9)キアゲハの記憶
シュンは、王宮の一室で、ソファに腰掛けていた。
この世界に招喚されてから、2時間くらい経っていた。
先ほどまで、侍女があれこれ世話をしてくれていたのだが、シュンが、
「少しひとりになって、休みたい」と頼むと、出て行ってくれた。
招喚の間でのやりとりが、ぼんやりと頭に浮かぶ。
つい先ほどのことだ。それなのに、ずいぶん、昔のことのように思える。
――あの対応で、良かったんだろうか・・。
気怠い頭で思い返した。
あれから、シュンは、王弟殿下から、
「突然に、お呼びしたことを、申し訳なく思っている」
と、まず、謝罪された。
王弟は、さらに、
「この国の危機ゆえに、やむを得ず助けを求め、この招喚の儀式を行ったのです」
誠実な話し方だった。
シュンが、周りを見回すと、王弟の他に10人くらいの人間がそこに立っていた。さらによく見ると、彼らの後ろに控えるように、黒いローブを纏った人々や、古い映画の騎士のような格好をした厳つい男たちが控えていた。
薄暗い部屋は、視界が悪く、表情までは見えなかった。
その中で、シュンは、ただ、ぼんやりとしていた。
頭が回らず、胸は、不安でふさがれていた。
それから、身なりの上品な、ローブのような長い服を着た初老の男性が、色々と話をした。
この国は、今、困った状態にあること。
どうしても、勇者を呼ばなければならなかったこと。
出来る限りのお礼をするので、手助けを頼みたい、ということ。
シュンは、キアゲハの忠告通り、
「急なお話ですので、今は、頭が混乱しています。ゆっくりと、考えさせてください」
と言ってみた。
部屋に居るひとたちが、「そうであろうな」とか、「まぁ、休憩された方がいいだろう」などと言ってくれて、部屋まで連れてこられた。
シュンは、実際、混乱していた。
いくら考えても、情報が少なすぎてまとまらず、頭の中も、重くぼんやりしている。
――幻の中にいるみたいだ。
生きたいとも、死にたいとも、決められないで居たから、こんな目に遭ってるのかな・・。
なにをする気力もないまま、座り込んでいると、
『シュン・・』
声がする。
――キアゲハ・・の声・・。
そうだ、キアゲハのこと、忘れてた。
『僕は・・』
「『僕』? キアゲハは、オスだったの・・?」
シュンは、思わず声に出して言った。
『声に出さなくても、聞こえる』
――俺の胸の方から声が感じられる・・?
シュンは、部屋の隅に掛かっている鏡に気付いた。自分の胸を見てみようと思い、立ち上がる。
鏡の前に立ち、驚いた。
――これ・・俺?
たしかに自分の顔だけれど、様子が違っている。
今朝、昆虫採集教室の施設の部屋で、鏡は見ている。
見たくもないけれど、洗面所の前面が鏡なのだから。
あのとき、目が落ちくぼんで顔色の悪い、陰気な自分の顔が鏡に映っていた。
それなのに、今、目の前の鏡に映る姿は、健康そうに見えた。
元気がある・・とは言い難いが、少なくとも、あんなに痩せていない。
それに、なにより、
――頬と顎の傷跡が・・消えてる。
あんなに醜く刻まれていたグロティスクな痕が、跡形も無い。
シュンは、顎の傷跡をもっと見ようとして鏡に近づき、気が付いた。
――キアゲハ・・。
胸元に、金色のキアゲハが、痣のように貼り付いていた。
――こんなところに・・。
思わず、金色の羽に指先で触れた。
シュンの指は、ただ、自分の胸を滑る。
『貼り付いて見えるけど、取れないわけじゃないよ・・離れることも、出来る』
とキアゲハが言う。
――ホント?
『ああ。でも、今は、シュンが心配だから、くっついてるけど』
――ありがと。俺、そんなに心配な状況なのかな?
『うん。かなり』
キアゲハの言葉に、シュンは目まいを感じた。ふらつきながら、ソファに戻り座り込んだ。
――悪意のあるひとって・・誰? 殿下?
『王弟は、あの場では、悪意は感じられなかった。
でも、シュンに好意があるわけでもなかったな』
――じゃぁ、誰?
