第11章 再会
紙野夏毅と紙野夏葵は地上に下ろされる。足が地について、妖精たちから解放されると、ふたりとも膝をついた。長い時間手足をつかまれていたせいでひどく痛む。
「あたしたちをどうする気なのかしら……?」
妖精がどうするつもりなのかはまったくわからないが、妖精にもいろんな種類のがいて、下等なものは人を食うものもある、と夏葵は聞いたことがあった。
それを言うと、夏毅は顔色を変えた。
「まさか! そうなのか?」
「なにもわからない」
「しかし、おれたちだけを狙ってさらってきたのは、単に喰うだけが目的とは思えない」
「それもそうだけど……」
とはいえ、無事に帰れるかどうか不安はぬぐえない。
正面に妖精の建物。外国へ来た感じ……国境を越えたのだから、まさしく外国なのだが。人間の国ではないものの。
建物の入口が大きく開いている。夏毅たちを連れてきた妖精たちが後ろに立ち、もう中へ入るしかないらしい。
「入るか」
と夏毅、確認するように。
「お先にどうぞ」
夏葵は応じた。
仕方なくうなずいて、夏毅が中へ入ろうとしたときだった。
建物の中から誰かが現われた。別の妖精だ。背は夏毅たちを運んできたゴブリンより高かったが、それでも夏毅たちより頭ひとつ分ほど低い。
顔はゴブリンと違って人間に近く、ふたりはホッとした。赤い髪、尖った耳……だということを除いては。
「あれはピクシーだよ」
夏葵が夏毅にだけ聞こえるようにささやいた。
緑色の服はピクシーの特徴だった。まさしく本物の妖精だ。
夏毅はゴクリと唾をのみこむ。心臓が高鳴っていた。これからなにが始まるのかという不安がさらに増した。
「とっとと中へ入れ」
ピクシーがしゃべった。人間の声を電気的に加工したような声だった。
夏毅はもちろんのこと、夏葵も妖精の声を聞くのは初めてだった。しかも人間語をしゃべるなんて。
驚いている二人をゴブリンが後ろからつつき、中へ入れ、とうながす。仕方なく中に入った。
建物の内部は薄暗かった。土の匂い。わずかな隙間から差し込む日の光に目が慣れてくると、内部の様子がよく見えてきた。
それほど広くはない。小さなホールといった感じだ。曲線を描く壁面と床が、いかにも非人間的な――妖精界の建造物、といった印象を与える。
「ついて来い」
ピクシーは偉そうに言うと、小ホールの奥へと進んでいく。夏毅と夏葵はその背中について行った。なにがこれから始まるのか予想もつかない。なんとなく、どちらからともなく歩く互いの距離が縮まった。
階段ではなく急なスロープがあり、そこを上がると、そのつきあたりの壁には隣の部屋へ通じる入口があった。扉がなかったので風穴といった感じだ。
すべりそうになりながら、夏毅と夏葵は妖精のあとについていく。
部屋に入ったかと思うと、ピクシーの姿がパッと消えた。
えっ? と思って部屋の入口から中をのぞいてみた。
二人はじっと目を凝らした。
暗い。が、かろうじて下の方に床が見えた。深さ二メートル以上はありそうだ。まったく、人間には考えられない建築設計思想だ。そしてピクシーはと見回してみると――壁を歩いていた!
