箱ウイルス
私の記憶が正しければ、付き合っているはずだ。
それは「映画に付き合う」とか「この後、買い物付き合って」とかの、友だち同士でもできる約束ではなく。
恋人同士として、付き合っているはず、なのだ。多分。
そんな高校一年生らしいのからしくないのか、よくわからない悩みを抱えたまま、一限目の始まりのチャイムが鳴る。
教室に入ってきたのは、数学教師ではなく、英語教師であり担任の教師。
「数学の鈴木先生が風邪でお休みなので、今日の数学は自習になります」
担任の言葉に、クラスメイトの一人がこう聞く。
「もしかして、『箱ウイルス』に感染しちゃったんですか?」
「その辺は詳しく聞いてないんですが、とにかく今日は自習です」
担任はそれだけ言うと、「さ、お喋りはおしまい!」と自分の手をぱん、叩いた。
「鈴木が箱から出てこないところとか、ちょっと見てみたいよな」「え、そんな光景キモイだけじゃん」
そんな会話が後ろの方から聞こえてくる。
嫌味で意地の悪い鈴木が自分だけではなくクラスメイトたちから、嫌われていることを知ってちょっと安心。
いや、そんな場合じゃない。
私は今、『もしかしたら佐野君の彼女じゃないかもしれない』問題に直面しているのだ。
なぜ、そんなことを思ったかというと、今朝、こう言われたから。
『新田さん。話があるんですが』
朝、教室に入るなり、佐野君はそう声をかけてきた。
付き合って一週間しか経過していないとは言え、そして敬語は彼の口ぐせだとは言え、彼女にはため口でいいのに。
ついでに苗字じゃなくて、雫って下の名前で呼んでくれてもいいのに。
そんなふうに考えたものの、純粋に話しかけてくれたことがうれしくて、「なになに?」と前のめりで話を聞いた。
『新田さん、この前、数学のテストで赤点でしたよね』
『え? うん。そうだけど』
『今日の放課後、図書室で勉強をしましょう。僕が教えますから』
『えーっと、それは、デートのお誘いではないの?』
『違います。僕が新田さんの勉強を見ることがメインです』
佐野君はそれだけ言うと、踵を返して自分の席へと戻った。
その背中を見ていたら、自分が一週間前に彼に告白をして、OKされたのは夢なんじゃないかと思えてきたのだ。
夢じゃないにしても、もしかしたら聞き間違いなのかもしれない。
だって、この一週間、デートどころか一緒に帰ってすらいないんだよ?!
あれ?! そういえば、佐野君の連絡先すら知らない!
そんな現実に気づいて、私の心は不安で満たされた。
だから、今が自習だろうが、鈴木先生がクラスメイトに嫌われていようが、最近よく聞く『箱ウイルス』に感染していようが、正直、どうでもいい。
私は佐野君の彼女のなのか、そうでないのか。
この際、ハッキリさせてみるべきなのかもしれない。
そうだ。今日、放課後に勉強を教えてもらう時に聞いてみよう。
放課後の図書室には、私と佐野君と二人きりだった。
いや、実質は図書委員もいるのだけど、居眠りしているからこの際ノーカウント。
オレンジ色に染まった部屋に、佐野君と向かい合って座っている。
こうして改めてみると、佐野君はやっぱりカッコいい。
スラリとした長身で、あっさりとした顔立ちは整っているし、ミルク色の肌はきめ細やかで正直羨ましい。短く切られた髪の毛は真っ黒で今にもさらさらと音がしそう。
おまけに頭がいい。
入学式で、新入生代表の挨拶をしたのは彼だ。
こんなイケメンが、私の彼氏だなんて……いや、ちょっと待って。
そうだ、それを本人の口から聞こうと思っていたんだ。
やだ、ちょっとロマンチック、なんてうっとりしている場合ではない。
そもそも、私は、佐野君のなんなんだろう。
そんな疑問を、本人に聞くつもりだった。
「で、どこがわからないんですか?」
佐野君はそう言って数学の教科書をパラパラとめくる。
きれいな手が器用にページをめくっていく。
「聞けないよ!」
私の言葉に、佐野君は驚いたように顔を上げる。
やばっ! 心の声が思いきりもれてしまった。
「聞いてください。恥ずかしいのは分からないことではなく、赤点ですから」
