
「うん、まあ。ヨリちゃんに似合うと思うんだ」
「私にですか!? するとこちらは、どのように使うのでしょう?」
女の子のかわいい物好きは、時代を超越するらしい。これはちょっと勉強になる。
「じゃあ付けてあげるから、ちょっとこっちへ」
興味深げにリボンを眺めるヨリを、壁の姿見へ誘導し、後ろを向かせる。黒く艶のある紐で結われた髪の根元へ、バレッタを差し込んで金具を固定し、角度などのバランスを調整する。付近にあった移動式の姿見を合わせてリボンを見せると、彼女の顔はぱっと明るくなった。ふふふ、かわいい。
「まぁ! これは大層かわいらしい物で御座いますね~♪」
ヨリはその場でぴょんと跳ねるように一回転して、リボンが揺れる様子を確認している。美しい黒髪に、白いリボンというコントラストが、とてもよく映えていた。やはりこのくらいの女の子には、大きめのリボンがよく似合う。
気を良くした自分は、アクセ類の陳列棚へ戻り、こっちの赤もいいか、いやこっちの青も捨てがたいと、手にしたリボン越しにヨリを見た。どの色合いの商品でも、容姿端麗なヨリには完全符合し、愛らしさを引き立てる。どれもこれもがこうも似合ってしまうと、選択の幅が広くなりすぎて、目利きによる厳選が必要になる。でも自分には、おしゃれセンスとか全然ないから無理だなあ。悲しいなあ。
「あの、神様。あまり欲張ってはいけませんから、これ一つで十分で御座います。えへへ」
鏡越しに、おじさんの奇行を発見した彼女が、振り返って言う。まだ子供なのに、過ぎるほどの遠慮振りを発揮するヨリである。もっと我が儘になってもいいのよ。
「え~? でも折角色々あるんだし。袋一杯に詰め込んで行っても、誰にも怒られやしないよ?」
「はい。神様がそうおっしゃるのでしたら、そうなので御座いましょう。けれども私は、神様に初めに選んでいただいたこちらのひとつで十分なので御座います」
かーっ。純粋な子だよ~ヨリは~。それに引き替えすっかり汚れ切った卑しいこのおっさんよ。厭忌すべき浅ましさ。見下げた果てた性根。下衆の極み。翻弄され続けてきた悔しさのあまり、この状況を作り出しているだろう謎の存在に対し、少しでも意趣返しができないものかと模索した結果、行き着いた答えがコレである。この程度である。
大体にして、端から無料で提供されている物をいくら持ち帰ったところで、向こうとしてはどうということもない。こんなもんは、敵に送られた塩にお代わりを要求するようなものだ。あまりに格好が悪すぎる。畜生め。
己の無力さ加減にむしゃくしゃしてきたので、意地汚いおっさんは、売店前にあるアイスケースまで、シュババっと滑るようにすっ飛んで行く。そうしてケースの蓋を乱暴に開くと、まるで飲食店裏のゴミ箱を漁る野良犬のように、遮二無二なってケース内をまさぐり倒した。
ややあって、お目当てであるガブガブ君ソーダ味を発掘したおじさんは、速やかに袋をゴミ箱へ破り捨てると、勢い任せにかぶりつく。ソーダ系アイス安定のうまさのおかげで、イライラもすぐに解消された。あ~前歯が痛え。
慌ててついてきたヨリにも、好きなものを選ぶように言う。彼女は背伸びがちにケースの中を覗き込み、端の方で霜を被っていた、かき氷のイチゴ味をチョイスする。愛らしい女児様は、ピンク色の物によく反応するようで。妹や姪が小さかった頃も、そういったものに惹かれていたっけ。