『確認できなかった。
招喚された瞬間に、冷酷な悪意を、たしかに感じたんだけれど。
ゆっくり調べる時間がなかったんだ。
殿下が話しだしたとき、念話で通訳をやる魔導師が居ただろう。
だから、探ったら、僕の存在がバレそうだったんだ。
でも、あの場で喋っていたひとたちは、胸の内が少しは、判ったような気がする。
宰相と、殿下。
あのふたりからは、不安や心配が、溢れるように漏れていた。
あからさまな悪意はなかったけど。
ただ、不安で覆い隠されて、本心が見えづらかったんだ。
つまり、誰も彼も、可能性があるんだけどね』
――ふうん。そうか。
それで俺は、「勇者」とかいうものには、なった方がいいのかな・・。
『そうだね。
やってみたらいいんじゃない?』
――・・軽く言うね。魔王なんつう物騒な奴と、闘うんだぜ?
『ああ、そのことか・・。
僕も、考えてみたんだけど。
もし魔王が出て来て、ダメそうだったら、逃げればいいんじゃないかな』
――そういうわけには行かないだろ。
『無理矢理つれてこられたんだから、文句言われる筋合いはないよ』
――でも、一度、引き受けたら、逃げるのは抵抗あるな。魔王は、町の人間を殺すんだろう? 子供やふつうの人たちを。
『その気持ちは、判るけれど。
もしもここで、彼らの要望を断ったら、シュンは、どこかに放り出されるかもしれない。
わけのわからない世界で、中学生が放り出されたら危ないだろ。
それに、あの「悪意の人物」がやってくるかもしれない。
少なくとも、殿下と宰相がシュンに助けを求めていたのは、本当だった。
だから、シュンが殿下たちの願いに応じている限りは、保護してくれるはずだ。
魔王が来るのは、おおよそ2年後くらい、と言っていただろ。
それまでは、勇者になる準備をする、という話だったね。
だから、勇者になることにしておけば、時間が出来る。
この世界の様子も見られる』
――とりあえずは、それしかないか。
『うん。
それから、あの、念話の通訳の魔導師』
――便利な通訳だったね。
『心を読まれるかもしれないな』
――あ・・。マズイじゃん。
『どうだろう? どこまで読まれるのかが、判らない』
――気持ちが悪いな・・。
『彼の様子を見ていたら、シュンの目をじっと見てた。
シュンがうつむいたりすると、魔導師の視線も動いてた。
だから、目を見る必要があるらしい。
そのことは、隠そうとはしていなかった。ここでは、ごく一般的な技術なのかもしれない』
――なるほど。
『僕は、実体を持たないから、探れる。どこか、文献が保管されているところを見つけられれば。
やってみる・・か』
キアゲハが、シュンの胸から、ふわりと飛び出した。
「ちょ・・ちょっと待てよ」
『シュン、声を出さなくていい。
この部屋、見張られてる』
――え・・。
『感じる・・』
――じゃぁ、危ないだろ。
『今のは、見張りが部屋の外を見回ってるだけだから・・』
――「今のは」? とにかく、戻れよ、キアゲハ。
『・・僕は、キアゲハじゃないんだけどね・・』
言いながら、キアゲハはシュンの胸に戻った。
――どう見てもキアゲハだけど? まぁ、あのときのキアゲハよりも、キラキラして透き通ってるけど。
『シュン・・本当に、僕のことが、判らないんだね』
――え? 俺の知っているひと? キアゲハに知り合いはない・・よ。
『僕は・・シュンを見守っていたんだ。
それで、巻き込まれた・・というか、付いてきた』
――どういうこと?
『僕が死んだことを、シュンは、知らなかったんだね?』
――死んだ・・? 先輩?
『いや、シュンの先輩は、ちゃんと、成仏したよ・・』
――じゃぁ・・誰?