「さらっと酷いことを言ってくれたね」
「勉強しないのが悪いんですよ。どこが分からないのか分からないという状態であれば」
佐野君はそこまで言ってから、口に手を当てて咳をした。
「すみません」
「大丈夫? 風邪?」
私の言葉に、佐野君は「大丈夫です」と頷き、何かを取り出す。
「これ、僕の自作の数学の小テストです。まずはこれをやりましょうか」
にこりと笑う佐野君を見て、「マジかよ」と私は逃げ腰になった。
そんなこんなでお手製の小テストをやらされて、答え合わせをしたら、特大のため息と『予想外の酷さでした』という呟きと共に、怒涛の解説が始まった。
自分のノートまで貸してくれた佐野君とは、二時間みっちり勉強をして、校門で別れた。
こんなはずじゃない。
声にならない言葉は、重い塊となって胸の中に残っていた。
六月の湿気を帯びた風が、頬を撫でていく。
梅雨の晴れ間だというのに、私の心はずっと雨。
だって、佐野君との関係の悲しい結論が、私の中で出つつあったから。
佐野君は彼氏じゃなくて、私の家庭教師なんだと思う。
次の日、遅刻ギリギリで学校へ行き、教室へ滑り込むと佐野君は席についていなかった。
いつもビックリするくらい早く学校に来ているのに。
まさか昨日、佐野君特製の小テストの点数が笑えないレベルで悪かったから、ショックで寝込んだじゃないんだろうか。
佐野君なら、ありえる。
ってゆーかあの小テスト、難しいよ。もっと彼女のレベルを考えてよ。
「いや、ってゆーか、彼女じゃないのかも」
そう呟いて、一時限目の休み時間に教室を出た。
向かう先は、保健室だ。
なぜなら、佐野君の席にカバンはあったから。
つまり学校に着ているのにカバンだけはある。彼がサボりなはずはない。
そういうわけで、保健室に行くと、養護教諭の先生が椅子ごと振り返る。
「あら、どこが悪いの? それともサボり?」
「いいえ、あの、一年一組の佐野聡君って来てますか」
「一年一組の佐野……。ああ、いるわよ」
先生は椅子から立ち上がり、一番奥のベッドの仕切りのカーテンを開ける。
ベッドは空っぽで、その代わりにベッドの脇には大きなダンボール箱が置かれていた。
それこそ大の大人でもすっぽりと入れそうな、無地のダンボール箱で、隅には『A市』という名前が申し訳程度に印刷されている。
さすがに、そこまで来ると私も悟った。
ダンボール箱をそっと開けると、つむじが見えた。
中には、膝を抱えたまま眠っている佐野君がいたのだ。
先生は長い髪の毛をまとめ直しながら、言う。
「これはもう、間違いなく『箱ウイルス』ね」
その言葉に、私は佐野君を見る。
彼の寝顔はやけに幸せそうだった。
□
最近、巷を騒がせている風邪がある。
新型の、正式名称は長くて忘れてしまったけれど、通称『箱ウイルス』と呼ばれているものだ。
なぜ『箱ウイルス』なのかと言うと、感染すると無性に箱の中に入りたくなるからだそう。
変わっているのはそれだけで、あとは軽い風邪の症状があるだけらしい。
奇妙だけど、軽い風邪だし数日もすれば完治をするという話なので、感染したところで恐れられることも隔離されることもない。
テレビやネットで、おもしろおかしく話題にはされているけれど。
そんなわけで、流行に疎いどころか興味も示さない佐野君が、ある意味、いち早く流行に乗った。
からかいたくても、心配したくても、連絡先を知らないので、何もできない。
こんなのやっぱり彼女じゃない……。
「あ、佐野君! おはよう」
教室に入ると、佐野君は自分の席で黙々と予習をしていた。
早退してから三日間休んでいたけれど、よくなったみたいだ。
「おはようございます」
「大丈夫なの? 治ったの?」
「もうすっかり元気ですよ」
佐野君はそう言って笑うと、私を見つめて続ける。
「新田さんの顔が、三日ぶりに見られてうれしいです」
「え?」
「今日もかわいいですね」
「は?」
私は驚きのあまり、二メートルくらいは後ずさりした。
脳内では緊急、雫会議が開かれる。
今、かわいいって言ったよね?
