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6 オズ、紗里にペットボトルのスポーツドリンクを頭からくらい説教もくらう

 頭が混乱している。そんな時に頼れるのが彼女しかいないというのは何やらひどく不思議だった。実際、他の誰に頼れるというのだろう。

 ケンショーを初めとして、音楽関係の界隈に、俺はそんなところは見せたくはなかった。

 無論人間だから弱いところなぞ山ほどある。だが、それは、今現在楽しみつつも戦っているその場では、見せたくないものなのだ。

 紗里はそれとは別の次元で生きている、だけど俺のかけがいのない友達だった。俺の情けない所を知り尽くしている、唯一の友達だった。

 チャイムを鳴らすと、やや眠そうな顔をして、彼女は扉を開けた。もう風呂には入ったらしい。髪が半分濡れていた。


「…遅いよ」

「しょうがないだろ。歩いてきたんだ」

「いいけどね」


 早く入んなよ、と彼女は俺の肩越しに扉を大きく開いた。近づく身体から、体温と、シャンプーの香りが感じられる。既に眠る準備態勢だったのだろう。深い赤に、端だけがアイボリーのパジャマの上下を着ていた。


「何があったの?」


 何かあったの、ではない。何かがあったことなど、言わなくても判るのだろう。当然だ。扉が閉まる。チェーンがかかる。

 いつものように、俺はワンルームの彼女の部屋の、きちんと片づいた丸い白木テーブルのそばに座った。紗里は綺麗好きだ。俺もそうちらかす方ではないが、彼女の方がまめに掃除や整頓はする。趣味が無いからよ、と彼女は言うが、それだけではないだろう。

 ほい、とテーブルの上にまずコースター、そして大きなガラスのコップが置かれた。自分の分も置いたあと、冷蔵庫からペットボトルを出しながら彼女は言葉を投げた。


「明日が休みで良かったよねあんた」


 全くだ、と俺は思う。週末なのだ。もう日付はあれから変わっていた。もうあと三時間もすれば夜明けが来る。

 昼間のOLである彼女は、夜そう強くない。ペットボトルのスポーツドリンクを抱えて座り込みながらも、何やらいつもより気だるそうに首を回しているし、生あくびばかりしている。


「本当にごめん」

「ごめんと言う気があるなら、白状なさい。何があったの」


 とぷとぷと音をさせてドリンクを注ぎながら彼女は訊ねた。だが俺は口ごもった。とりあえずは彼女が注いでくれたドリンクを飲み干すことで時間を稼いだ。無論そんなものは、一分にも満たない。


「あたしだって聖人君子じゃあないからね。ちょっとは怒ってるんだよ?聞く権利くらいあるとは思うけど」

「…うん。悪い。…だけど」


 だけど? と彼女はその言葉を繰り返した。俺は頭の中を整理し始める。


 つまりは。


「せまられたんだ」


 はあ、と彼女は乾いた口調でうなづいた。


「迫られて、逃げ出したの?」


 そういうことに、なるんだろう。俺は素直にうなづいた。


「何で」

「何でって…」

「別にあんた、据え膳は拒まないじゃないの。どういう風の吹き回し?」

「お前なあ…俺そんな、誰でもいいって訳じゃないぞ」

「知ってるよ。でもあんたがこの時間、行くとこが無いなんていうんじゃ、その子はあんたのうちに居るんでしょ」


 ぴく、と俺は自分の頬がけいれんするのを覚えた。全く筋道立てて考える女っていうのは。


「外で、誰かバンドのファンやらおっかけやらに迫られるぐらいだったら、あんたのことだから家に帰って寝ちゃえばおしまいじゃない。あんたがわざわざ外に助けを求めるなんてさ」


