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二重迷宮の彼方  作者: 赤羽道夫
第2部
10/15

第10章 妖精界

 一時限目が始まる。古典。いきなり退屈な授業だ。教室はざわざわとして、先生の声をちゃんと聞いているのは何パーセントぐらいだろう。

 紙野夏葵かみのなつきも、黒板に書かれた字だけはとりあえずノートに書き写していたが、説明までは聞いていない。

 右隣の席の菊井千織きくいちおりがうるさい。好奇心ギンギンで、異世界の人間というよりも異性のナツキということに興味がありそうだ。

「あんた、そううれしそうに言うけどね」

 と、夏葵は声をあらげて――でも授業中だからボリュームは低く抑えて、

「あたしの身にもなってよ」

「そんなこと言っちゃって――」

 千織は無邪気だった。

「ファンタジーだよねぇ」

「あいつの話がホントかどうか怪しいもんだ」

「まぁだ疑ってんの?」

「というより、これからどうするつもりなのかってこと。ずっと付きまとわれるなんて、冗談じゃない。なんとかならない?」

「あたしが夏葵の立場だったらね……」

 千織は視線をチラリと窓の外に向け、ふうむ、と息をつく。

「たぶん、息がぴったりのいいペアになるんじゃないかな。なにしろ自分と同じ性格なんだもん。大冒険の予感。恋人以上の関係だな」

「なに想像してんの、気持ち悪い」

 夏葵は顔をしかめた。――ああ、こんなやつに真面目なこたえを期待したあたしがばかだった……。なんで夏毅なつきのためにこんなに気にやまなきゃなんないのさ。あたしの日頃のおこないに、なにかバチでも当たるようなことがあったか?

「そんなに邪険にすることないんじゃない? そっくりなんだから」

「それが生理的に気持ちの悪いもんだということがどうしてわからないの」

「そうかなぁ……」

 わかってくれない千織に顔をしかめると、夏葵は窓の外を見る。夏毅……。今ごろなにしてんだろ……。



 とりあえず家にずっといるわけにもいかない――いてもなにも進展しないから、ということで学校へ来てはみたが、もちろん元の世界へ戻る手がかりがあるというわけでもない……。だから、いったいこれからどうすればいいのか正直なところ見当もつかない。

 夏毅の今の状況は冷静に考えて危うかった。もしもこのまま元の世界に戻れなかったら――想像するとめまいがしてくる。

 しかしそれでも、夏毅はどちらかというとまだ楽観的だった。異世界とはいえ自分のいた世界と非常に似た、いわばよく知っている世界なのだ。少なくともここにいる以上、命の危険はないだろう。

 夏毅がここへ跳ばされる前にいた世界は内戦で荒れていた。荒廃した街で出会ったレジスタンスについていかなければ生きてはいけない。政府軍の攻撃にさらされ、いやおうなく戦いにまきこまれた。

 だが今――夏毅は現実ここにいる。元の世界ではなかったが、戦いからは脱出できた。それなら、なにかふとしたことが原因で元の世界へ跳ばされることもあるんじゃないか。どんなことがトリガーになるかわからないし、とりあえずはこの世界の自分――夏葵の行動を追跡する――それが、夏毅が今できることのすべてだった。しかし女子高に足を踏み入れるわけにもいかず、夏毅は学校の周囲、その近辺を歩きまわっていた。

 のどかな午前の町。それが、夏毅の心をのんびりさせた。冬の日差しがまぶしい。学校をフケたような感じ。

 学校の近辺もよく知った光景だった。まだ開いてない商店街。奈良ファミリーの大きなビル。県内有数のターミナル駅である近鉄・大和西大寺駅の近くはにぎやかだ。

 だがここは、夏毅の思い出の中にある場所とは違う。いくら似ていても。なんだか嘘のようだ。

 ここは繁華街ではないから、補導員に呼び止められることはないだろう。

 そういえば、元の世界の自分が通っていた学校では今ごろどうなってるだろう、と夏毅は思う。行方不明である。警察に捜索願が出ているかもしれない。もし戻れたとしても、ただではすまないだろう……。

「おおっ……?」

 そのとき、なにもかも見た覚えのある街並みを眺めていた視界の端に、なにかが横切った。ハト? カラス? ドローン?

