第9章 異性人
いきなりドアを開けた。ノックもなしに。
部屋着姿のくつろいだ高校生とおぼしき少女が、絨毯の上でコミック雑誌を広げていた。
紙野夏毅はその少女と目が合う。
しばらく時間が凍りついたかのようにふたりとも固まった。それはほんの一瞬だったが、ずい分長い時間のように感じられた。
寝っ転がっていた少女は、口に入れていたオセンベをバリンとかみ砕いた。そして――。
「きゃああああああ!!!」
バッと起き上がり、雑誌を抱きしめて、家の外まで聴こえるぐらいの悲鳴をあげた。
「痴漢っ!」
「わああ、タンマ、タンマ!」
ドアのかまちに立つ夏毅は、手を前に出して、部屋にいる少女を静めようとした。
「待て、話を聞いてくれ。おれは別にヘンなやつじゃないんだ!」
必死の形相で主張した。
「出てって! 警察呼ぶわよ!」
「違うんだって! ――いてっ」
少女の投げた雑誌が夏毅の頭を直撃した。
「こっちへ来るな! 早く出てって!」
部屋の中に散らばっていたモノを手当たりしだいに投げる少女。
夏毅はたまらず後ずさりすると、背中を向けて退散した。あわてて階段を駆け下り、外へ出た。
出たところで立ち尽くした。
出てきたばかりの家を見上げる。大和高田市の住宅街に建つ目立たない建売の一軒家。
首をかしげながら、夏毅は後頭部をかく。
並行宇宙転換装置が作動したまでははっきり覚えていた。
気がつくと、元の世界に戻っていた。あの病院ではなく、自宅の近くに。
そして喜び勇んで走って帰ったのだが……。
家には別の人間がいた。
夏毅はいやな予感がした。
――もしかしたら、ここは元の世界ではないのかもしれない。
まさか、こんなに似てるのに……。似てるなんてもんじゃない。家までの道のり、家の中。持っていた鍵も使えたし、そっくりそのままじゃないか。たったひとつちがうといえば、自分の部屋にはおれじゃなく、他の誰かがいた……ということだけだ……。
まてよ――。
気がついたら、そこは元の病院で、おれはあの異世界での大冒険を死に物狂いでくぐり抜けた安堵感のため、喜びいさんで家に入ったはいいが……。
――本当にここが元の世界なのかどうかたしかめたわけじゃない。
夏毅は周囲を見回した。とはいえ、たしかにここは似ている。元の世界じゃないなんて、とても信じられない。
とにかくこれからどうするか、であった。帰るところは他にない。あの女の子と落ち着いて話合う必要がある、と結論した。ここが元の世界じゃない――異世界だというなら、彼女が、おれが元の世界へ戻るカギであるかもしれないし……。
しかし……どうしよう。あんな形で追い払われてしまっては、話し合うにもどう切り出せばいいのか……。正面から入っても、まともにとりあってはくれないだろうし。下手をすると本当に警察を呼ばれてしまう。そうなると余計にややこしくなる。
きっかけがつかめないまま、夏毅はしばらく辺りを歩き回った。はたから見たら、それだけでも怪しい人に見えないこともなかった。
このままでは日が暮れてしまう。なにかいい考えはないものか……。
思案していると――。
「ナツキー」
と、声がした。
チラと目を向けると、こっちへ誰かが小走りで向かってくる。
自分を呼んだわけではないので視線を外して無視していると、肩をたたかれた。
振り返ると、夏毅と同じ年格好――高校生ぐらいの女子だった。バインダノートをかかえている。
目の前まで来て立ち止まると、彼女ははぁはぁと下を向いて息を切らしながら言った。
「今からそっちへ行くとこだったの。はい、これ借りてたノート」
と、顔を上げてバインダを差し出す。
夏毅は首をかしげた。知らない顔だった。
不審に思っていると……。
「えっ?」
と、彼女の目がパチクリする。ジッと顔をよせてくる。
思わず夏毅は顔を引いた。
「なな、なに……?」
「うっそー! 夏葵じゃないのー! ごめんなさい、人違い。今コンタクトしてなかったから……でも男の人と間違えるなんて……。あっ、もしかしてイトコのかたですか? 兄妹って、いませんでしたよね。生き別れの双子のお兄さん、なんてね」
「ええっと……」