いや、待て、喜ぶな。佐野は普段そんなことを言う奴ではない。
じゃあ、今のはなんだ?
聞き間違いだ。
『かわいそう』と言われただけだ。
ああ、そうだな。それなら納得。
朝から『かわいそう』だなんて言われたのを、脳みそが全力で拒否して、『かわいい』に勝手に変換しただけ。
私はそう結論を下して、それから再び佐野君を見る。
なんだかニコニコしているのが、正直、気味が悪い。
かっこいいんだけど。
天変地異の前ぶれのような気味の悪さがある。
その日は、やたらと佐野君からの視線を感じた。
私を見ているのだ。
そして、目が合うとニコッと笑う。
それだけなら、「今日の放課後にまた勉強教える」とか言ってくるのかな、という想像もできなくはない。
一番、驚いたのは、これだった。
「一緒に食べませんか?」
お昼休みに、私の席に来たかと思えば、そんなことを言ってくるのだ。
私はもちろん、耳を疑った。
彼女になって十日目にして、ようやく恋人同士っぽいイベントが発生した。
そりゃあ、私だって何度もお昼誘ったよ。
だけど、私がお昼に誘う頃にはお弁当、食べ終わってるんだもん。
『無駄な時間は使いたくなんですよ』とか言って。
そんな、佐野君が、私と彼いわく無駄な時間をつかおうとしているわけで。
これは一体、全体、どういう風の吹き回しだろう。
理由を考えようと思っても、佐野君の笑顔に思考停止。
まあいいか。一緒にいられるなら!
二人で中庭でお昼を食べたけれど、まったく話は弾まなかった。
「いい天気だね」と言おうとしたら、空は鉛色の雲に覆われていて、出鼻をくじかれたようで、後に続く言葉が見つからなかった。
佐野君も、何度も何かを言いかけてはやめていたようだ。
ちゃんと会話をしたのは、
「あれ? この辺ってゴミ箱ないんだっけ?」
「見当たりませんね」
これだけ。
でも、いいの。
二人でお昼を食べられたんだから。
だから、調子に乗って私は放課後に帰り支度をする佐野君に声をかける。
「ねえ、私、今日、図書館に行く用事あるから、途中まで一緒に帰ろうよ」
図書館は私の家とは正反対の方向だけど、佐野君の帰り道の途中にあるのだ。
本当は図書館に用事はなかったけれど、一緒に帰りたいから、遠回りしてでも二人で並んで歩きたい。
そんなことを考えて彼の返事を待っていたら、佐野君は立ち上がりカバンを肩にかけながら言う。
「そんな見え透いた嘘、僕がわからないとでも思っているんですか」
「あっ、はい。すみません……。あ、いや、ってゆーか、その、嘘ではないよ?」
「新田さんが、活字の本を読んでいるところを僕は見たことがありません」
「図書館には、絵本とか、あるし」
上履きに視線を落としながら、精一杯の抵抗をしてみる。
「そんな嘘をつかなくても、送りますよ」
「そうだよね。一緒に帰るなんて……え、今、なんて?」
「新田さんを家の近くまで送ります」
佐野君はそう言った途端、苺みたいに顔が真っ赤になった。
この少女漫画みたいな展開は夢なの?!