 前の世界での緊張した神経が、小さな変化を見逃さなかった。

 ちょっと立ち止まり、夏毅は空を見上げる。気にするほどのことでもないか――と思ったが。

 ――ええっ?

 旋回して、戻ってきた。しかしそれは――夏毅の予想したどれでもなかった。鳥でも機械でもなく、はじめて見る異形のものだった。

 空中に停止する。

 いったい、あれはなんだ? 夏毅は混乱した。目の錯覚ではない。

 小柄な人間のような形体だが、あきらかに人間ではなかった。背中に翼がある。バタバタと忙しく羽ばたいて。

 服のようなものは着ていなかったから、全身が青色だというのがよくわかった。そして頭――。遠くてよく見えないが、化け物の顔みたいだった。少なくとも人間の顔ではない。鬼? 天狗? それとも妖怪か?

 まさか――。

 しかし同時にそれは夏毅に、ここは異世界であるということを思い出させた。

 が――。

 びっくりするのはまだ早かった。そいつはキョロキョロと頭をめぐらせていたが、やがて夏毅を見つけたかのようにこっちを向いたのだ。そして――。

「!……」

 急降下してきた!

 ――危ない!

 夏毅は反射的に頭を両手でかばい、身をちぢめた。頭上に風。鬼が通り過ぎた。

「なんだよ、いったい……?」

 頭を上げ、また攻撃してこないうちに、とにかくどこか安全なところへ。まわりを見て走りだす。

 後ろを振り返った。

「げっ!」

 追いかけてくる!

 ――なんでだよ!

 だが、パニックをおこしているのは夏毅だけではなかった。周囲の通行人たちも、あたふたと逃げたり驚いていたり。悲鳴が聴こえる。ということは、この世界の住人にとってもこれは普通の出来事ではないということか、と冷静な気持ちで思えるほどの余裕は今の夏毅にはなかった。

 しかも化け物は一匹ではなかった。次々とどこからともなく、まるで死体にむらがるハエのように集まってきて、あっという間に空を覆う大編隊と化した。

 そして、その群の狙いは夏毅だった。理由なんてわかるはずがない。もし理由があるとすれば、夏毅が異世界の人間であるということだけだが……そうなのか?

 しかしそうだったとしても、逃げなくてはいけないことにかわりはない。あんな魔物に捕まったら、なにをされるかわからない。食う気かもしれない。冗談じゃない!

 息が切れそうになりながら、どうにか駅前までたどりついた。人の多いところへ来ればどうにかなるだろうと思ったのだ。電車に乗ってしまえば、もうこっちのものだ、と。いくらなんでも電車についてくることはできまい。

 が、甘かった。寸前でついに包囲され、改札につながる階段を登れなくなって、壁に追いつめられた。絶体絶命である。情けないが脚が震える。

 いいい、いったいどうするつもりなんだ?

 醜悪な顔からは表情はまったく読みとれない。なにを考えているのかさっぱりわからない。だいたい、何者なのか――? それもこんなにいっぱい集まってきて。おれひとり捕まえるのにおおげさすぎやしないか? 十匹や二十匹じゃない。数えきれないが、とにかくたくさんいる。

 そのせいで駅前広場は大混乱となっていた。朝のラッシュをすぎ、いくらか閑散とはしていたが、商店は開店準備をしようとしているころで、人が少ないわけではない。突然来襲したエイリアンに、騒然となっていた。

