第4章 梅田地下街
前方に陽炎にゆらめく構造物の群れが見えていた。
目的地――梅田。特徴のあるビルのシルエット群。それらは馴染み深いものだった。
大和高田を出発した翌日の朝である。
ここへの途中、政府軍機の襲撃を受け、一台のトラックが破壊され、三人の戦士が命を落とした。残った十三人――紙野夏毅を加えた十四人は、残った二台の小型護衛車と一台のトラックに分乗し、先を急いだ。ここまでの間、いくつもの市を通り抜けてきたが、どこも廃墟だった。大阪市内に入ってもそれは変わらず、映画の世界に入り込んだかのような非現実感。
あれ以来襲撃はなく、順調な旅だった。いや、単調な旅だったといったほうがいいかもしれない。
絶えず揺れるトラックは、破壊されたトラックの荷物の分まで載せて、倍の荷重で重そうに走っていた。
やれやれやっと到着かと思った夏毅だったが、梅田もここまでの町と同じように荒れ果てたゴーストタウンだった。前もって聞いていたとはいえ、気の滅入るようながっくりくる光景だ。街の規模が大きいため、余計に壮絶な印象を受けた。かつて繁栄していた街がこんなにも空虚になってしまうなんて。
東側からメインストリートである御堂筋へ、三台のクルマは入っていく。人のいる気配はまったくなかった。埃っぽい砂塵がうっすらとひび割れたアスファルトを覆い、ビルの外壁や窓ガラスが落ちて散乱していた。いったい人々は、いったいどこへ消えてしまったのか――。街が「死ぬ」とは、こういうことなのか――。
しかし、ここは完全に死んだ街ではなかった。地下街にはレジスタンスの本部があり、機能している。地上からではまったくその気配が感じられないように巧妙にカムフラージュされ、政府軍に知られることのないまま人々が活動しているのだ。
夏毅は廃虚の街並を眺めながら、どこかに地下の動きがわかるところはないかと探してみたが、素人目でわかるようなものはなにも見当たらなかった。
クルマは大阪駅前第3ビルの地下駐車場へとスロープを下りてゆく。真っ暗で、照明はまったくない。トラックの後方に見えていた明るい出入口が曲がり角の向こうへ隠れて見えなくなると、ヘッドライトが照らす範囲のみしか見えず、光の外にはなにも存在しないかのようだった。まるで地獄へと通じているかのよう。
地下一層、二層、三層目。地下三階。
トラックが停止した。
エンジンも停止する。周囲に反響していたエンジン音がやんで、静寂。閉鎖された空間に、排気ガスの匂いが鼻をつく。
「ここは?」
夏毅は傍らの今池ポウルに尋ねた。
「本部の入口だ。降りるぞ。暗いから気をつけろ」
懐中電灯を手にポウルが荷台を降りる。他の仲間たちもそれぞれ車から降りていた。懐中電灯のたよりない光がいくつか空中を漂っている。
夏毅は足元に気をつけながら、トラックを降りた。冷たい空気がよどんでいる。
トラックと小型車のヘッドライトはまだ点されていた。広大な駐車スペースだったが、あちこちが崩れていて、瓦礫でふさがっていた。いまにも崩れてきそうである。天井には何本ものダクトが通っている。
かつては地下街への出入口があちこちにあったが、それらは現在ではほとんど閉鎖されているのだろう。だから、まさか誰かが住んでいるなどとは思われない。
地下駐車場に入ったのは、クルマが発見されないようにするためだろう。
壁面の金属製のドアへ進むのは隊長の田村ラルフ。押し開け、中へ入った。
全員が続いた。荷物は、武器など手荷物だけをもち、他はトラックに置いたままだ。
さらにもう一つ開けたドアの向こう側は階段だった。上下に階段がのびている。下は地下四階で駐車場という案内看板。
上へと階段をのぼっていく。心細い懐中電灯に照らされている、不気味な地下の階段。暗闇からいきなりなにかが出てきそうな感じだ。
一層登ったところの地下二階。その上への階段は途中、瓦礫でふさがれていた。ということは、ビルは外見はかろうじて保ってはいるが、内部から崩れかかっているのだろう。いつ倒壊してもおかしくないのかもしれない。
またも金属製のドアがあった。ラルフがそれを引いた。
低い天井に、奇跡のように蛍光灯が光っていた。たった一つの明かりだったが、闇に慣れた目にはまぶしく感じられた。
さらに進むと、通路が左右に伸びていた。
