8 情景を言葉にしてそして音にして
「つながらない、というか、音に変換できない、って言うか…とりあえず音の見本があれば、どうかなって思って、キーボードなんかも買ってみたりしたんだけど、やっぱり」
「カナイはメロディそのものが浮かぶって言ってたけど」
俺は頭を横に振った。そうじゃなくて…
「メロディじゃないんだ。もっと曖昧で、漠然としたものなんだ。メロディが浮かぶんなら、俺もまあ鼻歌でも歌って、それをケンショーに何とかしてもらうってこともできるんだけどさあ…」
「どういうものが浮かぶの?音じゃないの?」
「いや、音は音なんだ。だけど、具体的な音じゃないんだ」
マキノはどういうことかな、と腕を組んだ。
「…じゃ、そうだなオズさん、『こういうかんじ』、とかそういう… すごく…」
いや違う、と彼は頭を振る。手を軽く閉じたり開いたりする。俺はそれを見ながら、自分自身言いたいことが上手く見つからないことが、やや苛立たしかった。
その自分の見えるもの、感じるもの、鳴っているものを説明できる言葉が上手く見つからなかった。
「…断片」
「断片?」
ようやくそれらしい言葉を一つ投げると、奴はそれを繰り返した。
「何って言うんだろう… 一部分の、色だけが、ほんのちょっと見えてるって感じなんだ。ヒントととも言いにくい。ほら、覚えている夢の、最後の瞬間って感じ」
「…ああ」
彼は大きくうなづいた。
「…もしかしたら、判るかも、しれない」
そして少しだけキーボードのヴォリュームを上げた。
「このくらいは大丈夫だよね」
「お前何するつもりだ?」
「オズさんには、その断片、というか、ふわふわしたものが、あるんでしょ?」
「? ああ」
「だったらその断片を言ってみて。何か、判るかもしれない。具体的でもいい。全然具体的でなくてもいい。断片でいい。言葉の端っこ。そしたら俺はそれを音に変えられるかもしれないから」
「そんなことできるのか?」
「さあ」
彼は首をふるふると振る。
「でも、今何となく、そうしたいって思ってしまったから」
「成りゆき」が信条の奴はそう口にした。指がぽろぽろ、と幾つかの和音を鳴らした。ある場所に来た時、俺の口は自然に動いていた。
ふっと弾けたものがあった。
「今の音」
「Aのコードだよ」
ピアノを真似た音が軽く、部屋中に響いた。
「そこから降りていく感じで…」
マキノは俺の言った通りに、鍵盤を押さえる。こう?と時々ちら、とこちらを見る。俺は首を横に振る。
「いや、少し上がって…」
「じゃあこういう感じ?」
ぽろぽろ、と奴はそこから座りのいいコードを並べる。
「うん、でも少し昔っぽい感じで」
「昔っぽい?ちょっとそれって難しくない?もう少し…もやもやしたものでいいから、言葉付けてよ」
何って言うんだろう。
頭の中で、その音楽は、鳴っているのだ。ただ形にできないだけで。
「どういう種類の音?」
奴はキーボードの中に記憶されている音をいろいろ変えてそのコード進行を奏でる。色々あって面白いね、といろんな組み合わせを試してみる。
「ねえオズさん、どういう情景が浮かぶ?」
「情景?」
「うん。その音が絡まってる、風景。もちろん俺の思う景色と音と、あんたが思うのとは違うだろうけど」
情景。そうだ。目の裏に、情景はいつも浮かんでいた。音と一緒に、それは俺の頭の中にいつも。
ただひどくそれは曖昧で、形があるのかどうかも判らないものだったので、いつも言葉にしたこともなかったのだ。
音も同じだ。浮かんでいる。だけどそれを外に表すだけの、変換器というか、モデムというか、そういった「道具」が俺には足りない。
それでも俺は、自分のボキャブラリイを駆使することにした。奴はその何か、を求めているのだから。
「…白いんだ」