 まさか、こいつらも並行宇宙転換装置でこの世界に跳ばされた異世界の住人なのか――? ということなら、話せば通じる……ような雰囲気はまったくない。

「うわっ、――放せ!」

 背中から襲われた。鋭い爪が両肩をつかんだ。服が裂けるかと思うぐらい。

 そして――。

 持ち上げられた。何匹もがよってたかって夏毅の体をつかみ、上昇する。

「ひええー!」

 数十匹の妖怪に、夏毅は連れ去られてしまう。この世界では命の危険はなさそうだと思っていたが、どうやらそれは大きな間違いであったようだ。



 二時限目終了のチャイムが鳴った。休み時間になって、こころおきなく話ができる。けれど内容が内容だけにあまり他の人には聞かれたくない。ヘンなやつだと思われたらイヤだ。

 それで窓際によってボソボソと。状況はだいたい話し終えたので、次はこれからどうするかということ。千織の興味も、単なる風変わりな異性ということではなくなってきた。

「もしも今日一日かかってなーんも手がかりが見つからなかったら、また夏葵の部屋に泊まることになるわけだよね?」

 千織が確認する。

「それが頭の痛いところなんだ……」

 夏葵は窓枠によりかかって外をながめる。広い校庭の消えかけた白線は、一時限目が体育だったどこかのクラスのつけた跡だ。

「一日だけならどうにかなったけど、これがつづくとね……。あいつもそうなるのがいやだろうから、焦ってると思う」

「でも、どうするつもりなんだろう? なにか見当はつけてるって、聞いた?」

「いいや」

 夏葵は、打つ手なしといった表情で首を横に振る。

「あたし自身が、なにかの手がかりだとも言ってんだけど、なんのこっちゃ……」

 頼られても困る。

「夏葵になにかしてほしいってこと……かな?」

 首をかしげながら千織。

「実はあたしに超能力が隠されていた……とかね」

 窓枠に頬杖をついて、自虐的な笑みを浮かべる。

「正直途方にくれるよ」

 突飛な思いつきならいくらでもありそうだが、現実的ではなかった。もっとも、今回のことで現実的な話など通用しない。

「ねっ、あれ見てよ!」

 唐突に、千織が空を指さして言った。

「なぁに?」

 と、夏葵。あんまり千織が大きな声を出すからびっくりした。

 それを最初に見つけたのは千織ではなかった。他の生徒がガヤガヤと騒がしい。窓から空を見て。

「……ゴブリン……?」

 千織がつぶやいた。

「間違いないよね……あれ……」

「まさかと思いたいけど……」

 夏葵も信じられない。

 しかし――。

 青い体にコウモリのような背中の翼。間違いなく妖精――ゴブリンの一種だ。妖精がここへ来るなんてことが……。

「どうやら――」

 と千織、夏葵に向かって、

「始まったんじゃないかな。夏毅かれの言う『なにか』ってのが……」

 そうかもしれない。夏毅がこの世界へ迷いこんだことが原因で、妖精界が動きだした――。考えられないことではなかった。妖精が妖精界から出てくるなど、余程のことがない限りあり得ない。では、彼らはいったいこの物理界でなにをしようというのか。夏毅のパラドックスを破ろうとするのか。それとも、夏毅とはなんの関係もないのか。あるいは……。

 妖精の数が増えてきた。十匹、二十匹……。それがすべてこの学校に向かってきた。たちまち大騒ぎになった。

 妖精についての話は聞いたことはあったが、もちろん誰も本物を見たことはなかった。だからどう対応していいかわからない。妖精は危険なものだというのが一般によくいわれていたから動揺するのも無理はなかった。生徒も職員も、パニック状態になりかけている。

 妖精たちは校舎の周囲を飛び回り、中を見まわす。何匹かが校舎内に進入し、廊下を闊歩する。耳まで裂けた口と瞳のない細長い目。悲鳴を上げて逃げ回る生徒たち。

 夏葵たちは机の陰に隠れていた。隠れる必要があるのかどうかはわからないが、とにかく隠れた。他の生徒たちも何人かは同じように。息をひそめて。すすり泣く声も聞こえる。

 妖精の目的はわからない。なにかを探しているようだが。そして敵意があるのかどうかも。仮に敵意があったとしても人間には対抗手段がなかった。妖精にはいかなる物理的力も通じない、とされていた。少なくともこの物理界では。それ故、人間の住む物理界の隣に広がる妖精界には誰も介入することはできないし、逆に妖精が物理界に現われることもなかった。したがって妖精についてはほとんど伝説しか情報がなかった。大昔の、かつて人間と妖精が交流していたという時代の。