びっくりしながら見ていると、ピクシーは下へと歩いていき、やがて床に立った。入口を見上げ、「下りてこい」と二人に向かって慇懃な口調で。
「なんだと?」
夏毅は驚いて言った。
「飛びおりろってのか? 人間には壁を歩くなんてことできないぜ」
飛びおりられない高さではなかったが、暗いし怖い。床の状態がわからないから躊躇してしまう。
「ここには魔法がかかっている。人間でも平気だ」
妖精はそう言ったが、そう簡単に信用できるものではない。
「おい、ああ言ってるけど、ホントに大丈夫か?」
夏毅は傍らの夏葵にささやくように訊いた。
「そんなことあたしに訊かれても……」
チラリと後ろをうかがうと、あのゴブリンがしっかりついていて、逃げられないようにガードしている。進むしかない。
「飛びおりてみようよ」
夏葵は下をのぞきこんで言った。
「この高さなら、気をつければケガはしないと思う」
「おれはこれぐらい平気だけど、きみは女だし――」
あっ、そうか……。
言いかけて夏毅は気づいた。夏葵は夏毅と同じ人間なんだ、と。男と女というちがいはあれど、基本的に考えたり思ったりすることや、人生経験は同じなんだ。
「そういうことなら先に行かせてもらうよ。あとからきてくれ。おれの上には飛びおりるなよ」
「わかってるわよ」
言わずもがなのことを言われて、夏葵は口をとがらせた。
夏毅は思い切って暗い穴底へ飛びおりた。が、予想していたよりも落下速度が鈍い。ふわふわと、まるで紙風船のように床についた。
ピクシーが言っていた魔法というのは、どうやらちゃんとかかっているようだ。気合をいれて損した。
夏毅は上を見る。
うなずくと、夏葵も飛びおりた。制服のスカートが少しうっとうしかったが、無事に着地。
床はそれほど堅くない。やはり土の地面だ。
だんだん回りが見えるようになってきた。目が慣れてきたのではなく、明るくなってきているのだ。蛍光灯のようにいきなり明るくなるのではなく、次第に。光源はどこなのかはよくわからない。不思議な明かりだった。これも魔法だろうか。
円形の空間だった。直径は五メートルほど。狭い。
そこに誰かがいた。夏毅と夏葵、それにピクシーの他に――三人。床にすわりこんでいて、人間か?
「連れてきたぞ」
ピクシーが、その三人に向かって言った。
「おまえたちの仲間だ」
――おまえたちの仲間。
ピクシーのその言葉に、夏毅はドキッとした。仲間って、まさか……。
ゴブリンにつかまれて空を飛んでいたときに見た並行宇宙転換装置の入った建物を思い出した。
その中にいた人間といえば――。
夏毅はその三人を見た。もうずい分部屋は明るくなっていて、その三人の姿ははっきりと見えていた。
「夏毅……!」
阿川ルイスと瀬岡マリイだった。立ち上がって、入ってきた夏毅と夏葵に驚いている。
かたや夏毅、二人を見て「やはりそうか」と思ったが、それよりも――。
もう一人、そこにいたのは――。
「これで全員そろったのか?」
政府軍の将校だった。夏毅たちを追いつめた相手の顔は見覚えがあった。
「この人は、恩地少尉だ」
ルイスが紹介した。
恩地少尉は、軽く会釈する。
「それはそうと、夏毅、その人は?」
マリイは夏葵を見て問う。
「ああ、この人は――」
夏毅は、これまでの顛末を交え、夏葵を紹介した。
夏葵も、つたない夏毅の説明を補足した。
「なるほどね……奇妙なこともあるもんだな」
ルイスは感心した。
「それはそれでわかったが――」
と、話題を変えた。ルイスにも話すべきことがあった。
「肝心なのは、これからおれたちはどうなるかってことだよ」
異世界人を集めて、妖精たちはなにをするつもりなのか――。