懐中電灯の明かりがなくても周囲の様子がわかるほどの照明が、ぽつりぽつりとかなりの間隔をあけて点灯し、通路の奥のほうを浮かび上がらせていたが、通常の地下街を知っている夏毅には薄暗く思えた。
照明が少ないのは節電のためだろう。地上の荒廃ぶりから、街に電気が供給されているはずもなく、この地下街が電力不足にあるのは間違いなかった。電灯が灯されていることから、どこかで発電しているのだろうが、電力が潤沢であるとは考えられなかった。
通路を進んでいくと、おそらくかつて商店だったのだろう、通路の側壁には閉められたシャッターがずらりと並んでいた。床には綿埃や建材の切れ端が散らかっていて、掃除はまったく行き届いていない。陰気な雰囲気である。
「全員いるか?」
先頭を行くラルフが振り返って言った。
「おれとルイスは本部へ行って報告をしてくるから、おまえたちは先に宿舎に帰って休息をとれ。それと夏毅、おれと来い」
「え?」
夏毅は問い返すと、ラルフは、
「本部へ連れてってやる。これからどうするか、おまえ自身が決められるためにも状況を知っておいたほうがいいだろう」
「隊長はずいぶんとご執心だな」
夏毅が返事をする前に、ポウルが呆れた口調で言った。
「そうかな」
ラルフははぐらかすように言った。
「さ、行くぞ」
否も応もなかった。夏毅はできればポウルたちと宿舎でくつろぎたかった。宿舎というからには、ちゃんとした設備があるだろう。シャワーを浴びられたら最高だが、しばらくはおあずけだ。たしかにここへ来て、これからどう行動するのか決めるのも大事だ。なるべく早く元の世界へ帰りたいとも言っていたし、それを実現するのが先である。
夏毅はポウルたちとわかれて、ラルフと副隊長である阿川ルイスとともに通路を進んだ。
ルイスは長身の男で、一九〇センチはありそうだった。夏毅より頭一つ分ほど高い。体は細く髪が長いからヘビメタ系の印象だ。がっしりした体格のラルフとは対照的だった。
通路より広い空間にでた。エスカレーターがあるが、むろん停止していた。そこを通り過ぎ、さっきの通路と平行に作られた通路にでた。
同じような構造の通路が走っており、迷ってしまいそうだった。ほどよく明るければ、目印を見つけられて現在位置を把握できるかもしれないが、こう薄暗くてはそれも難しかった。
ところどころに闇だまり。そこになにかが潜んでいるようだった。来たことのある梅田の地下街がこんなにも不気味に感じるとは思わなかった。
角を曲がると、その向こうにだれかがいた。
ひっ、と夏毅は息を飲み込む。レジスタンスの本部なのだから、人がいて当然なのだが、いきなりだったので予想していなかった。
「お帰り、ラルフ」
薄暗い照明の下に立って待っていたのは女だった。年齢は二十五歳ぐらいだろうか。短い髪が活発的な印象を与える。
「ただいま。議長は?」
「待っているわ。――お帰り、ルイス。あら、見かけない顔ね」
夏毅を見て、ちょいと首を傾げる。
まっすぐに見つめられて、夏毅はどぎまぎした。
「その話はあとだ。先に議長に報告しなければならないことがある」
ラルフがさえぎった。
「ああ、そうだったわね」
彼女は言って、通路の途中のドアを開ける。あまりに無造作に開けるので、「本部へようこそ」とラルフが言うまで夏毅はそこが本部だとは思わなかったぐらいである。
内部は大きな会議室だった。
巨大な会議机が真ん中にあり、その上には地図が広げられてあった――というより、机そのものが地図で、天板に直接描いてある。京阪神のなじみのある地図だが、たぶん、現実はどこもかしこも荒廃した町並みが広がっているのだろう。
地図の上には、ゲームの駒のようなものがいくつも点々と置かれていた。おそらくそれらは政府軍と各部隊の位置を示しているのだろうと夏毅は思った。
部屋には十人ほどがいた。地図を取り囲むように配置された椅子にすわっているのと、壁際に並んだ机――通信装置かなにかのような機械が乗せられている――のところに三人。
地図を囲むうちの半分が中年の男だった。
みなメモを片手に、地図の駒を移動させたり、壁の黒板になにかを書きこんだりしている。
「議長、ただいま戻りました」
「御苦労だった、ラルフ」
中年の男のひとりが立ち上がり、前へ進み出た。頭の禿げ上がった紳士だ。ポロシャツにノーネクタイというラフな服装だったが、上品な雰囲気があった。議長というぐらいだから、以前は議員だったのかもしれない。
