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5 オズ、マキノ君に迫られる/最初の女の子のこと

「…好きでやってる訳じゃないよ」


 中身が2/3になってしまったコーラを、それでも缶を拭きつつ奴は口にする。そして一番最初に俺が聞きたかったことに、話を自分から戻した。


「じゃあ何で」

「別に。何となく」


 そういうのは好きでやってると言うのではないか、と俺は思ったが、言葉には出さなかった。


「見ただけ、じゃないよね。カナイが何か言った?」


 ああ、と俺はうなづいた。だろうね、と奴は缶を頬につける。

 こういうことは隠しても、会っていればいつかばれるものなのだ。だったら最初から言った方がいい。


「心配してた」

「だろうね。言われたことはあるもん」

「だったらどうして」


 ふらふらと奴は首を横に振る。


「そんなの、俺だって判らないよ」

「お前のことだろう?」

「俺のことだって、俺にだって判らないことはあるもん。だいたいそうゆうのは、誰かが俺に言うまで、俺は絶対気付かないんだ」

「決めつけるなよ」

「だってそうだったからね」


 誰が? という言葉は俺からは出てこなかった。奴は付けっぱなしにしているテレビの画面を時々眺める。俺はそんな奴の横顔をぼんやりと眺めた。夜時間に見るとこいつの猫度は余計に高まる。

 郷里に居る頃、猫が好きで飼っていたのは家族の中で、他でもなく、俺だった。どちらかというと、家族の他の者は、犬の方が好きだった。だが住宅事情は俺に味方し、家には猫がいつも入れ替わり立ち替わりに一匹居た。

 別にその猫を特別可愛がったという記憶は無い。だが愛想の無さとか、気紛れなところが俺は好きだった。

 それでも猫も嫌いではない家族の他の者が、追いかけ回して無理に抱き上げようとすると、するりとその手の中から逃げ、俺のひざに何故かちょん、と乗ってくる。そういうところが好きだったのだ。

 そんなことをぼんやり考えていたら、不意にマキノはこちらを向いた。俺は慌てて視線をそらした。


「何」


 奴は軽く目を細めた。


「いや別に」


 ふうん、と奴はつまらなさそうに首を傾げる。俺はその様子につられたのは何なのか、思わず大きなあくびをしてしまう。実際昼間の疲れや、駅前の緊張からか、眠気がさしてきていた。


「オズさん寝ないの? 明日もバイトあるんでしょ?」

「午後からだよ。まだ大丈夫」

「別に俺なんかにつき合わなくたっていいんだよ」

「じゃお前も寝ちまえ」


 奴はそれを聞くと、再び首を軽く傾げた。そして、やや厚めの唇がこう動いた。


「一人で?」


 俺は、ああ、と声を立てた。他にどう言いようがあると言うのだ。


「連れてきて、それでそういう訳?」

「そういうつもりはない、って最初から言っただろ?」

「言ったよ。だけど、眠れないんだ」


 おいマキノ、と俺の口は動こうとした。だけど何か、固くこわばってしまって、上手く動かない。


「別に普通の日はいいんだよ。誰もいなくても、大丈夫。明日やらなくちゃならないことがたくさんある。大丈夫。だけど、週末は駄目なんだ。明日何をしたらいい?そんなことを考えてるうちに、何かよく判らないけど、冷たいものが身体の中を通り抜けて行って、あのひとにはもう会えないんだ、ということが浮かび上がってくるんだ。あのひとと会っていた日々が、楽しかったから、余計に」

「あのひとって… ベルファのベーシストだったあのひと、か?吉衛さんか?」

「そうだよ。よく知ってるね」


 ひどくそれは、平たい言葉だった。そこには嫌みは無かった。


「週末には、俺よく押し掛けて行った。ねだれば抱いてくれた。ねえオズさん、俺って変だと思う?」

「変って」

「別にそれまで、そういうの、女の子ともしようと思ったことないのにさ、俺が積極的だったんだよ。俺が彼に迫ったんだ。彼自身が俺に手を出したことはなかった。本当は彼は別にどっちでもよかったのかもしれない。あのひとは優しかったから、俺がそうして欲しいからそうしてくれただけかもしれない」


