第8話◆新渡戸の過去…第5章◆
深夜の海岸線はとても幻想的で満月が海面に移りまるでひとつの絵画のように思えてならない…
真っ暗な海面で満月によって映し出される海平線…切り立った断崖絶壁…それは自分がドラマのワンシーンの中にいるかのような想像さえさせる。
新渡戸は尼崎杏奈をおぶりこの幻想的な光景を無言の中歩く。尼崎杏奈も無言で体を預けている…
今頃、病院内はパニックになっているだろう?瀕死の重症患者が突然いなくなる…医師、看護士…そして尼崎杏奈の両親…血眼になって探しているはずだ…こんな事をしでかしたら新渡戸自身も分かっている…地位も名誉も全て捨てる覚悟からの行動である。
そして2人は断崖絶壁を横に急斜面を降りる。何度もつまずきそうになりながら…
どの位こうして歩いていただろうか?2人は海がまじがで触れる砂浜で身を寄せあっている。尼崎杏奈はどこか目をぼんやりとさせこう言った。
「ありがとう…今までありがとう…」
「………」
新渡戸は黙って聞いている。
「私のわがまま聞いてくれてありがとう…」
「………」
「最初で最後のデート出来て良かった…今まで…本当…ありがとう」
「何を言っている…」
新渡戸は怒ったような口調で言った。まるで死んでいくようなセリフ…
でも新渡戸は知っている
…
彼女は死ぬ事を…
尼崎杏奈は泣いていた。新渡戸の体にも嗚咽ともとれるような声が振動となり体に伝わってくる。
「最初で最後なんて言うな…これから…デートなどいつでも出来る…」
「…ありがと」
2人はまた黙り込み会話もない。いや会話などいらなかっただろう。言葉を交わす必要もないだろう。2人は波の音しかない海辺で身を寄せあっている。とても幸せな時間であった…
人は必ず人生における失敗と言うものが大なり小なりある。新渡戸は尼崎杏奈の最後の願いを聞いてやれなかったことが自分の苦しみに変わりトラウマにさえなっていた。この神様がくれたタイムスリップ…でも本当にこれでよかったのか?新渡戸本人にもわからない…ただ言えることは海辺で二人寄り添うことの幸福…本当に幸せだった。
尼崎杏奈と出会って4年デートと言うデートなどしたことがない。最後にデートと呼べる物が出来たと思う。
そして…
彼女は死んだ
心の恋人、尼崎杏奈…
これからも私の心の中で生きつずけることだろう…
最初で最後の恋人…
尼崎杏奈…とても幸せそいな寝顔をしている…
あなたと居ることで幸せだった…とても楽しかった…
尼崎杏奈…
『さようなら』
「………」
「………」
すでに辺りは海平線から太陽が顔を見せ始めた。新渡戸は意を決したように立ち上がり来た道を戻る。尼崎杏奈を抱きかかえながら…だが尼崎杏奈からは何の反応もない。
180SX…
結局、最初で最後のドライブになった。助手席の彼女はどこか幸せそうに新渡戸を見ているように思えた。今にも話しかけてきそうだ。キーを入れた頃、新渡戸は無性に彼女と暮らしたアパートに戻りたくなった。何故かはわからない……ギアをローに入れアクセルを吹かす。辺りは耳をつんざく重低音に包まれる…
「………」
「………」
「………」
それは緩やかな右カーブだった。新渡戸はブレーキを踏むことなくシフトチェンジを行う。
対向車線からはトラック…別に減速する必要もないと思う。
トラックとの距離が30M20Mと近ずく。別に何の異変もない。
そしてすれ違う瞬間、なぜか新渡戸の視界にはトラックのバンパーが大画面で見えた。
そして−−−起きてはならないことが起こってしまったのだ…
「せ…
「ん……い」
「せんせ……い」
「先生!」
新渡戸が見た光景…
白いカーテン、チューブに繋がれた機器は自分に繋がっている…ここは?
「先生!先生!」
新渡戸の横に水野直樹?水野直樹である。新渡戸は訳が分からない。そしてきずいた。自分の体が動かないことを…機器からは緑色のラインが走っている。ここは…
「先生!わかる俺だよ!水野だよ!」
水野直樹が必死に言っている。
「水野君…尼崎杏奈はどうした?」
「え?」
水野の表情が変わった。何を言っているのか分からないような顔をしている。そしてこういった。
「尼崎杏奈?何言ってる…夢でも見たんじゃないですか?先生は俺とのドライブ中事故にあって1ヶ月寝たきりの状態だったんですよ!」
馬鹿な…私が今まで見てきた尼崎杏奈との生活は夢?あの海での思い出は夢?そんな…
新渡戸はこの状況を理解するのに時間が必要だった…無数の機器の音だけが虚しく耳に聞こえてきたのであった…