3 マキノ君「わらう雨」を飛び入りで演奏、その後の行動にオズは
「ACID-JAM」は、その日は結構な入りだった。
ここは、以前よく出ていたライヴハウスだ。去年までは、そこが俺達の根城だった。
ここしばらく、動員が伸びたので、スタンディング200から300人程度しか入らないライヴハウスでは危険になってしまい、もう少し人の入る現在の行きつけの所へと移ったのだ。
出なくなったとは言え、別にそこのスタッフといさかいを起こした訳ではないので、現在でも俺は行けば顔パスだった。
そして顔パスの奴はもう一人居たらしい。
「あらマキちゃん、久しぶり… あれ、オズ君も一緒? …あ、じゃあ、RINGERとくっついたって本当だったんだあ」
「くっついたって… ナナさん」
俺は少しばかり妙な方向へ頭が行っていたらしい。すると彼女は面白そうに、追い打ちをかける。
「だって本当でしょ?」
「うん、そうだよね」
マキノまでがそう答える。はい、と彼女はマキノにタンクのものではないオレンジジュースを渡すと、俺に何呑むか、と訊いた。ウーロン茶、と俺は答えた。
「あら、呑まないのぉ?」
「そういう日だってあるの」
「生理?」
マキノがするっとそんなことを言う。俺は思わずカウンターにつっぷせた。けらけら、とナナさんは笑う。
「ところでねマキちゃん、今日はここて何の日だったか知ってる?」
「ん?何だっけ」
「BELL-FIRSTがね、メジャー一周年前夜祭なの。良かったらマキちゃんも出たら?」
「俺があ? だめだめ」
「出るって?」
思わず俺は、手を振る奴とナナさんに訊ねていた。
「やだ、知らないで二人で来たの? だから、お友達バンド集めてセッション大会なの。もちろんベルファのステージもあるけどね、それだけじゃなくて」
と、半ば以上埋まっていたフロアから急に歓声が上がった。
はれ? と俺は目をこらした。舞台の上手には、何やら白い紙が見えた。
ボールドの色の幕に丸くピンスポットが当たっている。そしてそこには、羽織袴を着た人物が居た。
「…」
思わず俺はマキノの回転椅子をぐるりと回してしまった。奴はバランスを崩しそうになり、途端に抗議の声が上がる。
「何すんの!」
「何じゃありゃ?」
「…あれ?」
奴は目を大きく見開き、ステージ上の人物を見る。
「…ありゃあ。ナナさん、ナサキさん一体今日は何やってんの」
「ああ、彼、今日は総合司会なのよ」
ハートマークが語尾に点きそうなほどのご機嫌な調子で彼女はややカウンターから乗り出した。
ナサキさんというのは、BELL-FIRSTのギタリストだ。たしか上手い人で、結構ライヴの時には砂を噛みしめたような顔で弾いているという印象が強いのだが。
「何なのその総合司会って」
マキノは彼女に訊ねる。
ほら、と彼女はステージの上手を指した。ナサキさんは何やら喋っていたと思うと、とことことそのまま上手へと向かい、べらん、とその白いものをめくった。どうやらそれは… 学芸会や演芸大会の時に使う題めくりらしい… 文字もちゃんと墨と筆を使って書かれている…
「…何か芸風変わったんじゃないの? ベルファスト」
「そんなことないわよ。元々ああいう馬鹿なこともやってたんだから。でしょ? マキちゃん」
「んー、そうかもね」
曖昧な返事。奴はオレンジジュースを口にする。
「ナナーっ! 俺にも何かくれっ」
「あ、ノセさん」
「おおっ、ね… マキちゃんじゃあないかっ。相変わらず可愛いねえ」
ベルファのヴォーカリストはそう言ってマキノの頭を撫でる。
「はいジンジャーエール」
「おいビールは駄目?」
「ここで呑みすぎると、打ち上げの酒がまずくなるのよ?ところで、この子出さない?」
「ん? いーよ。何かコピーできる曲あった… ああ、あれができたな」
「うん。マキちゃんどお?」
「…まあ俺は… そう言うなら、別にいいけど…」
「OK、じゃあちょっとあんた、連れてって手順教えてやってよ」
そう言って彼女はマキノをノセさんの方へ押し出した。大丈夫かなあ、なんてぶつぶつ言っている奴の声が、騒がしい店内の中でも何となく聞こえてくる。