アイスケースの上に置いてあるボール箱から、メーカーロゴ入りの紙袋に包まれた木匙を取り出し、カップの蓋に四苦八苦しているヨリへ渡す。ケースの横にはベンチがあったため、仲良く座ってアイスを食べた。彼女は、こんな場所でも背筋を伸ばして足をそろえ、姿勢を正して凛とした姿を見せている。また、結露が垂れぬよう、袂から取り出した手ぬぐいでカップを包み、行儀よく食べる姿からは、きちんとした躾を受けた育ちの良さが窺える。まだちっちゃいのに、この子はかっこいい。それに比べておじさんかっこわりい。
「冷たくて甘くて、すごくおいしいれふ」
木匙の先をくわえたヨリが嬉しそうに言う。
部屋を出る時に決めたはずの“今日から真面目に探索を進めて行こうマニフェスト”は、いまやすっかり忘れ去られ、自分達は憩いのひと時を堪能していた。
しんと静まり返るロビー内で、ふいにカタンと小さな音が響く。音の方へ視線を向けると、上がり框と直角に面した畳敷きのロビーに沿う形で、L時型になっている無人の受付カウンターが目に入る。カウンター内の壁には、パタパタ時計がついていて、現在時刻を午前八時四十八分と表示していた。今しがたの音は、この時計のフリップ機構が倒れるときに生じる音のようだ。
カウンターから視線を外し、ヨリを見る。幸せそうにアイスを頬張る彼女を見ていると、自分だけが無駄に息巻いて、空振りしているような気分になる。ほのぼのと腰を落ち着けているせいで、やる気も削がれてしまったし。どうしたもんかなあ。
「ねえヨリちゃん。これ食べたらさ、外で散歩しようか」
現実逃避が早い。
「はい、お供いたします!」
自分から聞いておいて何だが。素直に笑顔で答える彼女を見て、こんな調子で大丈夫なのだろうかと不安になってきた。これはヨリのせいではなくて、自分を律しきれていないことに対しての感情である。
◆ ◆ ◆ ◆
空になったアイスのカップや、諸々をゴミ箱に捨てて売店を後にし、失敬した戦利品を一旦置くためひよこの間へ向かう。室内では、もう膳が下げられており、新しいものへと交換されたであろう茶櫃が、座卓の中央に鎮座していた。隙のない対応に、自分は深いため息をつき、饅頭を卓上へ置く。そこで踵を返し、クローゼットスペースに置かれた雪駄を掴んで、鼻緒の赤い方をヨリへ渡す。
玄関で雪駄を履いて、クソ重たい引き戸を開けて外へ出ると、見事に晴れ渡る青空が目に飛び込んでくる。砂浜へ歩いてゆき、桟橋付近まで来て後ろを振り返る。すると昨夜と同様、ほぼ全天が視界へと収まるが、太陽はどこにも見当たらなかった。にも拘らず、左上方向から陽の光に照らされているような熱を感じるため、眉間に皺が寄ってしまう。
雲一つない抜けるような青空と、真っ白な砂浜に、青く澄み渡る美しい海……。ここをリゾート地としたら、この上なく絶好のロケーションだろう。けれど、前述の異様さのおかげでそれらはすべて台無しとなり、折角の素晴らしい風景も、かえって不気味なものに見えてくる。
砂浜にある全ての物体には、満遍なく光が当たり、一切影ができていない。その様子には、影の位置検出を行って、見えない光源で相殺しているような印象を受けた。そんな異様とも言える砂浜の磯場で、ヤドカリを見つけたヨリが、そろそろとした忍び足で近づき、容易くそれを捕獲する。足の速いカニなども、曲線を描くように移動して先回りし、簡単そうに捕まえていた。そうして捕獲した戦利品を手に、駆け寄ってきた彼女が嬉しそうに言う。
「神様ご覧ください! カニとヤドカリで御座います!」
「お~! すごいねヨリちゃん。簡単に捕まえちゃうんだもの」
「えへへ~。私は漁村育ちで御座いますから♪」
普段はおっかなびっくりしていて、どこか頼りなさげに見えることもあるが。海育ちの彼女であれば、この程度のことは造作もないのだろう。
「この二匹は、御みそ汁にするとよい出汁が出て、とても美味しいので御座います」