異世界の人間がこの妖精界にトリップしてきたことが、妖精が動いた直接の原因であることはたしかなようだった。これまで、というか、ここ千年ほど人間の侵入を許していなかった妖精界に、突然異世界の人間が現われたということが、この世界になんらかの影響を及ぼしたのだろう。それがどんなものかは想像もできないが、わざわざ物理界にまで出てきて夏毅と夏葵をさらったのだ。どんな影響があるのか妖精にはすべてわかっていて、それを解決すべく動きだした――ということだろう。
ピクシーが夏毅と夏葵を指さし、口を開いた。
「この二人が、おまえたちがここへ現われた元凶だ」
ズバリ指摘されて、夏毅はドキッとした。
「待ってよ」
すかさず夏葵が反論した。
「元凶って、なによ? なんであたしまでがここへ連れてこられるの。だいたい関係ないじゃん。あたしは異世界人じゃないんだし」
「ほほう……」
と、恩地少尉。
「小娘にしては覇気があるじゃないか」
なんか、ややこしいことになりそうだな、と夏毅は思った。妖精もそうだが、この軍人もなにを思っているのか――。
恩地少尉にとってはとんだ災難だった。好きで妖精界に来たわけではないのだし、それはレジスタンスのせいだというのは明白で、いわば巻きぞえをくったということになる。どんな気持ちで自分たちを見ているのかと思うと、夏毅は気まずかった。
「ここにいる人間はすべて、異変の原因である」
そこへ、ピクシーのせりふが神の声のように響いた。
「すでにおまえたちの処分は決定している」
いきなり言われて夏毅は面食らった。
ルイスがかみついた。
「待てよ、そいつはどういうことだ? 説明ぐらいしてくれてもいいだろ」
「処分だと? それはどういうことだ?」
恩地少尉が問いただす。
「あたしがなにをしたっていうの!」と夏葵。
各自がてんでに文句を言っている。
ピクシーの瞳がすっと猫のように細くなった。
「おまえが――」と、夏葵を指さし、
「この異世界人をここへ呼んだのだ。だから、関係がある」
「ええっ?」驚く夏葵。
全員の視線がいっせいに夏葵に向いた。
「呼んだって……。知らないよ、あたしはなにも……」
注目されて、夏葵はあたふたした。
「その気はなくとも、おまえの存在そのものが、異世界人を呼んだのだ」
「そんなこと……!」
夏葵は絶句した。
ピクシーは続けた。
「尋問はすでに終わっている。おまえたちは妖精界の秩序を乱した。このままではこの世界は汚染されるだろう。よって、妖精王へのいけにえとして、王宮へ連れていく」
「なんだと?」
ルイスが目をむく。
「おれたちを殺すっていうのか」
「そのとおりだ」
平然と、夏毅たちの動揺を無視してピクシーは言った。
「早く外へ出ろ」
「そうはいかない」
恩地少尉が立ち上がった。上着のポケットからひきぬかれた手には無骨なデザインの軍用拳銃が握られていた。
夏葵の悲鳴。
あっという間だった。四発を発射し、ピクシーは倒れた。硝煙。火薬の匂い。
耳がジンとしている。拳銃の音がこれほど大きいとは思ってもみなかった。それに狭い部屋だから余計に響いたのだろう。
銃弾は四発とも命中していた。頭部に二発、胸部に二発。人間なら即死だ。
夏葵は信じられなかった。突然の発砲に体がこわばって動けない。それに――動揺したのは、それよりも、妖精に対して武器を使ったということだった。
妖精には物理的な武器は通用しない――。それが常識だった。だが――。
数秒間、部屋が静寂に支配された。倒れたピクシーは動かない。恩地少尉は様子をうかがった。銃弾の跡には穴があいている。出血はしていない(妖精には血がないのかもしれない)が、生きているように見えなかった。
でも、まさか――と夏葵は信じがたい。ピストルで妖精が死ぬとは……。
ここが物理界ではなく妖精界だから? それとも異世界の武器だから? しかし、まちがいなくピクシーは撃たれて動かなくなった。
「武器をとりあげなかったことが、命とりだったな、ばかなやつだ」
妖精を撃った軍用拳銃をホルダーにしまう恩地少尉。
「行くぞ。こうなったら転換装置に戻る。――おまえらも来い」
えっ?