「…馴染みだったんだ」
奴の姿が見えなくなってから、俺はカウンタースタッフで、ノセさんの恋人である彼女に訊ねた。
ノセさんと同じ歳と聞いているから、俺より充分年上だ。さすがに俺を子供扱いするが、相応の色気とさわやかさが同居していて、話をしていて悪い気はしない。
「あの子?」
そう、と俺は答えた。彼女はまあね、と答えた。
「みんなあの子が好きだったわよ。可愛くて」
「へえ… あ!」
急に俺の頭の中で、つながったものがあった。
…見覚えがあるはずだ。
「どうしたの? オズ君」
「あのさ、もしかして、あの頃、時々あんた等、マスコットみたいにガキ連れてなかった?」
「あの頃?」
「まだベースがトモさんだった頃」
しっ、と彼女は人差し指を唇に当てた。
「その話はあまりしないでね」
「…あ、すみません」
「うん… そう。あの頃連れていたその君の言うマスコットちゃんが、あの子だったの。だからあまり口にしないでね」
だとしたらつじつまが合う。奴のベースに見覚えのあった理由も。
ステージでは妙なセッションが延々続いていた。
セッション大会というより、本当に「学芸会」のようだった。果たして本当にロックバンドのセッション大会なのか?と思いたくなる。
まあ「それぞれのルーツ」バンドのコピーくらいなら良かろう。だがいきなりアコースティックギター持ち出してフォーク大会になったり、帽子から花を出してみせる奴もいるあたりは…
「それでは次は『泣かずの七面鳥』です」
中で一回自分のセッションバンドのために着替えたのに、またどういう訳か羽織袴に戻っているナサキさんが謎なセッション・ネームを紹介した。
幕が開くと、彼は羽織をノセさんに手渡し、自分はギターを取った。そして下手には、小柄なベーシストが居た。それが誰だか判った観客の少女の中には、きゃあ、と黄色い声を立てるのもいた。
ステージには、三人。ベースだけ違う、インストのベルファ、という感じだ。ドラムのハリーさんが速いカウントをとる。途端、音が溢れかえった。
きゃあ、という声が再び客の中から上がった。だが今度はどうやら古参のファンらしい。なかなか年齢は上のようだし、後ろの方で見ている。俺は思わず聞き耳を立てる。
「…うっそぉ… 笑い雨だよぉ…」
「聴けるとは思わなかったよぉ… 来て良かったぁ…」
笑い雨? そういう曲なのだろうか。
タイトルとどう関係があるのか判らないが、それは無茶苦茶な曲だった。
プレイヤーにとってはマゾヒステイックなまでにテクニックを要求するタイプだ。スピードといい、変拍子といい、つけ焼刃ではできない。ギターもドラムもベースも。特にベースにとっては。
だがマキノは実によく弾いていた。
こんなことまでできるんだ、とメンバーのはずの俺の方がびっくりしていた。
「やっぱり上手くなったわねえ…」
ナナさんはカウンターに頬杖をついてそう口にした。俺は思わず問い返す。
「え?」
「あの子、あの曲ずいぶん早くマスターしたものね」
「あの曲って、ずっとやってなかったんですか? 最近のベースの人は…」
「ん、だから、それはね、禁句」
しっ、と彼女は指を口に当てた。あ、と俺は思い当たった。つまりは、あの人の曲なのか。そして奴はそれを実に上手く弾きこなす。
「…やーん… もう」
「泣くなよぉ…」
「だってあんな、トモさんしか弾けないようなものだと思ってたのにぃ」
「そーだよねぇ… でもあの子、すげぇ上手いよね」
少女とはもう言えないお姉さん達のため息。
…終わった時、奴は肩で息をしていた。
*
「俺あの曲聴いたの初めて。笑い雨って女の子達が言ってたけど?」
「あ、そぉ? 『LAUGHIN' RAIN』だよ。笑い雨じゃなくて、笑う雨。昔のベルファはよくやってたよ。…恰好いいでしょ」
俺はうなづいた。まあそれは事実だ。
「でも最近インストってやってないだろ?」
「インストってのは、腕が良くないと恰好よくないんだよ」
「言うなあ」
そう言って俺はマキノの頭を軽くはたいた。
「教えてくれた人が良かったからね」