「あ、そうなんだ……ってヤドカリも?」
流石は漁村の娘と言った感じで、海産物の特徴はよく心得ている様子だが、ヨリはヤドカリも食すと言っていた。
「ヤドカリはですね、貝殻の中のお腹の部分が特に美味なのです。エビのミソのような、濃厚な味がいたしますよ」
漁師の娘らしく、ヤドカリがいかに美味かということを、身振りを交えて丁寧に説明してくれるヨリ。彼女の仕草がいちいちかわいらしくて、おじさんは身悶えしそうになる。それからも彼女は、モクズガニやフジツボの仲間であるカメノテ、カサガイやシッタカといった貝類の美味しい食べ方をレクチャーしてくれた。一生懸命に説明してくれるヨリの言葉からは、このあたりの海の豊かさがひしひしと伝わってくる。
ヨリの解説の元で、浅瀬の生物観察を終えた後。自分は気になっていた桟橋の上を歩いて、沖へ向かう。基本構造が浮橋となっている桟橋は、波によって変化する水面の影響を受けて、上下にゆっくりとうねっている。突端部に設けられた簡素な祭壇は、杭で海底に固定されており、桟橋の先端部を固定する係留柱の役も担っていた。
ヨリの話によれば、明け方の寅の初刻くらいになると、村から船で三人の男たちがやってくる予定になっているそうだ。寅というと、大体午前三時から四時の間くらいだろうか。しがらみ衆と呼ばれるその男たちは、神への貢ぎ物である供物を運んでくるらしい。供物の内訳は酒や食料が主な物で、ほかに一部日用品なども含まれるらしいが、具体的な内訳はヨリも知らないという。
そういえば昨日も聞いたな、しがらみ衆……。しがらみなどと聞くと、なにか面倒な縛りに遭っていそうな気の毒な響きに聞こえてしまい、あまり印象はよろしくない。果たしてしがらみとは何なのだろう。
「はいはいヨリちゃん、神様質問があります」
桟橋の縁に座って、海水に漬けた足をばたつかせていたヨリへたずねる。何をしてもかわいいなあ。
「はい、神様どうぞ」
昨日よりも慣れが出たためか、今日のヨリは、ちょっとだけノリが良くなっている気がする。
「その、しがらみ衆ってどういう人達なの?」
「はい。しがらみ衆というのはですね、村の大工さん達の中でも、柵や橋などを主に建てる職人さんたちのことで御座います。うらはあまり大きな村ではないですが、船大工さんとしがらみ衆は別の大工さんとなっておりまして、組も別なので御座います」
ヨリは詳しい説明をしつつ、桟橋を何度か指でなぞり、ひとつの漢字を示す。ああ、なるほど。柵のしがらみか。普段ネガティブな単語として使っているから失念していたけれど、そういえばそっちの読み方もあるんだっけ。というか、こっちが本来の意味だっけなあ。
「なるほど。ありがとうございますヨリちゃん先生。神様よくわかりました」
「いえいえそんな……先生だなんて」
ヨリは、胸の前で両の手をバイバイをするように振る。あ~あヨリカワ。
かわいいヨリの様子にぽわぽわしていると、良からぬ考えがふと浮かぶ。見てみたいなしがらみ衆。でも、村人が神様と接触することは相当重い罪だと聞いているし。確かバレると追放されるんだっけ。う~ん、たかがおっさんひとりの好奇心で、村人数人を犠牲にするわけにもいかないよなあ。でも、陰からちょっとだけ様子を窺うくらいはいいんじゃないだろうか。相手がこちらを認識しなければ問題はないはずだし。悪事は見つからなければ、やってないのと同じことではなかろうか。などなど、まるきり自分に言い訳をするように、どうしようもない神様は、心の中で酷い屁理屈をこねまくる。酷いねこりゃ。でも実際気になるじゃん……。
村の衆一同が、日々熱心に崇め奉り、誠心誠意尽くそうとしている崇拝対象は、すごく悪い顔をしている。鏡で見たわけじゃないから予想だけれど。とりあえず、現支配者だ信仰しろ。
