本当のあなたと握る手は
「あれ、わたし眠って……?」
呟きながら携帯を左手でポケットから取り出して、通話ボタンを押す。が、一向に通話状態の表示にならず、やがて着信音は途絶えた。
なんでだろう?
霞んだ目で前の座席の背もたれをぼんやりと見つめ、のろのろと考えた。
「あれ、わたし、今……」
なんだか夢の光景とその直前までの光景が頭の中で混ざり合い、整理するのにややかかった。
そうだ。今までわたしは、見知らぬ男の子とおじいさんおばあさんと一緒にいたのだ。途中で具合が悪くなって、年下の男の子に抱き上げられたりして……。
思い出し、急に恥ずかしくなって飛び起きる。とたんに頭や左腕が痛んで、声を上げてしまった。
「痛った!」
痛む場所を見れば、右腕はひび割れた窓に押しつける形になっていた。そっと離すと、青アザと切り傷ができている。頭を触れば、たんこぶになっていた。
見回せば近くの窓硝子は割れ、椅子というか車体全体が斜めにかしいでいる。
「そうか、事故に遭ったんだ」
おそらくは眠っている間の出来事だろう。事故直前の記憶はないのは幸いなのだろうか?
怖い思いはしなかったけれど、景気よく車内を右から左へと飛ばされたに違いない。で、偶然にも右腕で受け身を取る形になり、他はかろうじて無事に済んだようだ。
右腕に硝子の破片が刺さっていないか確認する。バスの中は照明もなく、木陰になっているせいか妙に暗かったが、どうやら平気みたいだ。
バス自体のエンジンは完全に停止しているようだ。そうだ、それはさっき『外から』確認していたのだ。
「まさか、幽体離脱……とか?」
思いかえせば、心当たりがいくつかある。
ドーナツ屋で見た老人達の姿。椅子に座ってる人がいると言ったとたんの彼らの反応。あれは『普通の人間に見えるわけがない』からだったのだ。
そんな悠司くんに普通に対応していたのだから、ドーナツ屋のおばあさんもそういったことに慣れている人だったんだろう。
籬さんもタクシーのドアすり抜けからして、完全に幽霊のはず。そんな彼と一緒にいたのだから、老人達はみんな……幽霊だったということだ。
あとはタクシー運転手の反応。
籬さんの姿こそ見えていないけれど、幽霊のいる異常な気配だけ察知して怯えてたんだ。わたしが泣き出したりしても全く振り向かなかったのは、わたしもまた、運転手に見えていなかったのだろう。
生きてる人は、悠司くん一人だけだった。
「え、じゃあ悠司くんは、外にいる?」
これだけ鮮明な記憶が、夢のわけがない。というか、そうじゃないと困る。助けてくれる人がいないのに、事故車の中で目を覚まして、自分は一体どうしたらいいのか。
斜めになった車内で、慎重に立ち上がる。
たしか、悠司くんたちの方からは、バスの底が見えていた。だから床が高くなっている方から覗けば、見えるかもしれない。
移動しようとしたところで、ふいに誰かのうめき声が聞こえた。
誰かいる?
声が運転席の方からするのに気付いて、わたしは息を飲んだ。きっとバスの運転手だ。
「い、生きてますか? 大丈夫ですか?」
慌てて移動しようとしたところで、斜めの床で足が滑る。
「ひゃっ」
とっさに座席に捕まったからいいようなものの、足下には硝子の破片が散らばっていた。尻餅をついたとたんに切り傷だらけになりそうだ。
今度はもうちょっと慎重に動く。ようやくたどりついた運転席では、黒っぽい制服の六十近いおじさんがうずくまっていた。目を閉じているのに、口からは「うう、うう……」と唸るような声が漏れている。
起こそうと近寄ったわたしだったが、その様子に思わずのばそうとした手を止めた。
「さわるな!」
その時、背後からの緊迫した声と同時に、運転手の体から湯気のように黒い煙が立ち上る。
「きっ……」
何この煙!? 悲鳴も喉の奥から出てこない。思わず思考が停止した。
一方煙の方は、雲のようにバスの天井に滞留する。ややって黒い雲のようになったそこから、無数の黒い手が伸びてきた。ゆらゆらと海草みたいに揺れながら、素早くこちらへ向かってくる。
慌てて逃げようとしたが、斜めの車内では身動きがとりずらい。
「じいさん早くしろ!」
声が響くと、上下に体がはね飛びそうな衝撃と共に、傾いていたバスが平行に戻った。そしてドアがけり開けられ、悠司くんが飛び込んでくる。
「散れ!」
恐れなどみじんもなく彼が一喝する。と、黒い煙は潮が引くように消えていった。
「早くこい!」
そして差しのばされた手。
わたしは心臓が止まりそうなほどの恐怖から解放され、思わずその手を握った。
握り慣れたはずだった。
だけど、前はどこか感覚が違っていたのだろう。少しひんやりとした手は、自分より大きくて骨張っているように感じた。
これが、本当の悠司くんの手の感覚なんだ。
そう思うと、初めて触れるみたいに気恥ずかしくなった。一瞬、悠司くんも自分の手を見た気がして、同じ事を考えているのかもと思ってさらに身の置き所が無い気持ちになる。
が、悠司くんの方はそんなことを頓着していなかったようだ。彼はわたしをバスの中から抱えるようにして脱出させると、
「くそ、早く出せ!」
暴言を吐きながら、わたしのジーンズのポケットに手を突っ込んできた。
「や、ちょっと!」
なんてきわどいとこに触るのよ!
叫ぼうとする前に、悠司くんはわたしの携帯電話を取り出す。そして一息にストラップを引きちぎった。
「あっ! 理子の――」
大きめの白っぽい石がついたストラップは、止める間もなく谷底へ投げられる。
なんてことするの、と言いかけたが、舌先が凍り付いたように動かなくなる。
ストラップについた石から、黒い炎が燃え上がったのだ。石は、彗星の尾のように黒い線を視界に残し、崖下へと消えていった。
さらに、どこからかわき出した黒い煙が虫のような形になって現れ、アリの群のように石を追ってカサカサと谷底へ移動していく。
「な、な、なんで……」
幽霊とおしゃべりしたあげく、自分が幽体離脱し、怪現象に襲われ、だんだん感覚が麻痺しかけていたわたしだったが、さすがにこれには血の気が引いた。
「だって、あれは理子が恋の応援をするおまじないだって」
応援するだけで、妙な呪いグッズとか、そんなんじゃなかったはず、なのに……。
だけど、二度の夢で見た理子の表情や言葉を思い出すと、自然に残りの言葉は喉の奥で消えてしまい、声として出てくることはなかった。
やっぱり、あれは夢じゃなかったんだろうか。
「呪いじゃなくても、引き寄せることはある。相手への妬み、さらには使った物に元から負の念がよりついてた時。それに時期が悪いことが重なったり運命的な低調期だったりすると、もうどうしようもない」
隣で悠司くんがそう語った。ストラップを投げた谷の方を向いていた彼は、ゆっくりとわたしの方を振り向く。
迷惑を掛けたはずなのに、彼は今までで一番清々しそうな表情をしていた。
「これでようやく、初めましてだね。千紗さん」
「あ……うん。初めまして悠司くん。あと、ありがとう」
つられるように挨拶したわたしは、まぶしそうに目を細める悠司くんから目を離せなくなる。