軽く言う。だけどそれが誰か、ということを問えるような感じではない。俺はその話は打ち切った方が無難だと思った。
最寄りの駅で、方向が反対なことに気付いた。じゃあね、と奴は手を軽く振る。
先に出た列車がホームから離れてから、俺は元来た道を引き返した。打ち上げをしているだろう、BELL-FIRSTの居るはずの店へ。
*
「駄目駄目駄目駄目やめやめ」
ケンショーが手を挙げた。演奏が一気に止まる。あの目つきの悪い目がさらに凶悪になって、俺を睨んだ。
「オズお前、今日身体の具合でも悪いの?」
「? いや」
何をいきなり訊くんだろう。
「ああそう。じゃお前今日帰っていいよ」
「何」
「練習で、お馴染みの一曲に五回もとちる馬鹿とは演奏できねーんだよ!」
げ、と俺は思わず自分のスティックに目を落とした。どれだけ性格や行動に難があろうが、ケンショーはそういう点にだけは厳しい。俺は素直に頭を下げる。
「悪い」
「いいけどさ、お前変だよ、今日」
ふう、と俺は返す言葉もなく、大きく息をついた。しゃあない、今日は散会だと言うリーダー殿の言葉が耳に残った。
奴はさっさとギターをしまうと、そのままやや力まかせにドアを開けて出て行った。
「練習おしまい?」
マキノは肩からベースを下ろしながら訊ねる。そういうことだね、と言うカナイの声が妙に響く。雨が近いのかもしれない。
「まだ結構時間残ってるね」
予約したスタジオのレンタル時間はまだあと一時間残っていた。もったいないと言えばもったいない。マキノとカナイが代わる代わるドラムの側に寄ってくる。
「オズさん身体の調子悪いの?」
「いや、別に」
「だけどさあ、俺でも判ったよ、オズさん。ケンショーさんやマキノだけじゃなく、俺でも判るようなミスは駄目だよ。な?」
カナイの言葉にマキノもうなづく。全くだ。ふがいない。
「でも合わせるのパス、じゃ俺も帰るね。個人練習だったらウチでもできるもの」
「そーだよな、じゃ…」
カナイは言いかけた言葉を止めた。
「ま、俺も少しここで遊んでからバイト行くよ」
「そぉ? じゃあまた」
ひらひら、とマキノは手を振ってベースをかついだ。ドアを閉める。足音が遠のいていく。ドアに近付いて聞き耳を立てたカナイはうなづいた。
「さて」
そして奴は腕組みをしてドラムセットの前に立った。
「何を俺に訊きたいの? オズさん」
「俺が何か訊きたいって判る?」
「スティックでケツつつかれちゃあね」
カナイは肩をすくめた。そしてそばに立てかけてあったパイプ椅子を開いて後ろ向きに座った。
「オズさんが俺に訊きたいことって言うんなら、俺は二つしか浮かばないけど?」
「二つ?」
「ケンショーのことか、マキノのことか」
「ケンショーのことなんか何かあるのか?」
「ああじゃあ、マキノのことなのね」
奴は顔を緩める。俺はああ、とうなづいた。
「何かあったの?」
「何かあったと言うか… ACID-JAMのナナさんが、お前に訊いた方がいいというから」
「ACID-JAM! 行ったの!?」
カナイの両眉はつり上がった。
「たまたま、だけどな。でもお前がナナさんと顔見知りとは知らなかったけどな」
「顔見知りと言うかさ、まあ顔見知りだけどさ」
どうも歯切れが悪い。
「あんまり俺は、話題にはしたくなかったけどね。でもそれだけであんたがそこまで調子落とすってのは変だよね。何かあったの? それ以上に」
口のよく回る奴だ。
「ACID-JAMを出た後に、ちょっと思い返して、**駅の方面にまで行ったんだけど」
「うん」
「駅前で奴を見て」
「…ああ見たの」
「見たの、ってお前」
「知ってはいるけどね」
さすがにカナイの表情も曇った。
あの時俺は、一度ACID-JAMへ引き返し、ベルファのメンバーと軽く呑んだ。呑むのが目的ではない。情報収集がしたかったのだ。
何故そうしようと思ったのか、自分でも判らなかった。ただ、途中で放り出された話は気になるというものではないか。
「じゃあオズさん、あいつが誰からベース習ったのか、聞いたんでしょ?」
