第8話◆新渡戸の過去…第3章◆
新渡戸寅ノ助は困惑していた。なぜならベッドの上には死んだはずの尼崎杏奈がいるからだ…
新渡戸のタイムスリップの考えなど結局、仮説の域を超えない…それは本人も分かっている事である。ただ今分かっていることは死んだはずの尼崎杏奈が横に居るということだ。寝息を立て幸せそうに寝ている尼崎杏奈…
彼女との出会いは今から13年前に遡る…
当時、京大生として入学したての尼崎杏奈は作家志望の学生だった。京大に入学したのも芥川賞受賞作家、新渡戸がいたからだ。
よく尼崎杏奈は自分の書いた小説を新渡戸に見てもらっていた。そのたびに全否定されていたのだが…小説全てを否定し、人格まで否定された…
しかし尼崎杏奈はどれだけ否定されても小説を書き続ずけた。最初は芥川賞受賞作家に自分の書いた小説を認めて貰いたい一心だった。だが次第に新渡戸という男に認めて貰いたいという気持ちの方が強くなり芥川賞などどうでも良くなっていた。新渡戸が気に入ると思う文章、小説を書いた。
そして徐々に尼崎杏奈は新渡戸に惹かれていったこんな男のどこがいいのか?人間とは分からないものである。
新渡戸にとって尼崎杏奈と言う女性は心安らぐ存在である。彼女は新渡戸という男を理解し受け入れてくれた…
初めてかも知れない…自分を受け入れてくれた女性、尼崎杏奈…永遠に、永遠に一緒に暮らそう…一生守っていく…そう誓ったはずだった…
誓ったはずだった…
翌日、新渡戸は台所からのぼる美味しそうな匂いに目を覚ます。パジャマ姿の新渡戸の目にはエプロン姿の尼崎杏奈が写るテーブルにはご飯、味噌汁、あじの干物、イチゴが置いてあった。
「あ!先生おっはよう」
尼崎杏奈が新渡戸にきずき愛嬌のある声でいった。だが新渡戸は
「うむ」と一言、ドカッと椅子に着席する。さも当然のように着席する。新渡戸が箸を取ったのを見て尼崎杏奈も箸を取る。
「………」
「………」
「ど、どうかな先生?」
緊張の一瞬である。
「………」
「………」
「口に合わなかった?」
すると新渡戸は眼光鋭く尼崎杏奈を睨んだ。ゆっくりと口を開けていく。
「まず味噌汁のダシがあまりでていないな…君はダシというものが分かっていない。君は煮干しの腑を取ったか?天日干しにしたか?怠慢が見られる…次に干物であるが私は三重の吉田屋の干物しか食さない。これはスーパーの干物だね?怠慢が見られる。今から取り寄せて来たまえ!あと全体的に味が薄いように見受けられる。こんな物食すことはできない…本当、君はどういう教育を受けてきたのかね?相手のことを思うという気持ちが微塵にも感じられない!親の顔が見てみたい物である!」
普通せっかく作ってくれた料理をここまでケチを付けられたら
「じゃあお前がつくったら!」ってなるところだろう。そこは流石、尼崎杏奈である怒ることもなくただただ冷静に聞きメモをとる。新渡戸の性格を熟知しているのだ。こんなことで怒っていては新渡戸と付き合うことなど出来ない。新渡戸も別に本気でケチを付けているわけではない。内心嬉しいのだ。ただ照れ隠しで言っているようなもの…これも一種のコミュニケーション?…かな
「先生、でもお味噌汁前よりはおいしく作れるようになったでしょ?」
「20点…」
「ご飯だって前よりはおいしく炊けるようになったと思うんだけどな?」
「13点…」
「イチゴ美味しいよ!」
「5点…」
いちいち料理に点数までつける男、新渡戸…でも悪気があるわけではない。これも新渡戸にとっては一種のコミュニケーションなのだ。
朝食を食べた後、新渡戸は時計に目をやる。すでに8時を回っていた。新渡戸の出勤の時間である無言で立ち上がった新渡戸を背に尼崎杏奈は笑顔でこんなことを言った。
「先生、たまには私も180SXで送ってってよ〜」
新渡戸の表情が変わる。
「ねぇ〜ねぇ〜たまにはいいでしょ?」
新渡戸はプルプルと震え全身の血管が浮き出ている。
「私達付き合ってるんだからさ〜ねぇ〜?」
新渡戸の震えは頂点まで達し痙攣と言った方がいいだろう。高血圧の新渡戸には心筋梗塞の恐れさえもある。だが尼崎杏奈は続ける。
「一回ぐらい乗せてよ〜ねぇ〜ねぇ〜!お願い!ねぇ〜ねぇ〜ねぇ〜ねぇ〜ねぇ」
猫のようにまとわりついている。そろそろか?
プツッ…
キレた…
断っておくが血管ではないよ!以下、新渡戸が言った罵声である…
「何を非常識なことを言っている!君と私は生徒と教授という関係だぞ!もし誰かに一緒に180SXに乗っているところを見られたら私の立場はどうなるのだ!噂がたちまち広がるぞ!私は学生に手を出したロリコン天才教授のレッテルを張られるぞ!私が積み上げてきた地位も名誉も粉々に壊れるだろう!君にその責任が取れるのか!」
「責任…とれないけど」
「だったら言うな!君はいつものように私と顔を合わせることなく登校すればいいのだ!わかったか!」
「は〜い…」
新渡戸はそれだけ言うと部屋を後にする。尼崎杏奈が少し寂しそうな顔をしたように思った。新渡戸は車のキーを片手に階段を下りる…
駐車場には180SX…
「私の180SX…」
ホイール、ステア、マフラーを変えた以外は純正のタイプX…これでタイムスリップした…
やはりダッシュボードの中には自分名義の車検証がある。やはり間違いなくあの頃の180SXである…
キーを回す。重低音が心地良い…懐かしい…BLITZの水温計を確認しシートベルトを閉める…ゆっくりとクラッチを緩めアクセルを踏み込む。辺りは耳をつんざく重低音に包まれたのだった。
こんな事を何日繰り返したことだろうか?
優しい尼崎杏奈とずっと一緒にいたい…
このささやかな幸せが永遠に続いて欲しい…
心から思う…
だが自分は未来を知っている…尼崎杏奈がどうなるのか…
この幸せを永遠の物にしたい…
だが一本の電話によりこの幸せが消滅することも知っている。