マシンガンのようにしゃべる彼女にどうこたえていいかわからなくて夏毅はしどろもどろ。そんなに似ているのだろうか……。
「あっ、ごめんなさい、あたし友だちの菊井です。失礼します」
ペコッと頭を下げて。どうやら完全にかん違いしているらしい。
「ちょっと待って」
立ち去ろうとする〝友だちの菊井〟を呼び止めた。
「どこへ行くの?」
まさか、おれそっくりのナツキというのは……。
「えっ……あそこだけど……」
振り返って夏毅の家を指さし、不審な表情……。
やはり思ったとおりである。ここは事情を説明するチャンスだった。友だちだというし、話を聞いてくれるなら、どうにかなりそうだ、と――。
呼び鈴が鳴った。二回。三回。
――ああ、そうだった……。千織が来るんだった……。さっき、今からそっちへ行くという電話があったんだ。
ベッドからムクッと起き上がり、夏葵はスマートフォンのボタンを押してインターホンにつなげる。
「はい」
『あ、夏葵? 千織だよ』
やっぱり菊井千織だった。
「今いく。――ね、ちょっと訊くけど、その辺にヘンな人いなかった?」
『ヘンな人?』
「うん……。いなかったらいいの。待ってて」
スマホをおいて部屋を出ると、階段を降りる。確認していなかったが、まだ家の中にいるかもしれない。ダイニング、バスルーム、トイレ、寝室と、ドキドキしながら見て回った。誰もいなかった。
ほっとして、やっと玄関ドアを開けた。
バインダを持った千織が立っていた。
「実は今、誰もいないの。で、さっきね、いきなり――」
「ヘンな人って、この人?」
千織が言って、ドアの陰から夏毅を引っぱった。夏葵の目が点になる。
「いいい、いったいどういうこと!」
夏葵は口をパクパクさせて。
「まぁまぁ、落ち着いて」
千織は手を前で振る。それから二人の顔を交互に眺め、
「ふうん。こうやって見比べてみると、なーるほどそっくり」
「えっ?」
夏葵、夏毅の顔をジッと見つめた。
夏毅も改めて夏葵の顔を見た。
落ち着いてお互いに顔を見合わせる。たしかに似ていると思った。はじめて会ったときはいきなりああいう状況だったし、気が動転していたからふたりの顔が似ているなどとは気がつかなかった。
が、同時にすごい違和感も覚えた。性別が異なるのに顔がすごく似ていて、写真や鏡で見たのとどうもちがう……。気持ち悪い、というのが正直なところだった。
「とりあえずこれ返すね。ありがと。上がっていいでしょ」
「う、ん……」
夏葵は差し出されたバインダを受けとる。
「だいじょうぶだよ。心配ないって」
と、靴を脱いで上がる千織。
「とにかく、話ぐらいは聞いてくれ」
と言って、勝手知ったる家に上がる夏毅。
半分呆気にとられていた夏葵はハッとなった。
「まてまてまて! 面倒なことにならないだろうな」
先に階段を上がっていく千織に言った。
さすがに部屋の装飾までは同じではなかった。
男と女では当然趣味が違う。それでもまったくちがうということはなく、たとえば机や本棚、ベッドの位置は同だった。しかし中に並ぶ本や布団のガラは見覚えがなくて、夏毅は違和感を覚え、落ち着かなかった。なんだか自分の部屋を横取りされたような。
が、一方、夏葵はそんな夏毅の思いなどどうでもよかった。
「さ、どういうことか説明してもらおうじゃないか」クッションにあぐらをかいて腕組みをする紙野夏葵。「でも、最初に言っておくけど、あたしはなんにも知らないからね。だからわかりやすく説明してよ」
三人が部屋に集まって。そのうち二人は微妙に違うがよく似ている顔……。なんとなく異様な空気……。壁の時計はもう五時をすぎている。家の者が帰ってくる前に解決すればいいんだけど、と夏葵は思う。
「おれだって、なにもかも知ってるってわけじゃない。だから、おれがどこから来たのかってことから説明する」
とにかくわからないことはいっぱいあるし、言いたいこともいっぱいあるし、ちゃんと順序よく整理して話さないと混乱してしまう――夏毅は少し息をつき、心を落ち着けた。
「信じられないかもしれないけど……おれはこの世界の人間じゃない。たぶん」
言葉を切って夏葵の反応をうかがったが、しらけた空気がその場を満たしただけだった。爆発しないように、慎重に話さなければ――。なぁに、菊井千織はわかってくれたんだ……いや待て、ひょっとしたらおもしろがっているだけかもしれないぞ。
