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臆病な人



 実家の工事現場から別邸に帰ったあと、兄の様子がおかしい。アメリア・ウォルツはふと思った。

 もしや、幼馴染のシルビアと、なにかあったのではないだろうか。昔から兄は、シルビアにたいしては厳しく意地っ張りなところがある。それでよく衝突しては、部屋に閉じこもって一晩中悩んでいたものだ。傍から見ると、ただの痴話げんかにしか見えないのだが。


 アメリアは手ずからサンドイッチと紅茶を作ってトレーに乗せ、兄の部屋を訪れた。両手がふさがっているので、ノックはせずに声だけかけた。


「兄さま、夜食を持ってきたわ。一緒にどう?」


 返事はない。しかしアメリアは問答無用で中に入った。

 ジェレミーは車いすに座ったまま、ぼんやり外を眺めていた。彼の世話係がいない。ジェレミーが退室を命じたのだろう。昔からよくあることだった。

 アメリアはあきれつつも、兄に近づいた。まだ身体に慣れきっていないジェレミーとしては、一人でベッドに移動することができなかったのだろう。


「兄さま、私につかまって。いつまでも座っていたら、身体に良くないわ」


 するとジェレミーは、ようやくアメリアに気づいたようだった。どこかうつろな目をむけてくる。


「ああ、アメリア、すまない」

「いいのよ、兄さま。私にたいしては礼も謝罪も不要よ」


 成人男性をアメリア一人で抱え上げることは難しい。車イスとベッドを同じ高さに設計したのが幸いした。ベッドにアメリアがジェレミーの右足を乗せ、ジェレミーにはベッドの支柱につかまってもらっていた。あとはアメリアがうしろから抱えるようにして兄を移動させた。重労働だが、最初よりはかなりうまくできるようになっていた。


 アメリアはふふっと笑った。


「私、介護士になれそうだわ。お料理もお洗濯も自分でできるし。ねえ兄さま、そう思わない?」

「ああ、そうだね」


 ジェレミーはボーっとしながらも応じた。アメリアもすぐに笑みを消した。


「兄さま、なにかあったの? お具合でも悪い?」

「いや、僕は平気だよ。それより、アメリアこそこんな時間にどうした?」


 アメリアは部屋の隅においていたトレーを持ち上げた。


「夜食よ。兄さまの好きなハム&チーズと、ツナ&レタス。帰ってからなにも食べてなかったでしょう?」


 ジェレミーはようやく笑みを浮かべた。


「そういえば、そうだったかな。ありがとう、いただくよ」


 ベッドの脇に備え付けておいたテーブルに、サンドイッチと紅茶の入ったカップを置く。ジェレミーはハム入りの方から手を伸ばすと、一口かじった。


「うん、おいしい」

「本当?」


 アメリアはほっとした。


「実はねそのハム、シルビアさまからいただいたの」

「……へえ」

「侯爵様の領地はすごいのね。うちと近いのに、農業だけじゃなくて、酪農も盛んで。うちもそのうちはじめてみたらどうかしら」

「いいんじゃないか」


 ジェレミーは固い口調でいった。


「きみが領主になったら、好きにしてくれてかまわない。僕は最低限の補佐をするのみだよ」


 またそんなことを。アメリアはため息をつきたくなった。

 あれから幾度となく、相続に関することを兄と話そうとしたが、彼はアメリアが継げばいいの一言だった。アメリアとしては、爵位も領地も、兄のものだ。自分はただあの屋敷で、庭をいじりながらのんびり暮らしていたいだけだった。


「兄さま。そのことなんですけど、やっぱり私……」


 かちゃっと音をたて、ジェレミーは紅茶のカップを置いた。


「アメリア、この国では女性の領主や爵位持ちも珍しくはない。最初はきみも戸惑うだろう。前にもいったろ。きみ一人が無理なら、だれか頼りになりそうな男性と結婚してくれればいいって」

「私、結婚なんてしたくないわ」


 アメリアは目頭が熱くなるのを感じ、視線を下に向けた。


「兄さまがだれよりも一番わかってくださると思ってたのに」


 ジェレミーの視線を感じながらも、アメリアは泣くのを必死にこらえた。もともと涙もろい性格ではあった。だけども、兄の前ではもう泣きたくなかった。今一番辛いのは兄なのだから。ずいぶんうしろ向きな人になってしまったが、それでもアメリアが敬愛する兄には変わりない。兄にはもう苦しい思いをさせたくなかった。


「それでも僕は、もうどうすることもできないんだ」


 ふと聞こえてきた兄の声は、苦しげで痛々しく、心臓をぎゅっとつかまれるような気分になった。


「兄さま……」

「自分で立つことも歩くこともできない。移動するのにも人の手を借りなきゃいけない。こんな頼りないやつが、領民の上に立つなんてこと、できるわけがない」


 アメリアは兄の手を握った。


「兄さまの素晴らしさは、領民のだれもが知っているわ。お父さまとお母さまが死んだとき、兄さまが無事に生き残ったことが彼らの救いだったのよ。私一人じゃ、なにもできなかった」

「きみはよくやってくれた。きみが領民に指示を出してくれなかったら、あの火事の被害ももっと出ていただろう」

「いいえ、違うわ」


 アメリアは首を振った。


「あの時、私が行動できたのは、シルビアさまのおかげなの。シルビアさまは侯爵さまとの会食を抜けて、わざわざ馬を飛ばして駆けつけてくれたのよ。大勢の民と一緒に。シルビアさまがいなければ、私は途方に暮れていたわ。今もそう。シルビアさまのおかげで、屋敷はもとの形を取り戻そうとしている。全部シルビアさまのお力よ」