「もしかして――」

 千織は夏葵にささやいた。

夏葵あんたを探してるんじゃない?」

「ええっ? なんでさ」

「だって、他に考えられないもん」

「でも、まさかこんなことって――」

 たしかになにかが起こるかもしれないとは思っていた。しかしまさか妖精がやって来るなんて――。

 どうだろう? 果たして夏毅と関係があるのだろうか。そしてあたしと――。

 張り詰めた空気が教室を満たしていた。クラス全員が緊張していた。

 そのとき、その静寂を破られた。派手な音をたてて窓ガラスが砕け散った。

「きゃああ!」

 生徒の悲鳴が上がる。

 妖精が何匹か教室内に入ってきた。机や椅子が倒される。あわてて廊下へ逃げ出す生徒たち。夏葵たちも一緒に。

 だが廊下にも妖精がいた。

 逃げる。逃げなくてもいいのかもしれなかったが。

 教室の逃げ遅れた生徒には見向きもせず、妖精たちは追いかけてくる。さらに、廊下で脚がすくんで動けない生徒をも無視して。

 夏葵はチラリと後ろを振り返り、仰天する。――間違いない。あたしを追っている!

 一方、一緒に逃げている千織は、夏葵が狙われているのかもしれないとは薄々感づいてはいたが、逃げるのに精一杯でそれ以外のことに注意を振り向けられない。

 廊下に備えつけられてある消火器が目に止まった。夏葵はすかさずそれをとる。予想以上に重くて少しふらついたが、ピンを抜いてホースの先端を追ってくる妖精に向けた。物理的力が通用しないなどといっている場合ではなかった。やってみなければわからない。ひょっとしたら倒せるかもしれないし、それに一回これ、やってみたかった。

 レバーを握る。

 シュー! という音とともに白い煙が噴出して、視界がいっぺんに悪くなる。たしかに命中したと思う。命中しなかったとしても目くらましにはなっただろう。この隙に逃げる。煙に咳きこみながら千織に追いついた。

「あんた、ムチャするよ」

 千織はあきれた。

 が、これで危機を脱したわけではなかった。突然行く手をふさがれた。五匹の妖精が廊下に侵入してきていた。

「うっ!」

 止まろうとしたが止まれない。そのまま体当たり。妖精とひとかたまりになって転んだ。

「きゃああああ!」

「いやあああ!」

 腕を振り回し脚をバタつかせて、群がる妖精を追い払おうとする。しかし妖精は夏葵ひとりに集中した。同じように転倒した千織には目もくれない。

 体は人間よりやや小さいものの、何十匹もが一度に襲ってきては必死の抵抗も効果がなかった。ほどなく夏葵は妖精たちに動きを封じられた。

「放せ! このやろうぉ!」

 大声で叫ぼうが妖精たちはひるまない。夏葵の体をつかみ、背中の翼を羽ばたかせた。

「夏葵!」

 千織が叫んでいた。自分は難を逃れられたが、夏葵が捕まっている。壮絶な光景に体が震えた。まさか、食われてるんじゃ……。

 妖精たちが浮上する。夏葵を捕らえて。

 窓から校舎の外へ。

「夏葵ぃ!」

 妖精たちの動きは速かった。あっという間に空高く昇っていった。捕まった夏葵が妖精たちの間からなにかを叫んだようだったが、その声は千織の耳には届かなかった。



 紙野夏毅は下を見下ろす。奈良盆地――正確には自分の住んでいた奈良盆地ではなかったが――を上空から見るのは初めてだった。

 稲刈りを終えた田んぼが茶色く広がり、木々で覆われた小山のような古墳、耳鳴山の先の線路を黄色い近鉄特急が走っていくのが見えた。生きている町を久しぶりに見た感じがした。たったの数日がひどく過去のように思えた。

 だが、空の旅を感慨深げに楽しむどころではなかった。

 翼の生えた鬼――妖精につかまれて、不安定も甚だしい。今にも落ちそうで、景色を楽しむ余裕などない。飛行機に乗って空を飛んでいるのならまだしも、手足や胴をつかまれてぶら下がっているというのは、いつ落とされるかという不安が常につきまとって精神衛生上非常によくない。

 ――いったいこれからおれはどうなるんだ?