「で?」
なかばあきれた表情で、夏葵。まったく、なにを言いだすかと思えば……と、その表情は語っていた。千織が、夏毅の中二病な話を真に受けたとは思いたくなかった。
「パラレル・ワールドって、聞いたことあるだろ」
「知らん」
一刀のもとに否定した。聞いたことがあっても肯定したくなかった。
「異世界、といってもいい。とにかく、そういうのがあるんだ」
「あんたはそこから来たっての? どうやって?」
「もっと事情は複雑なんだ……」
いちいちトゲのある夏葵のツッコミに我慢しながら夏毅は話を続けた。とにかく聞いてもらわなければ、にっちもさっちもいかない。
「この世界とそっくりの世界があって、おれは、その世界でいうこの家に住んでたんだ」
「なんだって?」
夏葵が眉をひそめた。
「つまり、夏葵が男になってる世界があるっていうわけね」
混乱している夏葵に、千織が補足説明した。理解が早かった。
「ばっかばかしい……」
夏葵は鼻で笑った。
「でも、じゃ、夏葵はこの人が単なるそっくりさんだと思うわけ? それもちょっと強引じゃない?」
「んう……」
夏葵はうなった。そう言われたら確かに理屈に合わない。でも素直に信じるのも癪だった。
「でも、こいつの話だって荒唐無稽だぜ」
「実は話はまだ半分なんだ……」
夏毅がタイミングを見計らって言った。
「おれがなぜ異世界へまぎれこむことになったのかってことだけど、並行宇宙転換装置のせいなんだ」
「はーあ……」
夏葵は大きくため息をつき、ぼそっとつぶやいた。
「なんだってあたしがこんなばかな話につきあわなきゃなんないのさ……」
気がついたら、そこは異世界だった。大和高田には違いなかったが、ゴーストタウンと化していた……。夏毅はなぜかそこにいて、そしてそこで出会ったのは、祖国解放のため政府軍と戦っているレジスタンスだった。
内戦中に荒れる大和高田……。まったくわけがわからない。レジスタンスの話によると、ある日、突然現れた並行宇宙転換装置によって、並行世界の存在が確認された。国は並行世界の研究を始めたが、その過程で国土が荒廃し、内戦状態に突入。夏毅がこの世界へ跳ばされたのもそれが原因だった。
そして、この元の世界とそっくりなパラレル・ワールドに迷いこんだのもその装置による。
「ま、それはわかった」
我慢強く夏毅の説明を聞いていた夏葵は、やっとひと区切りつくのをみて言った。あまりに荒唐無稽すぎて途中から話を理解していなかったが。
「で、あたしにどうしろっての? あんたの話が仮に本物だとしてだよ、あたしになんの関係があるっての。面倒なことを押しつけるのはやめてよ。あたしにはなにもできないし、なんの関係もない」
極めて理性的に、冷たく言い切った。
「ここには、おれが元の世界へ戻るためのなにかがあると思うんだ……」
夏毅は力なく言った。まるっきり確信はなかった。
「なにかって、なによ?」
「それはおれにもわからない……」
「話にならない。そんないい加減な――」
「他に行くところがないんだ。きみの居場所はおれの本来おれのいる場所と重なっている。この世界に存在しないはずのおれが存在するということで、なにかが起こると思うし……。とにかく、今のところ手がかりはきみだけなんだ……!」
「冗談じゃない! あんた、自分がなにを言ってるのかわかってんの?」
「まぁ、そうカリカリしなさんな」
黙っていた千織が割ってはいった。
「そりゃあんたには他人事だからいいよ」
「そう邪険にすることもないんじゃない? いわばあんたの分身なんだから」
「あんたまさか信じてるの?」
「保険証を見てもまだ信じられないの? 頑固もんだなぁ……」
そう言われると返す言葉もない。話の途中で夏毅が出した保険証は、夏葵の家にあるものと同じだった。保険番号も生年月日も。たった一か所、夏葵が夏毅となっていたところ以外は。いたずらだとしたら、ずい分と手がこんでいる。
「ここで彼を追い出して、あとでなにが起こったって知んないよ」
「だったらあんたが面倒みなよ」