 おそらく眠いせいなんだろう。彼女の言葉はいつも以上に辛辣だった。

 でしょ、とそして彼女は俺に同意をうながした。ああ、と俺はうなづいた。間違ってはいないのだ、彼女の予想することは。…ただ一点をのぞいて。


「…嫌いじゃあないんだ」


 俺は重くなりそうな口を開いた。


「でも好きという訳でもない?」

「判らない。そもそもそういう感情で見たためしが無いんだ」

「ふうん」


 そうだ。実際そんな目で見たことはないのだ。確かに可愛いとは思う。最初からそう思っている。うちの猫と何処か似ている。俺は猫好きだ。

 だがそれはあくまで雰囲気とか、そんな問題であり、それだからどうだ、というところまで考える問題じゃあないのだ。


「じゃあどうしてあんたが迫られるのよ。その子はあんたのことが好きなんじゃないの?」

「…別にそういう訳じゃないだろ」

「普通は好きじゃないと迫るまではしないわよ」


 紗里はきっぱりと言った。そして喉が乾いたとばかりに、一口、ドリンクを口に含む。俺はその様子を正面に目にしながら、違うよ、と付け足した。


「違わないわよ」

「違うよ。だって奴自身がそう言ったんだ。週末に居る人がいないと寂しいからって」

「つまりは誰でもいい、ということ?」


 再び心臓が飛び跳ねた。それだけではない。背中の血が一瞬引いた。

 それは初めから知っていることだ。なのに、何故そんな言葉でそんな感覚が起きるんだろう。


「そうじゃあないの?」


 彼女は追い打ちをかけるように問いかける。俺は左の手で、自分の左の首筋に手を触れた。回された手。触れられた乾いた唇。あの触感が、伝わった熱が、突然思い起こされた。


「…オズ?」


 まずい、と俺は思った。紗里はのぞき込むようにして、突然黙り込んでうつむいた俺の表情を伺おうとする。近づく気配。シャンプーの香り。

 まずい。


「…ちょっと!」


 俺は紗里の身体を引き寄せていた。彼女はバランスを崩して俺の方へ倒れ込む。

 急な行動に彼女はもがいた。何か、頭の芯が妙にしびれているような感覚があった。抱きすくめた彼女の襟をずらしてそこへ顔をうずめた。深い赤に、季節的にまだ日焼け前の白い肌が目を打った。

 彼女はもがいた。やめてよ、なんて言葉が耳に飛び込む。

 だが俺は止まらなかった。今まで彼女にそんな、突然に何かしようなんて、考えたこともなかったのに。それは高校生の頃でも、今になっても。

 最近だって、時々は寝ることもある。だけどそれは、こんな何かに急かされたものではなかった。

 長くも短くもない髪が、カーペットの上に広がっている。彼女は右の手を、押さえ込まれている中から思い切り引っぱり出した。そして顔を歪めて、いっぱいに伸ばした。そして何かを手にした。頭に血が昇っている俺は、それが何なのか、その時まで判らなかった。

 彼女は何やら力を込めてぐるんぐるんと手にしたものを揺さぶっていた。

 そして次の瞬間、俺は一気に頭を冷やされた。

 彼女はまだ半分ほど中身の残っていたペットボトルを、俺の頭上に持ち上げ、勢いよく中身を回転させ、まだ液体が回っているまま、下を向けたのだ。

 うずを巻いた液体は、素晴らしい勢いで俺の頭を直撃した。

 何かの発明関係のTVで見たぞ。確かこれは、びんに入った液体を勢い良く出す方法だ。

 記憶は正しかった。


「何すんだよ!」


 俺は飛び上がった。

 頭からスポーツドリンクをかぶってしまった状態というのが判っていただけるだろうか。結構これには糖分も入っているのだ。髪からシャツから、ややべとついた液体が流れ落ちる。カーペットにも落ちる。リスク込みでこんなことするなんて。