俺は両手で大きく顔を覆い、光から隠された視界に映ったものを奴に告げた。
「白い?」
ずるり、と指を額から目、頬と次第に下ろしていく。浮かんだ情景。
「曇っているのよりは明るいんだ。だけど晴れてもいない。雨が降るのかもしれない。だけどとりあえず午前中は降らないだろう、って空の色」
「それはもしかしたら、休みの日の土曜日とか、日曜日じゃあない?そうでなかったら、半ドンの土曜日の午後」
俺は半ば閉じていた目を弾かれたように開けた。
「…うん。特にすることがある訳でもなく、音もなくて、誰かがやってくる訳でもなくて、静かな」
「部屋の中?」
「そう、部屋の中。外へ出ようかどうか迷ってる。中に居て一日を終えてもいい。外へ出て何となく楽しく過ごしてもいい。どっちでも、いい」
「…じゃあ、この音は?」
奴は、一つの音を選び出した。ハモンドオルガンの音だ。うん、と俺はうなづいた。
「ねえこれを、三拍子にしたら、どう?」
「ワルツ?」
「別に三拍子全てがワルツじゃあないよ」
奴はくすくす、と笑った。俺はキーボードの側に近づいた。
「それで、最初に言ったコード進行で、こう降りて…」
やや安っぽい音が、広がった。如何にも電気音です、と言いたげにビブラートがかかっている。不安定な、音の流れ。
「うん、で、ややサビ… 盛り上がって」
「こんな感じ?ちょっとありがちじゃあないかな」
音が上がっていく。
「うん、一度目のサビならそれでいい。…Aメロは二回繰り返して」
「じゃあ1コーラス、こういう風にまとめられるね」
奴は通してそのコードを流した。俺はうなづいた。
「2コーラス目は、Aメロ一回。で、そのさっきのサビを入れて… 間奏」
「間奏部分はも少し後で考えようよ。そのサビがBメロとして、ちょっと毛色の違った… もしかしたら、雨が降るんじゃないかな、という感じのでしょ?」
「空がちょっと暗くなってくるんだ」
「…でもコードはメジャーのまま」
「そう」
俺は頭の中に何やら明るいものが広がっていくような気がした。どうしてこうも判るんだろう?
「ねえ明るいメロディの方が、哀しいよね。明るいんだけど、そう簡単に、空は晴れることなんかないんだ。だけど何となくずっと明るくて」
妙に奴の表情は楽しそうなものになっていた。俺は口元に手を当てる。
「…で、またAメロを一回…で、大サビ。Bダッシュ。思いきり盛り上げて…」
「音を思いっきり上げようか。大人しくまとめないで」
奴はその前までのBメロより、その部分の音を、二度ほどあげた。
ぞく、と背中を走るものがあった。
「…うん、そのまま、もっと盛り上げよう。大団円、って感じに…」
「じゃあこうだ」
奴はそのまま指を動かした。
「へえ…」
俺はすっかり感心していた。
「ちょっと通しでやってみるね」
ああ、と俺はうなづいた。穏やかな音のかたまりが、ゆっくりと部屋の中を満たしていく。
目を開いていても、頭の中に、「その情景」が広がる。
人の声もしない。車の音、外の喧噪、TVの音、ラジオの声、そんなものが何一つ聞こえない。
その音が、沈黙を作り出していた。少なくとも俺の頭の中で。
急にその中に、夕暮れの光が差し込んだような気がした。ハモンドオルガンの音が、急にピアノの音に変わったのだ。
それは使い込まれた、だけどそうそう調音をしていないような、やや狂いかけた音を思い出させた。オクターヴ違いのユニゾンがあの大きくはない手から叩き出される。
そしてまたサビにと戻っていく。
「…最後に、ピアノの…」
俺の口は、ふっとそんなことを告げていた。奴は軽くにっと笑った。上がりきったオルガンの音の、まだ余韻も残った中に、ピアノの音が絡む。そうだ、そんな感じだ。
―――最後の一音が消えた瞬間、俺は思わずキーボードを越えて、奴に抱きついていた。
「…苦しいよ」