「もう日も暮れる。とりあえず今夜はこの部屋にかくまってたら?」
「…………!」
夏葵は絶句した。
「なにを言うのよ。家族にばれたらどうするんだ。千織がこんなやつだとは思わなかったわ。いくらなんでも見知らぬ男を泊めるなんて言語道断」
と、そのとき――。
「ただいまぁ」
と階下の声。
「げげっ、お母さんが帰ってきちゃった。わああ、まずいぞまずいぞ……」
「この寒空の下、かわいそうだとは思わない?」
千織がさらに追い打ちをかける。
「それに、夏葵はもうすでに逃げられない運命なのよ。あんたは夏毅といっしょにいるべきだ。警察沙汰になったら厄介だよ。なにしろ夏毅くんはこの世にいないはずの人間なんだから。どうなるかはわかんないけど、とにかく大変なことになるのはたしかね。うん」
「なにが『うん』だよ」
「冷静に考えてみてよ。彼の言うとおり、あんたが唯一のキーである可能性は大いにある」
千織はおおげさな言いようだった。
「なんなら、おれが下におりてっておふくろに話したっていいんだぜ」
と、したり顔で夏毅。
「ええっ!」
「たぶん、おれのおふくろと瓜二つなんだろうな。きみより話がわかるかもしれん」
「それはやめて!」
夏葵はあわてた。冗談じゃなかった。
「本当にややこしいことになる。たとえ真剣に受けとめてくれたとしても、こっちの神経がまいっちゃう」
「あんた、いったいなにが不満なのさ」
腕組みして、千織。
「不満だって?」
心外だという表情をした夏葵に、千織は正論を吐くように言った。
「とにかく、あんたに少しでも甲斐性があるんなら、彼をここにいさせるべきだ」
「…………」
夏葵は天を仰ぎ、ひとつ息を吐いてつぶやいた。
「もしも」と夏毅を見て、
「せめてあんたが男でなくて、あたしとそっくりの女だったら、まだ素直に受け入れられたと思うんだけどな……」
「ま、人生ってのはそんなもんさ……」
無責任にわかったようなことを言う千織だった。
菊井千織が帰ったあと、夏葵は夏毅を部屋に残して階下へおりていった。部屋の物をさわるなよ、とひとこと釘をさして。
大急ぎで夕食をすました。いつもと同じように振る舞って何事もないように、そしていま自分の部屋で夏毅がなにも事件を起こさないように、あるいは上に戻ったら夏毅が消えていなくなっていたらと都合のいいことを思ったりしながら。緊張した夕食だった。
もともと最近は夕食後はさっさと自分の部屋へ戻っていたから、家族に怪しまれた様子はなかった。勉強するから邪魔しないで、と言ったから部屋をのぞきにくることもない。
「はい、おやつを持ってきてやったよ」
両手にポテチの袋とクラッカーの箱。
「おかずの残りを持ってこようかとも思ったんだけどね。みんないるから、それはさすがにヤバイんだ。お菓子ならどうにか」
「ありがと。恩に着るよ」
「まったく――、親にないしょでネコを拾ってきた気分だよ」
袋を開けて、夏毅はポテチをむさぼり食う。「そういや小二年のとき、きたない仔ネコを拾ってきたことがあったっけ」
「えっ!」
夏葵にもその思い出はあった。結局、親に反対されて、飼えなかったのだが――。小学校二年のときだ。でもまさかそんなことをここで指摘されるとは思ってもみなかった。
「あたしもそうだったよ。あんたとは、生まれてからずっと同じような体験を重ねてきたのかもしれないな。男だから多少は違うところもあるだろうけど。あんたが異世界から来たなんてとてもじゃないが信じられないけど、こうまで証拠がそろうと理性で信じざるを得なくなってくる――って、ポテチの粉を散らかさないで。掃除するのはあたしなんだから」
「ああ……わかってるよ」
「で、どうすんの?」
夏葵は訊いた。
「いつまでもここにいるわけにもいかないだろ」
「とりあえず明日は、学校へ行く」
「女子高へ行くつもり?」
「ジョシコウだって?」
「シッ! 声がでかい。下に聞こえたらどうすんの。この部屋にはあたししかいないことになってんだから。――そ。女子高だよ」
夏毅は腕組みして、ううむ、とうなった。
「おれは男子校に通ってたからな。なんとなくそうじゃないかって予想してたけど」
「それでも学校、行く?」
