第四章 夏の微熱6
「中田は進路は決まったのか?」
シューズを履き替えている明日歩に、森崎が訊いた。
「たぶん就職」
「もう走るのは、続けないのか?」
明日歩が顔を上げる。
「勿体ないじゃないか。強化選手に選ばれて練習にも参加してきたんだ。これから磨きをかければ、もっといいタイムが出せるんじゃないか?」
「これ以上、親に無理させられないですよ。最近、体の調子が悪そうだし、金稼がないと」
「どこかの会社の、クラブチームに入るっていう手もあるぞ」
明日歩は噴出す。
「もう中途半端はこりごりだ」
「それもそうだな。俺も人に恨まれるのは勘弁だ」
「帰ります」
台風が接近し始めていた。電車が止まる前に練習を早めに切り上げになった。
校門を出ると、真っ赤なジャガーが止められていて、人目を引いている。その横で高そうなスーツを着た女性がきょろきょろと、誰かを探しているようだった。
「明日歩」
誰? 哲平が尋ねる。明日歩はきょとんとして目を凝らす。
由紀子さん?
「やっぱり由紀子さんだ。どうしたんですか?」
サングラスを外した由紀子が、嬉しそうに手を振りながら、近寄ってくる。
「ちょっと、あなたに頼みたいことがあって」
「悪い。親戚のおばさんなんだ」
「はじめまして。親戚のお姉さんの島根由紀子です」
「島根って」
「詳しい話は車でするから、乗って」
由紀子はスタイリストをしている。業界では名が知れているらしい。
急発進させた車は、あっという間に高速に走ったいた。
家とは反対方向に進む車の中、明日歩は躰を強張らせていた。
「島根がね大ピンチなの。ギャラは弾むからカメラの前に立って、ちょっとだけポーズをとってくれればいいから」
「いいからって、無理です。降ろしてください」
「それこそ無理よ。こんな所で降りたら、あなた死ぬわよ」
姉の薫子は饒舌で、会うと捲くし立てられて、たじたじにさせられてしまうが、妹の由紀子は物静かのはずだ。虫も殺せないんじゃないかという雰囲気を持っていたのに、この強引さは薫子以上だ。それにこの運転。速度オーバーの警告音が鳴り続けている。
大粒の雨がフロントガラスを叩きつけはじめ、ようやく速度を少し落とした由紀子が苦々しい表情を浮かべる。
台風上陸のニュースがラジオから流れ、急がなくっちゃと由紀子は呟く。
横殴りの雨。ワイパーが忙しく動く。周りの景色が分からない。道路わきに車を寄せて、落ち着くのを待つのが無難な選択しなはず。現にそう言う車を難題も見かけた。がしかし、由紀子はそうはしなかった。速度こそ落とし、慎重な運転に変わったが、止めるわけにはいかないのよと、自分に言い聞かせるように車を走らせ続け、気が付くと、車をどこかの駐車場に滑り込ませていた。
車のライトに向って、男性が手を振るのが見えた。
「待っていたよ。明日歩君、よく来てくれたね」
うん?
明日歩はその男性に見覚えがある。うろ覚えで、思い出せそうで思い出せない。
「みんなは」
「首を長くしてお待ちしてます」
足早に歩く二人の後を、明日歩も追いかけるように続く。