「政府軍は発見できませんでした」
「ああ、どうやらまちがった情報だったようだ」
「他の地区はどうなっています」
「見てのとおりだ」
議長は地図を指し示した。
「政府軍の勢力圏は確実に縮小している。内部統制がゆるんできているのかもしれない。ここにきて、戦闘がおこなわれない作戦も多くなった」
「ですが、我々は帰還途中、政府軍の攻撃を受けました。三人も失ったのは大きい痛手です」
「そうだったな。おそらく偵察機だろう」
「機種はM-4Aでした」
「M-4Aは偵察機だが、戦闘用に改良した兼用機だろう。長引く内戦で、政府軍も台所事情が悪くなっているのだろうな。相当苦しいとみえる」
「現在の政府軍の動きはどうですか?」
「断片的な情報ばかりで、それから推測するしかない。だが……近々、大規模な作戦がおこなわれるという情報がある。我々を一掃するつもりなのだろうが、そうはいかん」
議長は反骨精神の固まりのような男だった。
「大規模な作戦ですか……」
ラルフは、ううむ、と考え込んだ。
「ところで、議長」
とルイスが口をはさんだ。
「うむ?」
「異世界人と出会いました」
「ほう……。その少年か」
議長ははじめて夏毅に気づいたように言った。
「はい」
と、ラルフが返事をする。
「大和高田駅で確保しました」
夏毅は歩み寄ってくる男を見た。夏毅は緊張した。議長は夏毅を上から下までなめるように見ると、
「突然のことで、さぞ驚いたことだろう。戸惑うことばかりかもしれんが、我々にはどうすることもできない。そこは理解してほしい。さて……。きみはこれからどうするつもりかな?」
「どうするっていわれましても……、元の世界へ戻るには、政府軍の持っている転換装置を使わなきゃいけないと聞いたから、そのつもりです」
「そうか……。きみの処遇について、我々に決定権はない。もちろん、捕虜として扱うつもりもないし、自由だ。だが今は戦争中だ。安全は保証できない。我々としては、この戦争が終わるまで待つことをすすめるが」
「そんなには待てないです!」
夏毅は思わず声をあらげた。議長のすすめはもっともだが、何年かかるかわかったものではない。
「そうか……」
議長は苦笑した。事情をわきまえていない夏毅に呆れたように。
「だが、どういう事情があろうとも、今すぐというわけにはいかない。ここはいわば秘密基地だ。それに、政府軍のもとへ行くといっても、闇雲に行動するわけにもいかんだろう」
夏毅はうなずいた。たしかにそうだ。まだこの世界についてはよく知らない。どこへ行けばいいのかさえわからない。もっとはっきりした手がかりをつかんでからでないと、動きようがなかった。なにより、交通機関は死んでいる。なにをするにもラルフたちに頼らざるをえない。
「マリイ」
「はい」
ラルフといっしょに来た女が返事をした。
「坊やを頼む。地下街を案内してやってくれないか」
「はい」
マリイと呼ばれた女は夏毅に向き直り、
「来なさい」
と言った。
えっ、と夏毅。なんだかよくわからなかった。ここの大人たちはなにを考えているのか読めなかった。表面上は紳士的に振る舞ってくれてはいるが、なにか含むところがあるような気がした。
マリイは入ってきた扉を開くと、
「こっちへ来て」
思案している夏毅をうながした。
「あとで宿舎でな」
とルイスがひとこと言った。
夏毅は押されるように退室すると、マリイが扉を閉めた。
「さて」
議長は残った二人、ラルフとルイスに向き直った。
「我々の目的は、あくまで祖国の解放だ。首都の政府軍を追い出せば、形勢は逆転する」
「しかし、北部でおこなわれようとしていることを黙認しては……」
「ラルフ、その情報はまだ不確かだ。本当だとしても、それを阻止するのはあまりに危険だ」
「わかってますよ。だから調査だけでもしようというんです」
「頑固だな。ルイスもそうなのか」
「はい。だからラルフについているんです」
議長は嘆息し、
「わかった。――ただし、無茶な計画はするな。おまえに命を預けている連中がいるんだからな」
「承知してます。なにもかも」
ラルフは不敵に微笑した。
「さ、地下街を案内してあげるわ」
「はあ……」
夏毅は気のない返事をした。梅田の地下街はときどき行っていたから、ある程度は知っていたが、それが廃墟となっているとなるとあんまり気乗りしなかった。