そんなことを考えつつ、そして案の定、会話はほぼないまま、私と佐野君は一緒に下校をする。
こうして二人で歩いていると思うと、『彼女じゃないかも』と悩んでいた頃が嘘のようだ。
だけど、まったく不安がなくなったわけじゃない。
そもそも、今日の佐野君の言動はどこかおかしい。
お昼を食べようとか送るよとか、あり得ない。
それが普通の扱いだということが問題だけれど、それは自分の首をしめるだけなので一旦、置いておいて。
佐野君が突然、彼氏っぽい振る舞いをしてきたのは……。
「ねー、佐野君さ、まだ熱とかある?」
「え? ないですよ」
「本当に?」
「風邪が完治したから学校に来たんですよ」
そう言ってうれしそうに笑う佐野君に、私の予想は見事に崩れた。
風邪がまだ治ってないから、おかしいのではないかと思ったのだ。
だけど、佐野君の言葉を信用するなら、風邪でおかしくなっているわけではないらしい。
じゃあ、やっぱり、三日休んでいる間に、『ああ、早く新田さんに会いたい!』とか思ったのかなー。
えへへ、それだったらうれしいなあ。
ニヤ二ヤしていたら家に着いてしまった。
「じゃあ、僕はこれで」
頭を下げて立ち去ろうとする、佐野君に私は言う。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
佐野君は穏やかな口調で言うと、にっこりと微笑んだ。
後光が射して見えた。
私は、部屋にこもってスマホをじっと眺めていた。
そして、スマホにぴんこんと聞き慣れた音が鳴ると、勢いよくスマホを操作する。
さっきから、メッセージのやりとりをしている。
もう何往復になるかわからないやりとりの相手は、佐野君だった。
私は、スマホの画面のメッセージを見て、すぐに返事をする。
文字を打ちながら、思う。
ああ、彼女してるなあって。
ここ二、三日の間、佐野君は私のことを彼女扱いをしてくれている。
お昼を一緒に食べたり、下校の時に家でまで送ってくれたり、こうして連絡まで取り合っている。
ツンどころか、『あなたは私の専属の家庭教師?』と聞き返したくなる態度から、こうしてお互いにメッセージで何気ないやりとりができるなんて。
まるで夢みたいだ。
そんな幸福を噛みしめつつ、佐野君からのメッセージを待つ。
ぴんこん、という音で画面を見ると、こんな内容が返ってきた。
なんで僕のことなんかを好きになったんですか?
ものすごく直球な質問がきた。
以前なら、もっとこう遠まわしに聞こうとして、考えに考えた挙句、口に出さなそうな質問をいとも簡単に。
だけど、そういえば告白をした時になんで好きになったのか理由も言ってないし、今まで聞かれたこともない。
じゃあ、真剣に答えてあげなくては。
そう思って、私は記憶を手繰り寄せる。
佐野君のことを気になったのは、入学式の新入生挨拶だった。
外見が、私の好みのど真ん中というのがきっかけだったのは、認めよう。
だけど、佐野君に勇気を出して話しかけてみたら、無表情でこう言われた。
『時間がないので、その質問にはお答えできません』
私が何を聞いたのかと言うと……。
『ねーねー、佐野君ってさ、彼女いるの? あ、いない? じゃあ、どういう女の子が好み?』というもの。
ぶっちゃけなんてストレートな質問なんだろう、と今でも思う。
遠まわしに告白して、答えられないと突っぱねられた。
それから、私は佐野君に話しかけることがなくなった。
この恋も自然と消えていくものだと思っていたのだ。
だけど、二ヶ月前に、学校の自動販売機の前で大好きなバナナオレを買おうとした時。
財布の中身が五円しかないことに気づいて、渋々、教室に戻ろうとしたら。
後ろに佐野君がいた。
佐野君は、手ぶらの私を見てから、自分の財布から小銭を取り出すと、迷わずバナナオレのボタンを押した。
そして、そのバナナオレを私にくれたのだ。
『新田さんの財布の中身が見えた時、同情しました。代金はいりません』
佐野君はそれだけ言うと、にこりともせず立ち去った。
ものすごい言いぐさだけれど、それでも、うれしかったなあ。
何よりも、バナナオレを迷わず押してくれたことに驚いた。
もしかしていつも見ててくれたのかも、という期待が広がった。
これ、脈あるんじゃない? と思って告白して、『まあ、いいでしょう』って言われてうれしくて。
色々あったけど、今はこうしてメッセージのやりとりまでできるんだもん。
私って、ものすごく幸せ者じゃないの!