奴はそれでも俺を振り解くでもなく、そんな言葉をつぶやいていた。俺は俺で、そんな言葉は耳に入ってなかったらしい。
「…すげえ。何で、判るんだよ? 俺の、欲しかった音!」
何でそうしたかは判らなかった。ただ無性に嬉しかったのだ。そして、紗里とは違う、また別の感触に、俺は少しばかり驚いた。昨夜は逃げた、あの。
どのくらいそうしていただろう。はずみで、鍵盤が音を立てた。俺はそれを耳にした時、ようやく我に帰った。腕を緩め、キーボードを横に避けた。
微かに上気した顔で、奴は俺に訊ねた。
「本当に、あれで、いいの?」
「ああもちろん。驚いた。どうしてお前、判るんだ?」
「俺だって判らないよ、どうしてか、なんて。だけど、何となく、こういう感じかな、ってふっと思ったんだ。ねえオズさん今まで曲作ったこと、本当に、ないの?」
「ない」
俺はきっぱりと言った。情けないことだが、本当に、無い。
「俺はさマキノ、頭の中で、こう、ぼんやりと何か音や情景が流れていることはあるんだ。今みたいにさ」
マキノはうなづく。
「だけど俺には、それを外に、形にして引き出すためのものが俺にはないんだ」
「だけど、俺には判ったよ?…間違っていないのだったら、オズさんが、どんな情景を見て、どんな音を組み立てたがってるのか」
「見えるのか?」
奴はふら、と首を横に振る。
「そうじゃない、と思う。でも、何となく、判るんだ。ほら、あの、俺がピアノを入れたとこ、あそこは俺は、夏の夕方とか、考えてたんだけど… あのピアノの音は、あれはビアホールだよ。だから音が狂ってても平気なんだ。そんな時のピアノは、弾くんじゃなくて、叩くんだ。調子っぱずれの歌声に負けない程に」
「…そうだよ」
「そんな情景なの? やっぱり」
「うん」
「どうして判るんだろ? すごく不思議だ。だって俺、結局彼に関しては、全然判らなかった。すごく知りたかったのに、結局最後まで彼が何考えてるのか、全然判らなかったのに」
「マキノ…」
「どうしてオズさんは、判るんだろう?」
マキノは首をかしげる。俺は、何となく自分がその理由を知っているような気がしていた。だけど、やや話をそらしてみる。何となく、その言葉の向こうには。
「でもワルツにされるとは思わなかったな」
「俺結構好きだよ。ピアノ曲にも結構あるし」
「でもワルツと言ってて、ワルツっぽくない奴も結構あると思うけど… お前さっきショパンやったろ? 犬の奴って無かったっけ?何かガキの頃、音楽の授業か何かで聴いた気がするんだけど」
「『子犬のワルツ』?…だよね。ああ、あれはずいぶん音符が動き回っているから…」
と言って、キーボードを引き寄せると、マキノは音を「抑えたピアノ」に変え、細かく指を鍵盤に走らせた。
確かに左手のベース音は、三拍子を奏でている。だが右手の軽やかさが、それに気付かせない。
ふっと音に合わせて身体が動く時、一拍、背中に残るような感覚がある。それに気付いた時、ああこれはワルツだったかな、とやっと思い出すのだ。
「何か不安定でしょ」
そんな俺の気持ちを見すかしたかのように、奴は手を止めた。
「何かね、こうゆうのって、彼と居たときに、時々感じていた気分と、ちょっと似てるんだ」
やはり話はそこに振り返すのか。
「ワルツと?」
「俺さ、前、彼と居た時、何かね、いつももう一人が、そこに居るような気がしてたんだ。もうそこには居ないはずの人なのに」
「居ない人」
「俺と会うずっと前に、死んでしまった彼の友達」
ああ、そういう人が居たのか。
「そういう感情が、彼にあったかどうかは、結局俺には本当には判らなかったけれど」
嘘だ、と俺は思った。
「でも死んでしまったからこそ、その人は、ずっと彼にまとわりついてた。もちろん幽霊がどうの、というんじゃないよ?確かにそんなことが、そんな人が、居たんだ、っていう、影みたいなもの」
