7 戻ったらまだ猫は居てピアノもどきを弾いていた
その頃のことを紗里は滅多に話さない。
どんなことがあって、どんな思いをして、どう変わったか、とか。彼女のプライドにかけて、それは口に出せないことなんだろう。
そんなことはどうだっていいのよ、と彼女は再会して、殴る代わりに俺に蹴りを入れたあと、そう言っていた。
「辛かった?」
「当然のことを聞くんじゃないわよ、馬鹿」
「ごめん」
俺は白木のテーブルの上に頭を突っ伏せた。本当に、今更だが、それしか言葉は浮かばなかった。紗里は首を横に振った。
「今更謝られても、時間は戻んないわよ。それに、あんたがそうしたからこそ、あたし大学に行こうとか言う気にもなったんだし」
「それはそれで良かった?」
「少なくとも、知識は増えたもの。視点が広がったよ。ねえ考えてみなよオズ。あのままずるずると、あたし達、あたし達の郷里にいたら…」
「どうなってたと思うんだ?」
「そうね」
んー、と彼女は頬に人差し指を当てる。
「高卒で就職するとね、だいたいまず三年目に恐るべき波が来るのよ」
「波?」
「結婚。半径十メートル以内の、そういうつき合いかもしれないし、そういう話が来るのかもしれないけど」
俺は思わず麦茶を吹き出しそうになった。
「げ… 二十一でかよ」
「だってうちのよりこさんもそのくらいだったでしょ?」
彼女は自分の姉の名を出す。そう言えばそうだった。
「で、その不吉な年を乗り越えると、次がそのまた三年か、五年後かな。今度は周囲の圧力がかかるわね」
「あんまりいい光景じゃあないな」
「でしょ? でもね、お勉強しに上京すると、確かに状況は変わるのよ」
「そういうものか?」
「少なくとも、親元にいないというのは」
「そりゃ確かに」
「ねえ」
顔を見合わせて、俺達はうなづいた。俺達の共通項だ。郷里は嫌いではない。自然や気候や、そういった人間のいない自然に関しては好きなのだ。嫌ったことは一度としてない。
「昔よく、港や浜で会ったよね」
「そーだったよな」
港と言っても、横浜やそこらの小綺麗なものを思い浮かべてはいけない。
潮の香り、というよりは、打ち上げられた魚のにおいが染み着いているところである。乾いた貝殻がコンクリートの上にうず高く盛られている。時には鳥が落としたのではないかと思われるような小さな魚が、乾いて死んでいる。
そういう土地の、浜辺にテトラポットがたくさん置いてあるような所。大きな船ではなく、小さな漁船が群をなしているような所だ。沿いの道路には、未だに土曜日の夜になると暴走族が走り回っている。
俺達の郷里は、そういうところだった。
「ああいう所は好きだったのよ。ほら、空とか、ここよっか、ずっと綺麗じゃない。星も見えるし」
「蚊とかも多かったけどな」
「そーよ。だって同僚の子なんて、蚊柱知らないのよ?」
「げっ! 街育ちってそんなものかね」
「そういうもんでしょ」
夏の夜。蚊に食われながら、それでも浜辺の、あまり族の方々の来そうにない、砂混じりの板張りの床の小屋でよく二人で会った。ぽりぽりと太股を引っかきながらの逢い引きなんぞムードもへったくれもなかったが、それでも楽しかった。
だけど、それだけだった。
それだけで全て、満足できたなら、お互いそのまま楽しく何年か過ごして、あの土地で不自然なこともなく結婚して、もしかしたら今の年には、子供の一人二人いてもおかしくなかったかもしれない。実際、時々来る郷里の友人からの電話には、そういった話も出るのだ。
だけどそうはいかなかった。俺はドラムが叩きたかったし、彼女はそこだけで完結しない、広い世界を見たくなった。
そして郷里の友達からしてみれば、きっと俺達はまだ子供の延長をしているのだろう。いい大人が何をしているのか、と言われるだろう。
だけどそれは決して間違った選択ではないと思うのだ。
「ところで聞いてもいい?」
「はい」
「どういう子なの?」
「聞きたいの?」
「そりゃそうだよ」
まあそうかもしれない。彼女にはその権利はあるだろう。
「驚かない?」
「驚くような人なの?」
うーん、と俺は麦茶の残りを飲み干した。
「猫みたいな奴なんだ」
「まあ確かにあんた猫は好きだもんね。ノエちゃんもそうだったし」
「小柄で、華奢で、目が大きい」
「最近にしては珍しいよね。だいたいいつもある程度の起伏があった方が最近は好きだったくせに。それでもさらに大きくしようなんてあたしには言ったくせにさ」
「黙りなさい。年は下。…六つ下、かな?」
「高校生?」
彼女は軽く眉をひそめる。俺はうなづく。
「…もしかしてオズ、…それって、まさか、…」
「え」
「あの子? こないだ駅前で」
「あーっ!」
俺は頭を抱える。
「…そーなんでしょ」
「…言うなーっ!」
「ああそうなんだあ。…ほー…まあ確かに驚くわよねえ」