 ジェレミーはシルビアの名を聞くと、途端に表情を曇らせた。いつからだろう。ジェレミーは、シルビアと会うのを避けるようになった。アメリアが彼女と会う日は、必ずといっていいほど家を空けていた。稀に会うことがあったとしても、よそよそしい態度であいさつを交わすのみ。


 だがアメリアは知っていた。兄が昔から、どれだけシルビアを愛しているのか。愛しているからこそ、身分の低い自分と結ばれるより、相応の人と幸せになってほしいと、身を退いたのだ。

 幼いころにシルビアからもらったおもちゃの指輪を、今でも大事に保管していることも知っている。彼女の知らないところでは、今なお彼女を愛称で呼び続けている。

 ルビ、僕の愛しいルビ。どうか必ず、幸せになって。そう指輪に向かって語りかけているのを見た。


 ずっと前からシルビアの想いも知っていたアメリアは、悲しくてたまらなかった。どうして兄は、自分は幸せになってはいけないようにいうのだろう。せっかく愛している人が、同じように自分も愛してくれているのに。彼女は兄がこんな身体になってしまっても、絶対に見捨てたりなんてしない。それどころか、一緒にどう生きていこうか考えてくれているのに。

 アメリアは情動に任せて叫んだ。


「兄さまは臆病だわ! シルビアさまからも、事故からも、自分の身体のことからも逃げてる。シルビアさまはずっと兄さまにサインを送り続けてたのに。シルビアさまだけは、兄さまの傍にずっとついててくれるのに!」

「だからダメなんだ!」


 今度は兄の方が怒鳴った。


「彼女は……ルビは、僕なんかと一緒になって、その才能を枯らしちゃいけないんだ。彼女は美しいし頭もいい。心優しく勇気にあふれ、あれほど上に立って指揮をするのにふさわしい人間はいない。それを、僕の一存とわがままで、台無しになんてできない。彼女は侯爵家の血筋なんだ。その気になれば、王妃の座だって狙える。彼女自身の力で、どこまでも上にいけるんだ。それをどうして、僕が縛りつけておけるんだ!?」


 ジェレミーは今や、涙を流していた。アメリアは、兄が泣くのをはじめて見た。火事の日も、両親の死を知った時も、自分の障害のことを聞かされた時も、ただ淡々と事実を受け入れていたのに。


「アメリアのいうとおりだ。僕は臆病な人間なんだ。だから余計に、だれかを使役して命令を下すなんてことは、僕にはできない」

「兄さまにできないのなら、私にだってできないわ」


 アメリアは弱々しい自分の声を聞いた。


「でも、シルビアさまと兄さまが力を合わせたら、とてもいい統治ができると思うの。二人はとっても息が合うし、シルビアさまもそれを望んでいるはずよ。だって……」

「きみになにがわかるんだ」


 ジェレミーの声が遮った。


「アメリア、きみはまだ子どもだ。子どものきみに、一体なにがわかる?」


 その冷たい声の響きに、アメリアはぞくりとした。だがすぐに、おのれを奮い立たせた。


「そうよ、子どもよ。私はまだ十四だわ。成人もしてないし、社交界へのデビューもしていない。まだまだ世間知らずの小娘よ。じゃあ兄さまはなんなの? 兄さまは、その子どもに責任も重荷もすべて押し付けて、楽になろうとしている卑怯者じゃないの!」


 兄妹の間に沈黙が訪れた。双方が肩で息をしながら、顔を見ることなく視線は地面に落ちている。

 こんなふうに怒鳴りあいのケンカをするのははじめてだった。そもそもアメリアも兄も、感情を爆発させることがめったにない。いきなりで身体が順応していないからか、アメリアはフラフラしていた。


 アメリアが近くのイスに座ると同時に、ジェレミーがつぶやいた。


「きみも、すっかり大きくなったんだな」

「え?」

「いや。いつまでも小さな女の子だと思っていたら、案外達者なことをいうようになったと思ってね。なるほど、卑怯者か」


 そう皮肉交じりにつぶやくと、ジェレミーは口端をつりあげて笑った。


「僕にぴったりだ。確かに僕は、妹を身代りに仕立て上げようとした、ただの卑怯者の臆病者だ」

「兄さま……」


 自分でいったことなのに、アメリアは少し落ち着かない気分になった。


「あの、思わずいってしまいましたが、本当はそんなことは思っていないわ。だって兄さまは、私のたった一人の家族で兄なんですもの」


 アメリアと兄の視線が、再び交わった。ジェレミーの目にもう涙はない。


「アメリア。あとほんの少しだけ、僕に勇気をくれないか」

「……ええ。もちろんよ」


 アメリアは微笑んで、兄の手を両手で包み込み、おでこ同士をコツンとぶつけた。小さい頃から兄妹のみでやっている、元気の出るおまじないだ。


「私の勇気を兄さまにさしあげます。どうか兄さまが、ご自分の気持ちに素直になってくれますように」

「……ありがとう」


 ジェレミーは穏やかに笑った。


「明日からは忙しくなるよ。今僕にできることを、少しでも片づけなきゃいけないからね」


 アメリアは目を見開いた。それって……。


「兄さま、あとを継ぐ決心がついたのね?」

「まだ不安だらけだけどね」


 ジェレミーは苦笑した。


「だけど、いつまでも妹に甘えてられないからね。手伝ってくれるかい?」

「当たり前です!」


 アメリアは嬉しさのあまり、また涙が浮かんできた。


「このアメリア・ウォルツ、ウォルツ男爵家の威信にかけて、あなたさまの命令を全ういたしますわ。どうぞなんなりとお申し付けくださいませ、ウォルツ男爵」


 この日密かに、新しい若き男爵が誕生したことを、二人以外はだれも知らない。



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