「どうしたの?」
マリイは小首を傾げ、夏毅を見る。背丈は夏毅とそれほどかわらない。一七〇センチぐらいだから、女では大柄なほうだ。
「いえ、べつに……」
「まずは工場から行きましょう」
「工場って? ここでなにか作ってるんですか?」
梅田の地下街に工場なんかない。
「大量生産する設備はないけれど、修理や、ちょっとしたものの製造をすることはできるの。どんなところかぐらい見てもいいでしょ」
「うん……」
なにしろ秘密基地だ。よそから原料を持ち込んで加工するなんてことをしていたら、目立って発見されてしまうだろう。
なにより梅田地下に大規模な工場にできるような大きなスペースなどない。せいぜい、町工場並の小さな空間がある程度だ。しかしそれも限られている。
もっともそれは、夏毅の知っている梅田である。勝手に拡張されているかもしれない。
「こっちよ」
さらに薄暗くなっていく地下街を進んでいく。
第4ビルから地下鉄・東梅田駅方面へ。さらに進むと「ホワイティうめだ」に続いているはずだった。
しかし、マリイはそこから東梅田駅へと入っていった。改札口を素通りしても、当然ながら自動改札機は沈黙している。
階段を下りていこうとして、金属をたたくような音が聞こえてきた。
階段には明かりがなかった。懐中電灯で足下を照らしながら降りていくと、谷町線のホームにでる。明るくはなかったが、どうにか不自由しないほどの明るさがあり、そこにだれかがいるのがわかった。
八尾南行きホームには電車はなく、向かい側の大日行きホームが何本もの柱の向こうにうっすらと見えていた。
ホームで、数人の男たちが工作機械にはりついてなにやら作業していた。それほど大きな機械ではない。地味な作業場だ。
金臭い空気が夏毅の鼻孔に届いた。
「なにを作っているんですか?」
「銃弾を作っているの」
マリイはこたえた。
ああ、と夏毅は、ここへ来る途中で遭遇した戦闘を思い返した。襲いかかってくる飛行機へ応戦するべく使用した機関銃の弾……。戦闘には必要なものだ。大量に消費するそれをどこかから調達してこなければ戦えない。
平時ならば、おそらく武器メーカーの工場が稼働しており、そこから買い付けるのだろうが、外の状況を見る限り、それが望むべくもないだろうと夏毅はうなずいた。
そして、戦闘とは武器を持って戦うだけではないのだな、と理解した。
「おい、ここは危ないから、気安く入ってくるなといつも言ってるだろう」
作業の手を止めて、ひとりの男がマリイと夏毅に注意した。軍手をした手で、油で汚れた顔に浮かんだ汗をぬぐった。
「ごめんごめん、ラルフに言われて、ちょっと新人を案内してたんですよ」
マリイは悪びれもせず言った。そして夏毅を振り返り、
「ここはでは火薬を扱ってるからね、すごく気を遣ってるのよ。燃えやすい火薬にちょっとでも引火したら、地下工場ではシャレにならない被害がでてしまう」
平然ととんでもないことを言った。
「でしょうね……」
逃げる場所もなくあっという間に火の海になってしまう東梅田駅ホーム――ぞっとする光景を想像した。
追い出されるようにして「工場」を後にした。
地下街・ホワイティうめだを北上する。長い通路だった。暗く、明かりはなかった。必要な部分にしか電力が供給されていないようである。
懐中電灯の細い光を見て歩きながら、夏毅は訊いた。
「秘密基地というけど、ここの電力はどこからもってきてるんですか?」
「高層ビルに設置された太陽電池パネルが何基か生き残っていて、それで電力をまかなっているんだけど、もちろん、そんなんじゃぜんぜん足りない」
「ふうん……」
「もちろん、じゅうぶんな電力が確保されたとしても不夜城のように明々と電気を使うわけにはいかないでしょう、政府軍に見つかってしまう」
それはそうだ。
「ところで……次はどこへ?」
「公園よ」
「公園?」
梅田の地下に公園なんて、ない。
「まぁ……わたしたちにとっての『憩いの場』とでもいえば、いいのかな?」
さらに歩く。ノースモールをぬけて、左に曲がって、ここは阪急三番街の地下二階。
――この先には……。
噴水池があるはずだった。
そこへ行くのかな、と夏毅は思った。
が、
「ここよ」
店舗のあとが並ぶ地下街に、一ヵ所だけ、水が枯れたせせらぎの跡の横、明かりの灯っているブースが遠くに見えていた。