 でもそんなこと、今その当人に聞く訳にはいかない。何と言っても、その当人は既に居ないのだから。


「何かそれって、俺的にもすごく不思議だった。でも俺は楽しかったんだ。それまでになく、楽しかったんだ。居心地がよかった」


 でもさ、とマキノはつぶやく。


「ある日それが、突然終わりになってしまったから、俺の身体の方が、全然納得してないの」

「…」

「むこうが飽きたとか、俺が嫌いになったとか、何かそうゆう理由だったらさ、何か、納得できるじゃない…その時どれだけ哀しくても悔しくても、辛くても。だけど、何か、…拍子抜けしてしまった感じで」

「拍子抜け?」


 思いがけない単語が出てきたので俺は問い返す。マキノは首を軽く傾げる。


「俺の言い方まずいかな?だけど、そういう感じ。…何って言うんだろ?何か、ものすごく一生懸命、細かくがんばってできあがったばかりの積み木で作った要塞が、ほんの軽い地震で崩されてしまった時のような感じ?何って言うんだろ…俺説明悪いな」

「いや、お前はよく説明しているよ」


 俺は首を横に振る。俺にはそんな言葉は出てこない。さっきから、何を言っていいのか、ずっと考えているのに、言いたいことがあるような気がするのに、上手い言葉一つ切り出せないでいるのだ。

 だから、結局こんな言葉しか出なかった。


「だからお前、誰かと週末だけは、寝たいんだ?」

「ストレートだね、オズさん」


 俺は眉を寄せ、ぐっとあごを引く。かっと頬が熱くなるのを覚える。どうせ単純だよ俺は。

 だが他に事実を指摘する言葉が見つからなかったのだ。マキノはくす、と笑うと、すっと腕を伸ばした。その指が、軽く俺のやや赤くなっているだろう頬に触れた。だが俺は反射的にそれから逃げた。マキノは奇妙に表情の失せた目で、その指先を眺めた。


「別に、誰かれ構わずって訳じゃあないよ」

「俺にはそう見えた」


 奴はゆっくりと手を下ろしながら、首を横に振る。


「でも人は、選んでる。嫌な奴とは視線は合わせない。捕まるような真似はしない。吐き気のするような奴となんてできないよ、いくら俺だって」

「…」

「そういうつもりはない、って言ったよねオズさん」

「…ああ」

「でも、連れてきた。どうして?」

「バンドのメンバーがそんなことしてちゃ、放っておけないのは当然だろ」

「優しいねえ」

 

 カナイと同じ言葉だ、と俺は不意に思い出していた。だがその口調は、カナイよりはるかに辛辣だった。奴は軽く身体を俺の方へ乗り出した。


「でもそうゆうのって、何か残酷だと思わない?」

「そうなのか?」

「あんたは判っていないよ。今日は週末で、明日は何も無くて、あんたは少なくとも俺を嫌っていない」


 そうだろ、とマキノは続けた。


「…ああ」


 確かに嫌ってはいない。だがそれとこれとは違うのだ。そもそも、俺は野郎にそういう感情は持ったことが無い。無いはずだ。ケンショーとは違うのだ。ケンショーは、そもそも恋愛に性別があること自体忘れているのではないか、と思われた。