『シュンの、父さんだよ』
――嘘・・。
俺の父は、キアゲハじゃない・・。
『キアゲハは、ただ、混成してしまっただけなんだ』
「どういうことだよ、なんだよ、それ。
死んだって・・。
わけがわからな・・」
シュンは、テーブルにひじを突き、手で顔を覆った。
『シュン、声を出さない! 落ち着いて、話すから』
シュンは、呆然としたまま、ソファの背にぐったりともたれた。
『話すよ・・』
どこか沈んだ雰囲気の声がした。
――父の声とは思えない・・。
シュンは、胸のうちで呟いた。
『でも、嘘はついてない・・』
――俺を見守っていたって? 父さんは、子供なんか、なんとも思ってなかったんだろ。
『んなわけないだろ。お前たち、なにを聞かされてたんだ?』
キアゲハの声に始めて怒りがこもった。
――でも・・。ずっと、放っておいたじゃないか。会いにも来なかったし。
『会わせろって、何度も言ったけど、ダメだった。
そのうち、連絡せずに会いに行ったら、もう、みんな、引っ越したあとだった。
引っ越し先は、聞いても祖父さんたち、教えてくれなかった・・』
――マジで・・? ミユも、フユキも、父さんに会いたがってたのに。
『本当か・・』
キアゲハの声が、泣いているように感じられた。
――父さん・・いつ、死んだんだよ。浮気したんだろ。どういうことだよ。母さんに、暴力ふるったって?
『あのさ、シュン・・』
――なんだよ。
『見せてやるよ』
――なにを?
『シュンは、母さんに、そう聞かせられたんだろ。暴力をふるったとか。浮気をしていたと。
いくら話しても、疑いは残るかもしれない。
だから、僕の記憶を見ればいい』
――記憶を? 見る?
『今、僕は、実体がない。
前の世界では、ただ、漂って、見守るのがやっとだった。
それも、思うように出来なくて、消えかかってた。
でも、この世界に来てから、もう少し、出来ることが増えた。
だから、出来ると思う。
早回しで、僕の記憶の断片を見ればいい。
僕にとって、とくにシュンに伝えたいと願っている記憶の部分ほど、はっきり見えるはずだ』
シュンは、ごくりとつばを飲み込んだ。
――父さんの・・記憶。
そんなものを、見ていいんだろうか。
『じゃぁ、行くよ』
とたんに、シュンの脳裏に、言葉や、映像や、あるいは、感情が流れ込んで来た。
――これが、父さんが、体験してきた記憶・・。
早送りの映画を、『体験』しているような感覚があった。
父の故郷である、超ド田舎の風景が脳裏に流れていく。
――そうだ、父さんの故郷、限界集落だったんだよなぁ。
何度か行ったことがある。まるで縄文時代みたいなところだった。
父は、そこで生まれ育った。
山と河と平原と田んぼ、畑。そんな中で、駆け回っている、父の記憶。
――父さんの子供のころって、周り、緑色ばっかりだ・・。
中学と高校は、遠い町まで通わなければならなかった。
専門学校は、小さなアパートで一人暮らししながら通った。
機械設計の仕事をしている父。
友人の紹介で、母と知り合い、結婚。
シュンたちが生まれる。
父の会社は、不景気で業績が悪化したさい、他会社に吸収合併された。
仕事の内容が変わって、給料も減った。
父は、辞めることを選んだ。
父が親類に紹介されて転職した会社は、建築会社だった。父は、苦情受け付け係をやることになった。
機械設計の好きな父にとっては、慣れない仕事だった。
苦情受け付けの仕事は、精神的にきつく、辞めてしまうひとが多い。
そのため、父の親類は、父にその仕事を紹介した。
人当たりの柔らかい父なら、うってつけだと思ったらしい。
でも、父にとっては、ストレスの溜まる仕事だった。
それでも、父は、家族のために働き続けた。
給料が良かったのだ。
父の職場に、部下が出来た。
38歳の父より、いくつか年下で、派手な感じのひとだ。美人かもしれない。
でも、父は、ただの部下としか思っていなかった。
父の好みではないことが、父の記憶から、はっきり判る。
家に電話をかけてきたのは、その部下だった。
しじゅう、かけてくる。
シュンも電話をとったことがあった。