 夏毅はいいようのない不安にかられる。こいつらがいったい何者なのか全然わからない。この世にこんな化け物が存在するなんて、やはりここは異世界だ。元の世界と似ているが、根本的なところでまったく違う。

 だが、とにかく、今ここで騒いでも仕方がない。落とされでもしたら一巻の終わりだ。幸いとって食おうというのではなさそうだから、しばらく様子をみよう――というか、そうする以外になさそうだった。

 それはともかく――どこへ連れて行こうというのだろう。

 南東へ向かっているのはわかった。桜井市をこえて、山の中へと入っていく。このままだと吉野から大台ヶ原――紀伊山地の上空へと達する。そこになにがある? 化け物の巣か? なぜおれが? おれが異世界人だからか?

 さっきからときどき話しかけてはいたが、鬼たちは夏毅の質問にはこたえてくれなかった。一言もしゃべらないところをみると、人間の言葉がわからないのかもしれない。もっとも、グロテスクな顔を見る限り、言葉が通じるとは到底思えなかったが。

 飛びたってからどれくらいたったろうか、眼下には予想通り山地が広がっている。遠くに同じ種類の化け物の一団が飛んでいるのが見えた。彼らもまたなにかを捕まえているようだった。それが、だんだん接近してくる。

 ――まさか、おれと同じ異世界人?

 夏毅は目を凝らした。

 どんどん接近してくる。あまり視力はよくないが、次第にわかってきた。見たことがある制服だ。

 あれは……。

 夏葵だ!

「おおーい!」

 夏毅は大声で呼びかけた。返事はない。

 次第に近づく鬼の群の中の人影の顔は夏葵だとはっきりわかった。ぶすっとした表情で、夏毅をにらみつけていた。

「これは……いったい、なんなんだ?」

 夏毅は質問をぶつけた。

「それはこっちのセリフよ!」

 夏葵は不機嫌だった。この状況が、夏葵の望んだものでないのは明らかだ。

「そうなのか?」

 意外だった。てっきり知っているものだと夏毅は思い込んでいた。

「おれにもなにがなんだかさっぱりわからない」

「あたしもよ。妖精にさらわれるなんて、夏毅だけならわかるけど、なんであたしまで」

「妖精だって?」

 夏毅は仰天した。上を見上げると、不気味な怪物がひたすら翼をはばたかせている。こいつらが妖精だって?

「妖精が物理界へ出てくるなんてこと、めったにあることじゃない。異世界人のあんたのせいで、あたしまでこんな目に――」

「この世界には妖精がいるのか?」

「当たり前じゃないの。あんたのいた世界じゃ、妖精がいないの?」

「妖精は想像上のものでしかない。おとぎの国の話だ」

 夏毅は言って頭上の魔物を見る。妖精? このグロテスクなのが? ずい分イメージと違うじゃないか。もっと人間に近い姿なら妖精らしくて納得しただろうが。これじゃ悪魔といった風体だ。

「で、こいつら、おれたちをどこへ運ぼうっていうんだ?」

「たぶん、妖精界だと思う」

「妖精界だって? そりゃなんだい?」

 なにも知らない夏毅を面倒くさく思ってか、ふう、と夏葵は大きくため息をついた。

「あたしだって、あまりよくは知らないんだけどね。人間が住んでるところが物理界で、それに隣接している非物理界を妖精界といって妖精が住んでんの。物理界と妖精界の間には見えない壁があって通り抜けられないから、妖精界がどんなところなのかは誰も知らない」