しかし、実行するなら慎重に取り組む必要があるだろう。ということで、少し桟橋の周辺を調べることにした。すでに、しがらみ衆をのぞき見することは、決定事項となったらしい。本当に悪いやつだな。
磯場から桟橋の先端までは、せいぜい十メートルといった所だろうか。それほど遠い距離ではないが、気になるのは先端が括り付けられている周辺の水深だ。もし足が届くようであれば、岩陰に潜んで至近距離から観察できるのだが……。
特別水泳は得意な方じゃないが、五十メートルくらいならば、クロールで確実に泳ぎ切る自信はある。それに陸から近いこの位置なら、溺れることもないだろう。なら、思い立ったが吉日である。早速自分は裸足になり、浴衣とTシャツを脱ぎ捨て、パンツをなくさないように足の方から海へ飛び込む。
実際に海へ入ってみると、そこは呆気にとられるほど浅く、水深は二メートルもなかったた。この分だと、海底に立てば顎から上くらいを水面に出せるだろう。たまに来るうねりで、鼻が水没することを我慢すれば問題ないし、悪巧みには誂え向きの環境だ。自分はムフフとばかりに悪い笑みを浮かべ、近いうちに企みを実行に移そうと決めて、陸に向かって泳ぎだす。すると、桟橋の端にいるヨリが、海中の自分に声を掛けてくる。
「神様!! 御無事で御座いますか!?」
彼女は慌てているが、誰がどう見ても飛び込む気満々で脱衣し、自分は海へ入ったはずだ。にもかかわらず、ヨリはまた不安一杯という様子で、こちらを見ている。そんな一生懸命心配されたら、おじさん胸がキュンとして心筋梗塞になっちゃう。
「心配かけてごめんね~。ここは浅いから大丈夫だよ。海がきれいなもんだから泳いでみたくなっちゃってさ。年甲斐もなくつい飛び込んじゃったよ~。はっはっは~」
この神様、酷く嘘つき。
「はぁ……。そうで御座いましたか。ご無事なようでなによりで御座います。でしたら、泳ぎは私もちょっとしたもので御座いますので、ご一緒いたしますね!」
こちらの元気な様子に安堵して、喜びに満ちた笑顔を見せたヨリ。だがしかし、彼女はいそいそと帯をほどいて、浴衣を脱ごうとしている。あああ困りますヨリ様、困ります、あああ~困ります。
「こらーっ! ヨリちゃんこらーっ! 君はその下裸なんだから脱いだら駄目でしょーっ!」
水面から顔を出し、グーにした手を振り上げている神様は、とてもおこである。
恥ずかしいと言いながらも、何かと脱ぎ癖のようなものがある気がするヨリには、今後のためにもきちんと言い含めておくべきだろう。なんかこういう所は意外とポンコツっぽいし。
「えーっ! では私はご一緒できないのでしょうか!?」
傍若無人な脱衣行為を窘められた彼女は、とても悲しそうな顔をした。お願いだから、そんな顔をしないでおくれ。
「いやね、ヨリちゃん。なにか水……裸じゃなければいいんだけど」
水着と言いかけたが、ここの時代設定にそんな気の利いた専用装備はないはずだ。が、ふと自分は先ほどの売店のことを思いだす。何か端の方に衣類を扱うコーナーがあったような。なかったような。あったような。この時頭上に電球が浮かんだ気がしたが、特に何か技を閃いたわけではない。
しかし、もう一度売店を調べなければいけないという、謎の衝動には駆り立てられたので、大急ぎで浜へ向けて泳ぎだす。なぜだか分からないが、今回は結構な速度で泳げたので、もしかすると自己ベスト更新くらいの記録は出たかもしれない。浜へ上陸すると、桟橋の上に脱ぎ捨てた衣類などを抱えたヨリが待っていて、荷物を渡してくれた。
「神様、お召し物です」