突然言われて、夏毅はドギマギした。状況が急展開すぎてついていけない。なにがどうなっているのかろくにわかっていないから、どう行動していいのかもわからない。
夏毅はまだしも、夏葵は異世界人のことを全然知らないのだ。混乱するのも仕方がない。夏毅同様、動けないでいた。
「どうした。ここにいたら、間違いなく殺されるぞ。それとも妖精に殺されたいか」
追い打ちをかけるように恩地少尉。
「行きましょう。この人の言う通りよ」
マリイも同意した。
「しかし……」
政府軍の将校といっしょに行動することに、ルイスはまだためらいがあった。
そのとき、
「なんてことするのよ。妖精を殺して、ただですむと思ってるの!」
我に返った夏葵が非難した。夏葵にしてみれば、畏れ多いことをしでかしてしまったという思いがあった。
「じゃあ、おまえひとりだけ、妖精のいけにえになれよ」
恩地少尉は非情に言う。
「ついていくしかないよ」
夏毅があきらめたように言った。
「このままじゃ、いけにえにされるし、逃げたほうがいい。捕まって殺されるかもしれないけど、なにもしないよりはいいよ」
ふう、と夏葵は息を吐いた。夏毅をにらんで、
「ずいぶん落ち着いてるよな。なにが起こったのかわかってんの?」
「わかってるよ。見てのとおりじゃないか」
「あんたはあたしと同じ人間だっていってたけど、妖精のことをなんにも知らないから、そう平然としてられるんだ」
夏毅の落ち着きに、夏葵は苛立った。
「逃げきれるとは思えない」
「了解したなら、ついてきな」
恩地少尉は壁に立てかけてあったサブマシンガンをとり、二メートル上の、唯一の出入口へ飛びあがった。まだ魔法は消えておらず、容易に足が届いた。
「妖精よりも人間を信じようぜ」
ルイスが、夏毅と夏葵に割って入るように言い、恩地少尉の後を追ってジャンプする。
「早くおいで」続いてマリイも。
「行こう」
夏毅はうながすと、膝を曲げてジャンプ。
「うわっ」
オリンピック選手もかくやというジャンプ力で二メートル上の出入り口に達した。
夏葵はもう一度、ピクシーの死骸に目をやると、仕方ないというふうにうなずいて、夏毅に続いてジャンプした。
小ホールにはさっきのゴブリンが何匹かいた。恩地少尉はサブマシンガンを撃って蹴散らした。まるでクモの子が散るように、ゴブリンたちが逃げていく。
「行くぞ」
恩地は振り返り、全員がついていることを確認すると建物の外に出た。
密林が広がっていた。道はなかった。妖精には道など必要ないのかもしれない。
キョロキョロと辺りを見回してから、コンパスで方位をたしかめると、
「こっちだ」
どんどん森の中へと入っていく。堂々とした態度で自信に満ち、こんな状況でどうしてそんな態度がとれるのかといぶかりながらも、夏毅たちはついていかざるをえなかった。
ルイス、マリイ、恩地少尉の三人は、あの瞬間――ルイスが並行宇宙転換装置を作動させたとき、まばゆい閃光とともにこの世界に飛ばされていた。
気がつくと、そこは鬱蒼とした森の中で、瞬時にしてそこが異世界だと察しがついた。
これからどうすればいいかと途方に暮れていたとき、あのピクシーが現われたのだった。ピクシーの話は支離滅裂でなにを言っているのかよくわからなかったが、この世界が人間のいない妖精界であるということはわかった。
そしてあの砦に連れていかれた。捕まったというより、案内されたといった感じだった。右も左もわからない世界なのだから、その世界の住人から得られる情報は貴重だ。攻撃的な態度でもなかったし、逆らう理由はない。ピクシーが歩くと、森の木は動いて道を作った。それでたしかにここは人間の世界ではないなと、了解したのだった。
砦の部屋でピクシーはさまざまなことを言った。――おまえたちの仲間が物理界にいる、この世界に異変がおきている、われわれは対処しなければならない、異変の原因をここにつれてくる。などというようなことを非常にわかりにくい言い回しで言った。
しかし危害を加えるという感じではなかったから、しばらくは様子を見ようということになった。
そこへ夏毅と夏葵が現われ、かかる事態になったのだった。
こんなことになったそもそもの原因はレジスタンスの異界都市潜入にあったが、恩地少尉はそのことにこだわらなかった。