「でも少しぐらいは知ってるんだろ?」

「平安時代までは妖精界との交流があったっていうけどね。歴史で習った。古い文献が唯一の資料だって」

 平安時代だと? 妖精界との交流? 夏毅は目をパチクリさせた。そういえば、おれのいた世界でも、平安時代には何か物の怪が出たという話をチラリと聞いたことがある。歴史の授業ではなかったけれど。テレビのオカルト番組だったけ。それとも映画だったか――。妖精の国か……。まさか、こんな化け物ばっかりじゃないだろうな……。

 妖精の羽音とは違う音が聞こえて、夏毅はハッとした。周囲を見る。

 ヘリコプターの音だ。どこだろう。

 首を巡らして、見つけた。

 ――いた、あそこだ。

 救けに来てくれたのか――? この世界の人間が妖精の存在を知っているなら対応も早いか……。

 ヘリコプターが接近してくる。偶然通りかかったわけではなさそうだった。偶然かもしれなかったが、今はこっちへ向かってくる。

 夏毅は夏葵に言った。

「ヘリコプターが来る。救けてくれるかもしれないな」

「救けてくれるって?」

 夏葵は夏毅の言葉に首をかしげた。

「それは無理よ。妖精には物理的な力は通用しないんだから」

「でも、見たことないんだろ? 本当にそうなのかわからないじゃないか」

 もしかしたらという淡い期待を抱かずにはいられなかった。本当に物理的力が通用しないのかどうかは、夏葵も見たことがないのだから断言できない。そういうふうに聞いているだけだ。妖精は今物理界にいる。ひょっとしたら……。

 ヘリコプターがさらに接近する。ローターが前後に二つある大型機だ。深緑色の機体。

 ローターの激しい音を響かせながらヘリコプターは旋回する。陽の光を受けてキラリと輝く。様子をうかがうように迂回し、前方に回りこんだ。

 胴体にでっかいライジング・サン――日の丸。白い文字で、「陸上自衛隊」。

「マジかよ……」

 夏毅は予想できない展開に驚くばかりだった。

 しかし自衛隊となれば、力強い味方だった。

「おおーい、たすけてくれぇー」

 夏毅はなんども叫んだ。

 が――。

 自衛隊のヘリコプターは夏毅たちから百メートルぐらいの距離を保ったまま、それ以上近づこうとはしなかった。遠くから様子を見ている感じ。

 そんな膠着状態が数分ほど続いた。

 なかなか救出活動をする気配のないヘリコプターに、なにをやってるんだよ、と夏毅は次第にじれてきた。

「やっぱり自衛隊には妖精の邪魔はできないのよ」

 ヘリコプターのエンジン音が大きくて、夏葵の声も聞き取りにくい。

「もたもたしてたら妖精界に入ってしまう。そうなったらもう――」

 そう言いかけたとき、自衛隊のヘリコプターが反転した。機体を傾けて離れてゆく。

「待ってくれ! ちょっと、待って! 救けてよっ!」

 夏毅は去っていくヘリコプターに向かって力の限り呼びかけたが、声は虚しく空中に散っていくだけだった。

「なにしにきたんだっ!」

 最後は悪態になった。

「たぶん、妖精の行動を監視してたんでしょうよ……。物理界に妖精が入ってくることなんかなかったから、どんな危険があるかわからなくて、妖精の動向を監視する目的だった――」

 そんなところだろう、と夏葵はうなだれた。

 おそらくあのヘリコプターにはカメラが積んであり、夏毅と夏葵の姿がニュース番組で流されるだろうと二人は同時に想像した。まったくもって恥さらしである。

 しかしそんなことはどうでもいい――。

 これから妖精界に行くことになる。そちらのほうが重要である。

「いったい、妖精界とはどんなところなんだ?」

 と夏毅は訊いた。

 夏葵はうなだれていた頭をあげる。自衛隊が自分を見棄てたことによっぽどショックを受けたのだろう。しかし、いつまでも落ちこんではいられない。

「さあね。着いてからのお楽しみ」

 素っ気ない返事を聞いて、夏毅は舌打ち。

 自衛隊のヘリコプターが去ってから数分がたった。眼下には森林が広がっていたが、やがて前方に砂漠が見えてきた。日本に砂漠があるなんて、と夏毅は思ったが、あれが妖精界への入口だと夏葵は言った。

