4 さてさて全くどうしたものか――とりあえず現場を取り押さえよう
俺はカナイに訊ねた。そういう訊き方しかできなかった。なのにカナイは容赦なく、俺の質問に続きをうながす。
「何に見えた?」
「ナンパされてる」
「優しい解釈だね、オズさん」
そりゃそうだ。言いたくはない。売ってるなんて。
「ま、言い方なんて何でもいいよね」
「まさかあれがバイトだなんて言うんじゃないだろうな?」
「いえいえ」
ひらひら、と手と首を同時に振る。
「あれは、バイトじゃないよ。結果的にそうなってしまっていても、奴にはそういう意識はないから」
「どういう意味だ?」
「単純に、あれは人恋しいの。…全く、滅多に人を好きになることもないくせに、一度壊れるととことん引きずってる」
どうしたもんでしょうね、と奴はややおどける。
「どうしたもこうしたも」
「止められるものなら止めてるって。俺としては、奴がああいう生活になってるのはもちろん嫌なんだよ」
それはそうだろう。
「だけど奴は奴で、結構頭回る奴だから、そういうことを絶対に、金曜とか土曜とか、とにかく昼間の生活に絶対関わらない部分でしかやらない。だからそういう点で文句を言えるものでもない。奴が売ってるって意識ない以上、所詮は、ただ単にそーゆーコミュニケーションが好きと言われてしまえばおしまいだし」
…
「それこそ、フーゾク行ってる奴とどう違うと言われかねない。女の子と違って妊娠する危険もない。病気は怖いけれど、そういうところは妙にちゃんとしていたりする。つまり、ものすごく周到な訳で。力づくで引っ張ってきても、きっとそんなこと忘れてまた飛び出していくだろうし」
「馬鹿じゃないか」
「馬鹿だよ、本当に。馬鹿すぎ」
「何とかしてやろうって思ったことは?」
「ありすぎる。だけど、俺にはどうにもできない部分ってのがあるでしょ?」
「と言うと?」
「例えばオズさん、奴と寝れる?」
う、と俺は一瞬言葉に詰まった。
それは本当にできるかどうか、ということではなく、そういうことを訊ねられた場合に弱い、という性格なのだが。
「つまりね、そういうこと。結局、奴がそういう相手を見つけない限り、駄目。週末の夜に一緒にゆっくり居てやれるような人がね」
「お前は駄目なの? カナイ」
「俺は駄目。そういう対象にはできない。友達だけどさ、同情で俺、誰かと寝られる程大人じゃない」
「なるほどね」
カナイは苦笑する。一体奴がどう取ったかは判らないが、奴の言いたいことは判った。
そして奴が内心何を期待しているかも。
あいにく俺は奴よりは、とりあえず大人のつもりなのだ。だが大人としては、やはりここで逆襲せねばなるまい。
「あのさカナイ、お前ケンショーと何かあったの?」
「ん?」
「いやさっき、ケンショーの話出たし、だいたいあいつは声に惚れる奴じゃん」
ははは、とカナイは乾いた笑い声を立てた。
「何かあった訳?」
「ああ、俺、奴にこまされたんだってば」
「は?」
カナイは軽く、同じ言葉を繰り返した。おそらくそれは、言葉の通りだろう。
「いつだよ」
「先々月の終わりくらいかなあ。衣替えの前だったから。…ったく何考えてんだ、と思った」
そう考えるのは実に妥当だ、と俺は思った。とても妥当だ。非常に妥当だ。
「じゃ、いいのか? そういう奴とバンド組むことにして」
「さてそこが大問題」
ふ、とおどけて奴は両手を広げ、「自嘲のため息」という奴をつく。
「あいにく俺、ケンショーのギターはもう最初っからすげえ好きだったの。はっきり言や、ファン」
「あららららら」
「普通だったら、腹立ちまぎれにそんなことされたら百年の恋も冷めると思うじゃん。実際腹立ち紛れにヤラれたんだし。まあ俺も結構怒ってたからしゃあないと言えばしゃあないけど… ところがだよ全く」
うん、と俺は勢い負けしつつうなづく。