「ここは戦場じゃない。ここには人間はおれたちしかいないようだから、脱出するためには、いがみ合っている場合ではない」
と、ひどく冷静だった。
「おれは政府軍の人間であり、軍人である以上、命令によってレジスタンスと戦っている。おまえたちに個人的な恨みがあるわけではない。必要なら協力も厭わない」
それに対してルイスも「そうだな」と一応うなずいた。恩地少尉の言葉は理解できたが、だからといって信用できるわけではなかった。油断しないようマリイにはもちろん、夏毅や夏葵にも釘を刺した。これまで命をかけて戦ってきた相手に対し簡単に気持ちを切り換えられるほど内戦は浅くはなかった。
「でもともかく、妖精から救けてくれてありがとう。軍人はもっと冷たい人だと思ってた」
夏毅は礼を言った。
「おれたちは人でなしじゃない。軍人といっても人間だからな」
考えてみれば当たり前だった。敵対しているからといって、憎しみ合っているわけではないのだ。
視界のきかない森の中の行軍が続いた。薄暗く、なにか出そうな雰囲気が不気味だった。武器はレオンの持っているものも含めて、サブマシンガンが一丁、拳銃が三丁、手榴弾が六つに軍用ナイフだった。妖精はなぜその武器をとりあげなかったのかと、考えてみると不思議だった。
妖精は、その武器が通用するとは思っていなかったのかもしれないと、夏葵が言った。
「だって、自衛隊だって手出ししなかったんだもん。妖精だってそれがわかっていたと思う」
「おまえの常識じゃそうかもしれないが――」
と、前を歩く恩地少尉が振り返らずに言った。
「こっちにしてみりゃ、そうならなくてラッキーだったぜ。――しかし、妖精が歩くと道ができたのにな。くそっ」
下草も深く、歩きにくい。最初のうちは会話もあったが、だんだん口数が少なくなっていった。とくにルイスとマリイは数日前からずっと作戦が続いていて体力的にも消耗が激しかった。
ピィーピィーという鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「へえ。妖精界にも動物はいるんだな」
夏毅は見上げ、つぶやいた。
「気をつけて、みんな!」
唐突に夏葵が叫んだ。
「どうした? なにがあるんだ」
ルイスが振り返る。
「あれは妖精動物だよ。襲ってくるかもしれない」
「妖精動物だって?」と夏毅。
「そう。普通の妖精とは違うけど、妖力を持ってるから、危険かも」
思い出した。異界都市で襲ってきた巨鳥のことを。あれは妖精動物だったのだ。
ルイスとマリイが拳銃を取り出す。恩地少尉も肩にかけていたマシンガンを手に持った。周囲に視線を走らせながら、安全装置をはずす。
「ふん。なるほどな」
恩地少尉が夏葵に向かって言った。
「どうやら妖精界については、おまえがいちばん詳しいようだ。安全のために、いろいろと教えてもらわなければならんな。あんたはこの世界の住人だし、もしこの世界に住むことになったら指針にもなる。この妖精界はまったくわけがわからん」
「あたしもここへ来たことなんかないわ。日本史で習ったけど、最後に妖精界に人間が行ったのは一二〇〇年前だよ。安倍晴明っていう人が……」
解説しようとしたが、実はあまり詳しくなくて、夏葵は黙り込んだ。学校の授業でもそれほど詳しくは教えなかった。
妖精や妖精界についてはちゃんと研究している学者が大勢いたが、すぐ近くに存在しながら接触できないということが、一般人の興味を半減させていた。
「ま、どっちにせよ、今のところおまえの知識が必要だろうからな。――妖精界にいる動物は、ぜんぶ妖精動物なのか?」
夏葵はうなずいた。
「やたらと襲ってくるわけじゃないけど、気をつけたほうがいい」
「マシンガンが通用すると思う?」
と、夏毅が横からささやいた。
「妖精に通用したんだから、たぶん……」
「それはともかく、日が暮れないうちに、たどり着ける?」
マリイが不安を口にした。
進む方向が正しかどうかもわからないし、このまま日が暮れてしまったら、妖精や妖精動物に襲われることもありうる。食料も飲料水もなく、まさしく着の身着のままで脱出したから、なん日もかかっていてはそれだけで命にかかわる。
「それはわからん」
恩地少尉は正直にこたえた。