そう思って、一人でニヤニヤと笑った。
一人でニヤニヤしていたら、佐野君からの返事。
僕が新田さんのことが気になったのは、バナナオレを美味しそうに飲んでいたのを見た時ですね。
あの時ほど、僕はバナナオレになりたいと思ったことはありません。
その返事にうれしいと同時に、違和感を覚えた。
なんかやっぱり佐野君っぽくないなあ。特に『バナナオレになりたいと思った』なんて……。
思ったとしても死んでも言わなそう。
そんなふうに考えてから、スマホに視線を落とす。
そもそも、こうやって佐野君とメッセージのやりとりができていることがおかしい。
ううん、おかしいんじゃなくて、普通。
これが恋人同士の普通。
何だか今まで、佐野君と距離がありすぎて、普通の恋人同志っぽいやりとりをすると疑問を抱くようになってるな。
純粋に幸せを満喫しよう!
次の日、佐野君は朝、家まで迎えに来てくれた。
もう一度、言う。
家まで迎えに来てくれた!
頭の中は天国みたいにふわふわとしているのに、私の口から出たのは疑問の言葉。
「え? 佐野君? なんで?」
佐野君はニッコリ笑って言う。
「だって、僕たち、恋人同士なんだから。朝、彼女の家に迎えに行くのは当然だよ」
「恋人同士……彼女……」
佐野君の言葉に、私が涙が出そうになった。
彼の口から聞きたかったことが、ようやく聞けた。
こんなうれしいことはないよ……。
幸せはそれだけでは終わらなかった。
なんと、私と佐野君は学校までの道のりを手をつないで歩いたのだ。
大きくて温かい手に包まれて、もう夢心地。
ふわふわと地に足がつかないまま、歩いていたら学校まであっという間だった。
ああ、永遠にこの時が続けばいいのに。
「新田さんは、本当にかわいいね」
席についても、佐野君はニコニコしながらそう話しかけてくる。
いつの間にか敬語もとれて、かなり距離が縮まったけれど。
その無邪気な笑顔に、なぜか心がざわついた。
いつもよりも騒がしい教室で、幸せなはずの私は漠然とした不安につきまとわれていた。
これもきっと、ラブラブカップルの付き合いに不慣れなせい。
慣れれば、佐野君の言葉も喜んで受け入れて『佐野君はイケメンだよー』なんて返せる。
そんなことを考えているうちに、一時限目になった。
「佐野! 起きろ!」
その声に、睡魔と苦戦をしていた私は、あっさりと勝利する。
数学教師の鈴木は、一番前の席の佐野君を怒っていた。
なぜなら、彼が机に突っ伏して眠っていたからだ。
あんな姿、初めて見る。
何かの見間違いじゃないだろうか。
佐野君が授業で眠るなんてありえない。
もしかして、具合いが悪いのかも……。
そう考えた時、佐野君は目を覚ましたらしく鈴木教師に言う。
「あ、先生。ごめん。昨夜、テレビ観てて寝不足なんだよね」
佐野君は、ふざけているのだろうか。
彼の発言とは思えない。
教室中が、彼の発言にざわつく。
すると、鈴木教師は「ほー。そーかそーか」と言って、その場を離れる。
「授業なんて退屈だし、みんな好きなことしていいぞ」
鈴木教師の言葉に、一部のクラスメイトは「わーい!」と喜んでいたけれど、それ以外の生徒は戸惑っていた。
いつも、そんなことを言う先生ではないから。
鈴木のほうを見ると、何やらスマホをいじっていた。
そして、佐野君は机に突っ伏して眠っていた。
お昼休みに佐野君が「食べさせて」と口を開けてきたことも、その日の授業がどれも佐野君は寝るか隣の男子と話すかのどちらかだったことも。
それから、家まで送ってくれたものの、途中で『ごめん! 観たいテレビあるから帰る! ごめん!』と言って帰ってしまったことも。
まるで、悪い夢のようだった。
佐野君が甘えてきてくれたり、私を彼女扱いしてくれたりするのに戸惑っているわけじゃない。
佐野君が佐野君じゃなくなっている気がする。
「え?! 佐野君?! なんで?!」
次の日の朝、玄関のドアを開けると佐野君が立っていた。
ちなみに今日は土曜日で、遅く起きた私は気の抜けたキャラクターTシャツに水玉模様のハーフパンツ姿というセンスも色気も0な状態。
インターフォンが鳴って『ああ、荷物かな』と思ったから、このまま出たけど、佐野君だとわかってれば着替えたのに!