 だが俺は。


 いつのまにか、奴の手が再び俺の頬に触れていた。

 俺はその手を掴んで、外させた。何で、というように大きな目が俺を見据えている。黒目がちの瞳が、奇妙にぎらぎらとしている。

 だが俺は、基本的に、そういうものとは無縁だ。無縁のはずなのだ。

 郷里でも今でも、そんな、寝たいとか思うような相手は、あくまで女だったのだ。胸があって、身体のところどころの線があくまで丸みを帯びた、女。

 俺とは別の性を持った生き物、のはずなのだ。そして俺は、そんな相手を、自分からその手の中に入れて、抱きすくめるのが好きなのだ。そのはずだ。

 だから、今目の前で起こっているような、こういう事態がおきた時、どうしていいのか、俺にはさっぱり判らなかった。

 おいマキノ、と口は動こうとした。だが、それは言葉にはならなかった。

 相手の目が、ひどく近くに見えた。猫の目だ。夜の夜中に、不意にライトを当てられた時の。どうしてこんなに近くに見えているのか、俺はなかなか理解できなかった。

 いつの間にか、腕が、首に巻き付いていた。交差した腕の先は、体温を上げたまま、俺の耳元を動いていた。

 そして瞳を大きく開いたまま、奴の顔が至近距離にあった。…いや至近距離、じゃない。それ以上だった。いつの間に。俺にはさっぱり判らなかった。

 明らかに皮膚の上が感じるものと、頭が理解できるものとは別なのだ、とその時俺は初めて気付いた。事態の訳のわからなさが、俺の表面上の感覚を妙に尖らせていた。

 固い指先が、それでも細かく耳の後ろを叩いた。ちょっと待て、と俺は喉の奥で言おうとする。だが無論その声は、相手に吸い込まれていたのだ。


   *


 どうしたっていうのよ、と受話器の向こうで紗里は訊ねた。俺は電話ボックスの壁にべったりと背中を付けて、視界が次第に下に降りていく様を妙に冷静に見ていた。


「いいから、今から行ってもいいか?」

『いいも何も… 来れるの?』


 え、と俺は問い返した。あんた何時だと思ってるの、と紗里の声は俺に問いかける。流行りの携帯どころか、俺は時計すら持っていなかった。


『最終はもう行っちゃったんじゃない?』

「歩いてくよ」

『…馬鹿かあんたは』


 全くだ、と俺は苦笑する。濃いグレイの電話の本体が既に見上げる位置に来ていた。蛍光灯の灯りがしらじらしい。外には飛び回る羽虫の気配がする。扉を閉めた内部はすぐにうっとおしい湿気で一杯になる。

 だが受話器を置いた俺はなかなかその場から立ち上がれなかった。はあ、と息をついて軽く髪をかき回す。

 何だったというんだろう。

 あれは、せまられた、というべきなんだろうか。俺は先刻自分の部屋であったことを頭の中で反芻する。猫の瞳が目の前にあった。

 濡れているように色合いは綺麗なのに、触れた感触は、乾いていた。濡れていたのは、その奥だ。

 だが俺はその状態を数分続けたあと…数分続けてしまった…自分の部屋を飛び出してしまった。自分の部屋を、だ。一体何をやっているというんだ。

 ショックは受けている。それは嘘ではない。理性とか、モラルとか、そんなものがいきなり頭の中で旋回している。昔乗った、遊園地の飛行機のように、一つの出来事を中心として、くるくると回り続けている。

 不意打ちをくらったというのだろうか。俺は自分に別の可能性を訊ねた。

 だが、いやそうではない、とやはり俺が答える。

 確かにその予感はあったのだ。そもそも、どうして俺はあの時、あの駅前で、マキノを引き留めてしまったんだろう?奴が一人で帰る、一人で眠ると言うなら、そうさせてやれば良かったじゃないか?

