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二重迷宮の彼方  作者: 赤羽道夫
第1部
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第1章 ゴーストタウン

 ぐらりとふらついたのは風邪のせいだと思っていた。だが今振り返ってみれば、それがすべての始まりだった。だからまさかそんな些細な異変が――と、それに気がつくのにずいぶんと時間がかかってしまったのも無理なかった。

 病院の待合室のトイレの冷たい壁に手をつき、紙野夏毅かみの なつきは体を支える。期末試験が近く、さっさと治して万全の体調で試験に臨みたいなどと考えていた。

 普段の勉強がそれほどきっちりできていたわけではなかったから、この時期からエンジンをかけたかった。風邪で出遅れている場合ではないのだ。こんなことなら早くから真面目に勉学に打ち込んでいればいいのだが、そこはそれ、それほど好きでもない勉強に時間を使うよりも、数ある誘惑に負けてしまう多感な男子高校生であった。

「ふう……」

 一息つき、夏毅は軽いドアを開けて廊下に出る。

「!!」

 瞠目した。

 目をしばたたき、脳を押さえつけられているような鈍い頭痛に耐えながら、今一度じっくりと周囲を見た。

 左右を見る。

 目に入る光景がちがっていた。トイレに入ってほんの一、二分ほどの間に、すっかりかわってしまっていた。

 大勢いたはずの患者や忙しく廊下を歩きまわっていた看護師は一人もいなくなり、蛍光灯の明かりも消えて薄暗くなり、床はゴミが散らかって――。

 建物の構造は、さっきまでいた病院と同じなのだが、この変わりようはにわかには受け入れがたかった。

 自分の頭がどうかしてしまったのではないかと夏毅は思った。病院に来たつもりが、こんな廃屋へ入った……。

 だが、そんなばかなと否定する。いくらなんでもそこまで重症じゃない。なによりさっき注射をうたれたではないか――。二の腕の痛みは幻ではない。

 夏毅は今朝からの記憶をたどってみる。昨日からどうも体の調子が悪く、朝になっても治っていなかったから、今日は学校を休むと学校に電話した。それから最近できたばかりのこの病院へ初めて行ってみた。注射一本うたれ、で、薬の順番を待っている間にトイレへ立った……。

 ドラッグをやっているわけじゃなし、記憶は実にはっきりしていた。熱があるせいでこんな悪夢を見ている……わけではない。

 そろそろ夏毅は、この異常な事態がリセットできないものだと気づき始めていた。

 肺に入ってくる空気が明らかに違うのだ。

 いったいこれはどうなっているのか――なにかの錯覚ならそれだけの話だが、どうやらそうではないようである。

 自分の身になにかが起こった。それがなにかを知らなくては。危険が迫っているかもしれない。だが情報を得ようにもスマートフォンは圏外。

 夏毅は頭痛でふらつきながらも移動する。注射がそろそろ効いていてもよさそうなのに、まだ気持ちが悪い。それはこの急激な環境の変化に体も心もついていけず、余分な負荷がかかっているからなのだろう。

 移動、とはいっても、その場から離れてはいけないような気もしたから、あまり遠くへは行かないつもりで。

 廊下を進んだ。ガラスのかけらや木片や紙くずなどで散らかっていた。スニーカーでゴミを踏みしめながら廊下を歩いていく。壁には病気予防やガン検診のポスターが貼ってあったから、たしかにここは病院なのだろう。が、とうの昔に廃院になったかのようだ。そのポスターもうす汚れて、シミが広がっていた。

 窓が並ぶところへ出た。陽の光がまぶしく差しこんでいる。無傷なガラスはただの一枚もなく、全部が割れて鋭い破断面をさらしていた。

 夏毅はそこから外の様子を見る。

 え……?