そんな後悔をしていると、佐野君が言った。
「デートしよう!」
「え?!」
「土曜日だし」
「うれしいんだけど、昨夜は何も言ってなかったよね?」
「うん。だけど、朝起きて、トースト食べてたらさ、新田さんとデートしてないな、したいなって思って。だってほら、僕の彼女だし!」
佐野君は一気に喋って、無邪気な笑みを見せる。
やっぱり、いつもの佐野君じゃない。
私がどうしていいか悩んでいると、佐野君は無邪気な笑みを見せたまま言う。
「あれ? 僕と新田さんって、付き合ってたよね?」
「うん。そうだけど」
「あ! そうだ。新田さんの下の名前って、なんだっけ?」
佐野君の言葉に、私は驚く。
下の名前を読んでくれたことは一度もないけど、それは知らなかったから?
なんだか、急に悲しくなってきた。
私が俯くと、佐野君は慌てたように言う。
「あれ? ごめん! なんか傷つけるようなこと、僕、言った?」
昨日から、一体なんなんだ?!
佐野君、もしかして、キャラを変えた、とか?
それとも、もしかして、私のこと、嫌いなのか。
嫌がらせなのか、これ。
そう思って顔を上げると、心配そうな佐野君の顔が間近にあった。
「新田さん、デートしたくない?」
佐野君の言葉に、私は負けた。
もう何が何だかわからないけれど、佐野君に付き合って今日はデートをしようと決めた。
急いで支度をしている間、なぜかインターフォンを何度も彼が鳴らしてきたの意味も、深く考えないことにする。
しかも、デート先が駄菓子屋からゲーセンって。
小学生男子のチョイスかよ。
ゲーセンはともかく、ゲーセンでの振る舞いが、もう子どもみたいだった。
佐野君は、一人で走り回り、自分の好きなゲームを片っ端からプレイして私のことなど考えていなかったのだ。
いや、小学生男子でももう少し、彼女に気をつかうだろうよ。
ゲーセンを出る前に、プリクラをせがまれて二人で撮ったのだけが良い思い出。
ゲーセンを出ると、佐野君は近くの公園へと私を連れて行った。
その公園を見て、私はぎょっとした。
子ども向け遊具のたくさんある公園を占拠していたのは、大人たちだったのだ。
シーソーに乗る主婦二人、ブランコに乗るおじさんたち、ジャングルジムで遊ぶのもみんな大人。
子どもたちは、ぽかんとしていたり、指をしゃぶって泣きじゃくっていたりと、まさに地獄絵図のようだった。
いや、まて。
これはどういうことだ。
大人と子ども、立場が逆なのでは?
そう思って、ハッとして隣にいる佐野君を見る。
佐野君は私に歯を見せて笑い、それから勢いよく私の手をふりほどく。
それから「わあああい!」と奇声にも似た声を上げ、ジャングルジムのほうへと走って行った。
子どものように遊ぶ佐野君を見て、私は確信する。
おかしい。やっぱりあれは、佐野君であって佐野君じゃない。
明らかに変になったのは昨日からだけど、もっと前から違和感はあった。
箱ウイルスに感染して、それから三日ぶりに学校に来た時から。
そういえば、数学教師の鈴木も、おかしかったな。
そう思って、背筋がぞくりとする。
遊具で無邪気に遊ぶ大人は、まるで幼稚園児か小学生のよう。
この人たちがもし、箱ウイルスに感染していたのだとしたら……。
結局、佐野君をすぐに家に連れて帰り、私は家に帰った。
スマホで箱ウイルスのことを調べようにも、充電がもうない。
だから、家に帰って早く箱ウイルスのことを調べたい。
「ただいま」とだけ言って、玄関を上がると、リビングからテレビの声が聞こえてくる。
『箱ウイルスに関しての、最新情報があるようです!』
緊迫した声に、私は思わずリビングに入り、テレビに視線を向けた。
画面には白衣を着た医者のような男性が、神妙な面持ちで解説している。
『箱ウイルスに感染し、風邪のような症状がおさまった後、知能が低下していく、ということが判明したのです』
「知能が、低下」
私は言葉に出してから、佐野君のことや公園の大人たちのことを思い出す。
『ですが、これに関しては、』
白衣の男性がそう言いかけた時、アナウンサーが画面を横切り、スタジオを走り始めた。
そしてアナウンサーは画面に向かって「いえーい!」とピースをする。
すぐに画面が『しばらくお待ちください』という文字と共に、きれいな山の景色に変わった。
「あらー。怖いわねえ」
テレビを観ていた母が、他人事のように言う。
私はその場で座りこんだ。
知能が低下するの?!