「うーん……学校はまずいな……。でも、外へは出る。元の世界に戻るための手がかりを見つけるには、とにかく動かなくっちゃな」
「風邪をひいているわりには元気なんだな……」
「そんなものとっくになおっちまったよ」
異世界に跳ばされて戦争を見せられたんじゃ、風邪どころじゃない。
「ふうん……。でも……手がかりったって、それって雲をつかむような話じゃないか? だいじょうぶ?」
「それでもあきらめるつもりはないよ」
実際に、異世界を渡り歩いてきたのだ。夏毅は、なんとかなる、という気がしていた。
「あんたが元の世界に戻れることを祈ってるよ。何日もあたしの部屋にいてもらいたくないからね」
「それは同感だ。今日のところは部屋のすみっこに寝かせてもらうよ」
「当たり前だ。ヘンなことするなよ。少しでもベッドに近づいたら問答無用で叩き出すからな」
「そんなことしないって」
夏毅はあわてて主張した。だいたい男子校のおれに、そんな根性あるものか(ま、なかにはカノジョのいるやつもいるけれど、おれにいわせりゃ奇跡だ)。それに今日は正直すごく疲れている。できれば早く休みたい。
夏葵は立ち上がった。
「着替えるから後ろを向いてて」
「ん? ――ああ、わかった」
夏毅はクルリと背中を向けた。クラッカーをボリボリと食べながら。いたずら心がムクムクと頭をもたげないでもなかったが、機嫌をそこなわすこともないだろうと振り向くのはやめておいた。それに、なんとなく恐い。自分が女の体になったらどんななのか、そんなことは知りたくない。
「絶対に見るなよ……」
棘のある口調で言い、パジャマ代わりのトレーナーを引き出しをあけて取り出して。手早く着替えながら、夏毅の様子をチラリチラリとうかがった。
「もういいか?」
夏毅が後ろを向いたまま訊いた。
夏葵はトレーナーの裾を引っ張って、「もういいよ……」と、途中で振り返らなかったことにホッとしながら。
夏毅は向き直る。
「お菓子ばっかりじゃ物足りないだろうから、あとでなにか腹の足しになりそうなもん、持ってきてあげるよ。家族が寝静まってからね」
「ずい分やさしいこと言うじゃないか」
夏毅はクラッカーの空箱をカーペットに置く。
「別に。そんなんじゃないよ。ただ、こうなっちゃった以上はね……」
それもあったが、親にかくれての秘密を持ったということが、なんとなくワクワクするような気分だった。たとえ、それがこんな奇妙なことでも……。
「ふうん……」
夏毅はうなずいた。
「いや、感謝してるよ。ホントに」
夏葵はクッションにすわりこむ。なんだか妙な気分だ。同じ部屋に男の子と一晩……。考えてみたらドキドキだ……。グッスリ眠れるかどうか不安。
「どうせならカッコいい男の人だったらよかったのに」
「なんか言った?」
小さくつぶやいた声が聞こえて、夏毅は言った。
「なんでもない!」
つっこまれたくなくて、夏葵は大きく否定した。
珍しく目覚まし時計がなる前に夏葵は目が覚めた。夏毅の存在を瞬間的に思い出し、すみっこの毛布に注目する。くるまっていて、起きているのかどうかはわからない。
「ねっ、起きてる?」
ベッドの上から訊いてみる。
モソモソと毛布が動いて、頭がこっちを向いた。
「あまり寝られなかった。やっと自分の部屋に帰れたっていうのに、なんだか緊張して。疲れてるのにな……」
「ここはあんたの部屋じゃない! あたしだって、眠っていられなかったよ。いつ襲ってくるかと思うと気が気じゃない」
「よくそんな冗談が言えるもんだ」
もちろんなにも思わなかったわけではなかった。モヤモヤした気持ちはたしかにあったが、状況が状況だ。冗談のつもりでも、ひとつ間違えたらとんでもないことになるだろう。
「さぁ、いつもの忙しい朝がはじまる。学校へ行く用意をしなきゃ。あんた、ホントに外へ出る気?」
夏葵は立ち上がり、洋服ダンスをあけると制服をとりだす。
「まさかずっと家にいるわけにもいかないだろ」
「それもそうか……」
しかし、家を出るのが、またひと苦労だった。二階の部屋から一階へつづく階段は玄関に近かったが、それでもかなり緊張した。家族にはもちろんだが、近所の人にも見つかりたくはなかったからハラハラものだった。タイミングをみて、今だ!