「や~ありがとう。わざわざ持ってきてくれたんだ。神様うれしいな~」
「えへへっ」
ふにゃっとした笑顔を見せるヨリから衣類を受け取り、びしょ濡れのままシャツを着て、適当に浴衣を着つけると、一目散に社へ駆け込んだ。後ろからは、自分が放り出した雪駄を抱えたであろうヨリの足音がついてくる。力いっぱい引き戸を開けて玄関を斜めに突っ切り、カウンター近くの框から上がり込むと、売店の左奥の方を目指す。そこにはいかにも年配の女性が好みそうな、妙なラメ感を持つ謎の上掛けが並んでいた。観光地の土産物屋でも見かけるこういった衣類は、どんな人が買ってゆくのだろうか。
いくつかハンガーのスペースを覗いてまわると、予想した通り水着のコーナーもあった。早速物色を開始し、目当ての物を探索する。ほどなく、紳士用女性用とプレートが置かれた品揃えの中に、男児用女児用と書かれたプレートを発見した。密集はしているけれど、衣類コーナー自体は広くないので、さして時間は掛からない。ちょうどそのとき、ようやく追いついたヨリが、息を切らせて隣へやってくる。
「かみさま、おいて、ゆかれるなんて、あんまりで御座います」
「いや、ごめんね。神様ちょっと焦ってしまいまして。堪忍しておくれやす」
「おくれやす?」
切れ切れの言葉で抗議を行うヨリの頭を優しくなで付け、謝辞を述べる。彼女はすぐに許してくれたが、怪しげな京言葉には、かわいく首を傾げていた。
気を取り直して近くのハンガーを手に取り、自分はヨリに水着という衣類の説明をはじめる。説明といっても、水に入る時に使う着物であるということ以外に、伝える情報はないのだけれど。
「これらが海に入るためのお着物なのですか?」
「そう。水着って言ってね、水の中でも邪魔にならないように作られている着物だよ」
「そうなのですね。わあ、いろいろな形のものがあるので御座いますね~」
陳列の密度が過剰だけど、たかが旅館の土産物屋だというのに、無駄に商品が充実している。それは水着も例外ではない。
「ヨリちゃんはどんなデザ――あ~、どんな様子? の、水着がいいかな?」
「そうで御座いますね。どれもこれも素敵な物ばかりで、目移りしてしまいます」
陳列されたハンガーを一つ一つめくっているヨリは、本気で迷っているようだ。
店内には試着室もあったので、気になるものをいくつか選んで、試してもいいことを伝える。すると彼女は、照れくさそうに上下が二段のフリルになった、紺色ベースのセパレートタイプの水着を手に取る。
それは、フリル部分の模様が、淡い桜色で絞り染めになっているという、雅な雰囲気を持つ、落ち着いたデザインの水着だった。自分はてっきり、布面積の大きいワンピースタイプを選ぶものと思っていたのだけれど。ヨリはお洒落さんなのかな。それと同系統のデザインには、ピンクや黄色といった華やかなカラーリングもあるのだが、そちらの方にはあまり興味がないようだ。ヨリは、派手さよりも、シックな方が好きと見える。
早々と選んだ水着を持ち、ヨリと共に試着室へ足を向けたが、途中でサイズの確認をしていないことに気づく。自分は再び陳列場所へ戻り、ハンガーの仕切り板に書かれた対応身長を確認する。
「ちょいとヨリちゃん」
「はい?」
「それちょと見せてちょうだい」
「はい。どうぞ」
ヨリから水着を受け取ってタグを確認すると、サイズはSSと書かれていた。仕切りのプレートに照らし合わせると、“SS 百四十五~百五十三”と書かれている。それらを確認したうえで、またヨリと共に試着室へ行き、中にかけてあったメジャーを取る。