「俺ときたら、もう情けないことに、『それでも』あの馬鹿のギターは好きなんだもの」
「それは難儀なことで」
「全く難儀なことで。いい加減俺、自分は何てお人好しなんだろうって思うもん。もしくはあの馬鹿のギターが本当に無茶苦茶いいのか」
俺はうんうん、とうなづく。
だとしたら、当初からタメ口になっていた訳が判る。ここ最近こそ俺にもタメ口を訊くようになっていたけど、それまでは俺にはまだ敬語交じりだった。
「だよなあ。あの男、問題は色々あってもギターだけは文句言わせねーんだからなあ」
「オズさんずいぶん苦労してきたでしょ」
「多々」
「多々ね」
くくくく、と俺達は顔を見合わせて笑った。
「でも二回目は、させてやってないもんね。そう簡単にはさせないから」
げ、と俺は喉の奥から声を立てる。
「何、お前、二回目があってもいいと思ってんの?」
「ま、しゃあないでしょ。そこは臨機応変に」
臨機応変と言われても。
「奴のこと、好きは好きだし。俺もやられっぱなしってのも性には合わないけどさ」
「ちょっと待て!」
カナイはにやりと笑う。何か今、俺は実に恐ろしいことを耳にしたような気がする。
「ま、その時はその時。あいにく俺、物事は前向きに考えるようにしてんの」
前向き、ね。確かにそうだ。
*
しかし、言われてしまうと気になるというのが人間の哀しい所だ。
その週末、俺はバイト帰りにまたあの駅の辺りに出向いてみた。もちろんそこに奴が居るとは限らない。別の駅の場合もあるだろう。
だから今度は実に運が良かったとも言える。
冷たい色の光の中で、奴はやっぱり、ぼんやりと誰かを待っているように見えた。今度はコンクリートの植え込みに座って、膝を片方抱えて、視線は何処とも知れず宙を漂っている。
偶然を装ってもよかった。だけどそれでは、意味がないような気もしていた。
とは言え、そこで声をかけても、俺には何をするという目的も無かった。そもそもここで奴を拾ったとして、俺にどうしろというのだ。
俺には基本的にはその趣味はない。ない筈だ。
だけどそんな個人的葛藤の中に居るだけでは物事は進まない。カナイではないけど、前向きに…
そんなことをうだうだ考えているうちに、何やら一人の男が奴に近付いてくる。考える前に、身体が動いた。植え込みを踏み越える。芝生に入ってはいけませんという看板なんか見ないふりで。
「おいマキノ!」
弾かれたように奴は振り向いた。正面には、俺と大して変わらないくらいの年頃の男が露骨に表情を変えていた。
「オズさん? どーしたの?」
おりしも、奴は相手と交渉を始める所だった。交渉と言うと聞こえが悪いか。会話だ。
「悪いけど、先約なんだ」
俺はマキノの肩を後ろから強く掴むと、相手をにらみつけた。それならそうと言えばいいのに、と相手は軽く言い残していく。そう悪い奴ではなかったようだ。だが。
「あーあ、行っちゃった」
マキノは軽い失望の色を言葉の端に浮かべる。
「行っちゃった、ってお前なあ」
離してよ、と奴は肩を掴む俺の手を除けた。
「痛いんだってば」
そう言って俺の方へ奴は向き直った。
俺は植え込みから降りた。座ったままのマキノは、上目づかいに俺を見た。また心臓が飛び上がる。出会ってから初めて見る表情だった。
確かに猫のようだ。夜の、瞳が大きくなった時の。
「せっかく今日の相手が来たと思ったのに」
「今日の相手ってお前…」
あーあ、とかつぶやきながら奴は、さらさらした髪をかき上げた。そして時計をちら、と見る。
「もうこんな時間じゃさ、そうそういい人は来ないんだよ? それともオズさんが、今日はそうしてくれるっていうの?」
「…おい!」
俺は反射的にそう返していた。
そして半ば期待していた。冗談だよ、とその口が返してくるのを。信じたくなかったのだ。俺は。
「遅いんだ。帰ったほうがいい」