「まあな。吉衛さんだろ? ベルファのベーシストだったトモさん。上手い人だったよな」
「うん。まあ結局、俺はその人とは、直接会うことはできなかったんだけどね」
「そうなのか?」
「そうだよ。俺がマキノと友達つき合いするようになったのは、彼が亡くなった後だったから。まあ俺はあんまり考えないようにしてますがね、当時結構奴はひどかったなあ」
カナイはやや苦笑する。
「師匠が亡くなったから」
「もちろんそれだけじゃないよ、あんたが想像している通り」
俺はやや眉を寄せる。こいつは普段、結構単純明快そうな態度をとっているのだが、そういう所が時々実に性格が悪い。
「正直言えば、あの頃奴とトモさんはそういう関係だったらしいですよ。最もそれは俺がそういうところを見た訳じゃあなくて、ナナさんに聞いただけだけど」
「ナナさんとはそれで知り合いなのか」
まあね、とカナイはうなづく。
「俺はね、オズさん、時々嫌になるほど計算高い自分が居るの知ってて、それがあんまり好きじゃあないんだけど」
そう前置きをする。
「マキノが俺のこと知る前から、俺は奴をずーっとバンドに誘おうと思っていたの。信じられる? ほぼ皆勤で来てるくせに、半年近く自分のクラスメートの顔把握してない奴って」
うーん、と俺は頭をかかえる。
「ま、それはそれでいいんですよ。確かにあいつには覚えるに値しないような奴が多かったんでしょうから。だけど奴は、当初から目立っていたし、…あいつは自分で全然気付いてないけど…春先からよくピアノ室に居るのは知ってたから」
「音大志望だっけ」
「と言ってはいたけどね。果たしてどうだか… ま、とにかくそれで俺はよくACID-JAMにも通っていたんだけど、ある時突然、奴の姿がそこから消えた訳。そこでカウンターのナナさんに奴はどうしたのか、と訊ねて、その時初めてトモさんが亡くなったこと知った訳」
「…消えた?」
「ああ、もちろん学校は来ている。それも実に平然とした顔してね。だから俺、近付いてみた訳よ。そしたら案の定、何処か切れてたな。忘れてた」
「忘れてたって何を」
「そのこと自体を。あいつは事故の確認に行ってるんだよ?」
事故。そう事故だった。
ベルファのベーシストのトモさんは確か秋の雨の日、バイクの事故で亡くなったと聞いた。
「俺ちょうど、文化祭とかあったし、もともとバンド誘いたかったことあるし、ちょこちょこ友達つき合い始めた訳よ。で、ちょっとづつかまをかけてみた」
「かまを?」
「好きなバンドは何、とか、ACID-JAMは知ってるか、とかベースは誰に教えてもらったとか」
「それで」
「聞かれたことにはちゃんと答えたし、言っていることも間違ってない。だけど、その時点、その事故のあった日のことや、何で自分が付き合ってた人が今そばにいないのか、とかどうして最近ACID-JAMに行かないのか、とかいうことを無意識に抜かしているんだ」
「…それって」
「そ。つまり、忘れていたの。忘れたくて。でもさすがにあのベースを渡された時には、思い出したらしいね」
カナイはやや嫌そうに目を伏せた。奴にとってもあまり思い出したくないことらしい。
「見覚えがあると思ったんだ…」
「うん。あれはトモさんのメインベースだったからね。でもそれだけ? オズさんが本当に俺に聞きたいのはそっちでしょ? ナナさんも知らないこと。ナナさんには知られたくないこと」
…本当にこいつは。
「駅前で、見たんでしょ」
俺はうなづいた。
十一時過ぎの、駅前のロータリー。ぼんやりと奴は花時計の煉瓦の枠に座って、誰かを待っているように、見えた。常夜灯の緑の明かりの下で、ひどく気怠そうな奴の姿は、今までに見たことのないものだった。
俺は声を掛けようかと思った。だが先客が居た。俺は情けないと思いつつも聞き耳を立てていた。
三十代ぐらいの男だった。彼は奴に近付くと、一人?とか今暇?とか言う言葉を投げていた。と言うことは初対面だ。
それに対して奴はこう言った。
暇だよ。遊ばない?
俺はよほど飛び出してやろうかと思った。
なのに、身体が動かなかった。
「あれは、何だ?」