俺はばたばたばたと手を振り回す。こうまで照れることはないのじゃないか、と思いつつも、そうせずには居られない。耳まで真っ赤なのは、耳たぶから感じられる熱で丸判りだ。
「まあ確かに可愛いけどさあ。あんたの趣味も変わったわね。『だから』手を出せない?」
「…という訳でもない」
何せ周囲が周囲だ。ケンショーという実に好みに性別を超越するいい例を俺は知っている。何をどうするのかも知らない訳でもない。
紗里も一応顔馴染みなので奴の傾向も知っていた。
「じゃあ何オズくん? 女の子には手が結構早かったくせに」
困った。
さすがに困った。紗里に訊ねられれば答えなくてはならないのは判っていても、答えられることと答えられないことがあるのだ。
「何が引っかかっているっていうの?その、誰でもいいってところ?」
「まーね…」
「そのへんが、引っかかってる?」
「…のかもしれない」
少なくとも奴は、嫌いでなければ、誰とでも寝られるのだ。それを考えた時、俺は妙に胸が痛んだ。見ていられなくなる。
「…たぶん俺は、『特別』になりたいんだ」
「『特別』ね」
紗里はうんうん、とうなづく。
「その上でそういうことになったとしたなら、いいんだけど、…そうでないとすれば、所詮俺も、あいつを引っかけてたあの駅前の連中と同じかなって…思ってしまうんだ」
「真面目ね。ま、そういうとこは好きだけどさ」
紗里はふっとため息をついて、俺の頭を抱え込んで頬に軽くキスをする。
「そう言ってくれる?」
「まーね。だってさ、あんた手が早いって言われてたちょっと前も、そん時はそん時で熱心だったじゃない… そりゃ高校の頃とは違うけどさ」
そうなのだ。「今の」問題はそこにもある。
何と言っても、奴は同じバンドのメンバーなのだ。
「ケンショーさんは、どおだったの? やっぱりメンバーに恋人が居た訳でしょ?」
「めぐみが居た頃? …でもケンショーと俺って、そもそも好きになるポイントが違うだろ?奴はそもそも声に惚れるんだし」
「じゃあんたは、何処に惚れたの?」
「…」
彼女は呆れたように肩をすくめた。
「また黙る。その点だけははっきりさせた方がいいわよ。何となく、なら、何となくなりに」
「…はいはい。進展があったらまたご報告するよ。ところで紗里、お前はそういう相手ないの?」
矛先が自分に向けられるとは思っていなかったらしい。彼女はぶ、と麦茶を吹き出しそうになった。
「いきなり何聞くのよ」
「あ、お前もそういうの、あるんだ」
「悪かったわね… 上手くいったら紹介するから、黙って見てなさい!」
了解、と俺は手を上げた。
*
自分の部屋に戻ったのはもう昼近くだった。
あれから俺は彼女の部屋で、うだうだと夜が明けるまで喋っていた。
だがさすがに三駅も歩いた後だったので、急に襲ってきた眠気には勝てなかった。気がついたらすっかりと明るい部屋の中で、俺の上には毛布が掛かっていた。
紗里は自分のベッドの上で、すやすやと眠っていた。地震が来ても起きそうにはなかった。そのくらい彼女の眠りは深いように俺には見えた。
よく考えたら、彼女はいつも生理中はひどくだるくなる体質なのだ。昼間でも眠くて眠くて、仕事中でもまぶたが重くて仕方がないのだという。
それなのに休みの日の夜明けまで起きてつきあってくれたのだ。全くいい奴だ。
起こさずに行こうかな、とも思った。だがそれはまずい。彼女はそういうのは嫌うのだ。横向きで、やや身体を丸めて眠っている彼女の背を俺は軽く揺さぶった。紗里、と名前を呼ぶ。
「…んー…」
「俺、帰るから」
「そぉ…」
「ありがと、な」
「うん…」
半分しか目が開かない状態で、身体を起こすことなど全然できそうにないような感じだったが、彼女はそれでももぞもぞと手を伸ばそうとした。
「何?」
「…鍵…」
彼女の指の方向を見ると、ベッドの端の小さなチェストの上に、確かに鍵が置いてあった。
「掛けとくよ。新聞受けから入れておけばいいか?」
「んー… 後で電話する…」
「うん」
「今度食事おごってよ…」
「うん」
俺はうなづくと、光がまぶしいとでも言うようにややうつぶせた彼女の頭をくしゃ、とかき回した。彼女は鬱陶しそうにううん、と声を立てた。俺は苦笑し、彼女の部屋を後にした。
だが鍵を新聞受けに入れた時、俺はふと、自分の部屋のことを思い出した。
そういえば、自分の部屋を飛び出した時に、俺は鍵を… かける間は無かった。
*
戻ってみると、案の定、鍵は開いていた。だが予想と違っていたのは、その中にまだ客は居たことだった。
「…マキノ」
奴は入り口から見える部屋の真ん中で、両耳にイヤホンをつけて、キーボードに指を走らせていた。その音が大きいのだろうか、扉の開いた音にも、俺が発した声にも気付いた様子はない。