「女の子じゃないんだよ俺。ついでに言や、あんたのものでもない。俺に命令しないでよ」
やや挑むように視線を投げかける奴に、俺は言葉に詰まった。言い出すべき何かが見つからないのだ。
いつもそうだった。何か言いたいのに、上手い言葉や、形になる何かにすることが上手くいかないのだ。
奴はその大きな瞳で俺をじっとにらむように見据えている。そのまま逃げ出してしまいそうな気もするのに、俺は指一本動かすことができなかった。
だがその緊張を解いたのは奴のほうだった。その大きな目を伏せ、ごめん、と消えそうな声が、するりと耳に届く。
「あんたに言っても仕方ないよね。俺帰る。今日は」
「帰るって…」
「心配しないでも、一人で帰るよ。一人で寝るから。大丈夫」
「ちょっと待てよ」
何、と弾かれたように奴は顔を上げた。俺は反射的に背を向けようとしたマキノの腕を掴んでいた。
「何だよ」
「だから、待てよ」
「命令しないでって言ったよ、俺は」
俺は慌てて早口になる。
「じゃ命令じゃない。お願いだ。今日は、うちに、寄ってかないか? 寄ってくれ」
大きな目が再び開く。形のいい眉が片方だけ上がる。
そして腕を引いて、俺の手を軽く払い、冗談はよしてよね、と奴は言った。
「冗談じゃないよ」
「だってあんた、さっき、そんなことはできないって言ったじゃない。俺、からかわれるのは嫌だからね」
「からかってなんかない。そういうことはしない。ただ遊びに来ないか、と言ってるんだ」
「…遊びに?」
そう、と俺はうなづいた。
*
結構広いじゃない、と入るなりマキノは感想を述べた。古いからな、と俺はありがちな言葉を返した。
「どのくらい経ってるの?」
そう言いながら奴はあちこちを不思議そうに見渡す。確かに広いが、広いだけで何の備え付けもない。珍しいのだろうか、奴はその大きな目でぐるりと全てを視界に入れようとしているように見えた。
「少なくとも、お前よりは上」
へえ、とマキノは声を立てた。
実際その部屋は、都内における家賃の割には広かった。
6畳二間にキッチンがささやかながら付けられている。この広さなら、普通、俺程度のバイト代では暮らせない。暮らしていけるのはひとえにここの古さと、何もなさのせいだった。
実際住むだけにはそうたくさんのものは必要ないのだ。
「便利」なものは世間にあふれているが、一体その中のどれだけが本当に必要なんだろうか。俺は自分にとって訳のわからないものを受け入れることは苦手だった。そういう時に、どうそれを表せばいいのか判らなくなるのだ。
例えば気持ち。例えば音楽。形の無い、それでいて、確かに「在る」もの。
例えば音楽。
プレーヤーの自分ではなくて。
「ま、適当にしてろや」
奴は肩をすくめた。どうしていいのか戸惑っているのは、どうやら俺だけではないらしい。正直言って、連れてきたはいいが、何をどうするという訳でもない。話をすると言っても大してネタもない。
と俺がうだうだと、入ったばかりのところにあるキッチンで考えているうちに奴は居間の、ざらざらとした灰色のカーペットの上までさっさと踏み込んでしまった。
何か空気悪いね、なんて言って勝手に窓まで開けてしまう。
そしてふらっとそのへんに落ちているリモコンを拾うと、ほとんど無意識の動作でスイッチを入れた。TVの画面から声が、音が流れる。
俺はそれに奇妙にほっとするものを覚えていた。
冷蔵庫の中から、声をかけてからコーラを一つ放ると、奴はあぶないなあ、と言いながらも、器用にそれを受け止めた。
「それに結構揺さぶってない?」
…少なくとも本物の猫はこんな嫌みは言わないと思う。ま、いいか、と言いながらプルリングを押し込むと、案の定、勢いよく中身は吹き出した。だがそれがかかったのは俺の方だった。
あはは、とマキノは笑って、近くにあったスコッティのティッシュケースを俺の鼻先に突きだした。
全く性格の悪い奴だ。