 頭を冷やすには、十分だった。目の前には、俺を突き飛ばして涙目になっている。そんな表情を見るのも、長いつきあいだが、初めてだった。


「やめてよ、って言ってるのに無理矢理やろうって奴は頭冷やさなきゃ駄目に決まってじゃない!」

「そんなに、嫌だったのか?」

「そうじゃなくて!」


 紗里はふう、と息をつきつつ首を大きく横に振り、開けかけた襟を閉じた。


「変なのは、あんただって気付いてんの?」

「俺が?」

「別にさ、あたしは、別にそこに好きだ何だってのが多くなくともあんたが、あたしと寝たいなら、いいよ別に。でも違うんだよ、今のは。あんたはあたしと寝たい訳じゃないじゃない!」

「…え?」


 俺は左手で、左の首筋に手を当てた。


「それに、今日はどっちにしたって駄目だよ」

「…あ…ごめん」


 彼女は会社に持っていくバックの中から、丸々と膨れているコットンのポーチを取り出して指した。

 そう言えばそうだ。そういう日だ。彼女はそういう時によく着るパジャマをつけているじゃないか。最初から彼女は無言でそう言ってるじゃないか。

 だから俺も、そういうことを、デリカシーがないよ、と言われつつも、俺はちゃんと彼女には訊ねていたのだ。それが友達の礼儀みたいなものじゃないか、という気がして。

 だとしたら、本日の俺は、友達失格だ。そんなことも気付かないなんて。


「…ごめん俺、どーかしてる」

「ホント、どーかしてるよ! 風呂場行って来な! ついでに抜いといで。本当の相談事あったらそれから聞くから!」


 本当に身も蓋もない。

 だが友達としての彼女のアドバイスは的確だ。とりあえず頭は洗わなくてはならない。シャツはびしょぬれだし、下半身は完全にテントを張っていた。

 熱病が、やってきたのか? それも彼女ではなく。



 バスルームから出ると、スポーツドリンクのこぼされた後に、ぞうきんが二、三枚乗せられていた。


「好きな色のカーペットなのに…タオルは使ったら洗濯篭に入れておいて」


 ぶつぶつとつぶやく声が聞こえた。怒ってはいるようだが、完全に深刻ではなさそうなのに、俺はややほっとする。

 戻ってきた俺の頭を、紗里はべし、とはたき、彼女がよく好きで着ている、男もののTシャツを放った。


「ホントに馬鹿」

「馬鹿馬鹿言うなよ」

「本当に馬鹿だもん」


 俺はタオルを首に掛けたまま、ぞうきんの置かれている付近に腰を下ろした。髪が瞬く間に乾くほど短い訳ではないので、まだ水滴が時々落ちるのだ。


「全く男ってのはやあね。こらえ性がなくって」


 そして彼女ははい、と麦茶を手渡した。甘みも素っ気も無いが、今呑むにはちょうど良かった。


「アルコールは駄目よ。真面目にお話しましょ」

「真面目にね」


 そうだ、と彼女はうなづいた。ここでアルコールを入れて、またなし崩しに同じことを繰り返してはいけない、と暗にその麦茶は俺を非難していた。


「ねえオズ、あんたは、その子が好きなんだよ」


 紗里は単刀直入に言った。うん、と俺もストレートに答えた。間違いではないのだ。ただ、その「好き」がどの「好き」なのか、どうしても自分自身にも説明がつかないだけで。


「すごく好き?」

「…かどうかは判らない。本当にそういう意味で好きなのかどうかも判らない。だけど、放っておけないんだ」


 ふーん、と紗里は興味深げにうなづく。


「珍しいね、あんたにしちゃ」

「うん。俺もそう思う」

「趣味が変わった?」


 訊ねてから、彼女はああ、と何かを思い出したようにぽんと手を打った。


「ノエちゃんだよ」

「…え?」

「忘れたなんて言うんじゃないわよ。あんたの最初の彼女」


 ああ、と俺はうなづいた。そうだ確か最初の彼女はそういう名だった。すっかりそれは俺の記憶の奥底に沈んでいた。