じゃあ、佐野君は、どうなっちゃうの?!
あのまま、ううん、もっともっと、知能が低下していくの?!
最終的には、どうなっちゃうのよ!
最悪の想像をして、床に涙が落ちる。
こんなことなら、前の佐野君ほうがいいよ!
むしろ、私が好きなのは以前の、冷たいし彼氏っぽくないし、勉強好きだし、私にひどいことも言うけど、本当は私を誰よりも見てくれている佐野君なの。
子どもみたいで、私の下の名前も知らない、ゲーセンで駆けまわる佐野君の彼女になったわけじゃない。
返してよ、私の佐野君!
何度も何度も心の中で叫んで、母の心配をよそに私は泣き続けた。
ぽろぽろと涙をこぼし、ついでに鼻水まで出て、咳も出る。
何だか寒気までしてきた。
それぐらいにショックなんだ。
泣いているせいでうまく頭が回らない中、「ちょっと、大丈夫?」と声をかけてきた母を見上げる。
そして私は、無意識のうちにこう呟いていた。
「箱に、入りたい」
結局、私も箱ウイルスに感染していたようだ。
まだ病院には行っていないが、風邪の症状と箱を欲する気持ちから、素人でも判断できた。
ああ、箱の中ってこんなに居心地がいいのか。
なんだか猫の気持ちがわかったような気がする。
母が市役所からもらってきてくれた大きなダンボールの中で、ふとそんなことを考える。
気持ちが穏やかなせいか、知能が低下するということにあまり恐れはなかった。
むしろ、佐野君が知能がどんどん低下していくのなら、私もそうなって、何もわからなくなったほうがいい。
両親には迷惑をかけてしまうけれど、感染してしまったものはしかたない。
それに、佐野君が元に戻らないと毎日、私が泣いているよりも、知能が低下しているものの、無邪気に明るいほうが両親としては、マシだろう。
知能が低下していくと、それからどうなるのかな。
そこまで考えて、『死』という不吉な一文字が浮かぶ。
いやいや、死ぬような病気ではないとテレビでも言っていた。
だけど、『知能の低下』は昨日、初めて聞いた情報だ。
これから新しい情報が出てくるかもしれない。
『知能が低下し、脳の機能も低下し、最終的には死亡する』という事実が出てきても、おかしくないのかも……。
そう考えると、無性に怖いはずなのに、私は心穏やかだった。
箱の中にいると、心が平穏に保たれるのか。
それとも、佐野君と共に死ねるなら、本望なのか。
どちらにしても、悲しいとか怖いという気持ちはなかった。
□
「……雫ー! ……が……よー!」
母が叫んでいる声が、聞こえる。
なんだろう、どうしたんだろう。
私は、目をこすり、伸びをするが、両手が箱にぶつかる。
「雫ー! 佐野君って子が、お見舞いに来てくれたわよー!」
母の声は、今度はハッキリと聞こえた。
ぼんやりとした頭で、母の言葉を反芻する。
佐野君、お見舞いに来た?!
まさか! これ夢なのか?!