「なにしろここまで森のなかを下草を分け入っての行軍だからな……。見通しが悪いから、この先どんな障害物があるかわかったもんじゃない。大きな川や崖があったら、我々はそこで呆然と立ちすしかなくなるだろう」
「それなら、だいじょうぶだよ」
夏毅が明るく言った。
「途中には大きな川も崖もない。ここへ連れてこられるとき、上空から見てたからわかる」
「でも湖があったじゃないの」
夏葵が言った。
「けど湖はあの建物との直線状にはなかったよ」
「空を飛んできただって?」
ルイスが声を上げた。マリイ同様、内心心配していたらしい。
「おれたちは地上を引きずられてあのアリ塚に運ばれたからな」
恩地少尉は前を向いて歩きながら言う。
「不思議な感じだったわ」
マリイがそのときのことを思い返した。
「妖精たちが歩くと、木々がよけていくのよ。つかまったわたしたちは、妖精にひっぱられて、その空いた空間を通って行ったの」
「それを見ただけで、おれたちは『こいつらはこの世のものではないな』と思ったから、しばらく様子を見ていたんだ」
ルイスが、マリイの後を受けて言った。
「待て、なにかいるぞ」
そのとき、緊張した恩地少尉の声。
前方に、なにかが動いた。
恩地少尉は目を凝らした。
「妖精ではない、動物らしい。だが気をつけろ」
短く言った。一瞬にして空気が緊張した。このまま進めばどうしても接触する。逃げてくれればありがたいが……。
「あれがなにかわかるか?」
恩地少尉が夏葵に訊いた。
夏葵は目を細めた。シカよりも遥かに大きなシルエットが木々の間に見え隠れしている。
「ええっと……」
たしかにこのメンバーのなかではいちばん妖精界については詳しかったが、熟知には程遠く、あまりあてにされても正直、困る夏葵だった。だいたい妖精界に来たことのある人間なんて、夏葵の知る範囲では皆無だったから、知識を求められても限界があった。百科事典のようにこたえられるわけもない。
「ブーブリーかな……」
だがわかった。乏しい知識の中から拾いだして、夏葵はつぶやいた。
木々の間の陰に隠れてチラリと見えているそれは巨大な水鳥だった。ブーブリーは獰猛な巨大な水鳥である。妖精動物は、姿形は普通の動物とあまりかわらないが、やたらと大きいのがいた。
「異界都市で襲ってきたあいつかもしれないな」
ルイスが思い返していた。レジスタンスの仲間数人とともに異界都市に潜入した際に最初に遭遇したのは政府軍ではなかった。体長四メートルはある、巨大な「水鳥」だった。
もしそれだとしたら襲いかかってくるかもしれない。あのときの経験から、攻撃的な性格だと判断できた。
「先に攻撃しましょう」
マリイが恩地少尉の背中ごしに提案した。獣が相手ならそうすべきと判断した。襲いかかられてからでは間に合わないかもしれない。
「いや、待て」
しかし恩地少尉は乾いた声で、
「あんなにでかい体だ。弾薬のムダづかいは避けたい」
弾薬は携帯できるものだけで、銃身のマガジンに入っているので全部だった。手榴弾もわずか六つ。
妖精たちの世界で、この武装ではいかにも心許なかった。しかも相手が魔法のような武器を持っているとも考えられる。慎重になるのも無理なかった。
夏葵に向かって、
「あいつはどんな魔法を使うんだ?」
妖精の研究者じゃないんだから、そんなこと訊かれたって知るもんか、と夏葵は口の中でぶつぶつ唱え、
「そこまではわからないですよ。でも魔法を使わなくても、じゅうぶん危ないと思います」
「だろうな……。気をつけて進もう。確実に仕留められる距離にまで近づく」
「了解だ」
ルイスが同意した。恩地少尉をリーダーにするつもりはなかったが、この世界を脱するまでは、頼ったほうがいいだろうと結論していた。異世界で争っても意味がない。
さらに前進していくと、巨鳥=ブーブリーの姿がはっきりとしてきた。食べ物でも探しているのか、ごそごそと動いている。あれだけの巨体を維持するためには相当の食べ物が必要になるだろう。となると、襲ってくる可能性はじゅうぶんある。
ブーブリーがこちらを向いた。目がこっちを見ている。明らかに発見された。首をかしげ、いかにも鳥らしい仕草を見せたかと思った次の瞬間、
「全員、伏せろ!」
恩地少尉が叫んだ。
ルイスとマリイが反射的に木の陰に隠れた。
それを見て、夏毅と夏葵がならった。