 目を疑った。

 窓の外には駐車場のような広いスペースがあり、その向こうの塀にスライド式の鉄戸が開いていた。それだけならとくに目を引く光景ではないのだが、どう見ても「戦車」としか見えないものが道路に鎮座しているのだ。しかも破壊されて、明らかに炎上した跡といった感じで。

 内戦で荒れる外国の都市に見られるような光景……。そんな印象だった。

 夏毅は混乱した。心臓が高鳴った。自分の身になにか大変なことが起きたのは理解できたが、それ以上はわからず。

 得体の知れない何者かの力によって、あるいは人知の知れない超自然現象に巻き込まれてしまったのか……。

 元の病院に戻ることができればいいのだが、その方法が皆目見当もつかない。わからないことが多すぎる。

 情報を得ようにも、右も左もわからない状況では動きようがなかった。かといって、このままじっとしているかというと……それで事態が好転するとは思えない。

 夏毅は考え、とりあえず元の場所に戻ることにした。

 とにかく、こんなところに来てしまった原因がどこかにあるはずだ。それがさっきのトイレにある可能性はあると思い至った。

 トイレの場所へいったん戻った。

 深呼吸すると、目の前のドアに手をかけ、一気に開ける。

 が、そこはトイレには違いなかったが、ほこりが積もり、使われなくなって数年はたつであろうとひと目でわかる状態だった。清潔な病院のトイレとは似ても似つかない、汚れた小部屋にすぎなかった。水道が出るような様子はない。

 夏毅はドアを閉じる。ドアに背中をつけ、体重を預けた。動悸がさらに激しくなった。

「………………」

 声にならないうめきがのどから這い上がっていった。

 トイレで異世界がつながっていた、などという単純な話ではなかった。

 がっかり、というより、呆然とした。

 ものすごい不安がこみあげてきた。このまま時間がすぎていったらどうなるのだろう。頭は重いし、熱もあって苦しいというのに。夜になって、空腹になって、たった一人で。

 気が遠くなりそうだ。

 うっとうしい頭痛に耐えながら、夏毅はなにをすべきかを懸命に考えた。

「そうだ、とりあえず外の状況を見よう……」

 気力を奮い立たせるように、声にだした。

 窓から見ただけではよくわからない。初めて来たこの病院の建物が何階建てなのかわからないが、上のほうへ昇ってみれば、周囲の様子がよくわかるだろう。

 階段を探す。

 こんな廃ビルでは、エレベータはたとえあったとしても動かないだろう。

 階段はすぐに見つかった。建物の規模から察すると、比較的高いようである。昇りはじめる。

 が、三階までだった。屋上までは上がれない。

 階段が途中で崩れているのだ。壁に大きな穴があいていて、それが階段まで呑みこんでしまっていた。折れ曲がった鉄筋が壁の中から露出している。

 茫然とした。

 焦げ跡が砲弾の直撃を物語っており、夏毅は慄然とした。今は静かな屋外だが、再び戦闘が始まって攻撃を受けるかもしれない――危険が現実的に目の前につきつけられ、おののいた。

 ――ここにいるべきじゃない。

 夏毅はそれ以上昇ることをあきらめ、そのフロアの廊下を進んだ。風が吹き込んでいた。真冬とは思えない熱い風が明かりのない廊下を吹き抜けていく。

 突き当たりの窓にたどり着くと、外を眺める。

 その光景は、夏毅の予想をこえていた。

 うち捨てられた町が見えていた。ひび割れたアスファルトの道路には一台のクルマも走っておらず、あちこちで倒壊している建物の足下には風に吹かれて貯まった砂が白く山を作っていた。

 それは夏毅の住む、見慣れた大和高田市ではなかった。

「うそ……」としか言いようがなかった。

 こんな非現実的なことがあるものだろうか。

 それにどうもさっきから暑いと感じていた。となると、今はいったいいつなのだろう、と夏毅は首をかしげた。

 反対側の窓からも見てみた。

 背の低いビルや住宅が立ち並んでいた。しかしビルに人の気配がない。壁面は焼け焦げ、砲弾の跡が無数に刻みこまれていた。道路にも黒く焼け焦げた車両が何台も放置され、人の姿は皆無。遠くに見える近鉄線の線路には草が高く茂っていて、電車の運行がされているようには見えなかった。

 そして、ところどころに見えている水田は一面雑草に覆われており、数年は耕作されていないのが明らかだった。

 もはや疑う余地はなかった。ここは戦場だ。激しい市街戦のため、都市は荒廃し、住民はいなくなってしまったのだ。どこかに軍隊が潜み、敵を待ちかまえているのかもしれない。散発的に戦闘が起こり、戦いはいつ終わるともしれない。今にも空爆のための軍用機が空を横切るのではないかとさえ思えた。