そんなことを考えていたら、こんこんと部屋のノックがされた。
「新田さん、入りますよ」
その声は、間違いなく、佐野君のもの。
「ノックなんかしなくても大丈夫よー!」
次に母の声がして、部屋に佐野君と母が入ってくる。
私は箱から顔を半分だけ出して、様子を伺う。
「それじゃあ、ジュースとおやつはここに置いておくからね」
「お気づかい、ありがとうございます」
佐野君は、頭を下げると、母は随分とうれしそうに部屋を出て行った。
「大丈夫ですか?」
その声に、私は思わず箱の中に顔を隠す。
「僕にそんなに会いたくありませんでしたか。まあ、あんな醜態をさらしてしまいましたしね」
「そうじゃないの。来たのが不意打ち過ぎ。寝癖とかあるし」
「スマホに連絡はしましたよ」
「スマホ……」
そういえば、箱の中で眠ったりじっとしていたりするせいで、スマホを見ていない。
「まあ、僕の時は軽い風邪でしたけど、新田さんはどうやら風邪も本格的なようですから」
「ようやく微熱まで下がったんだけどね」
「そうですか。それは良かったです」
佐野君はそう言ったものの、にこりともしなかった。
いつもの佐野君だ。
箱ウイルスに感染後、知能が低下する。
だけど、箱ウイルスを研究している医療チームは、知能の低下は一時的なもので一週間もすれば知能は元に戻る、という研究結果を発表したそうだ。
佐野君との初デートから帰った日、テレビの白衣の男性はそう言いたかったらしいのだけど。
箱ウイルスで知能が低下した、アナウンサーにより邪魔され、情報が遮断され、おまけに私まで感染した。
そして、今日、病院へ行って、医者から『箱ウイルスはね、一時的に知能が低下するだけで、元に戻るんだよ』とあっさり告げられたのだ。
知能低下が治らないと思いこみ、死まで覚悟した私は、それを聞いて思わず病院の椅子でずっこけた。
だけど、みんな元に戻る、佐野君も私も。
そう思うと、安心して医者と看護師の前でわんわん泣いた。
これも、箱ウイルスの『箱ロス』のせいらしい。
そんなわけで、今は佐野君は元の状態だというわけだ。
「ねえ、そういえばさ、知能が低下してた時の記憶ってあるの?」
私の疑問に佐野君がため息をつく。
「ありますよ。むしろあの時の記憶はないほうがいいですね」
「じゃあ、私を『かわいい』って言ったこととか、『なんで僕を好きになったんですか』って聞いたこととか、『将来的には結婚したいです』って言ったことも、本音?」
「最後は言ってませんよ。新田さんの虚言を混ぜないでください」
「ふーん。覚えてるし本音ってことかー。そうかー。かわいいかー。へーえ。佐野君、私のことちゃんと好きだったんだね?」
私の言葉に、佐野君は黙りこんだ。
そして、長い息を吐いてから言う。
「まあ、新田さんと過ごす時間は、無駄だとは思いませんよ」
「素直じゃないなあ」
私は曲げた膝におでこをくっつけて笑う。
それから、なんとなく聞いてみる。
「私の、下の名前、知ってるよね?」
「雫、新田雫。知ってますよ」
「いつから? 今日、もしかして確認した?」
私の言葉に、新田君はまじめな口調ででこう言う。
「入学式の時からです」
「え?!」
驚いたと同時に、私は箱から顔を出す。
そして、咳が出てしまう。
驚いたからじゃなく、まだ風邪は完全に治っていないのだ。
「あまり長居をしても、新田さんの体調に良くないので、僕はこれで帰ります」
佐野君は立ち上がり、それからカバンの中から、何かを取り出す。
無地の紙袋だ。
それを私の机の上に置き、「お見舞いの品です」と言って、私を見た。
その時、初めて彼の胸元に、何かが光っていることに気づく。
よくよく見て、佐野君がそういうものをしていることが意外過ぎて、口をぽかんと開けた。
「それじゃあ、お大事に」
ぱたんとドアが閉まり、私は箱から出て、机の上の紙袋を確認。
バナナオレ三つと、それから白い箱が一つ。
箱をそっと開けてみると、銀のペンダントが入っていた。
華奢なチェーンにぶら下がっているのは、イニシャルかと思いきや……。
「あ、これ円周率のパイだ」
私はペンダントをつけ、鏡にその姿を映す。
円周率って、佐野君らしいな。
パイの部分が蛍光灯の光りでキラリと輝く。
先ほど佐野君の胸に光っていたペンダントと同じもの。
ニヤニヤしていたら、箱の中に小さなメッセージカードが入っていることに気づく。
そこにはきれいな佐野君の字でこう書かれてある。
前回の数学の小テスト、最悪な点数でした。
元気になったら、再テストをします。
私はそのカードを読み終えると、もそもそと箱に戻った。
相変わらずだ。
相変わらずだけど、私は佐野君がどうしようもなく好き。