恩地少尉が手榴弾を投げた。あれだけの巨体ではマシンガンを打ちこんでも倒せないだろうと判断して、すでにピンを抜いていた。
手榴弾が爆発した。すごい音だった。
「ひえっ!」
頭を抱えて夏葵だけが悲鳴を上げた。爆発音なんて初めて聞いた。夏毅は、この世界にくる前に戦闘を経験していたからまだ耐性があったが、夏葵は今日まで平和に過ごしてきた高校生である。突然巻き込まれた戦闘に身が震えた。
「ようし、仕留めたぞ」
恩地少尉の声に、あとの四人が頭をあげるが、たちこめた煙でよく見えない。
その煙が徐々に薄れていくも、ブーブリーの様子を確認しようとする一歩がまだ踏み出せない。
恩地少尉だけが自信を持って前進する。
手榴弾の爆発を受けて、巨鳥が倒れていた。
「やった!」
夏毅が握りしめた拳を振った。
その隣で、夏葵の顔が青ざめていた。
「こんなことって……」
さっきピクシーを射殺したショックもまだ冷めないうちに、今度は妖精動物を……。
「死んだの?」
マリイが訊いた。
「そこまではわからないが……もうのびていて脅威はない」
そう言いつつも、たしかに脅威がなくなったのかどうか見るべく、サブマシンガンをかまえながら巨鳥のそばへと歩む。
ゆっくり近づいてみると、とんでもない大きさだった。近くで見ると、思っていたよりも倍ぐらいの大きさに思えた。
草の上に倒れたまま動かない。手榴弾の爆発破片を浴びて体中に穴があいており、妖精と同様、血は出ていなかったが、生きていたとしてもこれでは立ち上がることもできないだろう。
「こいつは食えるのかな?」
緊張した空気をやわらげようと、夏毅は冗談を言った。
「仲間がいるかもしれん」
が、恩地少尉はそんな冗談につきあうつもりはないようだった。
「さ、行くぞ」
と、そのとき、ブーブリーの死骸が消滅した。残像が消えていくように、空気に溶けて。
「なるほどな……」
ルイスが関心する。
「たしかに普通の動物ではないな……」
夏葵も初めて消滅する妖精動物を見て声を失う。そして、ただの動物でないことをあらためて知り、底知れない恐怖を感じた。このまま妖精界をさまようことになったら、どんな異常な事態に遭遇するやら……常識の通用しない場所で本当に助かるのか、見通しはこの森のように悪かった。
湖に出た。
薄暗い森の中から、いきなり視界が開けた。上空から見たあの湖だ、と夏毅は思った。あの並行宇宙転換装置はたしかにこの近くにある。恩地少尉のいった方角は正解だったということだ。
夏毅はあらためて思うが、ここは紀伊山脈のどこか、のはずなのだ。こんな広い湖があったろうか……と思い、しかし人工衛星から見ても見えない、ここは特殊な地域なのだろうと無理に納得した。
「のどが乾いたし、ちょうどいい。水筒にも水を入れましょう」
マリイが提案した。ステンレスの水筒を携帯していた。
作戦にあたって武器の他に、負傷した際の応急治療具、非常用食料などを背負っていた。それは通常の軍隊と同じだった。サバイバルな状況を考慮しての装備だ。
「そうだな」
ルイスが同じように水筒を背嚢から取り出そうとしたとき、
「待って!」
夏葵がするどい声で制止した。
「水棲馬がいるかもしれない。不用意に水際に近づいたら引きずりこまれる」
「水棲馬? なんだい、それ」
と夏毅、眉をひそめて、
「馬が湖に住んでるっていうのか?」
「聞いたことがあるの。水棲馬は獰猛で、岸に近づいた獣を捕らえて食べるんだって」
「だいじょうぶだろう」
ルイスが湖をざっと観察する。
「ちょっとの間だけだし、とくに変わった様子は――」
バシャ――。
なにかが水面をはねた。水飛沫から察すると、けっこう大きい。魚だとしてもマグロぐらいはありそうだった。
「やめたほうがいいんじゃないか」
恩地少尉が湖面を眺めながらなにかを感じていた。太陽光にキラキラと反射して、まぶしさに目を細める。
「平気だろう」
水筒を片手に、ルイスは波打ち際へ歩みよった。人の手が及んでいないから汚染の心配もない。きっと美味い水にちがいない。
沖の方に岩がある。
「あれは……」
夏葵が気がついた。――そこになにかがいる。遠くてはっきりとは見えないけど……。いけない。この湖には絶対になにかが潜んでいる。あれは見張り――? マーメイド?