「ここは喫茶店……の跡ですか?」
「跡……ではなく、喫茶店だよ」
「えっ? 営業してるんですか?」
「そ」
信じられない。
「でも、正しくは営業してる、とはいえないかな」
マリイがそこをのぞくと、
「はい、いらっしゃい」
老齢の、戦闘には参加できそうにないような男が迎えた。
「お、今日はいつもの彼氏じゃないのか?」
夏毅を見て言った。
「やーね、もう、マスターってば。今日は新入りを案内しているの」
どうやらこの老齢の男が喫茶店のマスターらしい。エプロンもつけず、薄汚いシャツを着ているが。
ほかに店員も客もいなかった。
ずっと以前に地下街が地下街として機能していたころの店内の設備をそのまま使っているようである。
照明が他に比べてやや明るいとはいえ、薄暗いのは変わりなく、足下に気をつけながら、夏毅はマリイに促されてテーブル席につく。
「そうかい。若いの、なんにする?」
「あの……」
夏毅はどきまぎする。
「ここのコーヒーは泥水みたいでおいしいわよ」
マリイが茶化した。
「なんてこといいやがる」
苦笑するマスター。
旧知の仲といった、和やかな雰囲気。だが夏毅には入っていけない。
「じゃあ、コーヒーを……」
遠慮がちに言った。
「コーヒーふたつね」
「はいよ」
マスターは仕事にかかった。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね」
夏毅の向かい側にすわったマリイはテーブルに両肘をついて、あごの下で指を合わせる。
「あっ、――おれは紙野夏毅といいます。ラルフたちは夏毅と呼んでます」
「夏毅くんか……。わたしは瀬岡茉里子。みんなはマリイとよんでいるけどね」
「えっ?」
マリイは微笑した。
「そう。わたしはきみと同じ異世界人なの」
やっとわかった。
マリイが、どこかラルフたちとはちがう雰囲気をもっていると思っていたが、それがなにか、気のせいなのか、それともマリイが女だからなのか、夏毅にはわからなかった。
「ここへ来る前は、わたしは大阪の商社でOLをしていたの。大学を卒業して、勤めだして二年。仕事にも職場にもそこそこ慣れて、ま、いろいろと小さなもめ事はあったけれど、それなりにうまくやっていた。テニスのサークルにも入って、休日はそこそこ楽しくやってた。ボーイフレンドもいたにはいたし。でもね……、なにか足りなかったのよ」
コーヒーの香りが店内に充満しだした。
「そんなある日、気がついたら、突然、この世界に来ていた」
「おれと同じです。気がついたら、ゴーストタウンになった大和高田市の廃ビルの中にいました」
はいよ、とマスターは、湯気の立つ二つのカップをテーブルに置いた。
ありがと、とマリイ。
「わたしは東大阪市に転移されていたわ。そのとき町は政府軍とレジスタンスとの戦闘状態で、なにがなんだかわからなくて反狂乱だったわたしを保護してくれたのが、ラルフだった。彼からいろんな説明を聞いて、やっと事情がわかったものの、正直、これからどうしていいかわからなかったわ」
言いながら、小さなツボに入れられたグラニュー糖をスプーンですくい、カップに入れてかき混ぜる。ミルクは出されないが、なにもいわず、だから夏毅も無言で同じようにした。
カップに口をつけ、火傷しないように気をつけてすすった。
予想していたより苦くて、少し顔をしかめた。
一方、マリイは慣れたもので、あおるようにコーヒーを飲み込む。
「最初は元の世界へ戻ろうと思ったけれど、わたしはそこで考えてみたの。苦労して戻ったところで、そこに待ってるのはなにかって。祖国解放のために戦うラルフたちを見て、元の世界へ戻るよりは、ここで彼らと共に戦っていきたいと思った。人生を真剣に生きていくことが、わたしの求めていたことだと気づいたから」
「おれは……そういうふうには割りきれない……」
夏毅は半分マリイの言葉が信じられなかった。いくら真剣な人生とはいえ、ひとつまちがえれば命がないのだ。そんな危険な場所を選ぶなんて。
「でしょうね」
マリイは笑った。
「きみにはきみの人生がある。元の世界へ固執するのも悪くはない。でも」
と、店内を見やって、
「戦争はいつか終わる。そしてそのあと時代はわたしたちがつくる――」
「おれはこの世界に命をかける義理なんかないです。異世界人どうしだったら、きっとわかりあえるだろうとラルフさんたちは思ったんだろうけど……」