驚いた俺が、ドアノブから手を離したら、扉は音を立てて閉まった。開ける音より閉める音の方が大きい。さすがにそれは響いたらしい。キーボードから手を離し、ぱっと音の方を見た。そして胸の前の線をひっぱり、両耳のイヤホンを外した。
「あ、お帰り」
「…ただいま… 居たのか」
「来いって言ったのは、オズさんでしょ。勝手に帰ったと思った?」
思っていた。あの状況では。
「帰るったって、あの時間じゃ、電車も通ってないじゃない」
「でももう…」
「とにかく座ったら?」
言われるままに、はい、と俺はキーボードの前に座り込んだ。
そういえば、うちにはキーボードがあったんだった。今更のように俺は思い出した。
ずっと部屋の隅に、ファンの子がくれたエスニック調のベッドカバーでくるんで立てかけておいて、忘れてた。そんなものを見つけだしてくるなんて、よほど暇だったのだろうか。
「…何弾いてたの?」
「***」
さらさら、とその口から意味の判らない数字交じりの単語が流れる。え、と俺は問い返した。
「まあ練習曲みたいなもんだよ。そうゆうのはだいたいあんまり曲、っていう感じのタイトルはないの」
「へえ」
何となく感心して俺はうなづく。ちら、と俺の方を向くと、奴はイヤホンのプラグをキーボードから外した。
途端に奴の手が触れる鍵盤から、きらきらとした音が流れ出した。ピアノに似せた音だ。
「あとはこんなの…」
ヴォリュームを少し落として、奴は指を軽く動かした。
「…ああ。何かCMで聴いたことある」
「ショパンだよ」
くす、と奴は笑った。胃腸薬か何かのCMだったので、そんな曲が使われていたのか、と俺は妙に感心した。
「そう言えばお前、音大志望だったっけ」
「音大? まあね。うん、一応その方の勉強もしてる」
マキノはキーボードを弾く手を止めた。
「一応?」
俺は言葉の端を捕らえて問い返す。
「あのさ、俺ときどき、大切なものがいくつか出てきた時、どっちが大切だか判らなくなるの。だからそういう時には、とりあえずどっちも用意しておいて、もう最後の最後で、成りゆきにまかせることにしてるの」
「成りゆき?」
「…つまり、例えば受験当日にちゃんと俺が受験会場に行くかどうか、とか…」
何じゃそりゃ。
「それって結構大胆じゃないか?」
奴は違うよ、とふらふらと首を横に振る。
「優柔不断なんだ。直前まで決められないんだ。本当に大切なものは特に」
「とりあえず」
「そ。別にしておいて悪いものじゃないしね。もしも俺がバンドだけ、を選んだとしても、カナイは楽器全然だめだし。俺ができて悪いもんじゃないし」
「そうだな」
確かにそうだった。用意周到、とカナイは言ったがそういうところが確かにありそうだった。
「ところでオズさん、キーボード持ってたんだね」
「あ? ああ」
「結構意外だな」
「そぉか?」
「だってオズさん、ドラム以外は興味ないように見えるもん。何で持ってんの?弾けるの?」
俺は渋すぎる茶を飲み干したような顔になる。ああ弾けないんだね、と奴は壁に貼り付いた猫の笑いを見せる。俺だって、弾ける奴にはあまり説明したくない、ということはあるのだ。
これでも一応頭の中で鳴っている音を引っぱり出してみたい、と思ったことはあるのだ。だが所詮徒労に終わった。
「でもずっと放っておいたら楽器が可哀想だよね」
そう言って、奴は再びぽろぽろと指を走らせた。すると、俺はふと自分のことから、一つの疑問を思い出していた。
「マキノはピアノ弾けるんだよな」
「うん。この程度にはね」
きらきらした音が、流れていく。
「どうして曲は書かない訳?」
「どうしてって言われても…」
奴はふらりと首を傾ける。器用なことに、指は止まらない。
「時々カナイが言うんだけどさ」
「うん」
「音が頭の中で勝手に鳴るんだって。それを奴は、歌えるから、そのまんま声にして引っぱり出してるんだって」
「ああ、ケンショーの奴もそういうことは言ってたな」
「でしょ? 何か曲を作れる人ってのは、そういう風に、ふわふわそうゆうものが頭の中で浮いてる、って言うか、漂ってるものってあるらしいんだけど…俺にはそういうのがないの」
「へ? そう?」
うん、と奴は大きくうなづいた。
「そう。俺はね、基本的にプレーヤーな人なの。ピアノでもベースでも、そういうの、結構会得するの上手いらしいんだけど、そういうの、がないの。だってさ、カナイなんか俺がどれだけ教えてもベースもギターもピアノも全然できないんだよ?なのに奴は曲作れる。そういうこと」
「…ああ」
俺は数回重ねてうなづいた。楽器のできるできない、は関係ない、ということか。
「だからオズさんも何か作ってるのかなあ、っと思ったんだけど」
「浮かんでるものはあるんだけどね」
指が止まった。ぴん、と彼の顔が僅かにこちらに向いた。
「だけどそれが、何かどうしても音にならないんだ」
「ならない?」
視線は、今度は完全にこちらを向いていた。