三拍子の、最後の一拍が、耳の後ろに聞こえてくる。
「何か、結局、俺はそのひとに勝てなかった気がする」
「そんなこと」
「そんなことって、オズさん判るの?」
「…判らないけど」
猫の瞳が、俺を見据えた。真正面から。昨夜と状況は、似ていた。だけど、昨夜とは明かに違う。
俺は大きく息をつき、覚悟を決めた。
「でも、そんなことは、俺は、どうだっていいと、思う」
今度は、逃げない。
「オズさん?」
「俺にだって、そのまとわりついてる何か、がお前の後ろに見えるよ」
「…」
「もちろん目に見えるってのじゃないよ。だけど、お前の後ろに、誰かが居るのは、見えるんだ。でも俺は、そんなことはどうでもいいんだ」
何となく猫の瞳は困ったように細められる。俺は手を伸ばした。ぴく、と触れた頬が震えるのが判った。
「俺だって聞きたいよ。どうして俺の中の『音』が見える?」
「判らないよ。だけど判るんだ。たぶん俺、そういう腕はあるよ。誰かが望めば、あんたのような言い方じゃなくても、断片をちゃんと聞かせてくれれば、それを音にすること、できると思うよ。だけど、それが『見えた』のはあんただけだもの。俺が聞きたいよ」
「それはなマキノ」
俺はそういうと、奴を引き寄せた。昨夜と立場は逆転した。猫の瞳は大きく一瞬開いたが、すぐにそれは伏せられた。条件反射のように奴の細い腕は俺の首に回された。
「…そうなんだ」
息を大きくつきながら、奴は離れた唇から言葉を滑らせた。
「俺を、欲しがってる?」
「ああ」
「あのひとは、俺を、欲しがってはなかった?」
「それは俺の知ることじゃないよ」
奴はううん、と首を大きく振った。
「違うよ俺は知ってたんだ。知らないふりしてた。あのひとは俺を欲しがってはいなかった。俺が欲しがるから応えてくれていたけど。だから俺は、あのひとの音を見つけることができなかったんだ」
俺はいきなり感情的に、上ずっていくその声を、黙って聞いていた。それは、奴にも止められない何かが、声を奴の中から押し出しているようにも感じられた。
「あんたは俺を、欲しがってる。だから、俺には判るんだ。俺にはあんたの音が見つけられるんだ。俺に向けられた、何かが、あんたにはあるから」
そうだよ、と俺はうなづいた。そうだったんだ、と奴は回したままの腕に力を込めた。勢い余って、俺は背中から床に倒れ込んだ。
大丈夫?と奴は訊ねる。俺は大丈夫、と同じ言葉を返す。くくく、と奴は笑った。
「…昨夜の続き、しない?」
「続き?」
なるほどそれも悪くはないな、と俺は一瞬思った。
だが。
「なあマキノ」
「何?」
「したくないって言ったら嘘になるけど… 俺達これからは、もっと、そうじゃないことでも、遊ぼう」
「嫌なの?」
「嫌じゃない。ケンショーがああいう奴だから、俺は別にそういうのは平気だと思う。けど、俺は、あいにくよくばりだから、そういうお前以外とも、やってきたいんだよ」
「普通に? 寝るだけじゃなくて」
「週末に来ればいいさ。あんな所で誰か待ったりせずに、ここに。だけど寝るだけじゃなく、もっといろんなことしよう。普通に食事したり、適当にどうでもいい話したり、一緒にTV見て馬鹿な批評したり」
「それに、曲作ったり?」
「そう」
そだね、と奴は言って、くすくすと笑った。
正直言って、奴の後ろに居る「あのひと」、吉衛さんのことが全く頭に無い訳ではなかった。だがそれは、消せと言われて消せる訳じゃない。
だから俺は、それもまとめて抱きしめようと思った。
抱きしめる俺の力が強ければ、「それ」はいつか消えていくかもしれない。消えないかもしれない。
だがそれはどうでもいいことなのだ。ここにこうやっている、この相手が手の中にあるのなら。