マリイに、二人だけで秘密基地を案内させたのは、つまりはそういうことだったのだ。レジスタンスのために力にならないか、ということなのだ。頭から命令するのではなく、あくまで本人の意志を尊重するという形で。
もちろん、その説得に応じるかどうかは夏毅次第だ。しかし夏毅はマリイとはちがう。
「それに――」
――マリイがこの世界で生きていこうと決心したのはそれだけじゃないだろう。
そこが夏毅とはちがった。
「ラルフなんでしょ、本当の理由は」
そうだ。生きがいというには、ここはあまりに過酷な世界だ。精神的に耐えられるところじゃない。それでも身を投じられるのは、強い支えがあるからなのだ。それが、ラルフだ。マスターの言った、彼氏というのが。
マリイはくふふ、と笑った。
「そうね。否定はしないわ」
ベンチを蹴って立ち上がった。
「さ、もう宿舎に行きましょう」
そう言って喫茶店から出てゆく。コーヒー代は払わないのは、そういうことになっているからだろう。
急に会話を打ち切ったマリイを、なにかまずいことでも言ったかな、と思いながら夏毅はあとに続いた。そして宿舎に着くまで、そのことについては触れなかった。
宿舎は、ホワイティうめだを戻っていった途中にある、富国生命ビルの地下二階にあった。
元は店舗だったところで、同じような間取りの部屋がいくつも並んでいた。大和高田から帰還した隊員以外にも、何人もの構成員たちがいて、次の出動までのわずかの間休息していた。
一部屋あたり六人ぐらいで、仲間たちは二つの部屋に分かれていた。
ラルフとルイスはまだ帰っていなかった。地上では、そろそろ日が暮れようとしているだろうに。
ポウルと同じ部屋に通された。
夏毅が部屋に入ると、
「よ、遅かったな」
とポウル。
部屋の入口で、それじゃあねと手を振ってマリイは帰っていった。
「どうだった、地下都市の見学は」
陽気な口調で、ポウル。
「うん、まあ……」
地下都市はたしかに驚かされることもあったが、それよりも、同じ異世界人であるマリイの話のほうがもっとショックだった。
夏毅が話し終えると、
「そうか。――マリイはマリイの人生だからな。そいつをおまえが気にすることはないさ」
「ポウルさんはおれにレジスタンスの一員になってほしい?」
「いや。前にも言ったが、信念がなければ戦いなんてできない。命をかけて戦ってるんだ。生半可な気持ちでやってもらっても、こっちが迷惑するだけだ」
ずけずけと、だが的確に言うポウルだった。
しかしもっともな意見だ。祖国の解放という崇高な目的の達成のための戦いなのだ。それに賛同できなければ、いっしょには戦えない。ラルフは夏毅を仲間だと認めてくれてはいるが、それも暫定的な処置で、現実には宙ぶらりんの状態だった。
「ま、それはともかく、とりあえず休んだらどうだ」
ポウルは口調をかえた。
「なんか食うか? たいしたものはないがな」
部屋の中央にテーブル。木製の、手作りのような仕上げの荒いテーブルだ。椅子が五脚。デザインはバラバラで、いろんなところからかき集めてきたのだろう。
「普通の食事がしたいですよ」
夏毅はテーブルに着き、改めて室内を見回す。
当然窓はない。相変わらず光量は抑えられているが、空調も、とりあえずはきいているようだ。ベッドがあり、三人が眠りこけている。
「ここにはいろんなものがあるから、ほんとに助かるぜ。やっと少しはまともな食事ができる」
心底幸せそうにポウルは言った。
ここへ戻ってくるまで保存食ばかりで、それも干し肉や黒パン、塩漬けの木の実ぐらいで我慢しなければならず、いつの時代だよと、夏毅は閉口していた。食べることは人間の本質だから、どんな状況であってもうまいものを食べたい。
「缶詰だってある。政府軍支給品のな」
レジスタンスが資金面で苦労しているのは明らかだった。潤沢な装備をもって戦えるわけではない。
「ところで、いつまでここにいるんですか?」
「ま、二、三日ってところだな。だから暖かい食事も、それまでの間だけだ。そういうことだから、食えるときに食っておこう。晩めしにしようか。ラルフとルイスを待っていたんだが、長引いているようだからな」
「寝てる人を起こしましょうか」
夏毅は席を立った。
「ああ。食事の用意をするから、手伝うよう言ってくれ」
と、ポウルは言った。