プロローグ2
幼いころ嬉しかったことも、大人になるにつれ、疎ましく感じてしまうこともあるんだ。
今まで賑やかに聞こえていた声が急に静まり、明日歩はそっと窓から表を覗き見る。
ん?
嫌な予感が脳裏を過った。
ドカドカと階段を上がってくる音が聞こえ、鍵を掛ける間もなく、部屋の扉が勢いよく開く。
「明日歩、起きているんだろう?」
明日歩は咄嗟的に、布団を被り直していた。
こういう子供じみたところが、明日歩は大嫌いだった。
布団の上から明日歩の躰を、歩が容赦なくユサユサ揺する。
嵐が過ぎ去るのを待つ気分だった。まともに話して通じる相手ではないのは、百も承知なのだ。
執拗に揺さぶられ、明日歩は怒鳴りたい衝動をじっと堪える。
怒ったら負け。
歩の思う壺になる。
そう言う人なんだ、歩って人は……。
つい、明日歩は思い出し笑いをしてしまう。
怒って言い返しているうちに、いつの間にか歩のペースに巻き込まれてしまっている。何ていうのはざらだった。
あの頃、何かにつけて尖っていた。あんなに大好きだったのにな……。
幼い頃、明日歩は歩の帰りが待ち遠しかった。
今か今かと、誰よりも早く起きて玄関で待つのが日課だったのだ。
それを知っている歩は、いろんな方法で帰って来ていた。それこそフェイントをかけ、庭から居間へ回ってみたり、お面を被って脅かされたこともあった。時には、声は歩だったのに、奈緒が何故か戸口を開けて入って来て、がっかりした所で、後ろからワッとされる。それから、歩は必ずと言っていいほど明日歩を抱き上げ、お役目ご苦労さんと言ってくれた。
髪をくちゃくちゃに頭を撫でられ、幼いながら、誇らしく思ったものだ。
歩に抱かれ、どっかりとこの縁側に座る。
淹れたてのコーヒーが香って、歩の顔がくちゃったなる。
「奈緒が淹れてくれるコーヒーの香りと、明日歩の笑顔がオレの幸せ」
この頃の、歩の口癖だった。
何の抵抗もなく、ただ嬉しい感情だけを身にまとい、明日歩は歩の首にしがみついていた。
明日歩は鼻の奥がツーンとなり、写真に目を落とす。
参ったな。父さんの言ったとおりだ。
鮮明に呼び起された記憶に、明日歩は鼻を一つ啜り上げる。
「ほらいいから、早く起きろよ」
布団を剥がされそうになった明日歩は、何が何でも剥がさせまいと、布団を握る手に力を入れていた。
「折角の門出だからさ、一緒に写真撮ろうぜ」
卒業式の日も同じことを言っていた。ましてや、今日は何でもない平日の朝だ。
必死で抵抗する明日歩に、歩は嬉々とした声で言い放った。
「無駄な抵抗だ。その手を放しなさい」
身長が伸び始めていたころだった。
頭へ引き上げられた布団は当然、足がはみ出される。
浅はかな自分を呪ったのは、その直後だった。
丸見えにされた足の裏を、攻撃してきたのだ。
くすぐったさに、自ら布団をはぎ取った明日歩は、勝ち誇ったように見下ろす歩に悪あがきで抵抗を企てた。
「何すんだよ」
「おはよ、明日歩君」
弾んだ歩の声に、明日歩はムッとする。
「明日歩君、頭隠して尻隠さずだよ」
にやにやとする歩を、明日歩は睨みつけるが、これも逆効果。
「おっ、良い面構えになって来た。それこそわが息子。それこそヒーローになる男というものだよ」
何かにつけて、歩は明日歩をヒーロー戦士に仕立て上げたがる。
冗談抜きで、マジウザい。
そんなことを言おうものなら、歩は笑顔を崩さないまま明日歩に、渾身の一撃を企ててくる。
細身のくせして、歩は腕節がいい。何故か合気道やら太極拳を使ったりして、かなりの手強さを持ち合わせている。体格的には互角だと思うが、何故か敵わない。それが明日歩が抱く、父親像だった。
「これに着替えろ」
昨日出来上がって来たばかりの高校の制服を指し、ニッと白い歯を零す歩に、嫌だと悪あがきをするが、頭を抱え込まれて数回叩かれた明日歩は、敢え無く降参させられてしまった。
「早く着替えろよ。奈緒も外で待っているから」
その言葉に、明日歩はゾッとなる。
近所の人との会話から、大体察しが付く。
ぜってぃやだ。
部屋を出かかった歩が振り返る。
「早くしろよ」
念を押す歩の笑みを見て、明日歩はうんざりする。
きっとこのミッションは、やり遂げられるまで、この攻防戦は一日中続けられるのは、目に見えて分かった。
そうなると明日歩の行動は素早かった。
大急ぎで着替え、階段を駆け下りてくる明日歩に気が付いた奈緒が微笑む。
明日歩の唯一のコンプレックス。
「明日歩、おはよう」
レースやらフリルがいっぱいのピンク色のドレスに、ボンネット。それに、手にはレースの手袋までしている奈緒に、明日歩はげんなりする。
どこの国のお姫様だよ。
「よし家族揃ったな」
嬉しそうに言う歩にムッとしながら、明日歩は庭へ降り立った。
そっぽを向いて映る自分の姿に、明日歩は苦笑いをする。