 つまり、ここは未来の世界なのだ。

 夏毅はそう結論した。

 道路に落ちているのは青い案内板である。白い矢印と文字が書いてある。矢印の先はJR高田駅。

 未来の大和高田市。

「まさか……」

 なにかの冗談かと思った。そうあってほしいと本気で思った。やはり悪夢を見ているのか、と。

 タイムリープ。

 フィクションではお馴染みの現象だが、架空ではなく、正に自分の身に起こっていることに、夏毅は呆然となった。

 未来の日本になにが起きたのだろうか。

 いや、それよりも――。

 簡単に帰れないという可能性が高くなった。外国なら、どうにかして日本へ帰ることも不可能ではない(それとて苦労するだろうが)。しかし未来の世界となると、夏毅にはどうすることもできない。元の時代へ戻るなど、どうしたらできるというのだろうか、途方に暮れるばかりだ。

 あまりのショックに廊下にすわりこんだ。服が汚れるのも構わず、壁に背中をつけ、両手で頭を抱えた。

 どうしたらいいんだろ。どうしたらいいんだろ。どうしたらいいんだろ……。

 まるでRPGかアドベンチャーゲームだ。見知らぬ世界へ放りこまれ、アイテムを手に入れながら最後には目的を達成しなければならない使命を負った主人公。しかしこれはゲームではない。必ずしもクリアできるとは限らないし、途中で死んでも復活したりやり直したりはできない。ゲームならどんなに楽しいことか。これからどんな冒険に遭遇するか、わくわくするところだ。いや……もしかしたらこれはゲームかもしれない。誰かに仕組まれたゲーム。コンピュータのオンラインゲームの中。しかし夏毅はその考えに苦笑し、すぐに否定した。

 ――いくらなんでも、そんなできた話があるものか。アニメじゃあるまいし。

 いつまでもここにいても仕方がないとはわかっていたが、動こうと思っても体がいうことをきかない。

 風邪が思った以上によくないようだ。注射を射ったとはいえ、すぐに症状がよくなるというわけでもない。それに、いきなりこんな環境にさらされて、精神的なダメージも大きい。

 しばらくその場にすわりこんだまま、夏毅は動かなかった。

 静かだった。じっとしていると、まるでこの世には誰もいないかのようだ。まさしくそうかもしれないが。

 こうしていると、なにもかもが夢であるように感じられた。

 なにかを考えようとしたが、冴えてはいないから、ただぼんやりと思うだけで。

 どれぐらいたったろうか。少し気分がよくなってきたので立ち上がった。注射が効いてきたようである。

 とはいえ、どうするか、まだ決めていない。

 とりあえず建物の外へ出てみることにした。ここが大和高田市内だというなら、もしも……もしも、誰かがいたら、話を聞くことだってできるだろう。それで状況がわかる。相手に不審がられることはあるかもしれないが、そんなことは大したことではない。

 一階まで戻り、フロアを歩き回って出口を見つけると、夏毅はそこから外へ出ていった。



 照りつける太陽がコンクリートを灼いていた。

 外へ出ると直射日光に照らされて暑い。冬装束だったから、よけいに暑かった。セーターを脱ぎ、手に持つ。

 柱の折れた信号機が道路をふさいでいた。

 さっき上から見た道路案内の看板まで来た。JR高田駅が近いが、電車は走ってはいないだろう。その近くに近鉄・大和高田駅があるが、おそらくそこも同じだろう。

 しかしそれでも、誰かがいるかもしれないと、そこへ向かうことにした。

 周囲には商店らしき建物がある。コンビニやクルマの販売店。あるいはガソリンスタンド……。建物の尽きたところには雑草に覆われた水田。

 本当に奈良なのか? これが大和高田の市内?