「どうかした?」
夏毅が夏葵の様子をいぶかしんだ。
「なにかいるの?」
ルイスがしゃがみこんで、水筒に水を入れようとしたときだった。すぐそばの水面が激しく揺れた。とっさに水際を離れた。
すかさず恩地少尉がサブマシンガンを、マリイが拳銃をかまえた。
水面からなにか大きなものが現われた。
水棲馬――?
たしかに馬のような姿だったかもしれなかったが、じっくり見ている間もなく大きな水飛沫を残して湖の中へと消えていった。
静寂。
かまえていたマシンガンの銃口を上げると、恩地少尉はひとつ息をついた。
「建物にも水や食料はある。それまで我慢するんだな」
「どうやらそのようだ……」
蒼白な顔でしりもちをついていたルイスはうなずいて、立ち上がった。
恩地少尉はコンパスで確認し、「よし、あっちだ」と指さす。
ガサッ――。
そこへ、全員がなにかの気配に気づいた。森の中になにかがいる。今の、水棲馬(?)の出現に反応して、別の妖精動物が動き出したのかもしれなかった。
湖を背に、五人は息を殺してその気配をうかがう。
「正体は、なにかわかるか?」
恩地少尉が夏葵に訊いた。
「森に隠れててよく見えない。でも……黒妖犬……かしら」
黒妖犬――犬といっても牛ほどの大きさの獣で、危険だと夏葵は聞いていた。
「だが一匹だけなら、なんとかなるだろう」
恩地少尉が片手でサブマシンガンをかまえなおし、もう片方の手で手榴弾を握った。手榴弾はあと五つ。
立ちふさがる障害は排除しなければならない。恐怖に打ち勝ち、戦うのが軍人の本分だった。
「ゆっくり移動しろ……」
恩地少尉が命じる。
「やつが攻撃してきたら手榴弾を投げる。やつがひるんでる間に走って逃げるんだ。わかったな?」
「了解だ」
とルイス。戦い慣れた恩地少尉にすっかり対応を任せてしまっていた。
手で方向を指示しながら、ゆっくり移動していく。
まだ姿は見えない。それが余計に不気味だった。
いつ襲ってくるのかわからない。できれば戦わずにいきたいところだった。妖精動物が相手となると勝手がわからない。
突然、黒い大きな影が森から空中に飛び出した。
ガオッ――!
吼え声が響いた。
手榴弾は間に合わない。恩地少尉はためらわずサブマシンガンを連射する。
有効かどうかわからないが、ルイス、マリイも反射的に拳銃を撃った。
飛び出してきた影の動きが速く、銃の照準が定まらない。
影はまっすぐには向かってこなかった。銃声に驚いて、方向転換。
「やっぱり黒妖犬!」
夏葵が叫んだそのせつな、黒妖犬は身を翻してさっと森の中へと走り去っていった。
「逃げたのか……」
つぶやきながら、ルイスは拳銃をまだかまえている。
「それはわからん。戻ってくるかもしれん」
恩地少尉は夏葵に向かって、「どうだ?」と訊く。
「妖精は鉄を苦手にしてるって聞いたことがあるから……。銃器を見て逃げたとしたら、もう戻ってこないと思う」
妖精にとっては、銃や刃物は鉄そのものなのだろう。妖精から身を守るにはナイフをかざすだけでも有効かもしれない。
「でも、今のうちに移動したほうがいいよ」
夏毅がつぶやくように言った。
「むろんだ」
恩地少尉はうなずいた。
「転換装置まであと少しだ」