 妖精界と物理界との間には、幅数百メートルにわたって砂漠地帯が広がっていた。ここは立入禁止地帯となっていて国の管理下にあった。その砂漠の向こうが妖精界だ、と夏葵。

 前方にあるはずの見えない壁。普通、人間には通り抜けることができない。人間だけではない。機械も、他の動物も。その壁をこれから通り抜ける……。

 夏葵はコグリと唾をのみこんだ。

 夏毅も黙りこんだ。

 砂漠の向こうに鬱蒼とした森が見える。妖精界の森だ。妖精たちは壁の存在など意に介さずその森へと進んでいく。砂漠地帯を通過した……。

 妖精界に入ったのか――?

 なんの変化も感じない。いともあっさり壁を通り抜けた。まるで壁などなかったかのように。

「ここが妖精界なのか?」

 夏毅は訊いた。訊かずにはいられなかった。妖精界といってもどこがどうちがうのかわからない。本当に妖精界に入ったのか?

「そのはずなんだけどなぁ……」

 夏葵にも妖精界がどんなところなのか、まったく知らないものだから、歯切れが悪い。

 人工衛星からの写真が唯一あるぐらいで、それ以外は未知の世界だ(高度を下げて撮影しようにも成層圏以下の飛行は危険だった。たちまち機体は妖精界の強力な力場によって破壊されてしまうのだ)。

 これから先は夏葵でもなにが起こるか予測できなかった。

 妖精界には妖精がわんさといるだろうと思った夏毅だったが、地上にはいかにも誰の手も入れられていないような密林が広がっているだけで、妖精の姿は見えない。

 空気はたしかにきれいだな……と夏毅は思った。人間がいないのだから公害もない。それにしても、この妖精界はいつからこの世に存在しているのだろう。人類誕生より前? 恐竜の時代はどうだったのか。生物として、妖精は分類できるのだろうか。それとも全然べつの、おれのいた世界ではあてはめることができない概念の中に――。

 さまざまな思いが夏毅の頭に交錯した。そのとき――。

 森の中になにかが見えた。

「ん? あれは――!」

 夏毅は声を上げ、そしてそのまま絶句した。

 夏葵も驚いていた。

「そんなことが……。妖精界には誰も入ることができないのに。物理的な往来はできないはずなのに……」

 森の中に建物が一棟、忽然と存在していた。体育館ほどの大きさで、屋根に設置された太陽電池パネルが、森の中に不釣り合いなほどピカピカに光っていた。

 夏毅には見覚えがあった。あれは、異界都市にあった、並行宇宙転換装置の建屋だ。

 ――どうなってるんだ?

「なにか知ってるの?」

 夏葵が問うた。

「この世界へ来る直前まで、おれはあの建物の中にいたんだ」

「あの建物の中にはなにがあるっていうの?」

「並行宇宙転換装置だよ……妖精はおれたちをそこへ降ろすつもりなのかな……?」

「並行……? なに?」

 夏葵は眉をよせる。

 夏毅の思いとはうらはらに、まだ妖精たちは地上へ降りようとしなかった。建物を通りすぎ、しばらくしてからやっと高度が下がりはじめた。

 どこへ下りるつもりなのか――。

「あそこになにかある」

 夏毅は、夏葵が指さす方向を見た。

 そこには、今度はさっきとはちがって岩のような建造物があった。森の中に突然それだけが立っていて、砦といった感じ。そんなに巨大なものではない。土を固めてつくったような外観は、いかにも妖精がいそうだった。

 そこへ向かって、妖精たちは降下していった。

 遊覧飛行はどうやらここで終わりらしい。


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