室内の鏡に背中と踵をつけて立つよう彼女へ指示し、身長を計測した。ヨリの身長は、百三十六センチしかなかった。この数値を現代日本の同年代の子と比較すると、きっとかなり小さい方になるだろう。確か高学年の頃の姪は、すでに百五十センチ近くあったはずだ。ヨリちっちゃよ。かわいいよ。
「だいじょうぶかなあこれぇ……」
陳列されているサイズの中にはそれ以下の物はないし……。正直この数値差だと、全体的に小さなヨリの体に合うかは怪しいところだ。
「あの~、神様? 如何でしょうか?」
いまだ鏡の前で直立不動の姿勢を保つヨリが不安そうに言う。
「えっと~。あー……。うん。ごめんね、もう楽にして大丈夫だよ。そしたらヨリちゃん、とりあえずこれ着てみようか」
ヨリへ水着を渡してカーテンを閉じると、すぐに隙間から顔が出てくる。
「あの、神様。着付けのし方が判らないのですが……」
ヨリは申し訳なさそうな表情で言う。こりゃうっかりだ。このように珍妙な衣類をいきなり纏うのは、当然難しいよね。
「あ~そうだよねえ。じゃあね、先に下からはこうか。あ、浴衣はそのままでね~」
水着の下の方をヨリの足元に広げて、両足を穴に通すように言う。通し終えたら、後は自分でいい位置まで持ち上げるよう伝えて、再びカーテンを閉じる。
「神様、できました~」
ややあって、試着室の中からヨリの元気な声が聞こえた。カーテンの隙間に首を突っ込むと、彼女は浴衣の裾を持ち上げて、はいた水着を見せていた。イヤン、なんて大胆な……。でもすき。
「きつかったり緩かったりしない?。大丈夫かな?」
「ええと、少し緩いようです」
「むー、やっぱりかー」
仕方がないのでヨリに横を向かせ、サイドの紐を見る。
「ちょっとごめんね」
女児に自分で浴衣をめくらせた挙句、露になった下半身をまさぐる変態がいる。けれど今回ばかりは仕方がない……。仕方ねぇんだ。
サイドの紐には、調整ができるようにテープ状のアジャスターがついていた。調整範囲が超えないことを願いつつ、プラ製のストッパーを押さえて、腰の左右に出ている出ている紐をかわるがわる引いてゆく。紐を引くにつれて腰の輪は小さくなり、水着はしっかりと小さな腰骨の上に引っかかった。念のため、腰骨の突起付近の紐に人差し指を引っかけて、締め付け具合を確認したが、悪くなさそうだ。これで一安心。
「こんな感じでどう?」
「はい、丁度良くなりました」
「ああよかった。ちゃんと着られたね~」
ヨリも大丈夫と言ったので、長くはみ出ている紐をストッパーに通して結ぶ。次は上をつけるため、ハンガーから水着を取り、作りをよく観察する。こちらは、首と背中で紐を交差させて固定する仕組みのようだが、あばらの辺りに別のアジャスターがあるから何とかなりそうだ。
「これ一人で付けられるかな?」
「ええと~、が、頑張ってみます!」
そう言って、ヨリはまた即脱ごうとするので、自分は速やかにカーテンから頭を引っこ抜く。あぶないあぶない。
「無理そうだったら言ってねー」
「はーい!」
室内から衣擦れの音が続く間、さっき見たアクセサリー売り場へ移動し、黒いヘアゴムを二袋ほど失敬してきた。時折中からは、カーテン越しにごそごそという音と『あれぇ?』とか『ええー!』などといった困惑の声が漏れていた。
「神様、いらっしゃいますか?」
「うんいるよ~。終わったかい?」
「はい~。一応できたような気はいたしますが……」
そう言ってヨリがカーテンを開ける。そこには、はにかむように笑いながら両手を前で組み、小さくなっているヨリがいた。
「良きかな!」
「ええっ?」
「いや、すごく似合ってると思うよ? むちゃくちゃかわいい! ちょーかわいい!」