 緊張と暑さでのどが渇いていた。コンビニで水分を補給しようにも、建物はあっても店内なかに商品はおいていなかった。

 今が西暦何年なのかもわからなかった。近未来、というのでもなさそうな。荒廃した街の様子は、とても五年や十年ぐらいの時の流れではすまなそうで。

 ということは、ものすごい未来……。百年や二百年、あるいはもっと遥かな未来。

 人類がすでに滅亡している可能性もあった。そう思いたくはなかったが、この街の光景はそれを察するにじゅうぶんだった。

 歩きながら、夏毅はぼんやりと路上の車の残骸を見た。火災にあったのか黒焦げで、しかも銃で撃たれたのか穴だらけになっていたが、デザインそのものはそれほど突飛なものではなかった。未来世界というイメージは涌かない。もっとも、外見だけでは判断できない。空を飛んでいたクルマかもしれない。

 ――まてよ。

 ふと、夏毅はそう思った。

 ――ここは本当に未来の世界なのだろうか。

 過去ではないことはまちがいない。しかしだからといって未来だと断言できるか?

 たしかにこの状況で、他には考えられないが、どうも現代の時間の延長線上にある世界ではないような気がしてならないのだ。現代からどれほど時間が流れても、こんな世界にはならないのでは、と。

 未来がどんな世界なのか想像するのはかなりむずかしいから、夏毅のこの印象は単なるインスピレーションにすぎない。しかし……。どこかで歴史が狂ってしまった、そんな世界ではないか、と思うのである。

 どうもこれは、最初に思っていたよりも、はるかにややこしいことになっているのかもしれない。

 体調が悪いせいか、どんどん悪い方へと考えが及んでいく。どうも思考がまともではない。

 とにかくなにか手がかりを見つけないことには先へはすすめない。なにもわからないまま野垂れ死にするのはご免だった。

 夏毅は先を急いだ。



 近鉄大和高田駅についた。

 市内で一番にぎやかな場所である。JRの高田駅とは三〇〇メートルほど離れていて、その間にはショッピングセンターがある。

 駅前ロータリーのバス乗り場にバスは一台もなく、駅前につながる道路にも歩道にも人影はなかった。

 こんなに静かな大和高田駅前は初めてだ。

 夏毅は、今日はここから病院まで歩いてきた。いつもなら家から自転車を走らせてくるところだが、北風に逆らいながらペダルを踏む気にもならず、ひと駅電車に乗ってきたのだ。

 来たときは普通ににぎやかだった。平日の午前中とはいえ、誰もいない、ということはありえない。静けさが不気味なほどである。

 ショッピングセンターに入ってみた。道路に沿って継ぎ足したように長い外見の四階建ての建物で、さまざまなテナントの看板が外側から見える。

 道路に面している一階の店舗がずらりと並んでいたが、どこも当たり前のように営業していなかった。

 階段を上って二階に行ってみた。日差しのふりそそぐ吹き抜けの庭園は、見上げると長細い庭園を囲む通路が四階まであって、庭園を見下ろしている。ウッドデッキで占められたその庭園の真ん中ぐらいに上への階段が設けられていた。枯れた草花が寂しそうに金属の骨組みに絡まっていた。

 使われなくなってからかなり時間がたった様子である。予想のとおりというか、やはりだれもいなかった。

 錆の浮く階段を四階まで上がってみた。通路は店舗に面しており、飲食店があったが、もちろん営業していない。締め切ったガラスドアの向こう側は暗くてよく見えない。

 通路から庭園を見下ろせば、テーブルやら椅子やらが散乱していた。

 この荒れようでは、なんだか人がいないのが自然で、人間の姿を見つけてしまうと不安になりそうな気がした。

 とはいえ、このままではどうにもならないのは明らかで、とにかく、この状況の正体を知らなければ、先へはすすめない。

 夏毅は四階から隣接するビルへと入った。

 そして――。

「うっ………」

 ついにそれを見つけてしまった。薄々と予感はしていたが、やっぱり実際に見てしまうとショックは大きかった。

 ひからびた死体。どす黒く乾燥して、ミイラのようになっていた。死後、何年たっているのだろうか。衣服から男性だと推測できるが、骨に被った皮だけでは性別はわからなかった。

 頭がくらくらした。できれば見たくなかった。

 すみやかに外へ出た。吐き気がしてきた。まるで自分の将来を暗示しているかのように感じられて。たぶんここで死んだら、このミイラと同じ姿を晒すことになるのだ。背筋が寒い。風邪のせいだけではないだろう。

 夏毅は急に足取りが重くなった。

 ――おれはこんなところでいったいなにをしているんだろう。家に帰って薬を飲んで、布団に入って熱が下がるまでじっと寝ているんじゃないのか。

 階段を下りて、一階に至った。

 地下駐車場を思わせる日の指さない一階フロアから明るい屋外へ出た。

 途端に意識がもうろうとなってきた。

 こんなゴーストタウンで、太陽に灼かれながらたった独りで歩きまわって。

 道路へ出て、呼吸を整え、気持ちを落ち着けようとしたときだった。

 パン!