当然、母は、そのことを気にした。
それなのに、父は、放って置いた。
父は、その女性のことは、まるきり、なんとも思っていなかったので、疑われる理由が判らなかったのだ。
――ちゃんと、母さんに説明するとか、手を打てば良かったのに。
中学生のシュンでさえ、そう思った。
母を安心させてあげるべきだった。
ある日、父の職場で、送迎会があった。
父も、その部下の女性も、酒に酔った。
とくに、部下の女性は、歩くのもおぼつかないほど酔った。
父の部下なので、父は、住まいまで送ってやることになった。
アパートの外階段を、女性を半ば抱えながら歩く父。
彼女は、父にもたれかかり、父は、階段で足をひねってしまった。
彼女の部屋で、父は、しばらく足を休ませることにした。
父は酔っていて、少し吐き気を感じていた――その吐き気の記憶が、シュンにも感じられ、父が休憩することにしたのは、仕方が無いように思った。
でも、それは、間違いだった。
無理をしてでも、帰るべきだった。
父は、玄関で座っているうちに、酔いもあって、眠ってしまった。
目を覚ましたのは、明け方だった。
父は、慌てて、鞄を抱えて帰った。
始発の電車に乗って帰る父。
家につき、鍵を開けて入る。
居間で一息つく・・部屋は散らかっている。シュンたち、子供が3人も居るから散らかるんだ。
母が起きてくる。
ひどく怒っている。
すごい言い合いになった。
父は、浮気なんかしてない。考えたこともない、と言い返している。
――キスマーク?
母がそう言っている。
洗面所に入り、鏡を見る。
父は呆然としていた。
首筋に赤い痣のようなものが見える・・。
――父さん・・あの女に、嵌められた・・。
それから、家の中は、めちゃくちゃになった。
毎日、父と母は、ケンカしていた。
母は、父の言うことを、まったく信じなかったし、聞こうとしなかった。
ある日、妹のミユの前で、母は、父のことを罵った。
ひどく汚い罵りだった。
――こんなこと、ミユに聞かせるなんて、どうかしてる。
シュンは、そう思った。
父も、そう思った。
だから、母を黙らせようと、思わず手が出た。
口もとを引っぱたいてしまった・・。
――ああ、これが・・。ミユの言っていた、暴力・・。
もう・・見てられない・・。
辛かった。
父の想いも。シュンの中に残っている記憶も。
――こんなの、間違ってる・・。
両親が離婚しなかったら。
あのまま、引っ越しをしなかったら・・。
シュンは、緒方洋に会わなくて済んだ。
先輩は、死なずに済んだ。
それから。
父は、仕事を辞め、故郷に帰った。あの、超ド田舎の故郷に。
父は次男で、長男の叔父が実家を継ぐはずだった。でも叔父は、転勤で、広島の方に移ってしまっていた。
年老いた両親を手伝い、父は農作業を始めた。
父の想いが、シュンを揺さぶる。
休耕田を掘り起こし、もっと収入を増やして、農家でやっていけるようになったら。
シュンやミユやフユキを呼ぼう・・。
焦りと疲れが、父にムリをさせた。
足場の悪い古い畑でトラクターがひっくり返り、父を押しつぶした。
一年前のことだった。
――父の死の報せを、母は知らぬふりしていたんだ・・。
気が付くと、泣いていた。
涙が溢れ、頬を濡らしていく。
――長い、長い悪夢・・みたいだ・・。
シュンは、そのままソファの上で、いつの間にか眠っていた。
◇◇◇◇◇
明くる日。
――鳥の鳴き声が聞こえる・・。
ここは、どこだろう。
服を着たまま、眠っていた。
部屋の中を見回す・・。クリーム色の壁紙。木枠の窓。モスグリーンのカーテン。
――異世界・・。
あれは、夢じゃなかった。
なにが夢なのか、もう、ごちゃごちゃで判らないや・・。
シュンは、立ち上がり、鏡の前に立った。
首の傷跡は、消えたままだ。
キアゲハは、胸元に、ほんのりと金色に輝いている。
――父さん・・。
『おはよ』
――良かった・・居るんだ。
『居るよ』
――おはよ。
顔がほころんだ。
それから、風呂場でお湯につかった。
けっこう、のんびりして、洗面所から出ると、侍女が着替えと食事の用意をしてくれていた。