何度も言うけどおじさんはロリコンじゃないんだからね。と息をするように心の中で嘘つく。あいや、嘘じゃないんじゃよ。本当に違うんだ。
「うんうん。よ~~く似合ってる。実に良い……」
「えええ……」
ヨリは頬に両の手を当てて、半ば顔を覆うように俯いてしまった。これはきっと間違いなく世界一かわいい。
「えと神様。実は」
それも束の間。下を向いていたヨリは申し訳なさそうに顔を上げ、言い淀む。
「なんだい?」
「あの、このみずぎ、ですね……」
「うん?」
何やら言いにくそうに言葉を区切るかわいいヨリ。かわいいよヨリ。
「えと、胸のところが緩いのですが……」
そういうと、鳩尾辺りのラインから背中へ回る紐の端をつまんで広げ、大幅に余っていることをアピールした。
「うん。多分それも調節できると思うよ。ちょっと腕上げてくれるかな?」
ヨリにばんざいをさせて、サイドのアジャスターを見ると、きれいなわきの下が目に入った。別に腋フェチではないが、なんとなくこれはいけない気持ちになってくる。間近で見るヨリの肌はきめ細やかで、やや褐色であることも手伝い、つやつやとした光の反射がよく見て取れる。若いっていいよね。年取るとほんと肌に色つやなくなっちゃうもの。は~あ。
肌年齢の差を如実に感じながら、惨めな気持ちで調整を終えると、雅な水着はヨリの体にぴったりフィットしていた。それにしても、ヨリはどうしてこんな日焼けをしているんだろう。太陽なんてどこにもなかったはずなのに。
「よっしゃ、これでばっちり。今すぐにでも泳ぎにいけるね~」
「ありがとう御座います……。では早速参りましょう!」
と、そこで逸るヨリを引き留めて、試着室から出た彼女の背後に回り込む。
「ちょいと髪解くね」
先ほど付けたリボンのバレッタを外し、髪紐を解いてヨリに渡してから、腕に通しておいたヘアゴムでしっかりと一結いする。さらに、そこから余った髪を上へ曲げて輪を作り、先端を先に巻いたゴムの上に合わせ、二本目のヘアゴムで固定した。後頭部で結った髷のような形だが、現代女性のヘアアレンジにこんな感じのがあった気もする。
一本でも間に合うかとも思ったのだが、水中で動きまわることを考慮すると不安なため、ヘアゴムを二本使うことにした。これだけしっかり結っておけば、容易に解けはしないだろう。
「そうそう、リボンは海水につけると金具が錆びちゃうから、部屋に置いてこうね」
そう声を掛けながら、合わせ鏡を使って後ろ髪を見せる。
「わ、ありがとう御座います神様。神様は何でもできるので御座いますね」
「まぁ、神様だしね。ふふふ」
綺麗に畳まれた浴衣を抱えるヨリはご機嫌だ。
自分も海パンを選ぼうと思い、ヨリへ先に荷物を置いてくるように促して、紳士用水着のコーナーで適当な物を探した。この辺はもう何でもいいので、イカとタコが闘うFPSで見るような、派手なペンキアート風デザインの海パンを毟り取り、試着室で着替える。それから浴衣を片付けた後、ヨリと共に再び海岸へ向かう。
「もういいや。今日はとことん遊んでやれ!」
自分は全力ダッシュで海岸を目指し、思い切り海へ飛び込んだ。追いかけてきたヨリも同様に飛び込み、水の中でじゃれあって、童心に返ったように心ゆくまで海水浴を堪能する。
ここは一体どこなのか。なぜ自分はこんな所にいるのか。ヨリというこの少女は何者なのか。肝心な事は何一つ分からないが、とりあえず今は、心地のいいこのひと時を存分に楽しみたいと思う。
もし、この場に自分たちり以外の誰かがいたならば、はしゃぎ回る自分達の姿は、どういう風に見えるだろうか。仲のいい親子にでも見えるだろうか。
穏やかな白波の打ち寄せる浅瀬で、ひとりの少女と戯れながら、漠然とそんなことを考える。