 と、突然、なにかが破裂したような音が響いた。

 そして、三メートルほど離れたところのアスファルトに小さな砂煙。夏毅はぼんやりと砂煙が拡散していくのを見つめていたが、やがてそれがどういう意味なのか気づいてハッとなる。

 銃撃。

 誰かがいるのだ!

 しかし同時に夏毅は経験したことのない脅威に晒されているのを知った。なぜ狙われているのかわからない。ここが戦場なら、いつ銃弾が飛んできても不思議はないはずである。

 身を隠す場所を目で探した。周囲に建物はいくらでもあった。その中へ入ってしまえば、とりあえずは安心だろう。きびすを返してさっきのショッピングセンターに戻ってもよい。ミイラと再会したくはなかったが、撃たれるよりはマシである。

 が、急に動くのもためらわれた。こちらに敵意がないことを示さなければ、動いた途端に撃たれてしまうかもしれない。

 ミイラの遭遇に、警告なしの銃撃。普段の生活ではまず体験することのない状況の連続に、いっぺんに汗が吹き出した。暑さのせいだけではない。密度の高い緊張感と、恐怖。心臓がバクバクと暴れている。

「そこを動くな」

 そして、ついに声がした。銃撃から三秒とたっていなかったが、ひどく時間がたったように感じられた。

 威嚇的な声音、その方向に視線を向ける。すると近鉄・大和高田駅とショッピングセンターの二階をつなぐ歩道橋に男の姿があった。直線距離で三〇メートルほどだ。

 ライフルをかまえながら、男はゆっくりと歩道橋をわたり、階段をおりてきた。その間、銃口は、まちがいなく夏毅に向けられていた。

 しかし夏毅はそれでも少し気が楽になっていた。人類は滅亡してはいなかったし、言葉だって理解できる。

 やや落ち着いた気分で、ライフルの男を見た。

 肩に弾帯をかけ、腰には手榴弾をいくつも下げ、まるで戦争映画から飛び出してきたような格好だった。歳は二十代前半ぐらい……。夏毅よりは年上だろう。

「手を上げろ。ゆっくりとだ」

 夏毅は言うとおりにした。相手に殺意がないように祈った。殺すつもりなら、はじめからそうしていただろうから、言うとおりに従っていれば、撃たれることはないと思った──思いたかった。

「おれの言っていることがわかるようだな。こんなところで、なにをしている」

 男は夏毅の背後に回りこみながら訊いてきた。

 しかしどうこたえていいかわからない。それよりも夏毅のほうが質問したいところだ。しかも山ほど。

「なにをしていると言われても……」

 正直に言ったら余計に怪しまれるような気がした。相手は武器をもっている。なるべく刺激しないよう、言葉を選んで話さなければ。かといって嘘を言うわけにもいかない。

「ちょっと道に迷ってしまって……」

「どこへ行くつもりだ」

「えっと、病院……」

「なんだと? おかしなやつだな。歩いて行く気か。この近くのどこに病院があるというんだ? おまえ、どこから来た?」

「わかった、正直に話すよ」

 だめだ、こんな際どい駆け引きには耐えられない。

「実はおれにもよくわからないんだ。気がついたら、ここにいた。ここがどこかもわからないし、今が何年なのかもわからない。これからどうすればいいのかも」

「そうか……。なるほど、そういうことか」

 男は一人で納得し、かすかにわかる程度に微笑すると、ライフルの銃口を上に向けた。

「災難だったな。見てのとおり、ここにはもう人は住めん。おれといっしょに来るか?」

 なにがどうなってしまったのかわからなかったが、どうやら男は警戒心をといてくれたようだ。神経が長時間の緊張から解放されて、いっきに支えを失ってしまった。

 膝を折って、夏毅はその場にくずおれた。

「おい、どうした、しっかりしろ」

 男が体を支えてくれたのがかすかにわかったが、意識が急速に遠のいていくのはどうしようもなかった。


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