佐川由紀夫
信じられない。
まさか、この平和なクラスで自殺者が出るなんて。
職員会議も、保護者や全校生徒への説明会も、全て上の空で終わらせた。――否。多分、誰か他の先生か誰かが終わらせてくれたのだと思う。ただ、つらつらと長い文章を読んだことだけは覚えているから。
岬千鶴。
彼女は、明るくて、元気で、周りをよく見ていて、みんなの人気者で…………亡くなった人間はそう言われやすいが、そういう上っ面なことではなく、本当に素晴らしい生徒だった。
人が嫌がる仕事を率先して受けることはせず、気付いたら彼女がクラスの中心になっている、そんな感じだった。だから嫌味もないし、嫌われたりもしない。
そして彼女はクラスのことをよく把握していた。もちろん、学級委員だからということもあるだろうが、それだけじゃない。まるで、クラス全員それぞれの、「特別な親友」であるかのようだった。……私も例外じゃないのかも知れない。聞き上手な彼女には、私もたくさんの話をしていたから。
「佐川っち」
「……おぉ、小林さん」
そうか、もう放課後なのか。
自殺者が1人出ても、学校は、世界は、驚くほど何も変わらず回っている。
「相変わらず反応がおじいちゃんだなぁ、もう。あ、先生いつまで“さん”付けなんですか? 瑠璃で良いって言ってるじゃないですか」
楽しそうな笑顔。
こんな時に何が楽しいのだろう? 何を言っているのだろう?
同じクラスでなくとも、同級生が亡くなったというのに。
「……やっぱり、寂しいですか?」
「…………」
「……私、実は…………その……信じたくなくて……まさかそんな、同級生が自殺しちゃうなんて、考えられなくて……」
急な態度の変化にびっくりする。しかし、そういうことだったのか。それなら納得出来る。
「小林さんは、岬と仲が良かったのか?」
「……いいえ、全く。1年生の時もクラス違いましたし……お話したこともないです」
「そうか…………」
それじゃあ、何も手掛かりは掴めないだろう。
「分かった。ありがとう」
やっぱり、警察が「自殺」だと結論を出したのなら、真実もそうなのだろうか? 私はそれで納得するべきなのか?
分からない。
数学は必ず「正しい答え」が出るのに、現実はそうではない。それは当たり前のことでありながら、私を混乱させるには十分だった。
どんなに考えようと、それは推測に過ぎない。
誰の話を聞こうとも、それは愚かな人間の薄れた、歪んだ価値観に基づく記憶に過ぎないのだ。
渡辺が欠席していることも引っ掛かる。熊谷先生によると、泣きながら家に帰ったらしい。
岬との間に何かあったのか……? いやしかし、あの日の昼休みにも岬は何も言っていなかった。じゃあ、別の問題か……?
岬の発言を思い出す。
『ですから、先生は気にしすぎなんですよ~。もう高校生ですよ? 例え何かあっても自分たちで何とか出来ますって』
『それより、先生は最近何か無かったんですか? ……不倫とか』
明るい笑顔と、軽い言葉。しかし大事な話もきちんと出来る、そんな生徒。
あぁ、もう少しだけ、突っ込んだ質問をしておけば良かったなぁ。そうしたら、彼女が命を落とすことは防げたかもしれないのに。
唯一私を「佐川先生」と呼んでくれた岬が。
◇◇◇
「佐川っち」
「……小林さん」
「大丈夫……?」
帰ろうと車に向かっていた時のことだった。また小林だ。消えたと思ったらまた現れる。不思議な子だ。
「大丈夫だ。ありがとう」
「本当に……?」
「あぁ」
心配してくれるのはありがたいが、今はそっとしておいて欲しい。
「ねぇ、乗せてって」
「どこに?」
「駅までで良いから」
「……いや、生徒を乗せちゃいけないことになってるから」
「もうバス最終出ちゃったの! こんな辺鄙な所に学校建てるからだよ? まだ7時過ぎなのに」
「……そうか…………」
それなら仕方ないだろうか。このまま帰して事件に巻き込まれたら困るしな。
本当は1人にして欲しいんだが……どんな空気を相手が醸し出してようと諦めない、それが小林だった。忘れていた。空気で訴えようとした私が悪い。
「駅まで何分だ?」
「えっ?」
「歩いて何分だ?」
「歩いて……15分くらいですかね?」
歩いて15分を毎日バスで来ているのか。大層な御身分だ。
「歩くぞ」
「え、先生車……」
「後から取りに来る」
仕方ないだろう。車に生徒を乗せてはいけないことになっているんだから。
歩き出すと同時に、彼女は喋り始めた。
「佐川っちは……きっと、良い旦那さんなんでしょうね」
「どういう……意味だ?」
「ううん、何となくそう思っただけです」
どういう意味があるのか? 相変わらず、私はこの子が分からない。
「私が付き合ってって言ったらどうします?」
「は?」
いきなり何を言い出すんだ?
最近の少女漫画では「禁断の恋」などともてはやされているらしいが、現実世界に「禁断」はあってはならないことだ。
返事をせず、呆気に取られている私を見てか、小林は「例えばの話、ですよ」と濁した。
「…………私は、結婚しとるから」
「してなかったら?」
……こんな話題に何の意味があるのだろう。私には妻がいて、もう成人した子どもたちがいる。「もし」などあり得ないのに。
「どう……だろうなぁ」
「じゃあ、もしあの子から言われたら?」
「……はぁ?」
何の話をしているのか、全く分からない。
「何でしたっけ、みさ……き、ちゃん?」
「岬は……そんなことは言わない」
「なるほど、なー……」
どういう意味だろう。考えても意味がない気がする。いや、きっと元々意味など含んでいないのだ。
真っ暗な道を2人で歩く。裏道はやはり人気がない。バス通りを歩けば良かった、と今更ながらに後悔する。
「佐川っち、ほら、歩道橋」
たたたっ、と身軽に階段を何段か駆け上がる小林。
「ほら、早く」
「……あぁ」
もう私も随分歳なんだから、少しは気を遣ってほしいものだが……彼女にそれを求めるのも酷な話なのだろう。
頂上が近付いて来た頃、小林が言う。
「佐川っち、私と彼女、どっちが良い?」
「え?」
「本当はさ、彼女と関係持ってたでしょ?」
「そんな訳が」
「あるんだよ。だって、あなたは…………」
私にはあの笑顔を一切向けてはくれなかったでしょ?
とん、と肩に彼女の手が触れる。――あれ? 小林がどんどん離れていく。……いや、落ちているんだ、私が。
案外高かったんだなぁ、この階段。
そんなどうでも良いようなことを考えつつ私が最後に見たのは、
――さようなら、と動いた小林の口元と、蔑むように私を見る、小林の目だった。