 確かに俺はそうするつもりは無い、と言った。

 だが奴は残酷だと言った。

 確かにそうなのだ。それを求めている奴に、何もせずにただ居ろというのは、残酷なのかもしれない。

 だけど俺は。

 ピー、と音がした。切れた受話器をいつまでも手にしていたら、いい加減戻してくれと泣き出した。コンクリートのざらざらする床に手をつくと、俺は奇妙に重い体をよっこらしょ、と声を立てて立ち上がらせた。がちゃん、と音を立てて受話器が在るべき場所におさまった。

 紗里の部屋までは電車で二駅分の距離がある。歩いて行けない距離ではない。貧乏人は体力勝負には強いのだ。

 馬鹿だねあんた、と眠そうな声でながらも、紗里は待っててやるよ、と俺に告げていた。


 歩きながら俺は、最初に寝た相手のことを思い出していた。

 高校生の時だった。それが果たして早いのか遅いのかは、比べられる問題ではない。興味が無かった訳じゃない。ただそうしたいと思える相手がそうそういなかっただけだ。

 紗里は最初の相手じゃない。彼女も俺が最初ではない。たぶん最初の相手だったら、今こうやって友達つきあいなんかやっていない、と俺は思う。

 どんな子だったろう。無言で歩いていると、自問自答ばかりが繰り返される。辺りが暗くて、目に入るものが少ないと、記憶ばかりが頭に浮かび上がって、止まらない。

 確か、小柄な子だった。髪は天パで、口が悪かった。よく笑った。決してグラマラスではなかった。むしろ、やせていた。

 胸もさほど無かった。平面とか陥没とかそういうのではないけれど、豊かという言葉とは無縁そうに見えた。

 制服のブラウスのたっぷりした袖の中で、腕はその存在すら疑わせるくらい細かった。華奢で、抱きしめたら折れてしまいそうなほどだった。

 だから俺は、手を出すのをためらった。そうしたら、全てが終わってしまいそうな気がしたのだ。彼女に触れたかった。その折れそうな身体をきつく抱きしめたかった。

 だけど俺はいつもためらっていた。そしてとうとう彼女の方が業を煮やした。

 彼女は華奢な身体の中で、唯一ふっくらとしていたとも言える丸い顔の中の大きな目を、午後の屋上で、怒りできらきらさせて、俺に詰め寄った。どうして何もしないの、と。自分を好きではないのか、と。

 違う、と俺は答えた。その時もそうだった。俺は何と答えていいのかさっぱり判らないまま、背伸びした彼女の腕が自分の首に回るのを感じていた。

 俺は立ち止まった。


 同じじゃないか。


 その夜彼女は俺の部屋へこっそりとやってきた。やり方も大して知らないまま、灯りを消した部屋の中、カーテンの隙間から漏れてくる常夜灯の灯りだけで、ひどく危なっかしい手つきで俺は彼女を抱いた。彼女も初めてだったらしく、事が済んだ時、何かひどく、お互い奇妙に気恥ずかしくて、何も言えなかった。

 その彼女とは、だけど、長くは続かなかった。紗里と関係を持つようになったのはその直後だ。

 紗里は彼女とは全然違ったタイプだった。少なくとも、最初の彼女の十倍は生命力があるように見えた。頭の回転はいいし、要領も悪くない。なのに、いつも何かに不満を持っているようにも見えた。エネルギーを持て余していたのだろう。今思えば。

 俺達は最初友達だった。お互い友達の恋人、という感じで知り合った。俺の友人の彼女だったのだ。実際俺自身、出会った当初は、その最初の彼女とつきあっていたのだ。

 だけど最初の彼女は、ある日いなくなった。

 いなくなった、のだ。ある日、いきなり。学校からも、家からも、急に。

 探し回る彼女の親や教師達の中で、俺は、何かただ、驚いて、唖然としていたことだけを思い出す。何も、気付かなかった。

 結局彼女は戻ってきたが、その時に関係は終わった。

 終わったことがはっきりした時、屋上でぼーっとしている俺に、紗里はあんた馬鹿か、と素っ気なくも容赦なく言った。

 言いながら何故か、金網ごしに遠くに見える海を眺めている俺の背中をその温みと重さで襲撃した。そして何となく、俺達はそういう関係になった。

 関係を持ってから、恋人になった。熱病のような感情がはじまったのだ。妙なものである。

 卒業して俺が家を飛び出すまで、その関係は続いた。関係を終わらせたのは、俺だ。

 そして彼女は今はまた、友達なのだ。

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