夏葵と夏毅は同時に家を出る。誰かに見られる前にそのまま走って駅へ。
しかし――。
男と女とはいえ、よく似た顔がふたりいると目立つんじゃないかと夏葵は言った。それもそうだと夏毅は納得して、ふたりは少し距離をおいた。乗り換えする駅と下りる駅、それに学校までの道もわかっているから迷うことはない。近鉄・松塚駅から乗って、大和八木で京都方面乗り換えるコース。
満員電車のべつべつの車両に乗り、十五分ほど揺られる。異世界の定期券が使えるのかどうか夏毅は心配だったが、自動改札機はちゃんと通してくれた。
――それにしても、と夏毅は思った。本当にここは異世界なのだろうか。駅までの道、電車の窓から見える景色、ときどき乗り合わせる他人の顔……。全部全部、見覚えのあるものばかりだ。いつものように通学しているんじゃないかと錯覚してしまいそうだ。混みあった車内で人に押されていると、今まで悪い夢でも見てたんじゃないかと思えてしまう。
人ごみの流れにのって電車を降りて西大寺駅の改札を出た。
「おっはよー!」
陽気な声をかけられて、夏葵は振り返る。千織だった。
「ねっねっ夏葵、彼、どうした?」
興味津々な目で問うと、夏葵は四メートルほど後ろを歩いていた夏毅を親指でくいくいと指した。
「ついてきたよ」
夏毅は、千織の目力を感じて少したじろぐ。
「へええ」
と、芸能人のスクープでも記事を読んでいるような含み笑いする千織。
「ところで、きのうあれからどうなったの? なにかあったんじゃないの?」
すごくうれしそうな表情だ。
「勘ぐるな。なにもあるわけないじゃん。なんならあいつに話を聞いてみれば?」
千織はスカートの裾をひらひらさせながら、大股で夏毅に近づいた。
「どうだった? 異世界の感想は? ゆうべ、夏葵とどんなことがあった?」
食い入るような目だった。
「とくに言うほどのことは……」
気まずいだけで、特筆すべきことはなにもなかったと、本当のことを言った。
「なんだ、つまんない」
「なにを期待してたんだよ」
夏毅は歩きながら周囲を見回す。毎朝見る光景だ。異世界だとは思えない。
こんなに元の世界とそっくりだというのに、これから行く学校が女子高だって? 夏葵の言葉を疑うわけではなかったが、信じがたい思いはどうしようもない。
――ま、とりあえず行ってみようじゃないか。行ったところでなにが解決すると期待してるわけじゃないけど。
駅から学校までは歩いて十分ぐらいだった。ぞろぞろと学校へつづく生徒の列。女子高だというのはどうも間違いないようだった。
そして、ついに……。
夏毅は立ちすくんでしまった。外見は少しも違わないのに、校門の文字……。確かに女子高だ……。あまりに自然で、手のこんだいたずらのように見える。
「信じられん……」
とつぶやいて。
――そうなると、おれの友だちはどこへ行った? 夏葵と同じようにこの世界では女になっていて、なにも知らずに日常を送っているのか……。もっとも、この世界はおれのいた世界と似ているというだけで反世界ではないのだから、ヘンな想像が当たるとは限らないが、できればあまり見たくない、女になっている友だちなんか――。
「どうするの? まさか入るなんて、できっこないよ」
夏葵は校門から振り返る。
「そんなことはわかってるよ」
あまりここに長居はできない。怪しまれる前に去ったほうがいいだろう。
予鈴がなった。夏葵は、あわてて駆けこんでくる生徒たちといっしょに校内へ消えていった。厄介事から逃げるかのように。
「じゃあねー」
手を振りながら千織も校舎に駆け込む。
取り残された夏毅は、「さて」とつぶやき、きびすをかえすしかなかった。