「あん時もあんたそうだったじゃない」

「何が」

「訳わかんなくなってるの。あの子はあたしの友人でもあったからさ」

「そうだったっけ」

「そうだよ。あんたは大事にしすぎると何もできないんじゃなかったっけ」


 そう言えば、そうだ。


「あんたは思いすぎると、訳判らなくなるんだよ。考えすぎて、何も判らなくなるんだよね。お馬鹿」

「そう馬鹿馬鹿言うなよ」

「だって本当に馬鹿じゃない。端から見ててじれったかったよあたしは」

「お前そんなこと思ってたの?」

「そりゃまあ、あん時にはあたしにも別の奴が居たけどさ」


 結局紗里はそっちと別れた訳だが。彼女は自分のためにも麦茶を注いだ。


「でも端から見ててさ、あんたの態度はかーなーりじれったかったよ。まああたしも結局はあの子には残酷なことしてしまったんだろうけどさ… 今頃どうしてるかも知らないけどさ。でも、だから、同じこと繰り返しちゃいけないよ、オズ」

「繰り返してる?」


 うん、と彼女はうなづいた。


「繰り返してるよ。そういうふうに、大事に守っているだけじゃ、通じないことだってあるんだよ。あの子は本当に好かれているのか、それが判らなかったって言ったもん。もうあまり確かに覚えてる訳じゃあないけどさ… それだけはちゃんと覚えてるよ」

「そういうものなのか?」

「あたしはそういうタイプじゃないからね。だからあんたは気楽なんだよ。あたしも気楽だよ。あたしにとってもあんたは何も気を使わなくてもいい。馬鹿呼ばわりできる。だけどそういうタイプの子だって居るんだよ? その迫って来た子のこと、どう思ってるの?」

「…だから」


 俺は口ごもる。そして言葉を探す。紗里は黙っている。言うまでは自分は喋らないとでも言うように、黙々と麦茶を口にしている。


「俺も判らないよ。ただ、あれを見てると、危なっかしくて、見てられない… だけど、見ずにはいられない…」


 は、と彼女は肩をすくめた。


「それは本物よ。だからあんた、その相手に全然手を出せないんだよ。あんたはそういう奴だよ。あたしにはこーんなことしようとしたくせにね」


 ぐっと俺は言葉に詰まった。紗里はどん、とコップをテーブルの上に置いた。


「間違えるんじゃないわよ」

「紗里」

「それでもあんたは、その子を抱きたいんだよ。別の何かにすり替えないで」


 彼女は正しい、と俺は思った。

 確かにそうだった。どうごまかしても、結局自分自身はだませない。俺は他の誰でもなく、マキノをそうしたいのだ。

 もちろん放っておけない、とか守ってやりたい、とかいう気持ちも持っているのだが、それと平行して、俺の中には、あの華奢な身体を抱き取りたいという気持ちが、欲望が、確かに存在するのだ。

 そうでなければ、あの時逃げ出したりはしなかった。

 そのままでは、そのまま行ってしまいそうな気がしたから、自分の身体がそう動きそうな気がしたから、俺はその前に逃げ出したのだ。


「だからね、もうあんたとは寝ないよ、オズ」

「紗里?」

「そういうのは、駄目だよ。すり替えてる。ごまかしてる。あんたがそれで結局、その相手に振られたなら、その時は、またそうすることもできるよ。でも言うまでは、気持ちに決着がつくまでは、駄目」

「…それは結構…」

「苦しい? でもねオズ、そうしたい時に相手がいないというのもきついもんだよ」


 ぐ、と俺は再び言う言葉をなくした。確かに彼女には言う権利があるのだ。


「きつかった?」

「あったり前じゃない」


 彼女は声を張り上げた。


「あたしだって生身の人間なんだから。少なくとも、あん時のあたしはまだあんたに恋してたんだから」


 ずきん、と胸が痛んだ。

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